もう一つのプロローグ
【もう一つのプロローグ/罪と罰~第一部】
◆一番はじめにあった物語~神子という不思議
いいかね。この世界で一番偉い御方はな――。
○
この世界の始まりは薄汚れた一枚の布でした。混沌の海をたゆたうそれを創造主クローソー様がすくい上げられたことから世界は始まったのです。
ぼろきれ同然の布を聖なる抱擁で清め、自らの髪を紡いだ糸で縫い合わせ、創造主様は一つの球をおつくりになりました。
そうして生まれたのがわたしたちの生きる世界、ホウライです。
創造主様は気の遠くなるような長い時間をかけホウライに多種多様な植物を芽吹かせ、動物を住まわせ、そしてその最後に人間をおつくりになりました。彼らに、自身がおつくりになった世界を協力して平和に治めることを願ったのです。
しかし生まれた人間たちは母たる創造主様の願いに反して共存を拒み、己の支配による統一を目指して争いを始めてしまいました。覇権を争う者たちが国を興し、戦争を繰り返し、やがてホウライは暗黒の時代を迎えます。
これを嘆かれた創造主様は、世界に満ちた狂気を鎮めるために娘女神を遣わされました。
長女エウノミア。二女エイレネ。三女ディケ。人間界に舞い降りた三姉妹はそれぞれ長女は慈愛の心で、次女は法で、三女は力で人間たちをまとめ上げます。そして自身の名を冠する国をつくり、自らが王となり人間を管理することで世界から戦争をなくしたのです。
やがて平和な世界の土台を築きその役目を終えた女神たちがホウライを去るときがやってきました。しかし彼女たちは自分たちが消えた世界がどうなるかを知っています。そこで去るにあたり信頼に足る人間たちに、王として国を治めさせることにしました。選ばれた人間たちは証として女神たちから神力を授かり、彼女たちが不在の間も争いが起きぬよう尽力することを誓います。
こうしてホウライはそこに息づく生命の理想郷となるべく新たに歩み出したのです。
創造主様もきっと天上より、今のわたしたちを見守ってくださっていることでしょう。
○
その話を聞かされたのは、神子アメリア・レオハートがまだ七歳のときでした。
教えてくれたのは星読みの爺と呼ばれる、占星術に秀でた村の長老でした。ちょっとした怪我や病気がきっかけで働けなくなり、寝たきりになり、あれよあれよと思う暇もなく逝ってしまう、それが当たり前の高齢者の中で彼は、七十歳という村内の平均寿命を二昔も過去に置き去り、間もなく百にも手が届くほどのある種異常な長寿者でした。そしてその人生経験の豊富さ故に彼はまた村一番の知恵者でもありました。
それまでのアメリアは、理由こそ定かではなかったものの彼こそが、長老というものがこの世界で一番偉い存在なのだと思っていました。最低でも、両親や周囲の彼に対する態度を見ればそういったことは幼心にも自然とわかってしまうものです。自身も幼い頃より神子と呼ばれ周囲から大切にされる存在でありましたが、それでも、この爺の存在は彼女にとって不動の頂点でありました。その彼が言ったのです。この世界には自分よりもっともっと、ずっとずっと偉い御方がいる。その御方は創造主クローソー様というのだよと。
こういうのを晴天の霹靂と言うのだな――後々になって彼女はそのとき衝撃を受けた自分をそう振り返ります。それは真っ暗な部屋で一人目覚めた夜のような心細さにも、大好物にしていたお菓子が大嫌いな野菜からできている事実を目の当たりにしたときに感じた裏切りの衝撃にも似ていました。とにかくこのとき、彼女は途方もない不安にさいなまれたのです。
しかしながら話を聞かされる内に、彼女の中にあった不安な気持ちは少しずつ形を変えていきました。
薄汚れた一枚の布を縫合してこの世界、ホウライをつくった創造主。あらゆる生命体を生み出し、繁茂せしめた創造主。娘である三女神、エウノミア、エイレネ、ディケをして世に広がった戦乱を鎮圧せしめた創造主。聞けば聞くほど創造主クローソーという存在、その女神による創世神話は今までに教えてもらったどんな昔話やお伽話よりも彼女の興味を惹きつけました。
彼女の星読みの爺に対する敬意が変わることはありませんでした。しかし創世神話を聞き終えた彼女の胸にはもう一つ、尊ぶに値する偉大な存在の名が刻まれていました。目に映るありふれた風景ばかりの世界から、大いなる存在によって創造された世界へと、このときを機に彼女の世界は大きく広がっていきました。創造主クローソーが創造した世界に関する空想は以来、彼女の好奇心の大半を占めるようになっていったのです。
それから五年が経ち、創世神話をきっかけに敬虔な十二歳へと成長したアメリアにはいつの頃からか不思議に感じていることがありました。そのことを考えるだけで食事も睡眠も入浴も、生活に必要なあらゆる活動を忘れてしまうほど大きな不思議です。
それは他でもない彼女自身に関することでした。
創造主様は偉い。この世界をおつくりになったから。
爺様も偉い。長生きをしていて、たくさんのことを知っているから。
じゃあ、わたしは……?
創造主という存在に対する敬意の一方でアメリアはこれまで当たり前にそうされてきたこと――自分が神子様と敬われる現実に疑問を抱くようになったのです。
どうして自分は「神子様」なのだろう?
どうして自分だけが「神子様」なのだろう?
アメリアの胸で生まれたそれは加速度的に膨張していきました。その疑問が、それを解き明かしたいという好奇心が、やがて彼女の故郷を滅ぼすことになろうとは、このときの彼女は夢にも思ってはいませんでした。
◆一番はじめにあった物語~全知全能の書
○
……まずいことになったものだ。
書斎に戻った彼は、遠のいていく意識を繋ぎ止めるようかろうじて言いました。
目覚めたばかりにもかかわらず既に体中が疲労困憊で動悸も鎮まりません。気を抜けば倒れてしまいそうな体には異常なまでに汗をかいています。指の先から骨の芯まで、自分がすっかり恐怖によって浸食されている事実が否応なしに突きつけられます。
こんなことになるなら、あんな物に触れなければよかった!
彼は感情に任せて叫びたい衝動に駆られました。
しかし実際にそうすることはありません。それを口にすることは即ち己の地位を、名声をすべて否定することでもあるからです。彼はソレによって自分にもたらされた力が今までどれだけ自分や周囲の役に立ってきたか、そのありがたみを誰よりも深く理解しているつもりです。自分に都合が悪いときに限って、あっさり罵倒してしまえるほど彼はもう若くもないのです。
……本当に、まずいことだ。
もう一度吐き出すように言って彼は、半ば倒れこむようにして椅子に身を預けました。
いくらか気持ちは落ち着きましたが、あまり頭を使う気にはなりません。しかし彼は考えなければなりません。そして答えを出さなければなりません。自分にとって、村にとって最善であろう道を。
○
ホウライという世界の最果て、不思議な霧に覆われた森の中にトレニアという名の小さな村がありました。その村には昔から宝物として伝わっている一冊の本がありました。どこぞの貴族の持ち物であることを彷彿とさせるような、豪華な装飾の施された分厚い本でした。村の人々は自分たちが戦争から逃げ延びた古代エウノミア王国の末裔であることを当然のように知っていたので、それは古代戦争で滅びた王家の宝であると信じられ、昔から大切にされ続けてきたのです。
どれだけ高貴な方の綴った、美しい言葉がそこに並んでいるのだろう?
今までに数え切れないほど多くの者たちがそういった憧れを抱いてその本を手に取りました。そして本を開いたとき、あるいは頭を抱え、あるいは愕然としました。そこにはたった一言、「なの」と書いてあるだけだったのです。
一ページ目をめくると、「なの」。
十ページ目をめくっても「なの」。
百ページ目をめくっても「なの」……。
大多数の人々はその解釈不能な内容故にそれのことを『なのの書』などと揶揄して呼びました。しかし一方で、その言葉は何かしらの重要性を秘めた暗号で、その意味を解読したとき初めて大いなる知識がもたらされると信じる者もありました。そういった考えを持つ者たちの間では、それは『全知全能の書』と呼ばれました。
アメリアはその内では積極的に後者の立場を取っていました。創造主クローソーによる創世神話を知ってからというものアメリアは、狭い村の中においてお伽話に憧れ、日々新しい空想に心ときめかせる一人の空想家でした。アメリアにとっては「なの」しか書かれていない現実を見るより、そこにこめられた秘密に心躍らせている方が幸せだったのです。
それに拍車をかけたのが、アメリアが自分のこと――なぜ自分が「神子様」なのか――を知りたいと思い立ったことでした。件の書物が本当に『全知全能の書』の名を冠するに相応しい物ならば、アメリアは自分の求める知識を得ることができます。仮に『なのの書』に過ぎなかったとしても、後々になれば悩みの多い思春期を慰めてくれた本のことは笑い話にも変わりましょう。半分で覚悟し、もう半分で期待してアメリアは毎日毎日、暇を見つけては本が安置されている村の教会に通い続けたのです。
だから普段通り手に取った本にある日突然、その言葉が浮かび上がったとき、アメリアは喜び以上にただただ驚いたのでした。
『ワタシ ハ アナタ ノ モトメル コタエ ヲ シッテイル』
その訴えるところがどこまで自分の好奇心と一致しているのかは、アメリアにはわかりませんでした。しかし今まで数え切れない人間が挑戦してきた中で自分だけが見つけることのできたその変化にアメリアはすっかり酔いしれたのでした。
『トモダチ ニ ナリマショウ アメリア』
最後にそんな文句が並んだときアメリアは一も二もなく友好の意志を示しました。名乗ってもいない自分の名がその本に浮かんだことなどまったく気にも留めなかったのです。
◆一番はじめにあった物語~不思議な友達
不思議な友達を持ってから、アメリアの生活は少しだけ変わりました。家業の薬屋を手伝ったり大好きな姉とおしゃべりをしたり、そういった自分にとって大切な時間を削って教会で過ごす時間を増やしたのです。
一緒にいる時間の分だけアメリアは友達に対する理解を深めていきました。ネージュという名であることを知れば同性であることに心開き、悪者に騙されて本の中に閉じこめられてしまったことを知れば心から憐れみアメリアは、この友人には尊敬すべき年長者ではなく同年代の友人として接しました。そうして親しく接していく中で全知全能の書そのものに対する理解もまた自ずと深めていったのです。
アメリアと彼女との間には一つのルールがありました。
それはネージュこと全知全能の書とのやり取りはすべて血と知の等価交換によって成立するということでした。そのためアメリアは、彼女と簡単な日常会話を交わすだけでもこの書に少なからず自身の血を捧げなければなりません。
しかしそれに見合うだけの知識もまたアメリアは得ることができました。自然科学であったり錬金術であったり、それによってもたらされた有益な知識は村人たちに大変喜ばれ、彼らが抱くアメリアの神性をより高めたものでした。
どんな有用な知恵にも先駆けてアメリアが一番に知りたがったのは、もちろん自分に関することでした。それを知るためだけにこの書物の元に通っていたと言っても過言ではないほどに、アメリアにとってそれは優先されるべき事柄だったのです。しかしながら結果から先に言ってしまうと、それに関する情報がアメリアの手に渡ることはありませんでした。ネージュの提案により半年後に訪れる赤い月の晩まで保留することになったのです。それは彼女が、奪われた力を少なからず取り戻すことができる日なのです。
アメリアとネージュとの関係は良好でした。
ネージュはアメリアの好奇心に対して誠実であり続けましたし、アメリアも悩みを相談するなど彼女のことを家族同然に思っていました。何より両親と姉以外に自分を名前で呼んでくれる者ができたことが嬉しかったというのもありました。
ネージュとの仲が深まるにつれ、アメリアは周囲から普段どこで何をしているのかと心配されるようになりました。アメリアは教会で過ごしていることは話しましたが、絶対にこの新しい友達のことを他人に明かしはしませんでした。それはネージュの希望でもあったのです。彼女には気難しいところがあり、アメリア以外の人間との接触を嫌ったのです。
彼女は他人の目があるときには決して「なの」以外の言葉を映しませんでした。従って不審がっていた周囲の人々が教会で目にすることができたのは一人『なのの書』と向き合うアメリアの姿だけでした。アメリアたちはまんまと周囲を出し抜くことに成功したのです。こうして二人は秘密の友達でもあり続けたのでした。
◆一番はじめにあった物語~明かされた秘密
変わり映えのない様子を見せつけられ皆はあっさり引き下がりましたが、その中に一人だけ、アメリアに対する疑念を失わない者がいました。姉のユーリイです。彼女は気づいていたのです。アメリアに起きた変化は教会で過ごす時間が増えただけではなかったことに。
ユーリイだけが気づいた変化、それはずばり、これまで日に何度も繰り返されてきた「どうしてわたしは神子様なのかしら?」という疑問をアメリアが口にしなくなったことでした。
ユーリイ以外の者がそれに気づくことはほぼ不可能でした。アメリアは両親と星読みの爺の前でそれぞれ一度ずつ尋ねたきりで、あとはユーリイ相手にしかそれを口にしなかったのです。それは事情を知っていながら教えてくれない大人たちに対する失望であり、そしてアメリアからの姉に対する信頼の証でもありました。アメリアが全幅の信頼を寄せる彼女以外には両親でさえ、その変化には気づき得なかったのです。
ユーリイも最初は他の村人たちと同じように「好きな人ができたのかもしれない」程度にしか考えてはいませんでした。妹の性格――その猪突猛進な好奇心を奪うにはそれを上回る新しい興味対象が必要であること――はよくわかっていたので、アメリアはそれを恋に見出したのだと思ったのです。しかし自分の耳には想い人の噂など入ってはこず、後をつけてみても、妹がしていることといえば教会に行くだけ。ユーリイが、妹の新しい興味対象が『全知全能の書』であると気づくまでに長い時間は必要ありませんでした。
ユーリイは件の書物に対して人とは違った立場をとっていました。落書き帳とバカにすることも暗号文書などと重要視することもしない代わりに危険物と見ていたのです。それも、その訳を問われたならきっと誰一人納得させることのできない理由からでした。まるで仇敵と再会したかのように、初めてそれを目にしたときからユーリイは、本能的にその書物に嫌悪感を抱いていたのです。
何とかして妹をあの本から遠ざけなければならない。
それはユーリイが大至急取りかからなければならない課題でした。しかしその課題を解決するにあたり、彼女にはもう一つ大きな課題がありました。ユーリイは直感や感情の赴くまま行動することが多いので――その結果周囲をトラブルに巻きこんでばかりいるのです――他人を説得することが大の苦手でした。誰しもそうですが、「駄目といったら駄目」と一方的に言われて納得してくれる相手など滅多にいないのです。
ユーリイは決心しました。アメリアが全知全能の書に近づく理由が一つしか考えられないのであれば、そこから妹を遠ざける方法も一つきりしかありません。アメリアが一番気にしている疑問を取り除いてしまえばいいだけのことなのですから。
たとえそれが、妹を傷つけることになったとしても。
「教会に行くのはやっぱり、自分のことを知りたいから?」
客足の途絶えた頃を見計らってユーリイは妹に言いました。アメリアは何も答えません。図星だなと思ったユーリイは質問を改めました。
「アミはあたしのコトどう思ってる?」
「そうね……世界一のお姉ちゃん、かしら」
少し間を置いてからアメリアも答えます。
「ありがと。あたしもアミを世界一の妹だと思ってる。世界一かわいくて、優しくて、賢い自慢の妹。だからねアミ、今からあたしが言うことをしっかり聞いて、その事実を受け止めて欲しいんだ」
その話をすることは、事実を知っている者には固く禁じられていることでした。それは大人たちが知恵を絞って定めた村の掟をことごとく破ってきた彼女が唯一守っていた決まりでもありました。大人たちはさぞかし怒ることでしょう。しかし神子様神子様と散々に特別扱いしておきながら、今更それはありません。不安そうに頷く妹にユーリイは、これまで隠し続けてきたアメリアの過去を話し始めるのでした。
○
十二年前、季節は秋の頃でした。当時四歳だったユーリイは誰かに呼ばれた気がして、夜中に目を覚ましました。果たして目を開けると枕元には一人の女性の姿がありました。美しい黄金の髪をなびかせ、闇の中でもはっきりその輪郭がわかる真っ黒なドレスに身を包んだ、女の子とも女の人ともとれる妙齢の女性でした。
まったく見も知らぬ相手でしたが、ユーリイは不思議と恐怖は感じませんでした。彼女は温かな笑みを浮かべていましたし、それにどことなく懐かしい感覚がしたのです。
行きましょう、と差し出された手をユーリイは自然と握り返し、相手に連れられるまま外に出たのです。
虫の声もない、風もない、時の止まったような夜でした。
教会の前に来たとき「もうじき来る」と彼女は足を止めました。
「何が来るの?」
「アメリア」
間もなく村の上空に巨大な虹色の輪が現れました。きれい、と呟くユーリイの視線の先でそれは水面を漂う月のようにゆらゆらと揺れながら、幻想的な光の雨を降らせ始めます。柔らかく温かく、綿のような、春萌の香る光の雨です。村全体がやがてはそこから広がった輝きに包まれていきました。
「これがアメリア?」
女性は首を横に振りました。
静かな夜の異変に目覚めた村人たちが次々と外に出てきます。はしゃぐ人々に混ざりたい気持ちを抑えてユーリイはじっと動かずにその場に立ち続けました。まだ手を握ったまま、不思議な女性の隣で。
不意に彼女の、ユーリイと繋がっていない方の手がすっと虹輪の中心を指しました。
ユーリイが見ると一際大きな光のまとまりがちょうど、ゆっくり自分たちに向かって降りてくるところでした。隣の女性の手を振りほどいて受け止め、それがただの光ではなく、両手で支えなければならないだけの重みを持っていることをユーリイは知りました。
ユーリイに気づいた村人たちが集まってきました。彼らはユーリイを見るなり口々に「奇跡だ」と歓喜の声をあげました。その中に自分をここまで導いてくれた女の姿はありません。
戸惑いながらもユーリイは、受け止めた一つの光を大切に抱えます。その小さな胸に、光の翼を持った赤ん坊を。
○
アメリアは話が終わると何も言わずに出ていってしまいました。その瞳に涙が浮かんでいたことをユーリイは見逃しませんでした。
ユーリイにはこうなることはわかっていました。いかに欲していた真実とはいえ自分がこの家の本当の娘ではないと告白されたことを喜べる人間では、アメリアはありません。それは答えを求める彼女にとって大きな痛みを伴う真実だったのです。
それから一週間アメリアは部屋に閉じこもり、誰とも顔を合わせようとしませんでした。その間を彼女が何を考えて過ごしたのかをユーリイは知りません。次に会ったときに「ありがとう」と言われたことから何とはない想像を巡らせるのです。
辛い現実を乗り越え再び笑顔になった妹にユーリイはこれまで以上の愛情を注ぎました。アメリアもそれに応え二人はこれ以上に美しい姉妹として幸せを手に入れたのです。
幸せな二人はまだ知りません。
そこでこの物語を終えることをよしとしない者が既に動き出していることを。
◆一番はじめにあった物語~災いの子
今まで知りたかった答えを得たアメリアは、以前のようにネージュに会いに行かなくなりました。その背景には自分の好奇心に一つの区切りを感じたことはもちろん、最愛の姉に「もうあの本には近づかないで」と懇願されたこともあります。アメリアはとうとう自分が『全知全能の書』に宿る者と友達になったことなどを洗いざらい姉に告白してしまいました。そこで前々からその本のことをよく思っていなかった彼女に、ここぞとばかりにそれとの絶縁を求められたのです。言い換えれば理不尽な仕打ちでもありましたが、アメリアは姉と友達とを慎重に秤にかけ、結果的に姉を選んだのでした。
「それにねアミ。ネージュって名前にあたし、聞き覚えがある気がするんだ」
時は流れ季節は春から秋に変わりました。アメリアは十三歳の誕生日をめでたく迎え、家族とともに最も幸せな時間を過ごしました。
誕生日の数日後アメリアは村長、星読みの爺から呼び出しを受けました。こういうことは以前から度々ありました。書物庫を片つけていたら面白い本が出てきたとか、ためになる本を見つけたとか、彼は好奇心旺盛なアメリアに真っ先に知らせてくれるのです。だからこの日もアメリアは、「今日はどんな発見があったのだろう」と期待に心躍らせて出かけたのです。
夕方から夜へと世界が生まれ変わっていく、少し早めの夕暮れ刻でした。付き添いのユーリイとともにアメリアは爺の門戸を訪ねます。
返事はありませんでしたが、アメリアはそのまま屋敷に上がりました。彼から前もってこういうときはそのまま上がって構わないという許可をもらってあるのです。
「まったく。自分で呼び出しておきながら」
ぶつくさ言いつつもお茶菓子のお相伴に預かろうというユーリイを先頭に、アメリアは爺の書斎に向かいます。
しかしいざ入ろうというその直前で目を疑う出来事が起こり、アメリアは足を止めました。小さな光が閃き、先を歩いていた姉が横っ飛びに吹っ飛んだのです。
「来ちゃ駄目だ!」
ユーリイが叫びましたが、既にアメリアは姉を助けに部屋に駆けこんだ後でした。飛び起きた彼女に手を引かれ部屋の隅まで逃げ、そしてそこでようやく気づくことができたのです。書斎の扉の陰で、鉈状の刃物を手にたたずむ爺の存在に。
振り下ろされた後の鋭利な刃物が、ランプのやわらかい明かりの中で冷たく光ります。爺の虚ろな瞳が自分に向いたことで、生まれてこの方感じたことのなかった感情、殺意をアメリアは肌に感じました。
「ユーリイ。その子をこちらに渡しなさい」
先に口を開いたのは爺の方でした。
「アミをどうするつもり?」
「お前の知ったことではないよ」
そうは言いますが、ユーリイには後のことなどわかりきっていました。すんでのところで気づいたからよかったものの自分は危うく頭を真っ二つに割られるところだったのです。「絶対に渡さない」とユーリイははっきり言いました。
「そうしなければこの村が滅ぶとしても、か?」
爺はアメリアに視線を移して言いました。
「その女は近く村人たちを皆殺しにする」
こういった彼の予知がいかに正確であるかはユーリイもよく知っていました。それ故の信頼感から彼が村で長の立場にあることもよく知っています。しかし彼が『全知全能の書』と接触し予知の力を得たことまでは知りません。ユーリイにとって彼は不確かな星読みに没頭する予言者に過ぎません。虚勢ではなく胸を張ってユーリイは答えました。
「アミがそんなことをするはずない」
「だが、するかもしれない」
爺はそこでふと、姉妹を素通りして遠い瞳になりました。
「笑っていた……笑っていたんだ、この女! 自分が滅ぼした村で! 皆の亡骸を見下してな!」
彼はほとんど泣いている顔と声で「危険なんだ! まだわからないのか!」と言いました。
「ああ。わからないね」
切り捨てるようにユーリイは首を縦に振りました。
「あたしには先のことなんて何もわからない。でも、もし爺っちゃんの言う通りの未来が訪れるとしても、あたしはそこから逃げ出そうとは思わない。もちろん死にたくなんかないよ。でも、そのために妹を見捨てるような姉じゃ、あたしはありたくない」
「……愚か者には付き合っておれん」
心底失望したように言って爺は後ろ手に書斎の扉を閉じました。彼は得物を放り投げ、おもむろに机の上のランプに手を伸ばすと、
「わたしはお前の思い通りにはならない」
アメリアを一瞥した後、それを予備の油ごと自分の足下へと叩きつけたのでした。
青い熱が床を這い、波のように広がります。それは乱雑に置かれた書物を呑みこむことで急速に勢いを増し、赤く大きく揺れながら姉妹を追い詰めていきました。
爺は逃げようとせず、炎に包まれながら立ち尽くしています。「思い通りにならない」とは、他人の手にかかるくらいなら自ら命を絶つ、ということを意味していたのです。扉にもたれかかり彼は終始無言であったアメリアへとそこでまた視線を向けました。怒りと、痛みと、苦しみと、悔しさと……生命が終焉を迎えるまさにその一点で、ありとあらゆる負を混合させた形相で最期の叫びをあげるのです。
「わたしは知っているぞアメリア! アメリア・リオン・エウノミア! お前は御子などではない、魔女だ! 破滅の子だ! 結界を破り外界よりもたらされた災いの子だ! 時間はお前を滅ぼさない、ここで炎に焼かれるがいい! 苦しめ! もがけ! そして呪われろ!」
ありったけの敵意を吐き散らして星読みの爺は炎の海に沈んでいきました。
アメリアは最後まで色を失った瞳で、その様子を黙って見つめていました。尊敬していた者からの裏切りに、彼からぶつけられた悪意に打ちのめされてしまっていたのです。
倒れた本棚の奥に小窓を見つけたユーリイに呼ばれてもアメリアはまだその場から動くことができませんでした。どうやってそこから避難することができたのか、自分でもわかりません。
ぼんやりした意識の中で眺める景色は間もなく家を覆ってしまうほどに成長した炎の色で空まで赤く染まっていきました。
鮮やかな赤。
どことなく不吉な赤。
その色はしかし、炎によって生まれたばかりではありませんでした。
赤い月――。
人々を照らすその光の存在に気づいたのはアメリアだけでした。
◆一番はじめにあった物語~暗転
アメリア・リオン・エウノミア?
わたしの、名前?
わたしは、何者?
わたしは、どこから来たのだろう?
新たな疑問が押し寄せてきます。火事に気づき集まってきた人々の中を駆け抜け、アメリアは一人教会を目指して無我夢中で走りました。
今夜ならすべてわかる。ネージュが教えてくれる。
爺様が言っていたことも、わたしの正体も、どうしてわたしが皆を殺さなくてはならないのかも――。
『久しぶりねアメリア。この姿で会うのは初めてだから一応言っておくわね、初めまして』
そう言ったのは一年中絶えることのない聖火の光が揺れる礼拝堂、中央の台座に安置されている『全知全能の書』の隣に腰かけていた少女でした。
「あなたは、ネージュ?」
『ええ。本来の姿を保てるようになったのよ』
トン、と台から降り立ったネージュは、その身にまとうきらびやかな衣装を揺らしながら上品に頭を下げました。
『あなたが貴重な血を捧げてくれたおかげでね』
アメリアは年の頃も背格好も同じくらいに見えるこの少女を、見た目から動作の優雅さまで含めてきれいな子だと思いました。ただ、無理に口角をつり上げたような笑みと鋭い眼力を持った瞳を少しだけ恐ろしいと感じます。
『ところで今日は何の用かしら?』
「わたしの正体を聞きに来たの。どこの誰で、どうしてここにいるのか」
まくし立てるように言うアメリアを彼女は「本当に、自分の好奇心に従順なのね」と笑いました。そしてくるりときびすを返し、再び台座に腰を落ち着けました。
『あなたの本当の名前はアメリア・リオン・エウノミア。終の女王トレニアール・エウノミアの血を受け継ぐ、王家の忘れ形見よ』
「わたしは、それじゃあ王女ってこと?」
『いきなり信じろって言われても困るかもしれないけど』
「信じるかどうかは後で考えるわ」
アメリアは興奮のあまり相手を遮って言いました。
「それより続けて。王女って言ってもエウノミアはもう四百年も前に滅びているのよ?」
『そうね。あなたの言う通りエウノミアは戦争により滅びた。でもそのときが来るのを前もって知っていたとしたらどうかしら』
「前もって知る……」
アメリアは爺のことを思い出しました。彼は自身の予知した恐ろしい未来を変えるべくアメリアを殺そうとしました。そして変えられない未来に絶望し自ら命を絶ったのです。
『滅びの運命は変わらない。でも王の血筋だけは絶やしてはならない――そう考えた王族たちは、時渡りの秘術を用いて幼い王女を別の時代に逃がすことにした』
「それが……わたし?」
アメリアは困ってしまいました。以前ユーリイから聞かされた話もにわかには信じ難い話でしたが、それでも、そのときには両親を始めとする証人がありました。しかし今回は違います。誰がこの話を事実であると証明してくれるでしょうか。
「まるでお伽話ね」
アメリアは言いました。
『本当に。でき過ぎたお話ね』
ネージュは鼻で笑いました。
『でも、事実なの。あなたにはエウノミア王族が女神より授かった奇跡の力がある。それにね、間違いない。同じ味がしたのよ』
「味?」
『ええ。あなたの血は、私が殺したトレニアールと』
胸の奥でトクン、と音がしました。途端にアメリアの目には今まで友達だと思っていた彼女がまったく別の存在に見え始めました。白々しい笑顔と、笑っていない目と、妙に冷静な口調……それはどこかの物語で読んだ悪者の態度によく似ています。善人のフリをして他人の心に入りこみ、信頼させておいて最後の最後で平然とその心を踏みにじる希代の悪者に。
騙された――その事実を前に全身の力が抜け、アメリアはぺたりと尻もちをつきました。クモの巣に捕えられでもしたようにその体は動かず、いえ、そうしようという意思すらも挫かれていました。
『長かった鬼ごっこもこれでおしまい』
冷笑を浮かべるネージュの表情にアメリアは彼女の本質を見たと思いました。
「あなたは、何者?」
震える声でアメリアは言いました。あの「トクン」が、本能が危機を告げる音だったことはわかっていました。目の前の少女はもう様々な知識を披露してくれた友人のネージュではありません。もっと凶悪な害意を持った存在です。
『あなたが気づいていないだけよ』
皮肉ったようにネージュは笑いました。
彼女の手には小さなガラス片が握られています。ゆっくりと歩みすぅっと伸ばした手で、彼女はそれをアメリアの首筋に突きつけます。あと少しでも力を入れれば間違いなく、致命傷を与えることができるように。
アメリアは固く目を閉じました。
そのまま一秒、二秒、三秒……。
覚悟していた瞬間は訪れません。
更に四秒、五秒、六秒が過ぎました。
こらえきれずにアメリアは目を開けました。
え、と思わず声が出ました。
ネージュは変わらずそこに立っていました。凶器を突きつけ、氷の笑みを浮かべたまま。しかしそれだけでした。まばたきもせず微動だにせず、彼女は一つの像として立っています。周囲に目を向けると聖火の炎も星々の輝きでさえも、目に映るものはことごとくその動きを止めています。教会全体があたかも一枚の絵画になったような保存の瞬間。何の音も聞こえず、ここではすべての時間が止まっていました。
不意にどこからか風が駆け抜けます。春の香りとともにそれはアメリアを縛る不可視の糸を裁ち、そして澄んだ声が奏でる不思議な歌を運んできます。
汝、気高き心を示し美しき理想を体現する者
汝知るべし、己の力
血は宿命
翼は運命
命燃やして戦え乙女
命短し笑えよ乙女
床が崩れ足下にぽっかりと巨大な闇が口を開けました。
短い悲鳴だけあげてアメリアはその闇の中へと落ちていきます。
『またあの女か!』
はるか頭上に置いてきた光の中でヒステリックな声がこだましました。
◆一番はじめにあった物語~生まれながらの戦乙女
「いつまで寝ているつもりかね?」
どのくらい経った頃でしょうか。アメリアは何者かの声で目を覚ましました。目を開けるとそこにはロウソク一本だけの小さな明かりと自分をのぞきこむ少女の顔がありました。自分が寝ていることに気がついたアメリアは慌てて身を起こしました。
「ふむ。なかなか立派に育っているじゃないか」
少女は自分よりいくらか年上に見えます。立ち上がったアメリアを上から下までじっくり眺めて彼女はいたずらっぽく笑いました。
「やや不足がちな部分もあるようだが」
「あなたは誰ですか?」
「キミの味方さ。さぁ行こうかアメリア。あまり時間がない」
少女は強引にアメリアの手を引いて歩き出します。嫌な感じはしませんが、馴れ馴れしさと偉ぶった口調と、妙に冷たい手ばかりがアメリアには印象的でした。
「どうしてわたしの名前を?」
ロウソクの頼りない明かりが一層頼りなく思える暗く狭い道が続く中、沈黙に絶えかねたアメリアは歩きながら尋ねました。
「キミがここに来るのがわかっていたからさ」
「はぁ。ちなみにここは?」
「古代戦争のときに使われた避難用地下道」
「地下道……そんなものが村にあったなんて知りませんでした」
「だろうね。目立ってしまっては避難路の意味がない」
「そういえばわたし、随分高いところから落ちたと思うのですが、どうして怪我もないんでしょう?」
「客人が来るとわかっていながら、もてなしの準備がない主がいるかね?」
「主ということは、あなたはこの道の番人を?」
「番人と言えば番人。しかし別に塞がれた道の番をしているわけではない」
「じゃあ何の番をしているんですか?」
「これからキミが手にする物さ」
「わたしが手にする物?」
「そのときになればわかる。それより、少し静かにしてはもらえないか。せっかく水入らずのつもりが、こうも質問攻めにされてはすっかり台無しだよ」
「はぁ、すいません。でもあと一つだけ……」
「……やれやれ。好奇心だけは一人前のようだね」
ため息とともに少女は頭をかきました。
「仕方がない。キミを素直なよい子に育ててくれた、よい両親に免じてあと一つだけだ。何だいそれは?」
「はい。あなたのお名前を教えてもらえませんか?」
「おや。そんなことでいいのかね?」
意外な質問にいくらか驚いた様子で彼女は、足を止めて振り向きました。そうしてアメリアの顔をまじまじと見つめた後で素っ気なく言いました。
「死者の名前を知ろうとするのはマナー違反というものだよ」
その後はしばらくの間沈黙が続きました。
いくらか経って今度は少女の方が口を開きました。あまり自分のことを語りはしませんでしたが、アメリアは彼女が古代エウノミアの人間であることや友人の力で未来を知ったこと、アメリアの危機に備え人ならざる身としてこの地にとどまったことなどを聞きました。そしてネージュに関して彼女が古代戦争を引き起こしたエイレネ王国の女王であることやその目的がエウノミアの血を引く者たちの抹殺にあることを知りました。
「詳しい理由は知らない。だがヤツはエウノミアを強く深く恨んでいる。キミの体を乗っ取って、村人たちを皆殺しにするつもりだったのだろう」
古代人というだけあって少女は、王家の者としてネージュが受け継いだ力についても知っていました。他者の血液を糧とし、また屍にとり憑きその肉体を操ることができる力を。
「でも、わたしがここにいる以上ネージュのもくろみは失敗に終わったわけですよね」
「キミを利用して、という意味では失敗になるだろう」
だがね、と彼女はアメリアに続けます。
「今夜は月が赤い。封印が弱まり、アレの力が最も活性化する日だ。一つ尋ねるが、今日、キミの周りで『人死に』はなかったかね?」
アメリアは長老のことを思いましたが、それを口には出しませんでした。
しかし尋ねた少女にとってはその反応だけで充分でした。
「心当たりがあるのだね。これで結果は等しくなる。キミの分が減るだけで、村は実質全滅する。いや……今頃はもう、それは結果として成立しているだろう」
嘘よ、とアメリアは悲壮な声を響かせました。しかし少女はアメリアが一番期待していたその言葉を言ってはくれませんでした。
「ここで肯定すればキミの気もいくらか楽にはなろう。だがそれはできない。なぜなら私に与えられた役目はネージュの魔の手から間一髪逃れたキミに復讐の刃を授けることだからだ。ネージュが目覚め、キミがここで私と出会ったということは、今の話が真実である何よりの証拠になるはずだ」
アメリアの足は止まりました。復讐などと言われてもアメリアは別に戦いを望んでいたわけではないのです。今まで通りに家族と楽しく暮らすことができれば幸せだったのです。だから少女の話からその望みが薄いと知ったとき、アメリアはすべてがどうでもよくなりました。このまま一生ここから出られなくても構わない気さえします。
「何を立ち止まっている。先にも言ったがあまり時間がないのだよ」
先を歩いていた少女もまた足を止めて言いました。
「嘆くのは自由だ。キミにはその権利があるのだからね。だが、悔しくはないのか?」
「……」
「私はとても悔しいよ」
少女は固く握った拳を震わせました。
「一方的に戦争などしかけられ、私は多くの同胞を失った。それが四百年も経ってから再び、今度は関係のない末裔にまで手を出しているのだ。あの小娘、八つ裂きにして臓物を引きずり出して、畜生どもの餌にしてもまだ足りない」
「あなたも、ネージュに家族を?」
「途方もない昔の話さ。死した私にはもう復讐を成し遂げる権利も力もない。だからキミに託すのだ。この戦いはキミが負うべき宿命なのだよ」
「血は宿命……なんですね」
「その通り。国を汚されて怒らぬ者は王ではない」
避けられぬ戦いを前にアメリアの体を恐怖が駆け抜けます。初めは小さな動悸に過ぎなかったそれは間もなく全身に伝播し、御し難い震えとして現れました。
そんなアメリアを励ますように、少女はそっとアメリアの肩に手を置きました。
「恐れることはない。キミには力がある。キミはねアメリア、生まれながらの戦乙女なのだよ」
◆一番はじめにあった物語~掌の獣と誇り護る翼
長く続いた暗闇の果てには大人が二、三人入れるかどうかという小さな空間がありました。その一番奥まった所に石壁を削って小さな祭壇のようなものがあって、そこには白銀に輝く金属でできた、やはり小さな箱が奉られていました。
その箱を開けて、彼女から手渡されたのは小銃でした。拳銃のような形状をしておりながら弾倉はない、特殊な機構の銃です。少女はそれを魔銃ゼロハート、と説明しました。
「ゼロハート?」
「そう。キミのためにつくられた、キミにしか扱うことのできない唯一にして絶対の力だ。ただそれには見ての通り弾倉がない。弾は……ここにある」
少女はゆっくりとした動きで自身の胸に手を置きました。
「心、ですか?」
「厳密には命だよ。この銃はキミの寿命を食らう諸刃の剣なのだ。撃ち出された生命の弾丸はキミと標的との間に紡がれる縁に導かれるまま確実に敵を貫くだろう。触れられるものも触れられぬものでも見境なく、ね」
「まるで狂犬ですね」
「そうとも。だからそれをつくった本人は『掌の獣』などと呼んでいた。ゆめ忘れるな、それはキミの中にある大切な時間を急速に消費する。乱発多用は禁物だ。もっとも」
少女はふっと、険しくしていた表情を緩めました。
「誰でも簡単に扱えるのではキミのための力ではない。それはキミがエウノミア王女としての自分を理解したときに初めて威力を発揮することができる物なのだよ」
「王女としてのわたし……?」
「今ならできるはずだ。目を閉じて、戦う自分をイメージしてみなさい」
突然のことで戸惑いながらもアメリアは少女に従ってみました。
アメリアを待っていたのは不思議な感覚でした。喧嘩だってしたことがないのに、戦いなどその単語を耳にするのも嫌なはずなのに心が高揚してくるのです。それにかつてないほど体中に力がみなぎります。上出来だと言われ、アメリアは目を開きます。その背中にはいつしか光の翼が広がっていました。
「……どうかしましたか?」
ふと少女の浮かない顔に気づきアメリアは尋ねました。
「私は、本当はキミに戦う力など授けたくはなかった。人並みに生き人並みの幸せを得て人並みの生涯を終える人間であって欲しかった。この四百年間ずっと、キミがこの地を訪れる未来など間違いであって欲しいと願っていた。だがここまでやっておいて今更引き返すことはできないね。私はキミの背中を押す存在でなければならないのだから。
そうだ。慰めになるかわからないが、一つだけキミの話を訂正させてもらおう。キミの母親、トレニアールはあの小娘の手にかかって命を落としたわけではない、とだけね」
「ではどうして?」
「自滅さ……彼女は自分の力を使い果たしてしまった」
情けなさそうに少女は視線を落とし、おや、と小さな声をもらしました。彼女の足が、徐々にではありますが霞み始めているのです。
少女は構わず続けます。
「その翼がある限りキミは自身の身体能力を飛躍的に高めることもできる。ただその一方で翼の力は、魔銃同様キミの貴重な命を対価とする。あの歌を聞いただろう――翼は運命、なのだよ。さぁアメリア、諸刃の剣を二つも携え旅立つキミへ、これは私からの忠告だ。トレニアールのように力に溺れてはいけないよ。必要なときに必要なだけその力を使うのだ」
既に彼女の体は半分ほどが薄まり、透明になっていました。アメリアはようやく驚きましたが、彼女は動じることなくゆっくり上方を指しました。その先には星々の遠いまたたきが、そして未だ終わらぬ夜を照らす紅月の光が望めます。この場所は教会の裏の枯れ果てた古井戸に繋がっていたのです。
「あなたはいったいどこまで先のことを?」
別れ際にアメリアは言いました。彼女は「あまり遠くはない」と断った上で意味深な笑みを浮かべます。
「私と別れたキミが他愛のないことに気づくまで」
「他愛のないこと、ですか?」
「それはお楽しみさ。さて、名残惜しいがそろそろ時間が来てしまったようだ。アメリア、私のしたかったことをたくさんするんだよ。私のできなかったことをたくさんするんだよ。私の行けなかった場所へ行き、出会えなかった者に出会い、そして私の分まで幸せになっておくれ。どんなに辛いことがあろうと、そこから逃げ出すことは許さないからね」
少女はとうとう消えていきました。
穏やかな笑顔を最後まで見届けてアメリアは彼女を不思議な人だったな、と振り返りました。
本当に不思議な人でした。馴れ馴れしく、生意気で、謎めかしたことばかり言っておきながら質問をすると不機嫌になるような。
しかし初対面にしてはどこか心地よさを感じさせる人でした。
彼女は四百年もの間自分を待ち続け、そして武器を授け、力の使い方を示し、自分を導いてくれた恩人です。望まぬ戦いへと赴く自分の行く末を気にかけてくれた導き手でもあります。自分と何の関わりもない赤の他人に、果たしてそんなことができるものでしょうか。
わたしには、できそうにないかもしれない。
そう思ったとき、アメリアの心に一つの言葉が生まれました。
「……お母さん」
闇の中にアメリアのか細い声がこだまします。
答えはどこからも返ってきませんでしたが、アメリアはその考えに確信を抱いていました。
アメリアは心静かに空を見上げます。
そうして滅ぼすべき悪との対決に向け、大地を蹴る足に渾身の力をこめたのでした。