第二十四話 逃げない道
美代は夕食の後、父親の書斎のドアをノックした。
「お父さん、少し話せる?」
「入れ」
守はデスクに向かって書類を見ていた。眼鏡をかけた横顔は、いつも通り表情が読めない。
美代は部屋に入り、守の向かいの椅子に座った。
「単刀直入に言う」美代は言った。「宇宙に行きたい。直人くんと一緒に」
守は書類から目を上げた。美代を見た。
「華僑のことか」
「知ってるの?」
「榊未来科学研究所の動きは把握している」守は書類を置いた。「ザイロンから連絡が来た」
美代は少し驚いた。ザイロンが先に根回ししていたとは思わなかった。
守はしばらく美代を見ていた。それから静かに口を開いた。
「美代、一つ聞いていいか」
「何?」
「なぜ行きたい」
美代は少し考えた。海で直人に言った言葉が頭に浮かんだ。水をすくう手、水平線、華僑の人たちのこと。
「華僑の人たちがどんな場所で生きているのか、自分の目で見たいから」美代は答えた。「それと、直人くんが行くから」
守は何も言わなかった。
沈黙が続いた。
やがて守は椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
「俺の話を聞くか」
「うん」
守は少し間を置いた。
「俺は東京の大学で機械工学の博士号を取った」守は静かに言った。「成績は悪くなかった。教授からも研究者として残らないかと声をかけてもらった」
「知らなかった」
「断った」守は続けた。「学者の道に進む自信がなかった。理由は一つだ。親父の存在がデカすぎた」
美代は黙って聞いていた。
「研究室でも、学会でも、どこへ行っても『榊博士の息子か』と言われた。親父の論文と比べられ、親父の発明と比べられた。俺がどれだけ頑張っても、親父の影から出られない気がした」守は目を閉じた。「だから逃げた。誰も親父を知らない場所で、自分だけの道を作ろうと思った。それがゲーム会社だった」
「お父さん……」
「親父を嫌いだったわけじゃない」守は静かに言った。「ただ、怖かった。偉大すぎる父親の隣に立つのが」
美代は本棚を見た。一番上の段に、博士の論文が並んでいる。背表紙が少し日焼けしている。ずっとそこにあったものだ。
「お前もいつか」守は美代を見た。「俺や親父の存在を疎ましく感じて、全く別の道に進むかもしれない」
美代は少し黙った。
それから、真っすぐに守を見た。
「お父さん、私は例えお祖父ちゃんやお父さんの存在が足枷になろうとも、最後まで自分の選んだ道を突き進み、抗ってみせる。逃げる気なんて一ミリもない」
守は動かなかった。
「だから許可して。お父さんが逃げた道を、私は逃げずに歩いてみせる。それが今、私の選んだ道だから」
書斎に静寂が落ちた。
守は美代を見ていた。長い沈黙だった。
窓の外で虫が鳴いている。本棚の時計が時を刻んでいる。
やがて守は目を閉じた。それからゆっくりと開いた。
「……わかった」
それだけだった。
美代は息を吐いた。
*
リビングに戻ると、良美がソファに座ってテレビを見ていた。
守が「良美」と声をかけた。
良美がテレビを消した。守を見た。
「美代の宇宙行き、許可した」
良美の顔が変わった。「あなた、何を言ってるの。そんな危険なところに中学生の娘を行かせるなんて――」
「良美」守は続けた。「美代の事は親父に任せよう」
「お父さんに?」良美は眉をひそめた。「でも――」
「頼む」
守が頭を下げた。
良美が黙った。
守が頭を下げる姿を、良美は初めて見た。美代も初めて見た。いつも冷静で、感情を表に出さない守が、妻に向かって静かに頭を下げている。
良美はしばらく守を見ていた。
それから小さくため息をついた。
「……わかったわ」良美は言った。「好きになさい」
守はゆっくりと頭を上げた。
美代は両親を見た。守の横顔、良美のため息、リビングの静かな空気。
「ありがとう」美代は言った。「二人とも」
良美は美代を見た。少し困ったような、でも諦めたような顔をしていた。
「絶対に無事で帰ってきなさい」
「うん」美代はうなずいた。「絶対帰ってくる」
*
その夜、美代はザイロンにメッセージを送った。
「お父さんとお母さんの許可、出た」
しばらくして返信が来た。
「そうか。よくやった」
美代は少し笑った。ザイロンにしては珍しく、素直な言葉だった。
窓から夜空が見えた。星が出ている。どこかに華僑がある。
美代は星を見ながら、直人に短いメッセージを送った。
「許可出たよ」
すぐに返信が来た。
「よかった。一緒に行こう」
美代はスマホを置いた。窓の外の星を見た。
約束した。直人と一緒に、行く。




