第二部
【第二部/罪と罰~第三部】
◆赤い花、白い花
○
息を切らして、ジークムントは夕刻の麦畑を駆けていました。
少し前まで盛大なため息を繰り返していた自分のことなどすっかり忘れ、視界の先に現れては消え、消えてはまた現れる少女の後ろ姿を必死に追いかけていました。
このときより遡ること数分、彼は集会所で行われた会議に参加していました。
村が住人の総意として戦う道を選択したまではいいのですが、真っ向勝負を挑んだのではたかが田舎の小村、一日と経たずにひねり潰されてしまうのが関の山です。かといって装備を整えるにもあまり派手に動いたのではこれまた敵の目に留まってしまいます。その行き着く先はわざわざ言うまでもないでしょう。方針こそ決まったものの、実際のところ村はそれに向けてほとんど身動きできない状況にありました。
会議はその停滞状態を打破するべく開催される、各家の代表たちによる話し合いの場です。そこでの決定が村の未来を左右するため重大な責任を負うことは勿論、熟考に熟考を重ねた上で最善の結論を導く最高会議と位置づけられています。
彼はそこに家長代理兼革命主導者として参加していました。魔女を仲間にする以外にこれという方法があって王国と敵対しようとしていたわけではなかったので、皆から広く意見を求めた上で作戦を練りたいと考えていたのです。
ところがいざそれが始まってみて彼は失望せずにはいられませんでした。会議の場は朝早くから夕方まで口喧嘩と沈黙が交互に繰り返されるだけで、まったく機能しなかったのです。誰だって自分の責任や被害は最小限に抑えたいでしょう、が、個々がそれを主張し始めたらきりはありません。どこかで誰かが妥協を訴えなければならないのに、その一人目になろうとする人がいなかったのです。勿論ジークムントは一番にそれが大事だと訴えていました。訴えましたが、「子どもは黙っていろ」の一言でおしまいです。そんな実のない活動がもう五日も続いているのです。ため息をつくなという方が無理な話なのでした。
この日もこれまでと同じでした。出席者の思考には成長もなく、議論に進展もなくただ時間を浪費するばかり。
しかしその後にいつもと違う点が一つだけありました。会合を終え、家に向かう途中の彼が「後ろ姿」を見つけたことです。今はそれを追っている最中なのでした。
それは彼のよく見知った形でした。彼の幼なじみであり、子ども同士の幼い約束ながら将来を誓い合った仲でもあった少女――二年前、病のために若くして命を落とした少女の形です。誰の記憶から風化しようとジークムントにとっては決して忘れられない存在でありました。
彼女の後ろ姿が麦畑を抜け、河原へと下っていきます。河原を駆け、小さな水道橋の下をくぐり彼も彼女に続きます。もう少女を追ってはいませんでした。ここまで来ればわざわざそうするまでもなく向かう場所はわかっているのです。道ならぬこの道は二人だけが知っている思い出の場所、小さな花園に通じているのです。
茨のトンネルを抜け間もなく彼が花園に辿り着いたとき、自分が追ってきた姿はありませんでした。代わりにそこでは一人の少女が腰を下ろしていたのでした。
「魔女――」
まさか彼女がいるとは思っていなかったので、人の気配に気づき無言で顔を上げたアメリアに、彼はすっかり習慣づいた言葉で呼びかけていました。
ユーリイは彼女のことをアミと呼び、村の皆はアメリアと呼ぶ、そんなアメリアを彼はというとどうにも、未だに名前で呼ぶことがはばかられるのです。自分でもその理由を尋ねられたところで上手く説明できないのですが、彼としては、あまり深い付き合いをしたくない気持ちが根底にあるからだと思っていました。
「女の子を追いかけていたら、ここに着いたんです」
ジークムントに答えるように事務的な声が言いました。アメリアの顔は下に向いています。彼女は足下に咲く花を見つめているのでした。
彼女の様子と、そこに咲く花を見てジークムントはもうそんな季節になったのかと――いや、そんな大事なことを忘れていたのかと、気づかされました。アメリアが見つめる花。一本の茎から枝分かれた、寄り添うように咲く赤と白の花は寒冷地方の限られた場所にしか咲かない花です。そして亡き幼なじみが一番好きだった花でもあります。世に言う希少種で滅多にお目にかかれないその花が毎年時期になるとひっそり群生する――だからここは秘密の場所でもあったのです。
「……不思議です。一つの茎から違う色の花が並んで咲くなんて、本当に」
独り言とも同意を求める言葉ともとれる微かな声でアメリアが言いました。その姿は彼に、初めてこの場所に案内され、その花を見た当時の自分自身を思い起こさせます。懐かしさがこみ上げる一方、同じ幻影に導かれた者同士、何だかこの場所で彼女と会ったことが、彼には幼なじみによって紡がれた不思議な縁であるようにも感じられました。
「夫婦花だ」
物珍しそうに見入っているアメリアにジークムントは言いました。それの正しい名前は彼も知りません。正式な名前などないのかもしれません。ただ昔からそう呼ばれているのです。
それは彼が自分で調べたわけではありません。探検家の両親から聞いたわけでもなく、この花のことが大好きだった幼なじみから教わったことでした。彼は自分がかつて幼なじみにしてもらったのと同じことをしていることを自覚しました。
「メオトバナ、ですか」
「古の時代のホウライに愛し合う二人がいた。しかしその気持ちが幸せな結末を迎えることはなかった。二人が重い罪を犯した罪人だったからだ。叶わぬ愛を胸に死んだ二人は地獄の閻魔に魂を捕らえられ、責め苦に喘いでいた。それを不憫に思った神様がこっそり二人を解き放ち、一つ茎に咲く花に生まれ変わらせた。こうして愛する者同士はとうとう結ばれることができたんだ」
これが夫婦花にまつわる伝説だと、ジークムントはアメリアを見ないまま話を終えました。少女もまた花に視線を向けたまま聞き、静かな余韻の中で「詳しいんですね」とだけ言いました。その理由を彼は、自分から話そうとはしませんでした。
「ところでわたしに何の用ですか?」
ややあって、沈黙を破ったのはアメリアでした。
「用?」
「わたしを探していたのではないのですか?」
勿論彼にそんな目的などありませんでした。彼女とは偶然――さりげなく必然とも思っていますが――会ったに過ぎません。しかし上目遣いに見つめながら首を傾げる、彼女のあどけない仕草を前に相手を否定してしまうことは申し訳なく思えました。
これというのもまた魔女の持つ力なのだろうか――彼の中には不思議と、初めて出会ったときと同じ「話せそう」と思う気持ちが芽生えています。
もしかしたら、ここで会わなかったら、話す機会はなかったかもしれない――思い切って一つ、現在村が直面している事態について相談してみることにしたのでした。
「呆れました……まさか何も考えていなかったなんて」
無計画のまま周囲を巻きこんだ無謀さにアメリアはいくらか腹を立てた様子でした。
「魔女頼みにもほどがあります」
もっとも今日までの日々の中で心当たりもあったのでしょう、彼女は「仕方ないですね」と続けてきちんと助言をくれたのです。
「怪物をつくりましょう」
「……怪物?」
聞き返すジークムントにアメリアは頷きます。そうしておいて言うことには、
「もっとも、実際に生み出すわけではありません。あくまで噂を流すだけです」
彼女の考えとは村が謎の怪物に狙われているように装う、ということでした。
例えばある者は「翼を持った三首の怪物が山に現れた」と言います。またある人は「怪物は大きな牙を持ち全身黄金をしていた」などと言いふらします。怪物のイメージは個々によって異なるため、居場所や様態を敢えて統一しないことによって村が神出鬼没、変幻自在の怪物に狙われているように見せかけようというのです。
「これで村に防護壁を築いたり、武器を購入する名分が手に入ります。村の人たちにとっては王国を出し抜いている事実に精神的優位も得られると思います」
あとはユーリイが友達になった動物たちに協力してもらって村内や畑を荒らされたように見せかければカモフラージュも完璧です、とアメリアは作戦を結びました。
この奇策になるほど、とジークムントは手を叩きます。策を授けてくれたアメリアからこの革命戦争に対する並々ならぬ想いを感じるとともに「そういえば」と昨日、思いがけず立ち聞いてしまった彼女と姉との会話を思い出しました。
『気づいた以上は見逃せないよ。だってこれは、本来わたし自身の手で決着をつけなきゃいけないことだから』
村を滅ぼした張本人と被害者という関係の割に睦まじい二人は珍しく険悪な様子で言葉を交わしていました。その際自分を戦いから遠ざけようと説得を試みるユーリイに対してアメリアはそう覚悟を示したのです。それが行動にまで現れてくるとは何と心強いことでしょう。改めて彼女を見直したのでした。
彼女の考えは早速翌日の会議で諮られ、採用されることとなりました。
発案者であるアメリアは多大なる称賛を受けましたが、本人はそんな名誉になどとんと無関心な様子でした。暇を見つけてはこっそりあの花園に通うだけです。ただユーリイとの折衝などやることはきちんとやってくれたので、それからしばらくの間、ステラ村に端を発する「未知の怪物」の話が世間を大いに騒がせたということです。
○
◇二挺の銃と異邦人
「スミさん、どうしてあなたがこれを?」
大抵のことには無頓着の態を貫く魔女が、興奮した様子で言った。
始まりは朝食の席で、彼女がスミ子に興味を示したことだった。
――「スミ子」というのは珍しいお名前ですね。
最初はそんな他愛のない話だった。だから俺はそれが本当の名前ではなく、臆病者ですぐ部屋や庭の隅に逃げこんでしまうお手伝いをからかってつけたあだ名であることを話した。
数日前であればそれだけで済んだ話だったと思う。しかし思いがけず姉と再会を果たした魔女は、これまでとはいくらか性質が変わってしまっていた。彼女は好奇心の魔物だったのだ。
スミさんの本当の名前は何というのですか?
はぁ、記憶喪失だったのですね。
ではどうしてここにいるのですか?
そうですか。記憶が戻るまでここでお世話に。
でも、それがどうしてお手伝いに?
彼女の疑問には際限がない。おかげで俺はスミ子が十年前に家の庭に倒れていたことからお手伝いとして働くようになった背景までをすっかり話さなければならなかった。
しかし話は、それだけでは終わらなかった。前々から気になっていたのですがと断った上で魔女は更に、スミ子のうたうある歌のことを変わっている、と指摘したのだ。
俺が言ったところで自慢にはならないが、スミ子は日替わりで一曲うたっても一年ではうたい尽くせないほどの種類の歌を知っている。そのレパートリイを生かして暇があればうたい、うたうために暇をつくるほどだ。そうすることには食べる寝るといった趣味以上の理由がある。恐らく親が口ずさむのを覚えたであろう歌はスミ子と両親とを結ぶたった一つの絆なのだ。
そんな思い出の歌の中に一つだけ、明らかに異質なものがある。俺がおまじないと呼ぶ、「ほの~かのかの~か~」と独特の歌詞と節回しによる、料理の隠し味から探し物までこれ一曲で解決してしまう「魔法の歌」。魔女が指摘したのはまさにそれのことだ。
今までそれを耳にした者は例外なく変わっている、と画一的な感想を述べてきた。だから彼女の言ったことも俺からすれば当たり前の意見に過ぎなかった。はずだったのだが、
「実はわたしもその歌を聞いたことがあるんです」
続けて魔女が言ったのは、俺は勿論、スミ子でさえも予想だにしなかった言葉だったろう。殊にスミ子など衝撃のあまり固まってしまうほどの驚きようだった。そこから立ち直ってからというもの、今度はこれまでとまったく立場が逆転していた。
どこで聞いたのですか?
はぁ……四百年前。流石は魔女さんです。
でもその頃というとアミさんは霧の中ですよね?
スミに似ている人に心当たりはありませんか?
あと、スミの両親がどうやって森を抜けたのかも!
投げかけられた好奇心のほとんどに魔女は答えなかった。仕方ないと思う。答えようとすればいずれ自分が起こした惨劇にも触れなければならない。相手を思いやるなら口を閉ざすのが賢明だ。
しかしスミ子にも失われた自分を取り戻す手がかりを得んとする意地がある。納得できる答えを得られないからといって諦めようとはしなかった。
食卓を離れたスミ子は間もなく、小さな包みを持って戻ってきた。俺が存在すらすっかり忘れていたそれは保護された当時スミ子が大事に抱えていた、唯一の私物。その名を――、
「レオハートです」
スミ子は包みを解くと、それを魔女へと差し出した。
そして今に至る、というわけだ。
名前とその中身――自分が使うものとそっくりな小銃――に驚きながらも魔女はそれを手に取る。スミ子に色々と確認しつつ長い時間をかけ調べ、やがて躊躇いがちに、
「どうやらこれは、わたしの銃のようです」
はっきりその結論を口にした。
「お前の?」
「はい」
魔女がそう判断した理由は三つあった。
一つ目に、スミ子がこの銃を扱えないこと。
二つ目に、両者の形や傷などがほぼ一致していること。
そして三つ目にと魔女はそれぞれの銃に施された小さな刻印を示した。古代文字A・L・E・Q、その隣に並ぶ「LEO‐HEART」の文字だった。
「そこだけ字体が違うみたいですね」
スミ子が指摘し、魔女はそれを肯定する。
「その通りです。それはわたしが刻んだものなんです」
つまり――と改めて言うことには、
「ここには正真正銘、わたしの銃が二挺あります」
「どういうことなんですか?」
魔女は無言で首を横に振る。俺は声をかけられず視線を落とす。スミ子だけがややあって、
「あの。もしかして、アミさんは……」
自分の銃に残る、魔女のものにはない傷を撫でながら言いかけ、やめた。
魔女はやはり何も答えなかった。
俺はこの日、初めてスミ子を会議の場に招いた。魔女との間に生まれた気まずさから逃げ出す場を与えたかったのもあるが、俺を主導者としてその一番の理解者となるコイツにも、戦いに口を出す権限はあるはずなのだ。
魔女がしてくれたような知恵をもたらしてくれることもささやかながら期待していた。魔女と同じ歌を知り同じ小銃を持ち、霧の森を抜ける手がかりを掴みユーリイが敵ではないと言い出したスミ子ならではの発想を俺は信じた。
スミ子は見事、その期待に応えてくれた。期待以上だった。
その働きぶりを表すには「八面六臂」の一言で充分に事足りるだろう。堰を切ったように溢れ出す言葉でスミ子は見張り用の物見櫓の建設を指示したり地図を広げて村の弱点を指摘したり、籠城戦の提案、罠の充実や効果的な配置など来たるべき日に備えた様々な助言を与えて回った。戦という手段が選ばれなくなって久しい世界においてスミ子の講じた諸々はまるでその場に居合わせたことがあるかのように具体的かつ実戦的で皆を驚かせたものだ。
スミ子の働きはそれだけには留まらなかった。更に、周辺の町村への協力要請を会議の場で提案したのだ。一村対一国の構図では勝ち目がない、だからこそ周辺と連携を取り敵方の注意と戦力を分散させる必要がある、というのが言い分だった。
なるほど確かに、敵の立場になって考えてみれば、いくら小村とはいえ同時に複数が蜂起となれば鎮圧はより困難になるだろう。広い目でこの戦いの勝利を見据えているからこそできた発言だと思う。戦火の拡大――それをこのお手伝いが口にしたことを少しだけ恐ろしいと思いながらも、また一歩、王国との対決が現実味を帯びていくのを俺は感じた。
「スミもやるもんでしょう?」
慌ただしい一日の終わりを締めくくる。俺の隣で家路を歩むスミ子が自慢げに言った。だが口調に反してその顔には、疲れのせいだけでなく持ち前の明るさがない。
「でもスミはいったい、何者なんでしょうね?」
呟かれた言葉に対する答えを持たない俺は、それを聞かなかったことにした。
それから一月の時間が間に流れ、やがてそのときがやってきた。
「来たぞ! 数は……五百!」
早朝の村に、物見櫓からの知らせが響き渡る。遅れ馳せながら計画に気づいた王国軍の侵攻に戦慄が村中を駆け巡った。降伏勧告を退けた二日前から雲一つない快晴続き。不謹慎な言い方が許されるならば最高の戦日和だ。
スミ子の提案が功を奏し、戦力を分断された敵の数は予想を大きく下回っている。陰に日向に装備を整えてきた村にとって必ずしも苦しい戦いではないだろう。
そうはいってもこの戦いは長期的に見れば明らかな不利が生じる戦いでもある。というのも籠城戦はあくまで攻めてきた敵を追い返すことが目的であり、滅ぼすためのものではないからだ。戦が長引けば長引くほど俺たちの戦力は減っていくが、敵には体勢を立て直し、数に物を言わせて個々の村を一つずつ壊滅させていくこともできる。開戦から数日、各地に戦力が分散している間に少数部隊で不意を衝き敵将を叩く――それこそが勝利の絶対条件と言える。
戦にあたり、皆にはそれぞれ年齢や性別に応じた役割が割り振られている。俺とユーリイは守備役として直接戦闘にあたる。ユーリイが南の森で知り合った動物たちも立派な戦力だ。流動的な作戦対応が求められる指令部には軍師を買って出たスミ子がいる。村の最終兵器である魔女はその隣に待機する。
俺たち四人はまた、村を抜け出し王都に奇襲をかける任務も負っている。村の命運を左右する重要な役、言わば勝利の鍵となったことに、流石にプレッシャーはあるが、もう引き下がれない。引き下がるつもりもない。
遙か前方、気味悪いほど秩序立った人の群れが目に入る。予想以下とはいえ、五百も並べば壮観だ。
彼らは今何を思い、どんな顔で立っているのだろう?
……興味はない。
(さぁ、勝負といこうか――)
風を切り裂き最初の矢が防壁に突き刺さった。
◇夜襲
●
彼には何をおいても守りたいと思う者がありました。その者のためなら己が命を投げ出すことさえ厭わない――上辺だけの言葉ではなく、本心からそう言えるほどに彼はまた、その者のことを深く愛していました。
しかしそこには障害として立ちはだかる一つの存在がありました。
一度も顔を合わせたことはありませんが彼は、その者の名前を、容姿をよく知っています。というのも彼がこの地を訪れた目的はずばり、愛する者を守るためその障害を排除することにあるからです。
事が始まってしまった今となっては、彼が成さんとすることの意味は失われつつあります。しかし一方で「今ならまだ間に合う」という気持ちも力を得つつあります。
今更、と今なら――彼が選んだのは後者でした。結果など後でどうとでもなるのです。
ところで彼には気がかりなことがありました。標的の周囲にある存在のことでした。
なぜあの方がここにいるのだろう?
このような場所で何をされているのだろう?
彼には不可解でなりません。とはいえそれに気を取られて本来の目的を失念してしまうほど彼は愚かではありませんでした。
夜風に当たるためか、標的が一人で姿を見せました。またとないチャンスの到来です。
まずは目の前のことに集中しよう。
あの方にはあの方の考えがおありなのだろうから――。
自分を納得させるよう呟くと彼は、音もなく闇に溶けていくのでした。
●
戦の一日目。村が徹底した戦術はずばり、罠の有効活用に尽きた。
準備に抜かりはない。村の周囲に築かれた防壁とその外側に掘られた落とし穴群を防衛線として俺たちは抗戦を展開した。
壁を築いたことには二つの意味がある。一つは当然のことながら敵の進軍を妨げること、もう一つは、その存在によってこちらが守る――攻められる立場であると相手に印象づけることだ。なので防壁は実際のところさほど頑丈に組まれておらず、張りぼても多い。
村が剥いた第一の牙は落とし穴の方にあった。その内部には先端を鋭く削った杭を打ちこんである。掛かった数を敵に与えた被害として確実に計上できる罠だ。自分たちを「攻める者」と思いこんで進軍してきた者たちに対してこれは実に、効果的に機能した。
数限りある落とし穴を越えてきた者へは足元、街道の石畳に石鹸水を流したり、岩や、火を点けた草束を転がしたりして足止めをした。勿論止めるだけではない。矢の雨だって容赦なく降らせもした。
村では第二の牙も潜めてあった。正面突破を避ける進路に備え、迂回路となる森の中にも落とし穴や毒物を用いた罠を潤沢に仕掛けておいたのだ。それらもまた型にはまった訓練ばかりで実戦経験のない王国軍に大打撃を与えた。結果として半農半猟という生活スタイルに合った俺たちの戦い方は、昼を待たず侵攻を断念させるまでに至ったのだった。
続く二日目――今日、俺たちは防衛線を後退させて戦いに臨んだ。緒戦で罠を使いきったためそうせざるを得なかった、というのが実際のところだ。
敵はあまりに潔く退いた俺たちを警戒して村に近づこうとしなかった。まぁ、当然と言える。俺たちはその選択をさせる、即ち牽制するために昨日全力を注いだのだ。
近づかずに済ませるならどうするか。きっと若い指揮官でしょう――とスミ子が推測した敵指令の判断は、村に程近い山の上から砲撃だった。前日の迅速な撤退はその支度のためだったらしい。
三十人ほどを砲撃隊に割き、残りは砲撃開始を待って村に攻め入る、もしくは炙り出された村人たちを狩る。合理的な作戦行動だ。敵方にとって残念なことに、それがこちらの想定内の行動だったというだけで。前日奴らは俺たちを見くびった。田舎者にロクな作戦などないと油断したのだ。そして今日、奴らはまた油断した。俺たちの戦力を見くびった。それが今回も敗北を運んだのだ。
夜明け前の行軍。山に通じる道が塞がれていないことが自分たちを誘いこむ罠であると気づいた者はいない。そこに襲いかかったぬいぐるみ率いる動物部隊。大砲はあえなく奪取され、そのまま村の武器へ――この日も俺たちは勝利を収めたのだった。
こうして勝利が二回続く中、しかし俺たちにも失うものはあった。かけがえのない村の仲間から死人が出てしまった。やっているのが喧嘩ではなく戦争である以上、誰もがやむを得ないものと理解している。何人もの敵の命を奪っておきながら自分たちだけは無傷でいられるなどと虫のいい話を考えてはいない。ただやはり、家族同然に身近な人がいなくなってしまうのは悲しい。
また、この戦いで俺は初めて、人を斬った。
スミ子が罠を活用する作戦を立てたのは加害者に匿名性を持たせるためだった。誰もが誰かの言い訳になる、そうすることで罪の意識を軽くしようとしたのだ。しかしいくら避けようとしても、直接刃を交えなければならないときもある。今日の大砲奪取作戦がまさにそのときだった。獣に仲間を殺された少年兵が自棄を起こして砲撃用の火薬に火を点けようとしたとき、俺は初めて人に向かって真剣を振るった。
化け物の体に浮かぶ人と生身の人間の死は違う。人間は息も絶え絶えになりながら万力のような力で腕を掴み、仇をしっかとその目に焼きつけるよう血走った目を大きく見開いたまま、無言の内に息を引き取る。その憎悪の表情と腕の痛みは夜になっても薄れてくれない。むしろ一層深く濃く刻まれつつある気がする。それが肉体以上に精神的な苦痛となって重くのしかかってくる。
しかしそれは戦争を始めた者の宿命だ。悩む俺に誰一人、優しい言葉をかけてくれる者はない。志を同じくする集団の中に身を置いているのに、いや、集団にいるからこそ俺はつくづく孤独だった。
一番の理解者であるスミ子にも会えないまま俺は奇襲への出発を明朝に控えた夜更けに家を抜け出した。一人になって新鮮な空気でも吸いたかった。
――俺は正しいことをしているのだろうか?
少し歩いて腰を落ち着けた。
――本当に、正しいことをしているのだろうか?
正しいと信じていたからこそ俺はこの二日間を必死に戦い抜いた。戦って、敵兵を討ち倒してきた。しかし考えたことはなかった、いや、敢えて考えまいとしていたが、敵にだって正義はある。その正義によって守るべき家族もあっただろう。それを俺はいったい何の権利があって乱したのだろうか? この二日間で未来のある人間が何人も死んだ。仲間も、敵も。すべては自分が王国を変えたいなどと言い出したためのことだ。だからこそ俺は考えずにはいられない――この戦争における人々の痛みも悲しみもすべて俺のせいなのではないかと。
「その通りだ。お前さえいなければ本来、この戦いは起こらなかった」
頭上から耳慣れない男の声が独り言に答えた。何故頭上から――考えるより早く俺は身を引いた。微かな月光を受けて煌めく鋭い物が俺を目がけて降ってきている。
剣だ。
ただの通行人がわざわざ夜中に、剣を手に降ってくるはずがない。考えるまでもなく敵襲だった。
かろうじてかわして闇に目を凝らす。俺のいた場所に剣を突き立てたのは美しい顔立ちの、細身の男だ。それ以上を分析している余裕はない。相手は既に剣を振りかぶっている。
家の近くだというのに油断も隙もない。念のためにと持ってきた剣に、本当に役目を与えることになろうとは。
鞘に納めたままの剣で俺は相手の一撃を受け止める。婆やからの教えに従えばここまで。奴らが日課としているのと同じ段取りだ。だからここからは、俺が狩猟などを通して学んだ我流ということになる。鞘を犠牲に敵の刃を滑らせ、相手の力をいなしつつ反撃を試みる。勢いを受け流されバランスを崩したところへ――。
俺の剣は、空を切った。すんでのところで気づいた男が大きく跳び退いたのだ。どうやらこの男、実戦にビビって動けなくなったり、奇声をあげて無闇矢鱈に剣を振り回すような兵士とは違うらしい。
「お前はここで消えるべきなんだ!」
男が、声を張る。敵にとって気合いを入れるために発されただろうそれはしかし、俺にとっては違った。
お前のしたことは間違っているのだと言われた気がした。
正直、死ねと言われるより堪える。俺を惑わせる――戦意に、迷いが生じた。
一瞬とはいえ暗殺者からすればそれは絶好の機会だったと思う。そいつは容赦なく俺に斬りかかってきた。遅れて我に返った俺自身、本気で死を覚悟した。
だが結果から言うと俺は傷一つ負うことはなかった。
どこからともなく飛来した光が、剣を振りかぶった男の足を止める。手を止める。
俺の前には、魔女が立っていた。
「やらせません」
冷たい声で魔女は言う。
「……」
二体一という不利な状況を受け、短い沈黙を挟み暗殺者が取った行動は実に明快だった。俺を忌々しげに睨みつけた後、速やかに身を翻し、軽い身のこなしで闇に姿を消していった。
こうして一つの危機が去った。
俺は、また魔女に助けられたのだった。
「魔――」
振り向いた魔女と目が合った瞬間、礼を言おうとした頬に痛みが走った。懐かしい痛みだ。
「敵に遭遇したら助けを呼ぶのが決まりのはずです」
平手打ちをしたその格好のままで魔女は言った。
「わたしが来なかったら死んでいたんです。自分の立場がわかっていないのですか」
「俺の、立場……」
……そうだ、仮にもこの革命の主導者。俺の身は既に俺一人のものではない。名前を知られていようがいまいが、主導者の死は戦の発端であるステラ村の、ひいては連携を取る周辺の村々の士気にも関わる。俺たちが明日、敵のそれを企てているように。そうだ……危うく俺は、俺自身の迷いによって、俺自身の目的を頓挫させるところだったのだ。
「……何か、思うところがあるようですね」
俺の沈黙を魔女はそう受け取った。そして俺にはそれを否定する理由はなかった。俺はこの戦いについて思うことを、あの暗殺者に言われたことともに話すことを選んだ。
「確かに、その人の言う通りです。あなたが変化を求めなければ、自由を望まなければきっと、この戦いは起こらなかったことでしょう」
黙って話を聞いていた魔女は、俺が終えるのを待って、ゆっくり口を開いた。
「お前も、俺を責めるのか?」
「あなたがやらなければ、誰も何もしようとしなかった。それだけのことですよ」
それ以上の意味はないと、魔女は首を左右させた。
「この国はまるで箱庭です。誰も彼も自らは何も求めようとせず、偽物の平和に浸かって与えられるものだけを享受し続ける退屈な場所です。それが当然のように受け入れられていた理由、あなたにはわかりますか?」
「いいや。お前にはわかるのか?」
「あくまで私見ですけどね」
謙遜のためか断りを入れてから、
「きっかけですよ。本気で変化を望み、本気で行動する指導者がいなかったから、現状を受け入れざるを得なかったんです。それが新しい在り方に向けて歩き出せたのはやはり、あなたがいたからだとわたしは思います。それを責めることなどできません。それに、あなたが責任を感じるのは自惚れというものです」
「自惚れ?」
「あなたに感化されたとはいえこの戦いは村の総意です。所詮子どもの言うことだと切り捨てることもできたし、嫌なら逃げ出すことだってできたはずです。なのに皆は戦いを選択しました。各々が戦いを必要と判断したからです。あなたの考え方は自ら戦いを選んだ人々に対する冒涜としか言いようがありません」
自惚れに、冒涜……俺が感じていた重荷はいとも簡単にその意味を失う。他の人間相手だったらこうはいかない。村の仲間として俺の苦しみを全力で理解しようとするし、その上で全力のフォローを入れてくれる。嬉しさの反面、その気遣いがかえって負担になることを彼らは知らない。だが魔女は違う。擁護せず、かといって責めるわけでもない。代わりに落ちこむその行為がそもそも間違いだと言う。これは、励まされているのだろうか?
「でも、その悩みも今日でおしまいです」
我に返った俺に、明日はきっと成功させましょうと言う魔女の顔には笑みがある。
勿論明日の作戦は何があっても成功させる。王を倒し自由を取り戻す……それは俺が望んだ目的の達成でもある。その後のことを魔女は、どれだけ重く考えているのだろう?
初めて俺だけに向けられた笑顔は悔しいほどに可憐で――。
そしてそれを上回って、不気味だった。
◆王都へ
戦場からの脱走者として保護を求める名目で王都に入り、あとは衛兵の目を盗んで城に忍びこみ、王を倒す――それが俺たちの作戦だった。だから敵の油断を誘うためにメンバーには大人を含まない。切り札である魔女が年老いた老婆でないことも、迅速な行動を起こす上でつくづく幸いする。
顔が割れ刺客を差し向けられたことから、逆に待ち伏せされることを警戒しながら、夜明け前の村の水路から川を下る。都に程近いところで街道に出た。
昨夜の暗殺者のことで出発前にスミ子とユーリイにも留意を促しておいたが、王都に向かう道中では軍人の姿を見かけることすら、まったくなかった。都が近づくにつれ増えていった関所も無人で、武器を手に取ることもなかった。
俺たちはそのまま無防備な王都へと進入を果たした。戦わなくて済むならそれがいいに越したことはないのだが、あまりに調子よく物事が運ぶのはやはり不審だ。
「見破られていた、と考えるのが普通でしょうね」
衛兵の一人もいない城門を前にして魔女が重々しく呟いた。
俺もその意味するところに気づいた。俺たちがここに立つ理由は勿論絶対的権力を持つ敵首領を倒し、組織を瓦解させることにある。しかし敵方にとってもそれは同じことだ。この場には革命主導者に革命組織の切り札、獣の総括者に作戦参謀と、この戦いにおける革命組織の中核が揃っている。わざわざ個々の町村を滅ぼすまでもなく、主導者さえ片つけてしまえば事は足りる。
暗殺が失敗したからこその、直接対決。その場合、功績を挙げるのは王本人でなければならない。大将自らが敵将を討ち倒してこそ絶対王による正義というプロパガンダは効果を発揮する。どうやらこの奇襲を決着の時と定めたのは俺たちだけではなかったらしい。
それならそれで望むところだ。
俺たちは開け放しになっている城門を通り堂々と城に入った。
城の中にも兵は一人も見当たらない。人払いをしてあるのかもしれないし、物陰から俺たちを狙っているのかもしれない。王たちはとっくに逃げ出したのではないかとユーリイは言ったが、たかが村人の造反程度で一国の王が城を捨てるとは考えられない。やはり待ち構えていると考えるのが妥当であるように俺には感じられた。
階段。階段。また階段。間もなく玉座の間が見えてくる。
歩調が早まる。半ば体当たりで大扉を開け、俺はそこに踏みこむ。
そして、それと同時に目の前に広がる凄惨な光景に息を呑んだ。
「わぁ! 血の海です!」
スミ子一人が場違いな歓声をあげた。
見渡す限り見事な赤一色に染め上げられた大広間はいっぱいに、鼻をつく鉄の嫌な臭いで満ちている。足元には砕かれた甲冑――王国の紋章が刻まれた――が乱暴に転がっている。その銀色の中に覗く肌色の欠片、人間の肢体はこの城にいた兵士の数だけあるのだろう。玉座の間は、惨劇の為された後だった。俺たちより先に来た誰かが――とは考えなかった。本来真っ先にその姿にされて然るべき者の姿はない。
いや、あるにはある。しかし「その姿」ではない。
血にまみれた玉座に悠然と腰かけ、手のひらの上で水晶玉を弄ぶローブ姿の王の姿は異様だった。ヴェールに隠れて顔は見えないが、正確には女王。エウノミアは代々女性が王として即位することを、この国に生きる者なら誰でも知っている。
「待っていましたよ。欠陥品たち」
秩序の名を冠する国の王らしい、凛とした声が、言う。その声にはどことなく喜色が含まれている。ヴェールの下で笑っていることに俺は気づく。それに気づくことはまた、この惨劇が彼女の仕業であると気づくことでもある。
「あなたが、やったのですね?」
愚弄する言葉を見つけられない俺に代わって魔女が言った。
「ええ」
王の余裕は崩れない。
「国の秩序を守るために組織された者たちが、自らに与えられた役割を果たせない。処分されても無理のないことです」
「それが為政者の言葉ですか」
一国の王が民を虐げるなど決してあってはならない。それは誰もが抱く一般論。常識論。
しかしこの国の王にとってはそうではない。今目の前にいる彼女に限った話ではなく代々厳罰主義を貫いてきた伝統が、自由な粛清が為される当然をつくり上げてきた。
王は為政者であると同時に、平和というシステムを保つ管理者でもある。彼女にとり国は喩えるなら――そう、一つの機械。民はその部品。正常に機能しない部品を取り除いたとて責められる道理はないのだろう。認めたくない理屈だ。
フ、と小さく鼻で笑う。自分に尽くしてくれた者たちを踏み躙っておきながら悔悟も、反省の色もない。つまり更正の余地もないということだ。
「あなたを生かしておくわけには、いかない」
俺が抱く意思、そして魔女が口にした意志ははっきりしている。それは傍若無人な振る舞いに対する怒りであり、慈しむ心をなくした者への悲しみであり……正直、王に向ける感情に名前はつけ難い。ただただ、目の前の相手を許せないと思っている。
魔女が、今まで聞いたことのない声で「殺してやる」と呟いた。
「役者も揃ったことですし」
私がやったから何だ、許さないから何だ。お前たちの意図などどうでもいい。そう言わんばかりの緩慢な動きで王は、腰を上げる。そして水晶玉をかざしながら言うことには、
「――あなたたちも、最高の悪夢を召し上がれ」
彼女の手からまばゆい光が広がった。
光が収まると、王の姿は消えていた。
逃亡時間を稼ぐための目眩ましではなく、そこには代わって一つの人影が立っていた。
見たこともない人。だが、その姿はどこか――。
◆クイーン・ナイトメア~A・L・E(・Q)
純白のドレスに身を包んだ、一見すると清楚な黒髪の乙女。十五か、十六歳。美少女。
ユーリイ始めスミさん、ジークさんは現れた人物を見て一様に首を傾げている。当然でしょうね、わたし以外の人が彼女のことを知っているはずがない。女王だってきっと、この人が誰かなんてわかっていない。
これは、思い出だ。わたしの心の中にある、大切な思い出を女王はあの水晶の力で具現させたんだ。他の皆にも大切な人はいるだろうに、この選択。ただの人でなしかと思ったけれど、何の因果でしょうね、意外とアジなことをしてくれるじゃない。心躍る。
でもわざわざ感動の再会を提供するためにこうしたわけじゃ、多分ない。だって舞台は血の海、死体の山のど真ん中だもの。つまりはこれが、女王が近衛兵たちを屠った業。自分の手を汚さず、本人とその大切な思い出で殺し合いをさせようってわけ。
戦うのね……辛い。やればこの人が傷つく、そしてわたしの胸も痛む。でもやらなきゃわたしが一方的に命を失うことになる。そんな算段でしょう――いいよ。ますます心躍る。
ジークさんたちはわたしのことを深窓の令嬢みたく思っているみたい。残念だけど、それじゃ三十点。色々知っているユーリイの知識を合わせても、わたしという人間に対する理解はまだ八十点。残る二十点分のわたしはと何か――それは、全力で戦いを愛するわたし。好みで言えば勿論、戦いなんて大嫌い。でも体が勝手に反応してしまう。そしてそれに心が応えてしまうのを抑えることはできない。仕方ないよね、そういう血筋なんだもの。本当、遺伝って怖い。
「……」
あぁ、目が合った。アレはわたしを狙っている目だ。いや、最終的には皆を殺るんだけど、その先陣をわたしで飾ろうっていう目。だってわたしの思い出だもの、それぐらい当たりま――――え、速い。
先手必勝、もしくは必殺。一直線に突っこんできた少女から、いきなり腹部に正拳一発。
げほっ。結構まともに入った感じ。でも残念、ダウンさせるには踏みこみが足りない。
卑怯者――なんて考えながら、わたしもすかさず反転攻勢。鉄拳を頬に叩きこんでやる。
こっちは完全に直撃だ。面白いぐらいに吹っ飛ばしてやる。
どう? 女の子とお人形は顔が命だから、これであっさり消えて……はくれないか、やっぱり。はぁ……しかも笑ってる。
(イカレてるわね)
頭の中で声がする。まったくもってその通り。けど、多分、人のことは言えない。わたしも同じ顔をしているはずだから。
「……」
口元を拭った少女の背中に、光の翼が広がった。
これは象徴。今の世ではわたし一人だけに赦されている女神様の恩恵。彼女もようやく本気を出したってこと。ちなみにわたしは最初から本気。これで互角ね。ついでに声も出してもらえないかしら。無言って、地味に怖い。
皆、彼女の変化を見て驚いている。ユーリイはそろそろ、彼女の正体に気づいたかしら。ジークさんたちは恐らく無理。名前は知ってると思うけど。まぁ、何だっていいの。言えることは一つだけ。
「わたしがやります」
三人を一睨みして黙らせる。どうか助勢だなんて、そんな野暮天な真似だけはしないで欲しい。昔から決まっていることじゃない、竜退治は騎士の、悪魔退治は退魔師の仕事って。じゃあ性懲りもなく現世に甦った親をあの世に送り返すのは――勿論、子の仕事よね。
それに、死んだ母親と拳を交える機会なんて、そうそうない。こんな楽しいこと、独り占めしなきゃ損よ、損。
でも、これって勝負としては結構分が悪かったりもする――死者は永遠、だから。
ちなみにここでの永遠は終わりがあるという前提がある上で、数限りないこと。時間ではなく距離や物量にこそ相応しい言葉。彼女は人間の、少女の形をしているから、その容積分しか力を発揮することができない。この点――出力に関してはわたしと同じだ。決定的に違うのはやっぱり生者、死者の関係。戦う度に疲労するわたしに対して、死によって保存された彼女の力は、増えもしない代わりに減りもしない。
許容量が決まっているはずなのに無尽蔵ってこと。この勝負は喩えるなら大雨の日に雨樋を流れてくる水に向かって、反対方向からコップ一杯の水をぶちまけてやるようなもの。勿論わたしがコップ。
まぁ、だから何って。
やれるかどうかじゃない。やるの、わたしは!
風が唸る。大跳躍で距離を詰めてきた少女が、拳を振りかぶっている。速い。しかもさっきの一発がよっぽど癇に障ったご様子。っはは、目が笑ってない――。
だから、何よ!
彼女が振り下ろす拳と、わたしの振り上げる拳が全力で正面衝突。
お互いばちんと弾けて、腕までじーんと来る。避ければいいのに、わざわざぶつけちゃうあたり、わたしもかなり酔狂。残念ながら今の激突ではわたしが僅かに押し負ける。仕方ない、相手に助走がついている分こっちが不利だった。
痺れる手を引っこめる。上体は崩されても、下体はしっかり踏ん張る。上体下げ、始動する膝は曲げたまま。遠心力を味方につけてしなるように――。
今度は脚と脚が、がつん。偶然でそうなってるなら親子としては相性抜群。実際のところは一つ覚えで顔なんて狙ったから、見抜かれちゃっただけ。しかも……押し負けてる?
(違う)
ええ、違う。わたしは頭の中の声に同意する。そして情報を修正。
わたしたちは、互角じゃない。
拳と拳、脚と脚が交差するその一瞬間でさえもわたしたちは対等じゃない。それどころか恐らく、最初から両者の出力は対等じゃなかった。
そう。もうそんな……ね。
――とかプチ感傷に浸り始めたのがいけなかった。
押し切った少女の背中が見えた。瞬間、頬に鈍い痛みが走る。同時にわたしは、血の海に滑りこみ。裏拳だったのかな。すんごく痛ったい。あと、やられて初めてわかったけど、うん。顔は腹立つ。女の敵は、やっぱり女だ。
見物人たちからわたしを呼ぶ声があがる。黙ってて。アンタたちの今の仕事は順番が変わらないよう存在感を消すことだ。
体勢を直しながら憎むべき敵を見据える。睨みつけた対象は、間髪入れずにたたみかけてくるかと思いきや、ご親切に動かないでいてくれて。
「――――シテ」
微かに動いたのは口。距離はあったけど、不思議と一語一句はっきり聞き取れたその言葉は――ドウシテ、ツカワナイノ?
……余計なお世話。
確かにケモノの力を頼れば勝負は一瞬、わたしの勝利で終幕だ。
でもそんな呆気ない幕切れ、わたしは認めない。戦いらしい戦いをして勝ちたい。この期に及んでそんなこと言ってる場合じゃないけど、拳で勝ちたい。わたしは生まれついての戦乙女だから。アンタが言ったことなのに、忘れたの?
でも順当にいったら意地を張っている内に、わたしはきっと死んじゃう。それもアリかな、なんて思うけど、いやいやダメダメ。それは重大な契約違反。
どうする、どうする、どうする。極限に至れ。
どうする――?
……あぁ、そっか。
極限状態って、文字通りの意味だった。極めて限定的な記憶をあっさり呼び覚ましてくれる状態だ。おかげで思い出すことができた。
そう、忘れてたのはわたしの方。
わたしは、この人の最期を知ってる。
手を伸ばしたホルスタにケモノを掴み、そして、放り投げる。
アンタは不要。無粋。
は、と疑問符丸出して驚愕する敵味方を後目にわたしは、同じ言葉で微かに笑う。上等よ。これから自分がやろうとしていること、それをどうして笑わずにいられようか。わたしは雨水を止めるんじゃなく、雨雲自体をぶっ飛ばそうというのだ。
力量がはっきりしている分、成功率に関しては、ほぼ運次第ってことになる。でも心、躍る踊る。やっぱり勝負はこうあるべきだ。
わたしはそれに、最後の望みを賭ける。
……とはいうものの。
わたしを手放しで迎えてくれた現実はこれでもかというほど現実だった。殴ろうとしては逆に殴られ、蹴ろうとしては蹴られ。わたしもいくらか痛打を与えたつもりではいるけれど、死者相手では決定打には至らない。
でも、わたし自身も決定打を受けてはいなかった。理由は……一応予想もついている。幻影だろうと時空を超えて殴り合いをしていようと、この人はわたしの親ってこと。親として、わたしに望むものがあるってことだ。付き合ってはいられないけど。
でも――さ。
正直、わたしはもう限界だった。
これまで幾度となく繰り出されてきた拳を、わたしは受け止める。両手を使って、かろうじてそうするのが精一杯。受け止めるといっても、膠着するまでもなく押されつつある。
こうして、足を止めて力比べをしてもらえるのは本来、わたしにとってまたとないチャンスだった。チャンスのはずだった。ただ今の今まで何をやっても上をいかれてた奴が急に逆転なんてできるほど世の中甘くないってことだ。子どもだって知ってる。
わたしを見つめる彼女の瞳がみるみる憐れみの色に染まる。素直に耳を傾けていればよかったのに――そう言いたげな目だ。
悔しい。
思い通りにいかないのも、やられっ放しなのも、憐れまれるのも、すべてが悔しい。
ここさえ乗り切れたら死んでも構わないのに、その「ここ」という壁が高過ぎる。
負ける――そんな言葉が脳裏をよぎった。
わたしが負け、他の皆も負け……そしてこの戦いに最悪の形で終止符が打たれる不吉が脳裏をよぎった――――瞬間だった。
一瞬だ。
ほんの一瞬だったけれど不意に、相手の力が弛んだ。理由なんか知らない。大事なのはその事実だけ。そう、わたしには、この現状を覆すのに充分な時間が与えられた。
腕を掴み、渾身の力で地を蹴り上げた。天地は瞬く間に一回り。わたしは床に叩きつけた少女をうつ伏せに、組み伏せる。その手で彼女の翼を鷲掴みにして。
この人はもう何もできない。それは、わたしたちにとって心臓を握られているのと同じだ。
血だまりの中にぽつんとケモノを見つけた。顔を上げればそれを投じたジークさんの姿が見える。これはそうやって使う物じゃないけど、まぁ、助けられたことには素直に感謝しなくちゃいけない。
さて、勝負ありね――心の中で呼びかける。
一緒に死んで欲しかったんでしょう? 一人ぼっちは寂しいもんね。わかるよ、親子だもの。ケモノを使えってことはつまり、そういうことだから。
でも、それはできない。
わたしにできることは、せいぜい、後を追うこと。だってわたしのお母さんはお母さんだけだから。母親って肩書きを負っただけの他人のために、死んであげることはできない。そしてその姿をしているだけのあなたをただの一度きり、「お母さん」と呼んであげることもね。
さよなら、トレニアール。
雨雲をぶち破る――。
もとい、力をこめた両手で彼女の翼を引きちぎる。
雲散か、それとも霧消か。彼女の体は塵に帰していく……。
……はぁ。
別れはこれで三回目だけど、今回が一番辛かった。
でも、もういいよね。終わったの。
そう、どうでもいいんだ。もう全部――。
◆終焉のエウノミア
魔女対魔女の戦いは、我らが魔女の辛勝にて幕を閉じた。
どことなく心苦しそうだった彼女を俺は気の毒に思い、楽しげだった彼女に恐怖を抱いた。彼女の背景を俺は知らない。今戦ったもう一人の魔女のことも、彼女が何を考えていたのかも、今となってはもう聞く必要もない。魔女は道を拓いてくれた。あとは俺たちが、自分の為すべきことを為すばかりなのだ。
「出てこい」
怒りをこめ声を響かせる。
玉座の背後から、間もなく王は現れた。だが先程までの威厳も余裕も感じられない。あの水晶を用いた今の術こそが彼女の必勝法だったのだろう。彼女は敗北を悟ったに違いない。
ヴェールを取り、よたつきながら現れた彼女の、そこで明かされた王の正体を俺は、少し意外に感じた。まだ俺たちと大して年の変わらない少女だったから。
「許してください! 私は命令されてやっていただけなんです!」
「命令されて?」
命乞いをする少女に俺は、事情を尋ねることにする。
そして現代エウノミア専制の仕組みを知ることとなる。
俺たちの学んだ歴史上、エウノミアは現在の治世で三代目に至る。創世神の娘女神エウノミア自らが統治を行った神代。女神が人界を去り、彼女の信任を得た人間による統治が行われた古代。そして隣国の侵略を受け、滅亡して以降に再興した現代。
古代エウノミアが滅び、代わって新しく興った現王国には旧王家の血を引く者がいなかった。執政官らが遠方の村から人身売買で得た年若い乙女を王として君臨させた――それが何百年にもわたって繰り返されてきた王国の影の歴史。彼女もまたそうして王となった者の一人に過ぎなかったのだ。
王となった者には代々、今彼女が手にしている水晶玉が受け継がれてきた。この宝玉は人界を去った女神からの最後の贈り物と言われており、例えば今し方、俺たちを滅ぼすための幻影を呼び出したように、彼女が望めばそれを叶えるための手段を授けてくれた。ときにはこの水晶自身が持ち主に呼びかけてくることもあったという。
秩序を維持せよ、管理せよ、機能せぬ不良品など取り払え――。
「今までのことも、この水晶が頭の中に指示を出してきて、仕方なくやっていたんです! 従わないと全身が激しい痛みに襲われて……本当です! ちゃんと償いもします! だから命だけは助けてください!」
涙ながらに訴えられても、俺には彼女を許すことはできなかった。話の真偽の問題ではなく彼女自身の落とし前の話だ。見逃してはこの戦いで命を落とした人たちに申し訳が立たない。彼女が引き継いできた厳罰主義に命を奪われた者や山送りされた人々が戻ってくるわけでもない。そう、彼女には責任がある。自分の痛みを覚悟してでも止めなければならないものはあった。それを我が身かわいさに彼女は放棄した。国民より自分を優先し、保身に走った彼女に罪がまったくないわけではない。王はやはり、生きていてはならない。
しかし、この少女にどのような権利があっただろう?
王という道化を演じるためだけに金で調達された、憐れな奴隷の彼女に――。
考えるのをやめ俺は、無心になって剣を振り下ろす。
振り下ろし――少女の手の上で静かな光を放つ水晶を砕いた。
彼女を許しても失われたものは戻らない。
彼女を斬っても失われたものは戻らない。
だとしたら俺にできることはこれ以上の犠牲を出さないこと、そして彼女を王国に踊らされた被害者の一人であると認めることだ。この水晶の存在が王を王たらしめているのなら、それを壊すことは王を斬ることと同義のはずだ。
そう、王はたった今死んだのだ。
「自分の言葉、忘れるなよ」
力を失いただの村娘に戻った少女、放心する彼女にできるだけ優しい声で言ってやる。この革命の目的は王政を打倒し自由を取り戻すことにある。それはイコール王を抹殺することではない。彼女がここでの行いを悔い罪を償うために生きるというなら、俺はそれでもいいと思うから。
「は、はい! あ――」
純朴な笑顔に涙が光る。続く少女の言葉は「ありがとう」。
しかし誰もその言葉を耳にすることはなかった。一筋の光が駆け抜け、ゆっくり彼女の体は仰向けに倒れゆく。穿たれた胸から、新たな血だまりが生まれている。彼女はもう二度と、目を開けたり物を言うことはないだろう。
どうして。
これは――不要な死だ。
俺は背後を向く。
彼女を撃った魔女を見た。
◆革命の終わり
「甘いのね、あなたたち」
消えなくていい命を一つ、散らせた魔女が鼻で笑った。
「殺れるときに殺る。戦いの常識よ。そして殺るときには躊躇しない。容赦もしない。一族郎党に至るまで狩り尽くす……でなきゃ、後々面倒が起きるでしょう?
まったく。どうしようもない子どもね……殺さないでですって? ふざけないで欲しいわ。散々人を殺しておきながら、自分を守ろうとした人の命まで踏みにじっておきながら、自分だけは死にたくないだなんて。そんな都合のいい話があるわけないじゃないの。
命令されて仕方なく? 償う? ……ふ、笑っちゃうわ。今更善人ぶって。そんなことを言うなら最初からやらなければよかったのに。結局この子には王の資格なんてなかったのよ。修羅の道を行く覚悟もない。殺される覚悟もない。欠陥品はアンタじゃないの。所詮は偽者ね。……まぁ、もう聞こえていないみたいだけれど」
いつになく饒舌に語り、その最後を魔女は死者への冒涜で終えた。言葉だけでなくそこには暴力も含まれる。無抵抗な死者を蹴り上げてから魔女は、最高の笑みとともに振り向いた。
――ぞっとした。
魔女は壊れてしまったのだろうか……いや、違う。彼女は元々そういう善悪のない存在のはず。だからこそ彼女は恐ろしい存在であると同時に頼もしい存在でもあった。
だがこれはやり過ぎだ。戦とはいえ最低限守らねばならないルールはある。戦う意志も武器も失った相手に追い打ちをかけて命を奪うのは侵略者。革命者のすることではない。
「何を言っているの、あなたたちも同じでしょう? あらかじめ存在していた『平和』の形を武力で壊そうとしたんですもの。革命なんて言葉で美化したって、それは立派な侵略よ。
拳を握り剣を手にし、魔女を頼った時点であなたたちは王政に対する侵略者になった。話し合いではなく暴力を選んだんですもの。もう、殺る気満々ね。現に何人もあなたたちはその手で直接的にも間接的にも屠ってきたじゃない。だから――次はあなたたちの番。当然、あなたたちだって覚悟は決めてきているんでしょう?」
魔女が俺たちへと銃口を向けてくる。話が違うと感じたのは俺だけではないはずだ。
「ネージュ……生きてたんだな」
ユーリイが沈黙を破って言った。
コイツは何をいきなり言い出すんだ――訝る俺を素通りする魔女の顔にニィ、とひきつるような笑みが浮かぶ。ユーリイ一人を映すその瞳は、姉を慕う目ではない。あの顔は憎悪。彼女を殺したくてたまらないという感情が傍目にも伝わってくる。俺は二人の間に何があるのかを知らない。だがこのときこの瞬間、二人が全身全霊で敵同士であることだけはわかる。
ユーリイの故郷を滅ぼしたのがこのネージュという存在であるならば、俺は自分を納得させられる。ただその真偽を確かめることができる雰囲気では、今はない。
「随分と、気づくまでに時間がかかったわね」
ネージュ、と呼ばれた魔女が言う。
「わかってたさ。お前のやりそうなことくらい」
「でもこの子には手が出せなかったようね」
「……」
「そうよ、あなたは遅かったの。その証拠にこの子を救えなかった。そして、自身のことも」
彼女の背中には翼が広がっている。南の森で化け物を消し去ったときより一回りも、二回りも大きくだ。この美しい翼はしかし、ここでは不吉な死の翼。掌では化け物を消し去り、少女を撃ち抜いたあの力の奔流が低い唸りをあげ、俺たちを滅ぼすべく溢れ出そうとしている――。
「やってみろ。そんな曇った力にあたしは負けない」
「ふぅん……試してみましょうか?」
挑発に答えて彼女の指が動き、大いなる力が放たれた。
狙いを定めた猟犬の如く向かってくる光を前に、俺には既にできることなどなかった。魔女を止めるにも逃げるにも、遅過ぎる。せめてもの救いは、痛みを感じる暇はなさそうであること。悔やまれるのは、生きてこの国の行く末を見ることが叶わないこと。それだけが、ひたすら心残りだ――。
「――まだ、終わりではありません」
遠くなる意識の片隅で、誰かが言った。
そんなこと、口で言うのは簡単だ。実際その通りにいかなかったからこそ、俺はここで何もできないまま短い生涯を終えようとしている。だから、言い返す――何もできないクセに、そんなことを言うのは無責任だ、と。
「そう思うなら、自分の目で確かめてみなさい」
そう言われて、言われた気がして俺は、微かに目を開く。
すぐに、大きく見開くことになる。諦めていた俺は、我が目を疑った。何故って、途方もない規模で向かってきた光が、俺たちの前で止まっていたから。
止められていたから。
「……スミ子?」
それをしているお手伝いの背中に呼びかける。返事はない。俺の声が届いていないのだろうか、重ねた手を前に押し出すスミ子にはうわ言のように繰り返す言葉がある。
「変えなきゃ、変えなきゃ」
どうしてコイツにこんな真似ができる?
変えるとは、いったい何を?
豹変した魔女のことも、ネージュと呼ばれた者のこともまだわかっていない内から、考えるべきことが多過ぎる。正直、頭がどうにかなりそうだ。だがそれによって引き起こされるべき放棄を、体は許してくれなかった――後々になって思えば、その瞬間を見届けるために。
人智を超えた何かに導かれるまま顔を上げる。俺の頭上には一つの人影が現れた。
魔女と同じく白い翼を持っているという違いこそあるものの、その姿には憶えがある。夜襲をかけてきたあの暗殺者。だが今はその瞳の片隅にも、俺を映してはいない。その先にいるのは――魔銃を繰る魔女。彼女だけを捉え、剣を手に男は、跳躍していく。
まさか――。
男を止めるべく俺はとにかく駆け出した。
だがそう思っただけで実際のところそれはできていなかった。
硬直した足は、一歩踏み出すために動くことすらなかった。
だから魔女の頭上に迫った男に、力の限り「やめろ」と叫んだ。
しかしこれもやはり、実際にはできていなかった。
口からは意思に反して意味のわからない、或いは意味のない音しか出てこなかった。
「母さんっ! 今、僕が――――」
男の刃が魔女に向かって振り下ろされていく。ようやく男に気づいた魔女が顔を上げる。
俺に見えたのは、そこまでだった。
光が弾け、悲鳴があがり、そして間もなく静寂が訪れる。すべてが過ぎ去った後には剣を手に立ち尽くす男と、力なく横たわる魔女の姿があるだけだった。
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この日エウノミア王は倒れ、長きにわたって人民を支配してきた偽りの平和は、その陰で行われてきた数々の悲劇とともに幕を閉じました。王の訃報は瞬く間に駆け巡り、王国全土に広がった戦乱もまた軍と民との和解をもって終わりを告げます。最高権力者を失ったエウノミアは絶対的権力を持つ王による専制から、国領に属する町村の代表らが共同で政府を組織する合議制へと新たなる一歩を踏み出すこととなりました。
突如訪れた方針転換に人々からは戸惑いの声も多くあがりました。しかしそうした人々でさえ、新しい国が今まで以上に住みよい世の中になるであろうことに確信を抱いています。そうです、本当の自由はついに、人々の手に渡ったのです。
この新しい平和も自由も、かつてジークムントが抱いた疑問の果てに生まれたものであり、思い描いてきた国の在り方に他なりません。いつどのような理由で処罰されるのかと脅える必要のない、軍人の顔色をうかがわなくて済む、気の合う仲間と好きなだけはしゃいで、自由に衝突し、心から笑える、皆がそれぞれの幸せを求められる世の中がようやく始まったのです。
しかし心強い仲間たちとともに積年の願いを成し遂げたこのとき、この黎明を導いた少年の顔に、笑みはありませんでした。
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