プロローグ~第一部
【プロローグ/罪と罰~第二部序段】
◆霧の森の魔女
○
ホウライという言葉には、遠く神代の言葉で理想郷という意味があります。この世界をおつくりになった創造主様が、この世界があらゆる生命にとっての理想郷となることを願ってその名前をおつけになったのです。
理想郷の名の下に、生まれたばかりのホウライの空は澄み風は薫り、水は清く大地は温み、そこには鮮やかな草花があふれ大小様々な動物が栄えました。その光景を実際に見た者はありませんが、今の世界の様子を見る限り想像に難くありません。そこにはさぞかし美しい光景が広がっていたことでしょう。
そのホウライが特に美しかった時代、今よりずっと自然が豊かな色を持ち、今よりずっと多くの生物が自由に生きていた時代、まだ国という大きなまとまりが築かれる前の時代にただ一人、魔女と呼ばれる存在がありました。
魔女の容貌がいかなるものだったのか、今の世には伝わっていません。魔女というイメージの通りに気難しい老婆かもしれませんし、イメージとは反対に心優しい少女だったのかもしれません。また名前はアイリなどとかわいらしかったり、グレゴールとかやたら格式張っていたのかもしれません。彼女についてはっきりしていることといえば、魔女が古今東西肩を並べる者がなく、またこれから先にも現れることがないと言われるほどの強大な「力」の持ち主だったということだけです。空を飛ぶ、物を消すことなど朝飯前。海を真っ二つに割ったり昼夜を一瞬にして逆転させたり、夏に雪を降らせたり太陽を西から昇らせることさえも自由にできたのだそうです。
彼女はどこで、どうやってそれだけの術を身につけたのでしょうか?
気の遠くなるような時間をかけて修行などした結果なのかもしれませんし、或いは彼女自身が生まれながらの魔女だったからなのかもしれません。
魔女は己の持つ力を用いて人々に対し数限りない善き行いをしました。例えば町中のネズミを消したり往来を不便にしていた山を吹き飛ばすなど、そういった行為は人々に大層喜ばれました。しかしそれに負けず劣らず、彼女は悪い行いもまた数えきれずしてきました。そちらの方は具体的にどういうことか、一つのことを除いてあまり詳しく伝わってはいません。もしかしたら意図的に伝えられなかったのかも、今となってはわかりません。
魔女がそういった行いをするのにこれといった目的はありませんでした。彼女には善意も悪意も存在せず、純粋に無邪気なのでした。それ故に誰の手にも負えなかった魔女の存在はやがて、この世界をつくった創造主様の怒りに触れることになってしまいました。
三日三晩にわたる激しい戦いがありました。
その末に創造主クローソー様に敗れた魔女は自らの行いを反省し、二度と人間とは関わらないことを誓います。そして世界の果ての、更に果てにある森の奥に閉じこもったのでした。
彼女が入って以来、森には深い霧が立ちこめるようになりました。そこに踏みこんだ者を惑わし、一切の出入りを禁じ、森と外界とを遮断する不思議な霧――その霧の存在により、いつしかそこは霧の森と呼ばれるようになりました。
魔女がその後、閉ざされた森の中でどうなったのか、それを知る者はありません。生きていると考える者もあれば、もうとっくに死んでしまっていると考える者もあります。そもそもでそのような者は存在しないという者もあります。わかっているのは、今私たちの住んでいる村の北にある森には、外界の者を拒む不思議な霧が満ちているということです――。
それはジークムントが教えてもらった中で、最も印象に残っている話です。
初めてその話を聞いたのは六歳のときでした。探検家の両親の不在を世話してくれる婆やが遊び盛りの退屈を慰めるために聞かせてくれたのです。
当時の彼はまだ夢ばかり見て、将来の現実など何一つ考えず、同年代の者たちとともに無鉄砲を繰り返すやんちゃな子どもに過ぎませんでした。
それが受けた衝撃はいかほどのものだったでしょう?
ジークムントは時間さえあれば婆やに魔女の物語をせがんだものでした。婆やはそれに誠実に応えてくれ、彼は魔女の力により削られた山を知り、彼女の涙によって生まれた泉を知り、そして彼女がした「悪い行い」が人を食らうことであるとも知りました。彼は婆やからの、魔女の話を通して好奇心や羨望、善悪も恐怖をも学んだのです。
「いつか坊っちゃんが自分一人の力ではどうしようもない壁に突き当たったとき、彼女を訪ねてみるといいかもしれませんね」
親愛なる婆やは魔女の話をするとき、最後には決まってそんな風に言いました。ただの結び文句ではなく、そうすることで彼女は、世の中にはそういった得体の知れない力に頼らない限り変えられないものがあると少年に示そうとしていたのかもしれません。
幼いジークムントはいつだって温かく微笑む彼女を見上げ、無垢な瞳で頷くのです。
十年後の自分がまさか本当に、魔女を頼ることになろうとは、このときは夢にも思っていなかったことでしょう。
○
【第一部/罪と罰~第二部】
◆霧を抜けて
○
その声に気づいたとき、彼女はちょうど散歩からの帰り道でした。
もっとも、散歩といってもそれをしていたのはもう夜中。ほとんど日付をまたごうとする時間に近い頃です。そんな遅い時間に、確かに人の声が届いたのです。
彼女が自分以外の人間の声を聞いたのは久しぶりのことでした。
だから聞き違えるはずはありません。独り言さえ滅多に口にしない彼女が、人の声を。
ようやく来たんだ。
外界の人間が――ううん。
わたしの運命を決める来訪者が!
いつまで続くとも知れない苦痛ばかりの日々を打ち破ってくれた、待ち望んでいたその瞬間をもたらした者の元へと彼女の歩調は自然と速まっていきます。
家の前には一つの人影があります。年の頃は自分と同じくらいでしょうか。大人ではなくまだ発達途上の少年に見えます。しかし見た目や年格好など問題にはなりません。大切なのは森を越え、こうして自分を訪ねてきた者がいるという事実なのです。
その者はまだ、彼女には気づいていません。
さぁ、いつ声をかけよう?
口の中で小さく呟く彼女なのでした。
○
「坊っちゃま、ジーク坊っちゃま」
どこか弾んだ声とともに肩を揺すられ、俺は目を覚ました。
目を開けると、霧に霞む視界の中すぐそこに、家でお手伝いをしている少女、スミ子の顔がある。耳が隠れる程度の黒いショートカットを揺らして、褒めてと言わんばかりにドングリまなこをキラキラさせている。
俺は身を引きながら彼女に問いかける。
「どうした?」
「はい! 向こうに明かりを見つけたんです!」
スミ子は辺りを包む霧の中、どこへともない方角を指して嬉しそうに言う。
「ほら、ほら! 見てください!」
俺の目では最初、それを認めることはできなかった。一度ランプを消してみてそこでようやく、微かに灯る遠くの明かりを見つけることができた。
よくあれを見つけたものだ――俺はお手伝いを存分に褒めてやってから腰を上げた。
「本当に、魔女さんなんているんでしょうか?」
しばらく歩いた頃、張り切って先を歩いていたスミ子が不安そうに振り返った。
「魔女」というのは俺たちの村に古くから伝わる昔話に登場する魔女のことだ。俺たちは今朝早くに家を出て霧の森に入った。霧に惑わされ道を失っている内にすっかり深夜になってしまったが、その目的はずばり、今スミ子が言った魔女という存在に会うことにある。会い、エウノミアを変えるため力を貸してもらうことにある。
「スミは」
そこから先を口にしてはならないと言う代わりに、俺はその口を手で塞いだ。
『霧の森の魔女』という昔話は、俺たちの暮らすステラ村ではきっと一番有名な話だ。もっとも村人たちにとってのそれはあくまで「悪さをする子は魔女に食われてしまうぞ」という程度の教育的なお伽話に過ぎない。今時そんな話を信じているのは自慢ではないが俺くらいのものだろう。
その俺だってつい数年前、両親に代わって自分を育ててくれた婆やと、国の決まりによって別れる前までは魔女のことなど鼻で笑い飛ばすような立場にあった。育ての親との別離というものが俺に、すっかり失ったはずの昔話への熱を思い出させたのだ。
『お世話になりました、坊っちゃん』
しわだらけの顔であの日、婆やが無理をして笑っていたことを俺は今でもはっきり憶えている。寒さも厳しい冬の真っただ中、雪の舞い散る晩、齢六十の体に鞭を打ち、防寒具も満足に身につけず家を後にする彼女を引き留めることができなかった自身の無力を憶えている。軽装で冬山へ向かう彼女の辿る結末がわかっていたのに、それが間違いであるとわかっていたのに留めることができなかった悔しさを憶えている。忘れられるはずがない。
俺はあのとき初めて、当たり前だと思っていた国のやり方に対して疑問を持った。怒りを抱いた。そして決意したのだ――エウノミアを変えてやる、と。
エウノミア王国――俺たちの生きる国の名前だ。俺たちの村は王国領の外れにある。
「秩序」の名を冠するエウノミアは、単純に平和か否かの二択で言えば間違いなく平和な国だ。農産物の収穫量によって変動する税金は決して高くないし、獣害や不作による損害は国の方から積極的に補償してもらえる。他国と戦争をすることもなく公共の福祉も充実している。
しかし一方で国は、その秩序を乱す者に対してやり過ぎと言っても物足りないほど非情だ。喧嘩両成敗は当たり前、窃盗や詐欺は極刑上等、罪の大小やそれを犯した者の老若男女の区別も存在せず皆が等しく重罰を受ける。夫婦喧嘩で処刑された者、嘘をついて処刑された者、酒に酔って大声をあげて処刑された者を俺は何人も知っている。婆やが冬山に送られたのも国が徹底する秩序維持政策の一つだ。国の方針として、棄老によって人口調整を行い世代交代を円滑化しようとしているのだ。
そんな国のやり方に不満を抱く者は決して少なくはない。いや、実際のところ国の至る所にそういった考えを持った者はいる。ただ厳しい罰を恐れるあまりそれを口にしたり、行動に起こそうとしないだけなのだ。
だから改めてエウノミアが平和かどうかを考えたら、確かに平和には違いないだろう。ただしそれは監視の目に怯え、他人と深く関わることを恐れ、自分の本音を隠さなければならないという条件つきのつまらない平和だ。
俺はそんな窮屈な平和を強要する国を変えたいと願った。そしてそのために、この度魔女などという非現実的な存在に助力を乞うという選択をするに至ったのだ。
俺には田舎の農村にあって特別人より優れているところはないと思う。背が際立って高いわけでも低いわけでもなく、際立って武闘派の体躯を備えているわけでもなく、大勢の村人とともにいれば埋没してしまうような普通の一男子だろう。元王国軍人の婆やに習った剣の扱いについては周囲より優れていると自負しているが、それだって俺以外の者があまりそれを手に取ろうとしないが故の結果に過ぎないと思っている。
ただ人間の中身においては皆と異なる点が最低二つはある。俺は間違いは間違いだとはっきり言いたいし、自分の目で結果を見るまで諦めたくない。周囲はそんな俺を子どもだと笑うが、その性格で人に迷惑をかけることもあるが、これは胸を張れる立派な強みだと俺自身は思う。
「大丈夫だ」
俺はお手伝いにそう声をかけた。そうとも、「人が立ち入れない場所にこそ秘密は隠されているものだ」とは我が子をそっちのけで旅に出るような恥知らずで非常識極まりない親たちも言っていたことだ。侵入者を拒絶する霧の森の存在こそが、その奥に魔女がいることの何よりの証明になる。
きっと魔女はいる――自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
やがて俺たちは、とうとう霧を抜け、目指していた光の灯る場所までやってきた。
森の中の開けた土地には二十戸ほどの民家が点在しており、そこは小さな村のようだった。しかしその中で明かりが点いているのは一軒だけで、それ以外はどの家も真っ暗だ。
それだけ見ると時間帯からも考えて皆寝静まっているように見える。最初はそう思った。それが正確ではないと悟ったのは夜目の利くスミ子が隣で震え始めたときだ。闇に目を凝らせば真っ暗な家はことごとく、骨組みだけを残して焼け落ちていたのだ。
そして目指していた明かりのある一軒家も、よくよく見れば異常な様子だった。家そのものがではない。それはいくつあるとも知れない墓の群の中に建っていたのだ。
墓場村の人食い魔女――。
そんな言葉が浮かんだが、臆病者のお手伝いをこれ以上怖がらせないためにも俺はそれを口に出しはしなかった。そうしたところでスミ子が落ち着くわけでも自分の中に徐々に湧き上がってきた戦慄が治まるわけでもないが、とにかく、そうすることが賢明だと思った。すっかり怯えてしまっているスミ子を背に庇いつつゆっくり、俺は件の家に向けて足を進める。
墓は土を丸く盛ったところへ墓標を立てただけの簡単なものだ。恐らく彼女がこの地に降り立つまで生活していた者たちの墓だろう。彼らがここで何を経験しいかなる最期を迎えたのかなど俺には知る由もないが、これだけははっきりしている。
こんな場所で生活しているなんて、とても正気の沙汰じゃない。
一つひとつの墓に供えられた花を眺めている内に、気づけば家の前までやってきていた。希望と恐怖の比率を言えば、この村に来るまでは九対一、来てからは控えめに見積もっても二対八といったところだろうか。圧倒的に恐怖の方が大きく、男なのにと恥ずかしく思えるほど俺の体は震えていた。
「いくぞ」
背後のお手伝いに一言断ってから、ノック二回の後でノブに手をかける。
ギギィと金具の軋む音がして、重々しく木製の扉は開いた。
「ようこそ、お待ちしておりました」
呼びかける前に若い声が、意外にも背後からあがった。
いつの間に――思わず護身用に持っていた剣に手が伸びる。しかし驚きのあまり気を失って倒れてきたスミ子を抱き止めるのが先で、それを構えるには至らない。もしこれが狩場だったら既に命を落としているに違いない、そんな手遅れ同然の状況下で俺は、「彼女」の姿を認めた。
それは魔女という肩書きを負うにはあまりに幼い、すらりと背の高い少女だった。
何を思って今この場に立っているのか伝わってはこない、表情のない少女。
この人が、霧の森の魔女――。
「魔女――ですか」
ごく微かな声を拾った少女は表情こそ変えないものの、遠い瞳になって言った。
「懐かしい言葉です」
彼女は俺を素通りして一足先に玄関に立つ。そうしておいてから首だけで振り向いて、肩越しにこう言った。
「入りましょう。いつまでも、病人をこのままにしておくわけにもいかないでしょう?」
彼女はそれ以上何も言わず家に戻っていった。必要以上に何も言わないことが恐怖を煽る。
何を迷っているのだと自分に喝を入れてから俺は、彼女に従った。
◆魔女の家で
家に上がった目的は勿論魔女との交渉に臨むことやスミ子を休ませることにあったが、他にも理由はあった。冷静さを取り戻すにつれ彼女自身にも興味が湧き始めたのだ。
歪とはいえ平和であることと、人々が幸福であることはイコールではない。王都近郊と地方の小村、裕福な者と貧しい者、主人と奴隷……エウノミアは幾多の不平等であふれている。そうした社会的な不満に由来する犯罪は後を絶たず、それは辺境の地に生きる者たちにとってもあまり縁遠い話ではない。俺にだってだから、他人を騙す目的で近づいてくる者に特有の人懐っこさや口の巧さを人並みには理解できる。この少女がその類の人間だったなら、彼女と付き合うにあたって想定する以上の慎重さが求められただろう。
しかし彼女はまったく、そういった一種の腹黒さに由来する不快感を放ってはいない。己の行いを反省し人との交わりを絶った魔女らしく至って厭世家そのものだ。
ベッドを借りてスミ子を寝かせた後、俺は少女と向かい合う形で椅子に腰かけた。
満足な明かりのある中で見ると、彼女に対する第一印象は「深窓の令嬢」の一言に尽きた。雪割草のように透き通った白い肌や、腰の辺りまで真っ直ぐに伸びたしなやかな黒髪が特にそれを強く印象づける。空色をした利発そうな瞳と色の薄い唇が特徴的な小顔には、物憂げな表情がよく似合う。喪服めいたワンピースの黒もまた彼女の纏う厭世的な雰囲気を後押しし、そこには一片の隙さえも存在しない。外見に清楚でかわいらしい印象を与えつつも彼女は、完全なる不可侵の象徴として俺の前にいる。
一方で彼女の存在はまた、どこか頼りなくも映る。全体的に体の線が細く必要以上には、いや、必要な力仕事すらこなせるかどうか疑問に感じてしまう。美しいと思った白い肌も見方を変えれば病弱と理解することができる。もしかしたら「儚い」というのがより正確な表現になるのかもしれない。
少女を前に、不思議と俺は、自然に話を切り出すことができた。
話すことはあまり多くない。自分が何者で何のためにここを訪れたのか、そしてその背景にあるエウノミア王政の現状だけ伝えればいい。
俺の方からまず自分とお手伝いの名を明かした。
少女は軽くおじぎをしただけで名乗りはしなかった。
続けて俺はもう知っているかもしれないがと断った上で、秩序を守るためと謳う王国の横暴を話した。理不尽にも処刑された人々のこと、山送りされた婆やのこと、それらの経験を通してこの胸に刻まれた悲しみや怒り、疑念、それすらも抑圧しなければ生きていけない不条理、歯がゆさを話した。
拳を握り締めただけで少女はまだ、自分からは何も言わない。
怒らせてしまっただろうか?
全体、俺の方も要領が悪い。今まで霧の森に挑んだ者はごまんとあったが、越えられた者は一人もなかった。思うに多分、彼らには昔話の真偽を確かめようとする好奇心こそあったものの目的がなかったからだ。本気で彼女を欲してはいなかったからだ。あの霧には恐らく、彼女に会う資格がある者とそうでない者とを篩い分ける役割があったのだろう。
俺は今回、その霧を越えて彼女との邂逅を果たした。彼女にはこの段階で、俺が何かしらの目的を持ってここにいることがわかっているわけだ。さぞかしもったいぶった話をしているように感じていることだろう。
だがそれも終わり。
最後に俺は王を倒すための力を求めて彼女を訪ねたことを話した。
「――いいですよ」
魔女の返事は俺が予想していた以上に早かった。
元々無邪気で気の向くままに好き放題をし、創造主と対立したこともある彼女だ、絶好の舞台を前に断ることはないと踏んでいたが、一度遠い瞳をしてからそう言ってくれたのだ。
「本当に?」
「ええ。わたしにはあなたが目的を成し遂げるに足る力があります。何より」
念を押す俺に頷いてから彼女が加えて言うことには、
「エウノミアを騙っての悪逆非道を許すことはできませんから」
彼女からの返事は勿論、俺が何よりも望んでいた答えに他ならない。興奮のあまり俺はほとんど泣きそうにもなっていた。しかし流石は魔女、なかなか手放しで喜ぶ暇を与えてはくれない。気づけば利発そうな瞳には鋭い光が宿っている。
「ですが、一つだけ条件があります」
「条件?」
その言葉の現実的な響きが俺を我に返らせる。まさかそんなものを要求されようとは思ってもみなかった。
だが冷静に振り返ってみれば、協力を得るにあたり何かしらの条件を提示されることは、家の外で初めて彼女と顔を合わせたときからある程度予想できたことだった。あのとき彼女は「お待ちしておりました」と言っていたのだ。俺が彼女を探していたように、彼女もまた霧を越えた地からやってくる者を待ち望んでいたのだろう。
「もっともそれは、あなたの成すべきことが終わった後で構いませんが」
すぐにはそれを言わず、魔女はやおら目を閉じた。その姿は考えているようでも、先を続けることに戸惑っているようでも、それを言うための勇気を醸成しているようでもある。
やがて意を決したように彼女は目を開き、そして口を開く。
彼女は自身が求める条件を示した。
どうかあなたの手で、わたしを殺してください――と。
◆魔女であるということ
俺の住んでいるステラという名の村は誰の目にもはっきりそうとわかる田舎の小村だ。北から東へと高い連山を背負い、西には霧の森、南にも森、一番近い隣町まで行くのに歩いて半日もかかるような辺境の村だから仕方ない。人はだから、この村を別名で最果ての村とも呼ぶ。
村の人々は山の麓の限られた平地に住居を構え日々の暮らしを営んでいる。村の地味はやや寒冷な部類に属し、四季はあるものの雨は少なく、何年かに一度訪れる例外を除けば冬の雪も多くない。山がちな地理もありかつては食べ物に苦労の絶えない貧しい村だったが、傾斜地を利用した段々畑が発展した今は違う。貧しいことに関しては相変わらずなのだが、食料の心配がなくなった分だけの幸せは得ることができた。
これといった特産品も名産品もない村だから、人々は農業や牧畜、猟を主とする必要最低限度の生活活動を繰り返しながら慎ましく暮らしている。村での生活は一部の物好きが商業用に炭焼きを行っている以外は至って単調なものだ。朝は早く起きて農家は畑、猟師は森へと出かけ、昼過ぎには皆仕事を終え帰宅してしまう。以降は趣味に午睡と自由時間。辺境ならではの、町場に住む人間が羨むこと必至のゆったりとした時間の流れる場所だ。
そんな牧歌的な村は、俺が魔女を連れ帰ったことすらもあっさりと消化してしまった。
多少の騒動というものは確かにあった。元々外部との交流がそれほど盛んではない村なので見慣れない顔はすぐ余所者であることが知れる。「魔女に会いに行く」と言って出かけた俺が余所者を連れてきたのだ、パニックなど想像に難くない。もっとも暴力的なものとは程遠く、絶対不可侵の霧の向こうからやってきた存在に対する物珍しさから俺の家に村人たちが押しかけてくる程度のものだった。それだって三日も経たずに収まってしまった。皆の目に映った彼女が魔女ではなくごく普通の大人しい少女でしかなかったからだ。
あれから一週間。今、俺から見た彼女もやはり普通の女の子にしか映らない。日がな一日読書にふけること、喜怒哀楽の表現に乏しいことと素性の一切を明かさないことを除けば。
『魔女なら、魔法の一つでも見せてみろよ』
一度正面切って言ったことがある。
自分から働きかけては来ないが彼女は、投げかけられた行為や言葉を無視することはない。名前を尋ねられて「知る必要はない」と答えたように、年齢を尋ねられて「失礼な人ですね」と呆れたように、魔女ははっきり答えてくれた。
『今のわたしには、そんな力はありません』
時の流れは残酷だと感じた瞬間だった。魔法を使えない魔女は魔女じゃない。ただの女だ。
だが彼女は「魔女」である自分を否定しない。あの日言ったのだ――あなたが目的を成し遂げるに足る力があります。
彼女はその言葉に命を懸けている。いったい何をもって魔女を名乗るのだろうか?
俺は暇さえあればそればかり考えていた。そして自分で考え、確証のない結論を導くことにも飽きとうとう、彼女自身にそれを改めて証拠を求める決意を固めた。お前が魔女である証拠を見せてもらいたい、と。
「証拠ならもう見せました」
それが彼女の答えだった。
「あなたがあの村で見たもの。それがすべてです」
深い色の瞳と真っ直ぐ向き合う。そうすることで俺が思い出せたものは多くない。ずばり焼け落ちた家と、彼女の家を取り囲む無数の墓のことだった。
……嫌な、予感がする。
「あの村には大勢の人々が暮らしていました。どこの誰とも知れないわたしを愛し敬い、尊重してくれた本当に心優しい人たちでした」
「ました」も「でした」も、既に終わった過去のことだ。
彼女は回想している。恐らくその当時のことを。
その人たちに、彼女は魔女として何をしたというのだろう――?
「でも、わたしがこの手で、皆殺しにしました」
俺が聞くよりも早く魔女はそれを言った。対する俺は絶句した。虫も殺さない、殺し方すら知らないような大人しい顔をしながら、何て女なのだろう。殺したという事実よりむしろ、それを淡々と話す態度に気味悪さを感じる。
そういえば――俺は魔女の話をしてくれた婆やが時にある助言をくれたことを思い出した。
『忘れてはいけませんよ坊っちゃん。不思議な力を扱えるだけではないのです。正義でも悪でもない、それ故に彼女が魔女であることを』
「……何のためにそんなことをした」
声が震える。
目の前にいるのは殺人鬼だ。善悪を持たない生ける狂気だ。こんなことを言ったら俺だってあの村の住人同様にされてしまわないとも限らない。それでも言わずにいられなかったのは俺の中にある正義が黙っていることを許さなかったからだ。
「お前を大切にしてくれたんだろう? 優しい人たちだったんだろう?」
「だからです」
俺からの糾弾を拒むように彼女は、表情を変えずに短く答える。
「わたしを生かしておいたその甘さが命取りだったんです」
「申し訳ないと思わないのか? 心が痛まないのか?」
「魔女、ですから」
彼女の口から反省や後悔の言葉は出てこない。彼女自身が負い目を感じていないからだ。
相手が甘い人間だったから殺した。魔女だから殺した。
俺は予想していたよりもっと、ずっと恐ろしい存在と出会ってしまったようだ。
「今この場でわたしを始末しますか?」
他人に対してそうであるように、自分自身の死にも無頓着な様子で彼女は言った。
それは、或いは俺たちに対しても当てはまるのかもしれない。
「お前は俺のことも、あの村の人たちのようにするつもりなのか?」
質問に答えず俺は問うた。その言葉が肯定されるようなら、たとえ無駄だとしても俺は自衛のために行動しなければならない。こんなところで倒れるわけにはいかない。
魔女は幸いにも首を横に振った。
「あなたのエウノミア打倒に協力すること、あなたによって死を与えられること。それが、わたしが今ここにいる目的です」
果たしてその言葉もどこまで信用していいものかわからない。「いい人」ばかりだった村を滅ぼした彼女だ、何をきっかけに豹変するか知れたものではない。
しかしここで話したことで不思議と彼女を心強く思っている自分がいるのもまた事実だった。というのも人の死は、俺の目的と切っても切り離せない関係にあるからだ。なかなかどうして人の死に動じない彼女の存在は心強い。勿論裏切りさえしなければ、だが。
「お前の力を試させて欲しい」
俺は言った。魔女との間にはまだ信頼関係を感じない。その淡白な死生観に触れた今となっては彼女を害ある存在ではないと判断できる材料がない。彼女だって口には出さないが自分がどれだけ微妙な立ち位置にあるか気づいているはずだ。
俺はだから、魔女が頼れる味方である根拠を今からつくる。
ここでは適当な嘘を言ってごまかすことはしない。彼女が協力することによって起こるだろう変化、揺らぐことない事実を俺は客観的な立場からこう述べる。
「魔性の森に潜む怪物を退治する。成功すればお前は皆からの信頼を得ることができる。仲間も集まる。俺たちの目標は近づくだろう」
「そしてわたしの目的も、ですね」
或いは魔女自身ずっとこのような機会を待っていたのかもしれない。返事は早かった。
ややあって「わかりました」と続けた彼女の顔に微かな笑みが浮かんだように見えたのは、俺の気のせいだったかもしれない。
◆魔性の森で
○
……まったく、懲りない奴ら。
仲間から二人組が森に近づいているという報告を受け、彼女はため息混じりに呟きました。どうせいつもと同じ、自分に負けた者が頭数だけ揃えて仕返しに来たに決まっているのです。
身軽さを一番の取り柄とする彼女にとって人間相手の戦いはすっかり慣れたものでした。数ばかり増やしたところでそれに屈する自分の姿など小指の先ほども想像もできません。
ただ、後を絶たない来訪者の存在はそれ自体が大きな悩みの種でした。彼女は性懲りもなくやってくる者たちに心底うんざりしていたのです。
まったく、人の気も知らないで。
……あぁ。今は違うんだっけ。
仲間たちに足止めを依頼した後、一人残った彼女は誰にともなく愚痴をこぼします。一方頭の中ではもう別のことを考えていました。それは報告においてもたらされた、二人組の片方は自分と同じ匂いをしている、という情報についてでした。
同じ匂い……。
自分が命を落としたときのこと、短い生涯を終え昇天する自分の前に現れた不思議な少女のことを、彼女はぼんやりと思い出していました。
寂しそうな笑みとともに自分へと何かを訴えていた、少女。
しかしその顔や声、髪の色も何故だか思い出せません。昔から記憶力に自信がある彼女ですが、どうにもその少女のことだけは曖昧です。はっきりしていることといえばその少女に出会った直後、目覚めた自分の体が今までとまったく違っていたことだけです。
死んだはずの自分の身に何が起きたのか、あれから季節が一巡りしても未だに、彼女には皆目見当がつきません。しかしながらそこに少なからずあの少女が関わっている、それだけは理解しているつもりです。
もう一回会えばきっと何かわかる。
あたしのことも。
それに――。
やってくる二人組の一人はあの少女に違いない。昔からよく的中する直感で彼女はそう思いました。そして考えるより早く、体が動きました。
待ってろよ、全部白状させてやるんだから。
物音一つ立てることなく、彼女は森を疾走する風になりました。
○
数ヶ月前、村を南へと下った先にある森に謎の生物が住みついた。
小人とも新種の獣とも言われる、恐ろしくすばしっこい正体不明の生き物だ。
それは森に踏みこんだ者を無差別に襲う凶暴さの反面、罠を見分けるなど王都から派遣された討伐隊が手を焼くほどの知恵も持ち合わせている。しかし最も恐れるべきは人語と獣語の両方を理解し、森に住む獣たちを統率する立場にあることだろう。
やがては獣たちを率いて人類に反旗を翻す日が来るかもしれない――そう思えばこそ、この者の存在は俺にとって王権打倒と並んで解決すべき問題でもある。
「はぁ……小人か小動物、ですか」
魔女はいくらか拍子抜けしたような、がっかりした声で言った。怪物などと言われて出発した割に、相手がそれでは身も入らないのだろう。
しかしそんな彼女を諫めこそすれ俺も、ともに歩くスミ子も同調することは決してない。その者がこれまで、ステラを含む近隣の村々にどれだけの危害を加えてきたかをよく知っているからだ。何を隠そう俺にはかつて挑み、その姿を目に捉える暇もなく失神させられた経験がある。
「油断するなよ。俺たちの村はけが人だけだが、他の村では大勢死人も出ている」
「……そうですか。野放しにはしておけませんね」
魔女が拳を握り締める。エウノミアの理不尽な行いに怒りを覚える彼女、村人を皆殺しにした彼女、そして今は怪物に敵意を抱いている彼女……俺には今一つその正義のありかがはっきりしない。勿論そんな意思を持ち合わせていれば、の話だが。
俺にわかることがあるとすれば、それは彼女から自信とも慢心とも違う落ち着きを感じることだ。まるで、自分の手で滅ぼせないものなど何もないと知っているかのような――。
ほどなくして俺たちは森に到着した。怪物が住み着いた今でこそ魔性の森などと呼ばれているが、元々は多くの人々が日常的に訪れるような静かな場所だったのだ。今もだから、あくまで見た目の様子は普通の森。季節の花々が鮮やかに盛りを迎え、何も知らなければ恐ろしい怪物が潜んでいるなどとは信じられない場所だ。
もっとも俺は自分の目に映るこの景色がその通りのものではないことを知っている。あのときと同じく左右に正面、あらゆる木陰や茂みから隠しきれない野生の息遣いを感じる。とても獣とは思えない統率のとれた動きで、奴らは既に、行く手を阻む壁を形成している。
「……感じます。この森の奥から、邪悪な気配を」
魔女がふと、足を止めた。
「わかるのか?」
「はい。ここから先はわたしが」
魔女はそう言って、俺たちを抑えて一人歩み出した。
そこからは流石魔女だ。不思議な光景が俺の目の前に広がった――茂みの中から丸出しの敵意で威嚇していた獣たちが一斉にそれをやめ、姿を現す。そして彼女の忠臣であるかの如く身を伏せたのだ。
彼女が何か特別なことをした、或いはしているようには見えない。しかし彼女の周りではあらゆる野生が獰猛さを失い、愛一心で手懐けられたペットのように振る舞う。今のわたしにそんな力はない、などとは謙遜も甚だしい。彼女はやはり魔女なのだ。
「きっと帰ってきます。あなたに、殺されるために」
振り返って念を押すと彼女はとうとう、森の中へと消えていった。
◆森のクマさん
○
……何だ、情報と違うじゃない。
○
「お茶会はいいけど、ここではやめた方がいいね」
その声がしたのはちょうどスミ子が「お茶にしましょう」と荷物を広げている最中だった。
周囲に人の姿は見えない。だが、いや、だからこそ俺はすぐさまお手伝いを背に庇って剣を抜いた。この声、刺々しい響きを持った少女の声には憶えがある。主はこの森の怪物だ。
魔女はどうなったのだろうか、彼女の姿もまた見当たらない。既に敗れたか入れ違いになったか知れないが、何にせよ、こうなってしまっては怪物退治は俺の仕事になる。
前回は既にのされていたタイミングだ。同じ轍を踏まぬよう周囲に絶え間なく視線を配る。
あの木、それともこの木か。
枝葉を揺らす微かな風さえ疑わしい――。
そうして警戒している真っ最中、不意に俺の目の前に茶色い塊が落ちてきた。二頭身にデフォルメされた、女の子が好みそうなクマのぬいぐるみだった。茶色の毛並み美しく、愛らしい瞳をキラキラと輝かせ、背中にはリュックを背負っている。
だが普通じゃない。ソイツは誰かに支えられているわけでもないのに直立している。
「身構えなくてもいいよ。森に近づかないなら手は出さない」
ひとりでに動くぬいぐるみは、身構える俺へとあの怪物の声で語りかけてくる。実に大胆な奴だが、敵を前にしてそんなことができるわけがない。俺の拳は弛むどころか、この手には一層力が入る。
「坊っちゃま。従った方がいいと思います」
そんな俺を押し留めたのは意外にも臆病者のお手伝いだった。
どうして、と尋ねる俺にスミ子は、困惑した表情を浮かべた。
「クマさんが姿を見せたからです」
スミ子は理屈以前に直感で物を言うことがある。大抵は当てにならないが、今回は確かに、一理ある。わざわざ声をかけてから現れたということは、裏を返せば黙って不意打ちを仕掛けることができたということでもあるからだ。
「それに、スミはクマさんが悪者じゃないことを知っている気がするんです」
「そのクマに俺はやられたんだぞ」
「あのときは森に入ろうとしていました」
お手伝いがいつになくきっぱり言い切る。
確かに、こうして正体を見てしまうと俺にもこのぬいぐるみが無闇に人の命を奪うような怪物にはとても見えない。しかし「できそうにない」ことと「できる」こととはまったく別の話だ。魔女がそうであるように――。
「メイドさんは理解があって助かるね」
俺の思考を遮ってぬいぐるみが言った。
「こうして姿を見せたのはね、アンタたちに頼みがあるからなんだ」
「頼み?」
聞き返したのは俺だった。相手が手を出してこないのだ、こちらにだって耳を貸す程度の猶予はあって然るべきだろう。ぬいぐるみは満足そうに頷いた。
「できるだけ多くの人にね、この森は危険だから絶対に近づくなって伝えて欲しいんだ」
ぬいぐるみの言い分はこうだ――この森には人間を食らう怪物がいる。元々森向こうの山中にある小さな集落を見張っていたものが、獲物を得られなくなったために山を離れ、この森に住み着いたのだ。自身の力で何とかできればいいのだが、生憎、その怪物には歯が立たない。だから被害を出さないために森に誰も近づかないようにして欲しい――。
「そうそう、自己紹介が遅れたね」
怪物の話を終えたぬいぐるみは続けて、聞いてもいないのに自分のことを話し始めた。ユーリイという名であること、トレニアという村の出身であること、今でこそこの姿だが元は人間だったこと、成り行きで怪物から人間を守るために森の門番をしていることなどだった。
すべて聞き終えた俺には、ふと気づくことがあった。今まで信頼に足る者たちから怪物に関する話を色々と聞かされてきたが、その中に「怪物に誰かが殺された」瞬間の目撃談がないことだ。自身の経験も含め、耳に入ってきたのはこのぬいぐるみ、ユーリイに追い返された者の話だけだった。つまり。
怪物は別にいる――ということになる。
「どう? あたしの話、信じてもらえるかな?」
頭では理解しているつもりでも俺は、すぐには答えなかった。勿論、と頷くスミ子の隣で、先に森に入っていった魔女のことを考えていた。
俺が敗れたユーリイ、その彼女でさえかなわない怪物……「小人か小動物」と思いこんでそれを探しに行った魔女はいったいどうしているだろうか。
顔が強張るのがわかる。俺の変化に気づいたスミ子も「魔女さん……」と青ざめた顔でか細く呟いた。だがその心配は間もなく、唐突に終わりを告げた。
魔女が帰還したから、ではない。俺たち自身がそれどころではなくなったのだ。
そう遠くない場所でドォン、と轟音が響く。地響きを伴うそれで俺は我に返った。
「……残念。もう信じる信じないどころの話じゃなくなっちゃったみたい」
ユーリイが悔しそうに言い、拳を構えた。
どこからともなく生温い風が吹きつける。
にわかに、辺りには生臭さが漂い始めた。
張り詰めた空気の中で鳥虫は戦慄に息を潜める。
その静寂を切り裂いてバリバリ、メキメキ轟く音がある。
何か巨大な物が、森を破壊しながらこちらに迫っている……。
「森に入らなきゃ安全じゃなかったのか?」
「……」
ユーリイは答えない。多分、意図的に無視した。怪物の恐ろしさを知っている彼女には、つまりは余裕がなくなったわけだ。
俺も剣を構える。すばしっこいぬいぐるみが一体、剣士が一人、何もできない臆病者のお手伝いが一人……こちらの戦力は実に頼りないが、こうなったらやるしかないのだ。
「いい、二人とも! 死にたくなかったら全力出すんだよ!」
目前に土埃が巻き上がる中、ユーリイが叫んだ。
◆人食らう魔性
聞いていない――それが俺の感想だった。
そう、こんな奴が相手だなんて聞いていない。
とはいえユーリイ自身、怪物がどんな姿であるかを言った事実はない。俺が勝手にでかい昆虫などを想像して、勝手に裏切られただけなのだ。
声もなく、俺はただただ息を呑んだ。
それは最初、全長三メートルを超える巨大なクモとして俺の目に映った。しかしその理解が正確でないことはすぐに知れた。丸く赤黒い胴体、小山のように膨れ上がったその頂は大きく裂け、その内側にはノコギリ状の鋭い牙が幾重にも並んでいる。人間でいう脳天に口があるのだ。眼はない。隠れているのか存在しないのかは不明だ。胴からは動物や昆虫でいうところの脚が四対伸び、その先端には人間の手状の突起がついている。その手で獲物を掴み、脳天の口に放りこむのがコイツのやり方なのだろう。
しかしそれら以上にこの怪物を怪物たらしめているのは、その者の体の表面にごまんと浮き上がる人間の顔の存在だろう。気のせいでなければ見知った顔がいくつかある。彼らは表情こそ違えども「ニンゲン、ニンゲン」とどれも同じ言葉を呟く。わかる――彼らは食われたのだ。そして怪物の中で生者に対する羨望を、嫉妬を、執着を叫んでいる。これは人間の怨念を文字通り全身にまとった、世にもおぞましい化け物だ。
これを相手に、俺には何ができるだろうか?
戦況が悪いのは百も承知だ。が、それにしても程がある。やるしかない状況とはいえ、無茶を承知で戦ってどうこうできる見通しが、まったく持てない。剣を手にする以上は俺だって戦士だ、それぐらいわかる。目の前にいるこの化け物は、恐らく三人どころか三十人の兵士がいたって退治などできないものだ。
どうすればいい?
……いったい、どうしようがある?
気づけば目の前に、化け物から伸びた手――死が、迫っていた。
「坊っちゃまっ!」
その声と、俺に届く直前の手が弾けるのとどちらが先だったかはわからない。
ただその瞬間に俺は、ここが既に戦いの場であることを再認識し、そして自分が果物ナイフを手にしたお手伝いに救われたことを知った。スミ子の運動能力については俺もよく知っている。相手の動きを見てから反応できるような奴では断じてない。いわゆる「火事場の馬鹿力」によるものだったのだろう。つまり甘えん坊で泣き虫で、どうしようもない臆病者のお手伝いにそれだけの技を発揮させてしまうほど俺は危険だったのだ。
危うく戦う前に敗者になるところだった。何もせず負けるのは戦士として一番恥ずかしい。
それにしても、驚かされた。スミ子は俺が婆やに鍛えてもらっているのをいつも眺めていただけだったから。しかし加わることこそなかったものの、見ることを通して学んでいたのだなとしみじみ思う。土壇場でそれを体現できたことは流石の一言に尽きる。本当に、意外な戦士が身近にいたものだ。
お手伝いの行動に喝を入れられた俺に闘志が湧き上がってくる。
やらなければ負ける――だったら、やるしかない。
そうして冷静に見れば今し方スミ子が破壊した化け物の手は失われたままになっている。禍々しい見た目こそしているが、どうやら不死身というわけではないらしい。
残るは、七本――勝機が見えてきた。
二本目、三本目による攻撃――多少の知恵は持ち合わせているらしく化け物はぬいぐるみにも、手痛い反撃を食らったお手伝いにも文字通り手を出さなかった。俺を、「ニンゲン」を単調に狙ってくるものを、的確に撃退するだけだ。
六本、七本目も俺は斬り、そしてとうとう八本目。
性懲りもなく真正面から俺を目がけてきた、最後の手へと振り下ろした剣は、空を斬った。
目測を誤ったわけでもタイミングが外れたわけでもない。
狙われたのは、俺ではなかったからだ。
背後で、悲鳴があがった。
○
このときばかりは仕方のないことだったのです。ジークムントは勿論ユーリイもこの化け物のことなどほとんどわかっていなかったのですから。
それは元々、世界の母なる創造主の手により世の管理を代行する存在――内つ臣の一つとして生み出されたものでした。何百年もの昔から社会で果たすべき役目を終えた人々が集う「山」を見張り、脱走者を食らうことでエウノミアの唱える秩序の一端を影から担っていたのです。
それは瞳を持ちません。退化してなくなったのではなく人間をあまり好ましく思っていなかった創造主の意思によりそのようにつくられたのです。
『外見に惑わされずその者の内面を見つめ、悪しきを食らいなさい』
創造主よりそう植えつけられた化け物は何も考えず、従うまま秩序を乱す意思を感じ取り、捉えた魂を食らうのです。
今化け物は、目前に二つの魂を感じています。一つは自分にとっての悪の意思を持つ少年、もう一つは少女でした。後者はできるだけ残しておきたい存在でした。彼女は面倒な罠を退け、「ニンゲン」を見つける目印になるからです。
しかしもう、そんなことを考えている余裕はありませんでした。今日の獲物はいつもと違います。恐れや不安以上にその者からは大きな力を感じます。気づいたときには既に進むにも退くにも手遅れの状態でした。
食うことを当然としてきた化け物は、己が消える日が訪れるなど考えたこともありませんでした。それはその者の傲慢であり、また無知でもありました。しかし命じられるまま幾多の命を食らってきた生涯の終わりを悟ったとき、これまで有無を言わさず飲みこんできた数限りない「ニンゲン」たちが初めて、その体内で鎌首をもたげました。
死にたくない。
一人では死にたくない。
その手が彼女へ向かうのに躊躇はありませんでした。
○
◆怒れる白
振り向くより先に、伸ばされたのと同じ速さで手はユーリイを引き寄せていた。不意を衝く最悪の悪あがきだ、一刻も早く彼女を封じるべくそれは棘だらけの闇の中へ向かっていく。
俺の隣で早くもスミ子が空を仰ぐ。
ユーリイは助けて、と声を張りあげた。
俺には別に、ユーリイを助ける義理も義務もなかった。彼女とは化け物を前に居合わせただけだし、敵の敵が味方というのは甘い考えだ。仲間になって欲しいと頼んだわけでも頼まれたわけでもない。
なのに、何故だろう――ここで何もできずにいることに俺は後味の悪さを感じている。
俺自身が、一度は助けられたことがあるからだろうか?
知り合いを何人も救ってもらったからだろうか?
違う。多分、そんな理由からじゃない。
もう目の前の誰かに、いなくなって欲しくないだけだ。
今ならまだ間に合う――狙いを定め投擲の構えに入ったその腕をしかし、俺は止めることになった。
先駆けて一筋の光が空から降ってきたのだ。
雨上がりの空、雲の切れ間から差したやわらかな光とは似ても似つかない、流星か、でなければ落雷のような光が化け物の最後の腕を貫く。その出所を確かめるより早く、放り出されたぬいぐるみを目がけて、続けて滑空する黒い影があった。それはここ数日ですっかり俺の目に馴染んだ少女の形をしている。間もなくユーリイを受け止めふわりと舞い降りたその姿は、美しいばかりでなく神々しくもあり、自分が戦いの真っただ中にあることを忘れる。俺の前に降り立ったのは、透き通るように美しい、白い翼を持った魔女だった。
魔女は何も言わない。声をかけられることを拒否するように俯き、顔も見せない。俺にわかることがあるとすれば、それは遅れて現れた彼女にとってもここは戦いの場だったということだけだ。
「……てやる」
気を失っているユーリイを抱え、ほとんど聞き取れない声で何事かを呟き魔女は、俺やスミ子には見向きもせず、もう為す術を失った化け物へと静かに手を差し出した。その小さな掌に小型の銃が覗く。それこそが彼女の武器なのだろう、多分、先に閃いた光はそれによって撃ち出された。
背中では、一層大きく広がった翼がまばゆい光を宿していく。しなやかな髪もまたそこから発せられる輝きをまとい、その様子は彼女自身が一つの光へと変貌を遂げたようでもある。
光――怒りという言葉にも似ているそれが今の彼女自身のすべてであるように俺は感じた。
魔女が引き金の指に力をこめた瞬間、彼女の掌から放たれたのはやはり、鉛の弾丸などではなかった。先に走ったものとは比べ物にならない規模の強大な波動だ。
目を焼く強烈な光が一瞬の内に広がり、世界中の獣の断末魔を凝縮したような轟音が響く。
スミ子を庇う背後には熱と豪風を感じる。
この中で魔女はどうしているのだろう?
やがて訪れた静寂の中で俺は魔女を振り返った。
その瞬間を待っていたように駆け抜けた一陣の風が、立ちのぼる土煙を瞬く間に追い散らしていった後、彼女は何事もなかったかのようにそこに立っていた。
化け物の姿はもうない。周囲の草木ともども跡形もなく消え去って、いや、消されたのだ。
怒りを発散しきったらしい彼女の背中から羽が散る。
それを合図としたように俺は、魔女の持つ本当の力を目の当たりにした自分の中に不思議な興奮が湧き上がるのを感じた。空も駆けるし、化け物だって一瞬で撃ち消してしまう。そして人の死に動じない強靱な精神をも持ち合わせている。彼女ほど俺たちに必要な存在はないだろう。彼女は、魔女は間違いなくこれから始まる戦いの切り札になる。
エウノミアを変えてやる。
どれだけ強くそれを叶えたいと思っても、俺の意志は魔女に会うまでただの夢物語に過ぎなかった。実際にこの瞬間を迎えるまで、ほとんどそれに等しかった。それがとうとう現実味を帯びてきた。彼女の力があれば国を変える戦いにおいて何の不足があるだろうか――勿論、ない。本物の自由を取り戻す日は近い。
人知れず拳を握り締めた俺は、意識を取り戻したユーリイに呼ばれるまで魔女が倒れたことには気づかなかった。家に連れ帰るべく抱き上げた彼女の体が異様に軽いことにも、彼女を見つめるお手伝いの瞳の色にも気づくことはなかった。このときの俺の頭の中はただただ、遅れてやってきた勝利の喜びと明日への希望、その実現への確信でいっぱいになっていた。
○
その日の内に事態は大きく前進することになります。
そこに至るまでには、ジークムントにとって驚くべきことがいくつかありました。例えばユーリイが霧の森の中にあった集落の出身だったことや、魔女が彼女と義妹の関係にあることが判明したことです。もっとも彼女は妹の名前がアメリアということを教えてくれただけで、それ以外のこと――村で惨劇が起きた理由など――に関しては「あの子が言わないなら」と頑なに口を閉ざしました。
本当は、ジークムントはもっと二人に対して疑問を持っておくべきだったのかもしれません。しかしこのときの彼にはそこまで考えられるだけの余裕はありませんでした。だからあまり気になりませんでしたし踏みこみもしませんでした。背景がどうであれ、大切なのは魔女の実力だったからです。
村に戻った彼は早速、森の怪物の正体やそれを自分と魔女が協力して退治したことなどを伝えて回りました。皆の反応は南の森に走ったり魔女やユーリイに会いに彼の家を訪ねてきたりと様々でした。しかしそうした背景には村人たちの共通する想いがありました。この国を変えるための行動を起こすこと――大人たちこそ本当はこの少年以上に、柱となる存在を待ち望んでいたのです。
夜を待たずに広場には料理が並び、怪物から一転、人々を救っていた恩人となったユーリイと、遅ればせながら魔女アメリアの歓迎会が行われることになりました。秋の収穫祭ほどではないし酒も出ないものの、時期外れにそれを行う新鮮さも手伝って皆が上機嫌で飲み、食い、歌い、よく踊りました。
そして夜も更けた頃、歓迎会は決起集会へと変わっていきました。
村長が改めて問うたのに対して異を唱える者はありません。どこからともなく拍手が起こり、「アイツらに一泡吹かせてやろうぜ!」と叫ぶ声があがり、そして村としての総意が固まったのでした。
「大人だって、やるときはやるさ」
騒ぎの陰で村長にさりげなく声をかけられたときジークムントは目頭が熱くなるのを感じました。何故って彼は、この村の大人たちが、それだけのことができるような度胸がある人たちだとは思っていなかったからです。実際のところ密かに、我慢するのが大人の対応であるかのように振る舞うこの村の人たちを見下してさえいました。だからこそ彼は大人の力を頼らず魔女に会いに行ったのです。勝機のない絶望的な戦いだろうが、いつどこで命を落としても誰も悲しんでくれない孤独な戦いになろうが、命の限り抗うために。
しかし本当は違ったのです。そんな考え方は結局独りよがりで、周りにはこんなに大勢の賛同者がいたのです。自分を支え、背中を押してくれる心強い仲間がいたのです。
きっとやり遂げてみせる――。
改めて言い聞かせるよう、少年は呟くのでした。
○
「ようやくここまできましたね!」
集会が終わり、家に戻った俺をスミ子はそう言って迎えてくれた。コイツはコイツで気のつく部分が沢山ある。つまりはそれが、今の俺を労うに最も相応しい言葉だったわけだ。その含意はというと、さしずめ「あなたが皆をここまで引っ張ったんですよ」だろうか。コイツはよくよく俺を立ててくれる。
笑顔で答えながらも俺はしかし、内心そう気楽に考えてばかりもいられなかった。魔女の力が明らかになり皆が決意を固めた今だが、俺たちはまだスタート地点に立ったに過ぎない。
「でも、本当に大変なのはこれからですね」
察しよくスミ子が言ったのに俺は頷いた。気持ちだけ強くても元々農民の自分たちが今日の明日でいきなり戦いなど無謀にもほどがある。戦力も足りないし、それを補えるだけの知恵もない。引き返せない戦いだと思えば思うほど、それがいかに致命的であるかについても目をそむけるわけにはいかない。
「大丈夫ですよ、きっと上手くいきます」
余程俺の表情が沈んで見えたのか、励ますようにスミ子が言った。
「どうしてそう言える?」
「成功するって信じなきゃ、失敗しちゃうからです」
根拠もない理屈で胸を張り、スミ子は無邪気に笑う。
俺の側にいながらコイツはいったい戦争をどう捉えているのか、考えると少し情けなくなった。戦いはそんな精神論で片づくような簡単な話ではない。だが不思議と腹は立たない。この重い話を、重くし過ぎるのはかえって気を急かせるし、視野を狭め柔軟さを奪いもする。逆効果なのだ。
もしかしたらこうした、ある種の開き直りにも似た気楽な考え方も俺には必要なのかもしれない。コイツはそれだけのことを考えて――というのは深読みが過ぎるだろうか? 何にせよありがたい言葉ではあった。
「坊っちゃま、スミと一緒にお祈りしましょうよ」
「そうだな」
まぁ――たまには神頼みも悪くない。スミ子に誘われるまま俺は星空へと手を合わせた。
そうとも、魔女に助力を乞うた時点で自分たちの力だけでやり遂げることは放棄している。今更高潔を気取るなど筋違い、毒を食らわば皿までよろしく、頼るなら神様までだ。
どうか最高の奇跡をと、俺は天に祈る。
瞑想を終えたスミ子が隣でおまじない代わりの歌を口ずさんだ。