線はとある空間の終わりと始まりである
かたん ……かたん ……
かたん ……かたん ……
夕暮れの朱色を左に受け、少年は音を鳴らし続ける。
かたん ……かたん ……かたん ……
かたん ……かたん ……
落日、陽は西に傾き辺りは一瞬オレンジに染まる。
オレンジ色につられたのか、柑橘の香りも広がった気がした。
西陽の輝きは本当に一瞬だ。
ゆっくりと夕闇に包まれつつある学舎の一室の中央に少年はいる。
淡く光る金糸のような髪色の少年は、無表情のまま一枚の原稿用紙に向かっている。
くっきりと弧を描く目元に陶器のような肌。
すっと通った鼻筋の先には常に一文字に閉じられた薄い唇が一ミリの誤差もなく完璧な位置に鎮座している。
彫刻のように美しい容貌は、表情が無いことでより一層引き立って見える。
そんな少年は原稿用紙を前にしていながら一切筆記用具を持っていない。
そればかりか椅子で遊ぶことの方がお気に召しているようだ。
背もたれに重心をかけ、椅子の前脚を浮かせたら、ゆっくりと元に戻す。
かたん。
部屋の中央に佇み、椅子で一人遊びをしている。
そんな姿も憎らしいほど美しいのである。
彼が左頬を朱色に染めてからはや1時間ーー正確には1時間6分と37秒をまわったーー、鳴り続ける音と、興味なさげに原稿用紙へ向かう姿は変わらずに、ゆっくりと学舎に静寂が訪れようとしていた。
彼は学友からプラトンと呼ばれている。
彼は本当に頭が良く、物を知らないということを知らないのではないかという程物知りで、所謂天才なのだろうと皆に思わせる才覚を持つのだが、彼はそういった知識は常に自分の中にあるのではく、必要な時に別次元から自身の脳内に引っ張ってくるのだ、という。
知りたい事がイメージとして浮かぶのだ、ともいう。
謙遜しているのか、しかし彼は謙遜が似合わない。
恐らく本心なのだろう、と学友の中で見解は一致していた。
それ故学友は彼を尊敬半分やっかみ1/4からかい1/4こめて、プラトンと呼ぶのだ。
プラトンは時計を見やった。
黒板の上のありふれた時計は淀みなく時を刻み続ける。
プラトンは少しの間時計を見ていた。
恐らくいつまでたっても原稿用紙に文字が埋まらないことに少しずつ焦燥感を抱いているのではないだろうか。
いくらプラトンといえ、髪の毛を金に染めてきたことへの反省文の書き方が別次元から頭に降りてくることはなかったようだ。
かたん ……かたん … …かたん かたんかたんかたんかたんかたんたんたんたんたん
プラトンは明らかにイライラし始めた。
椅子の前脚が床を打つ音がリズミカルに早くなる。
かたんかたんかたんかたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたんたん
変わらないリズム、メトロノームのように正確に一定の感覚で椅子の前脚は床を打ちつける。
かたんかたんかたんかたんかたん
かたー ……ーーん ……
一瞬の静寂。
そして切り裂くような声。
「おい」
プラトンは音を発した。
その音は空気を伝い震わせ、鼓膜をぐらぐらと揺らす。
「おい」
「なあ、そんなところにずっと居て楽しいのか? 」
プラトンが立て続けに音を発している。
とても珍しいことである。
黒板の上、時計の針は7時23分を指している。
だから正確にはずっとではなく、2時間15分と2秒こんなところにいる。
この窮屈で、暗くて、埃っぽくて、三筋の光しか差し込まない、まるで棺のような縦長の空間に、2時間15分と14秒居るのだ。
「おい。聞こえてるんだろ」
なおもプラトンは切り裂くような鋭い声を発する。
その音はやはり鼓膜をがくがくと揺らした。
いつの間にか椅子が刻むリズムはやんでいた。
プラトンは振り向くこともせず音を飛ばし続ける。
「気づいてないと思ってんのか? 」
プラトンはやはり振り向かず、原稿用紙をじっと見ている。
しかしその全神経は背後の長細い箱に向けられていることを感じ取ることができた。
その全神経が語るのは恐怖なのか、軽蔑なのか、嫉妬なのか、感嘆なのか。
恋慕であればいい。
恋慕であるといい。
がらがら。
教室の後方のドアが開く音がした。
「お、神崎~。反省文かけたか~? 」
間の伸びた、間抜けな声が聞こえる。
「おいおい、白紙じゃないか。2時間なにしてたんだよ神崎ぃ~。先生をあまり馬鹿にするなよ~」
「はぁ~お前頭はいいけど、なんつーか馬鹿だよな~。なんで突然髪の毛金色にしたわけ~? 」
プルトンはその声を一層鋭くして、まるで音による攻撃とでも言わんばかりに、間抜けに向かって発する。
「反省文は蜜柑の果汁で書きました。2時間何をしていたかというと、貴方が教室へこの白紙の原稿用紙を取りにくるのをひたすらまっていました。髪の毛はある知識の代償に金色にすることを強要された、とでも言っておきます。そして自らのことを馬鹿にするなとおっしゃったその口で、間髪いれず他人を馬鹿にする神経が理解できません。もうよろしいですか。そろそろ帰りたいのですが」
間抜けはその言に呆気にとられたようだ。
口を鯉のようにぱくぱくさせ一言、どうぞ、と呟き、白紙の原稿用紙を持って教室から出て行った。
プルトンはやはり背後を見ることなく、荷物を纏め衣服を正し、黒板の上のありふれた時計を一瞥して教室の前方のドアからでていった。
がたん、がたがた、がちゃ。
きぃ~
部屋の後方のドアの隣。
そこに掃除道具箱がある。
人一人がやっとはいれるかという空間の扉が内側から開かれた。
暗闇の中蠢く影はふぅ……と溜息をもらす。
その吐息は睡蓮を思わせるほど清廉でありながら、どこか一箇所に狂気を孕んだ妖艶さがあった。
影はそっと教室の床板に爪先を落とす。
そしてゆっくりと床を踏んでいった。
優雅で繊細な足取り。
向かう先はわかっている。
きっとこの部屋の中央だ。
影は狂おしい程恋い焦がれているのだ。
溢れるばかりの知性、それでいてどこか危なげな感性をもつ、少年に。
あの憎らしいほど美しい少年に。
案の定影は、中央に辿り着くと、その細くて華奢な指先を少年の座っていた椅子にそっと沿わせた。
何度も何度も愛おしそうに背もたれの淵を撫で、息ができないほど苦しい、とでもいいたげに、目を細め、眉間に皺を寄せている。
影は暫くそうして椅子を撫で、気が済んだのか、零れるような笑みを麗しい口元に浮かべ、ゆったりとした足取りで部屋の隅へ進んで行った。
悩ましげなあの表情も、零れるような笑みも、こちらに向けられる事はない。
影はあの少年以外に興味はないだろう。
ワタシの事なと眼中にないだろう。
こんなにもこんなにも愛おしく思うのに、ワタシの思いは届かない。
長い時間掃除道具箱の中に、
ひたすら少年を見つめるためだけに、
潜めるだけの情熱をもっているのに、
ワタシを目の端に留めることなど一切しない!
その情熱のほんの欠片でもいい。
爪の先ほどだけでもいいから、ワタシにかけてはくれまいか。
どれだけの間そう願っただろう!
しかしあの影は、零れるような笑みを少年にむけたまま、ワタシの目の前を颯爽と通り過ぎていくのだ!
不甲斐ない。
目の端にも止まらぬのに、振り向かすことなどできようもない。
ああ、羨ましい憎らしい。
少年が憎らしい……
のろってやろうか。
影はいつの間にかその姿を闇に溶け込ませ消えていた。
部屋の中には一切の音がない、完全な静寂で満たされている。
今日も気づいてもらえなかった。
こんなに近くに居るのに。
月明かりも乏しい三日月の夜。
空は群青を通り過ぎ、紫黒の闇に包まれている。
電柱の明かりだけを頼りに、少し狭い路地を歩く。
目の端に白い靄が通りゆくのを認める。
またか。
慣れたもので、一切気づかないふりをする。
付き纏われるのはごめんだ。
小さい交差点に差し掛かる。
車用の信号はあるが、歩行者用の信号はない。
自分が進む方向の信号が青なのを確認して渡る。
ふと目線を前に向けると、反対側の横断歩道脇に新しい花束が添えられている。
ああ、ここもか。
また迂回路を探さなくては。
心底面倒だと思う。
付き纏われるのは、あの変態で十分だ。
今日も掃除道具箱の中に隠れたつもりでいたんだろう。
周りの奴らは、あの変態のどの辺を見て麗しいと思うのか全く理解できない。
いつもいつも気持ち悪い目でみやがって。
あの変態を少しでも苦しめるために2時間粘ったが、時間の無駄だったな。
自分でも思う、阿保の極みだ。
阿保といえばあの阿保教師、反省文なんてかかせて、何が面白いんだ。
蜜柑の果汁で書いたって意味、あの阿保教師理解できてるんだろうか。
まあ理解できたとして、万が一炙り出ししたとしても、書いてあるのは、反省文なんかじゃないけどな。
盗撮のネタは上がってる。
証拠品も押さえてある。
原稿用紙の中身を見たら最後、カメラを探しに行ってももう遅い。
身の破滅を全身で感じ、恐れ慄くといい。
そう考えて、一人ほくそ笑む。
ふふ、こんな事ばかりしていると、そのうち誰かに呪われそうだな。
ああ、呪いそうなやつ一体いるな。
いつも時計の横に座ってるあいつ。
切なそうに眉尻下げて、こっちを見てくれって見つめ続けて、それなのに目の前を通るだけで、至上の喜びとばかりに、大輪の笑顔を咲かす。
そしてまた眉尻を下げる。
……そそられるな。
自分の性癖が普通でないとは思っていたが、まさか幽霊に気を遣るとは。
俺は気づいてるのに。
なんであの変態なんだよ。
俺の事をみろよ。
報われない思いなんてするなよ。
それと、実体がないのら都合がいい。
誰にも見えないのは都合がいい。
だって俺は
プラトンだから。
そこまで思考を巡らせて、つくづく自分は阿保の極みだと思った。
自動販売機が見えた。
闇夜の中淡く光っている。
コーヒーでも飲んで頭を冷やそう。
後ろポケットから財布を取り出し、缶コーヒーを一つ買う。
タブを開けるとふわっと香ばしい香りがした。
その場で一口飲んで、携帯で時刻を見る。
そろそろ帰るか。
缶コーヒーを手に持ったまま、また歩き始める。
歩き始めるとまた思考が悪戯に巡る。
俺らしくない。
気づかないふりしていたのに。
でも、一心に掃除道具箱を見つめるあいつをみて、堪えられなかった。
無性にイライラした。
俺が気づいてるじゃないか。
どうしてこっちを見ない。
俺に興味を示さないやつ、初めてだからたまらなかった。
ぼんやり白い原稿用紙を見つめてると、目の前に居るのに、こちらを見ないあいつの事で頭が支配された。
いつから時計の隣に居るんだろう。
いつ死んだんだろう。
性癖はやっぱり普通なのか。
気づいたら話しかけてた。
変態が背後に居ることも、どうでもよかった。
俺の存在を認めさせたかった。
俺の声が届いた。
あいつはこちらをゆっくり向いて、目が合った。
他の奴らと同じように、気づいてもらえたことを喜んで、満面の笑みで降りてくるって思った。
期待とかじゃない。
そうに違いないという確信だった。
なのに。
……凄い形相だったな。
流石もう人でないだけの事はある。
憎くて憎くて仕方が無い。
そんな顔をしていた。
ふと、顔をあげると目の前に家の玄関があった。
最後に時刻を確認したのが1時間ちょっと前。
あの自動販売機からここまで5分もかからない。
なんだ、俺は、1時間ここに立っていたのか。
玄関の扉を開ける。
中から甘ったるい母親の声が聞こえる。
返事もせずに自室に向かう。
女は嫌いだ。
たとえ、肉親であっても。
部屋の明かりをつけて、ソファに沈み込む。
早速構想を練ろう。
絶対に振り向かせる。
あの切ない表情も大輪の笑顔も俺だけの物にする。
呪われても構わない。
初めて話として纏めた文章です。
なかなか話を完結させるのは難しいですね。
ご意見ご感想大歓迎です。
題名と内容はあまり関連性はないですが、強いて言えば、目線が変わると見える物が変わることを表現している…つもりです。