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第二十九話 猛毒の希望


華僑の大気圏に入った瞬間、船内の空気が変わった。

計器盤の警告灯が点灯し、ザイロンが素早く確認した。「有害ガスの濃度、想定範囲内だ。マスクを着用しろ」

全員が準備していた簡易マスクをつけた。ララとザイロンは必要ない。

パロディアンが降下していく。窓の外に、くすんだ茶色の大地が広がっていた。空は黄みがかった灰色だ。雲が薄く広がり、太陽の光が濁って見える。植物は見当たらない。岩肌と砂埃だけが続いている。

「地上はこんなに荒涼としてるのね」美代は窓に顔を押しつけた。

「地上は住めない」ザイロンが言った。「住民は地下にいる」

着陸地点の座標に向かうと、地面に大きな開口部が見えた。金属製の扉が開き、パロディアンを誘導するライトが点滅している。

「地下への入口だ」直人は言った。

パロディアンがゆっくりと降下した。扉をくぐると、広いシャフトが続いていた。壁面に照明が並んでいるが、半分以上が切れている。薄暗い中を、パロディアンが降りていく。

やがて底に着いた。

地下の街は、静かだった。

いや、静かというより、音が少なかった。

石造りの建物が密集して並んでいる。天井は地下とは思えないほど高く、人工照明が街全体を照らしているが、光が弱くて全体的に薄暗い。道を歩く人々は、みんな疲れた顔をしていた。子どもたちが路地で遊んでいたが、笑い声が少ない。

直人は街を歩きながら、胸が締め付けられた。

「ひどい」美代が小声で言った。

「これが華僑の日常だ」ザイロンは静かに言った。

ララが周囲を観察していた。「空気の質が悪いですね。地下なのに有害ガスが少し漏れ込んでいます。換気システムが機能していないようです」

博士はすでに街の設備を見回し始めていた。水道管、電気系統、換気口。手帳に素早くメモを取っている。

「直人」博士が言った。「まず何をすべきか、わかるか」

直人は街を見回した。薄暗い照明、疲れた顔の住民、路地で座り込む子どもたち。

「空気と水と明かりだ」直人は答えた。「まずそこから始めよう」

作業は半日で始まった。

ザイロンが換気システムの修理に取りかかり、直人が電気系統の改善をした。博士が水の浄化装置を設置し、ララが住民の健康状態を確認しながら医療支援を始めた。美代は子どもたちに食料を配りながら、ララが用意した栄養補助食品を手渡した。

住民たちは最初、警戒した目で見ていた。

でも少しずつ変わっていった。

照明が明るくなると、子どもたちが歓声を上げた。換気が改善されると、住民たちがマスクを外して深呼吸した。浄化された水を口にした老人が、目を丸くした。

「おいしい」老人は呟いた。

ララが老人の隣にしゃがんだ。「体の具合はいかがですか」

老人はしばらくララを見ていた。それからゆっくりと笑った。「久しぶりに、きれいな水を飲んだ」

美代が子どもに食料を手渡すと、子どもは両手でしっかりと受け取り、母親のところへ走っていった。母親が美代を見て、深々と頭を下げた。

直人はその光景を見ながら、少し胸が温かくなった。


それは突然だった。

作業を続けていた直人たちの周囲を、複数の人影が取り囲んだ。武装した集団だ。無骨な装備を身につけ、無言で間合いを詰めてくる。

「動くな」低い声が飛んだ。

直人は手を止めた。美代が直人の腕をつかんだ。ザイロンが前に出ようとしたが、直人が「待って」と小声で言った。

抵抗しても意味がない。直人にはそう感じた。

「わかった」直人は両手を上げた。「抵抗しない」

全員が連行された。

連れてこられたのは、地下の奥深くにある巨大な建造物だった。

外観は無骨で、装飾が一切ない。廊下を歩くたびに、足音が反響した。案内された先は、広い会議室だった。

長いテーブルの奥の椅子に、一人の男が座っていた。

李シンファンだった。

通信越しに聞いた声の主が、今は目の前にいる。年齢は読めない。深い皺が刻まれた顔、鋭い目、落ち着いた佇まい。でも今はその目に、怒りが宿っていた。

「やってくれたな、貴様たち」

低い声だった。静かだが、怒りが滲んでいた。

直人は李シンファンを見た。「李さん、僕たちは華僑の人たちを助けたかっただけです」

「助けた?」李シンファンは立ち上がった。「貴様らがやった行いは救済ではない。猛毒を与えたも同然だ」

「猛毒?」美代が眉をひそめた。

「希望という名の猛毒だ」李シンファンは続けた。「貴様らが来て、照明を直し、水をきれいにした。住民は喜んだ。だがそれが終わったらどうなる。貴様らが去った後、また元の暗い街に戻る。一度希望を見た人間が、また絶望に落ちる時の苦しさがわかるか」

室内に沈黙が落ちた。

「30億人の人々の一部を救済したところで何になる」李シンファンは静かに、しかしはっきりと言った。「全員を救えないなら、希望を見せるな。中途半端な善意ほど残酷なものはない」

直人は俯いた。

李シンファンの言葉は正しい。一部だけ助けて去っていく。それは確かに残酷かもしれない。

でも。

直人は顔を上げた。

「だったら」直人は言った。「全員が食事にも困らず、地上を悠々と駆け回れるような星を探してみせます。必ず」

李シンファンの目が鋭くなった。

「馬鹿も休み休み言え」李シンファンの声が低くなった。「我々は200年宇宙を駆け回り、住むのに適した星を探し続けている。200年だ。それをお前のような小僧一人に何ができる」

「僕の人生……いえ」直人は李シンファンの目を一点に見据えた。「命に代えても見つけ出してみせます」

室内が静まり返った。

李シンファンは直人を見ていた。長い沈黙だった。

ザイロンも博士も美代もララも、誰も何も言わなかった。

李シンファンはゆっくりと椅子に戻り、腕を組んだ。

「いいだろう」李シンファンは静かに言った。「見つけてみせろ。50年以内だ」

「50年」直人は繰り返した。

「それ以上たって見つからなかったら」李シンファンの目が直人を捉えた。「地球を奪い取る。それが条件だ」

直人は息を呑んだ。

地球。お母さん、兄弟、狭いリビング。あの青い星。

「わかりました」直人は答えた。「50年以内に必ず見つけます」

李シンファンはしばらく直人を見ていた。その目の奥に、怒りとは別の何かが揺れた気がした。

「覚えておけ、小僧」李シンファンは静かに言った。「約束を破った者の末路は、この星を見ればわかる」

直人はうなずいた。

部屋を出ると、廊下に静寂が戻っていた。

博士が直人の隣を歩きながら、ぼそりと言った。「大きな約束をしたな」

「うん」直人は答えた。

「後悔するか」

直人は少し考えた。廊下の先に、薄暗い地下の街が続いている。疲れた顔の住民、栄養不足の子どもたち、200年間希望を探し続けた人々。

「しない」直人は答えた。

博士は何も言わなかった。でも、その横顔が少し和らいだ気がした。

ザイロンが直人の後ろから静かに言った。「50年あれば、できるかもしれないな」

「そう思う?」直人が聞いた。

「お前の曽祖父は、アインシュタインと肩を並べた。お前はまだ14歳だ」

それだけだった。

パロディアンに戻る道を、全員で歩いた。

地下の街の照明が、少し明るくなっていた。直人たちが修理した照明が、まだ灯っている。

その光の下で、子どもが一人、笑っていた。

直人はその笑顔を見て、前を向いた。

50年。必ず見つける。

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