第二十八話 華僑の空気
パロディアンがアクティナスを飛び立って数時間が過ぎた頃、軌道が安定し、船内の空気が少し緩んだ。
新しく設けられたサロンは、旧パロディアンには存在しなかった空間だった。丸いテーブルと椅子が並び、小さな棚に飲み物が用意されている。窓から星が見えた。
美代はその窓際の椅子に座り、向かいのララを見た。
「ねえララ、華僑についてどれくらい知ってる?」
ララは少し考えるような表情をした。「私自身は華僑に行ったことがありません。ただ、調査隊として現地に赴いたロボットから何度か話を聞いています」
「どんな話?」
「華僑の人々はかなり過酷な生活をしているようです」ララは静かに続けた。「まず空気の問題があります。濃度はかなり薄いですが、地上の空気中に人体に有害なガスが混じっています。そのため住民は基本的に地下に居住空間を設けています」
「地下に?」美代は眉をひそめた。「ずっと地下で暮らしてるの?」
「はい。水も地上の湖から地下に送り込み、浄化してから使用しています。地上に出る時は簡易的なマスクをつけることが多いようですが、質の悪いものが多く、健康被害が出ている住民も少なくないと聞いています」
美代はしばらく黙った。窓の外の星を見た。
「食べ物は?」
「地下で農業をしています。光を人工的に作り出して植物を育てていますが、エネルギーが不足しているため、常に食料が十分にあるわけではありません。栄養不足の子どもも多いと聞いています」
「子どもが」美代の声が少し低くなった。
「はい」ララは静かに答えた。「そういう環境ですから、若い世代が外に出ていくのは自然なことかもしれません。宇宙海賊になる者が増えたのも、生きるためだったのでしょう」
美代は両手を膝の上で組んだ。海で直人に言った言葉を思い出した。華僑の人たちはこういう景色を見たことがあるのかな、ときれいな海を見ながら言った。地下で暮らす人たちには、海どころか青い空も満足に見られないのかもしれない。
扉が開いた。
直人が入ってきた。作業着のまま、手に飲み物を持っている。
「何の話?」
「華僑のこと」美代は答えた。「ララに聞いてた」
直人は椅子を引いて座った。「どんな話?」
ララが簡単に繰り返した。地下居住、有害ガス、水の問題、食料不足。直人は黙って聞いていた。
「子どもが栄養不足って」直人は言った。「どのくらいいるの?」
「正確な数字はわかりません」ララは答えた。「ただ調査隊のロボットが見た限りでは、かなりの数の子どもたちが満足な食事を取れていないようです」
直人は少し俯いた。
また扉が開いた。博士が入ってきた。白衣を着たまま、手帳を持っている。
「何をしておる、二人とも」
「華僑の話を聞いてた」直人は言った。「博士も聞いてよ」
博士は椅子に座った。ララが再び説明し始める。今度は博士が鋭い質問を挟んだ。
「有害ガスの成分は何じゃ」
「主に硫黄化合物と一部の重金属蒸気です」ララは答えた。「長期間吸い込むと呼吸器に深刻なダメージを与えます」
「地下の居住空間の気密性は」
「完全ではありません。古い設備が多く、定期的なメンテナンスもままならない状態です」
博士は手帳に何かを書き込んだ。「浄化装置は持っていくべきじゃな。研究所で開発した空気清浄システム、積んであるか」
「はい、医療機器と一緒に積み込んであります」ララは答えた。
「よし」博士はうなずいた。
また扉が開いた。ザイロンだった。
サロンに全員が集まっているのを見て、少し立ち止まった。それから無言で入ってきて、壁際に立った。
「ザイロンも座れば」直人が言った。
「立っていた方が楽だ」
「そう」直人は苦笑いして、ララに続きを促した。「ほかには?」
「そうですね」ララは少し間を置いた。「一番の問題は希望の話かもしれません」
「希望?」美代が聞いた。
「長年過酷な環境で暮らしてきた人々は、状況が変わるとは思えなくなっています。助けようとしても、信じてもらえないことが多いと聞きました。外から来た者を警戒する傾向が強いようです」
サロンに静寂が落ちた。
直人はテーブルの上の飲み物を見た。
空気の問題、水の問題、食料の問題。それだけじゃない。信じてもらえない、という問題がある。
「李シンファンは話を聞いてくれた」直人は言った。「あの人なら、きっと」
「そうだといいがな」博士はぼそりと言った。
ザイロンは壁際から静かに言った。「話を聞いてくれる人間が一人いれば、変わることがある」
全員がザイロンを見た。
ザイロンは窓の外を見ていた。その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
直人にはその言葉の重さがわかった気がした。ザイロン自身が、かつてそういう出会いをしてきたのかもしれない。
「行ってみよう」直人は言った。「話してみなきゃわからない」
美代がうなずいた。ララが静かに微笑んだ。博士が手帳を閉じた。
サロンに、窓から星の光が差し込んでいた。
パロディアンは華僑へ向かって、星の海を進んでいく。




