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第二十五話 出発


朝六時、直人のスマホが鳴った。

美代からのメッセージだった。

「今から迎えに行く。家で待ってて」

直人は起き上がり、荷物の最終確認をした。着替え、研究ノート、パワードスーツの小型部品。リュックに詰め込みながら、今日からしばらく地球を離れるという実感が、じわじわと湧いてきた。

玄関に出ると、お母さんがエプロン姿で立っていた。

「見送りくらいさせなさい」

「来なくていいよ」

「うるさい」

二人で玄関の外に出た。夏の朝の空気は、まだ少し涼しかった。蝉がもう鳴いている。

しばらくして、アパートの駐車場に一台の車が入ってきた。

直人は目を丸くした。

周囲の景色から完全に浮いた、黒塗りの超高級車だった。錆びた自転車と古いアパートの間に、場違いなほど艶やかな車体が滑り込んできた。

ドアが開いた。

美代が降りてきた。白いワンピース姿で、小さなキャリーバッグを引いている。直人を見て、小さく手を振った。

「おはよう」

「おはよう……その車」

「お父さんが送ってくれるって」

お母さんが美代を見た。目を細め、それからにっこりと笑った。「まあ、可愛らしいお嬢さんね。直人の彼女かしら」

「母さん、一体何を――」直人が慌てた。

「はい、そうです」美代は笑顔で答えた。「直人くん、連れていきますね」

「あらまあ」お母さんは驚きながらも、どこか嬉しそうだった。「しっかりした子ね。直人、この子を大事にしなさいよ」

「母さん!」

美代は楽しそうに笑っていた。

お母さんは直人の背中をパシッと叩いた。「行ってらっしゃい。曽祖父さんに恥じない数式を書いてくるのよ」

「……うん」

直人はお母さんを見た。エプロン姿の、いつものお母さんだ。でもその目が少し潤んでいる気がした。

「行ってきます」

「行ってきます」と美代も頭を下げた。

二人は並んでアパートの階段を降りた。

車に乗り込むと、運転席に守がいた。

バックミラー越しに、守の目が直人を捉えた。

「君が直人くんか」

「は、はい」直人は背筋を伸ばした。

「話は美代から聞いている」守はハンドルを握りながら言った。「学校では成績優秀らしいじゃないか」

「おかげさまで」

車が動き出した。夏の朝の街並みが窓の外を流れていく。

しばらく気まずい沈黙が続いた。

守がまた口を開いた。「ところで」

「はい」

「うちの娘とは、どんな関係かな」

車内の空気が変わった。エアコンが効いているのに、直人の背中に汗が滲んだ。バックミラーの中の守の目が、静かにこちらを見ている。

助手席の美代が、こちらを向いた。

そして、直人の脇腹を肘で軽くつついた。

直人は息を吸った。

「交際しています」

守は何も言わなかった。

一秒、二秒、三秒。

「そうか」

それだけだった。

守はまた前を向いた。ハンドルを静かに操作し、車線を変える。その横顔は、相変わらず表情が読めない。

直人は美代を見た。美代は小さくうなずいた。

しばらくして守が言った。「大事にしろよ」

「はい」直人は答えた。「必ず」

美代が窓の外を向いた。その横顔が、少し赤かった。

研究所に着くと、エントランスが慌ただしかった。

研究員たちが荷物を運び、堀田が端末を片手に指示を出している。ザイロンが廊下の真ん中に立って全体を見渡していた。

直人と美代が入ってくると、ザイロンが振り返った。

「来たか」ザイロンは直人を見た。それから美代を見た。「親の許可は取れたんだろうな」

「取れた」直人は答えた。

「美代も?」

「取れた」美代が答えた。

ザイロンは少し黙った。それから「そうか」と言って、また廊下の指揮に戻った。

守が直人の隣に立った。研究所のエントランスを見回している。壁に飾られた設計図、行き交う研究員、白衣を着た博士が奥から歩いてくる。

守の動きが止まった。

博士も守を見た。

二人は廊下の中央で向かい合った。

しばらく、誰も何も言わなかった。

「守か」博士は静かに言った。

「……親父」

それだけだった。

直人は美代を見た。美代は二人を見つめていた。その目が少し潤んでいた。

博士が先に動いた。守の肩をぽんと叩いた。言葉はなかった。でもそれだけで十分だった気がした。

守は小さくうなずいた。

「美代を頼む」守は博士に言った。「直人くんも」

「任せておけ」博士は鼻を鳴らした。「儂の孫じゃぞ」

守は少し笑った。直人が今まで見たことのない、柔らかい笑い方だった。

出発の準備が整ったのは、昼過ぎだった。

ガレージのシャッターが上がった。

パロディアンがいた。

トラックのバンパー、バスの降車ボタン、繋ぎ合わせた廃車の残骸。歪で、力強い、いつものパロディアンだ。

美代はパロディアンを初めてまともに見た。「これが……パロディアン」

「そう」直人は言った。「世界への皮肉を込めた、最高のガラクタ」

美代はパロディアンの側面に手を当てた。冷たくて、硬い金属の感触。「なんか、好きかも」

博士が鼻を鳴らした。「当然じゃ」

タラップが下りた。

直人は守を振り返った。守は駐車場に立って、こちらを見ていた。

「行ってきます」

守はうなずいた。「ああ」

美代が守に駆け寄り、一瞬だけ抱きついた。守は少し驚いたように見えたが、静かに娘の背中に手を置いた。

「行ってくる」美代は言った。

「ああ」守は同じ言葉を繰り返した。「行ってこい」

美代はタラップを上がった。直人も続いた。博士が最後に乗り込んだ。

タラップが上がり、扉が閉まった。

直人は小さな窓から外を見た。守がまだそこに立っている。空を見上げている。

エンジンが唸りを上げた。

パロディアンがゆっくりと浮かび上がった。

守の姿が小さくなっていく。研究所が遠ざかる。街並みが遠ざかる。雲を抜ける。大気圏を抜ける。

宇宙の黒が戻ってきた。

直人は窓から離れた。

船内に、四人分の気配が満ちていた。直人、美代、博士、ザイロン。

「アクティナスに向かうぞ」ザイロンが言った。「しっかり掴まっておれ」

美代が直人の隣に座った。窓の外を見ながら、静かに言った。「本当に来ちゃったね」

「うん」直人は答えた。

「怖い?」

「少し」

「私も」美代は笑った。「でも楽しみ」

博士が操縦席から振り返った。「二人とも、しっかり掴まっておれ。ワープするぞ」

「待って博士、まだ心の準備が――」

「関係ない」

エンジンが限界まで唸った。視界が白く染まった。

次の瞬間、静寂。

窓の外に、星が流れていた。

美代は息を呑んだ。「きれい」

「でしょ」直人は言った。「これが宇宙だよ」

美代は窓に顔を押しつけたまま、しばらく動かなかった。直人は始めて見た時と同じように、隣でその様子を眺めた。

パロディアンは星の海を進んでいく。アクティナスへ向かって。

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