第二章 夢と希望の塊
地球が、遠ざかっていく。
直人は窓に顔を押しつけたまま、動けなかった。青かった。さっきまで自分が住んでいた星が、信じられないほど青く、小さく、宇宙の黒の中に浮かんでいる。学校も、家も、狭いリビングも、長女が独占するテレビも、全部あの青い丸の中に入っているのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
遠い、と思った。そして、思ったより悲しくなかった。
「博士」
返事はない。振り向くと、博士は操縦席で腕を組み、目を閉じていた。眠っているのではない。その皺だらけの顔は、どこか穏やかだった。
直人は再び窓の外に目を向けた。
星が、多すぎた。
数えようとして、すぐに諦めた。どこまでも続く黒の中に、粒のような光が無数に散らばっている。遠くには白く霞んだ帯が横たわっていて、それが銀河というものなのだと直人はぼんやり理解した。
音がない。
エンジンのかすかな振動だけが、静寂の中にある。
地球にいたころ、直人はいつも何かの音の中にいた。テレビの音、兄弟の声、お母さんが台所で立てる音。それが当たり前だと思っていた。でも今、本当の静かさの中にいて、直人は初めて気づいた。自分がずっと、どこか息を詰めていたのかもしれない、と。
博士がいつの間にか目を開けて、窓の外を見ていた。
二人は何も言わなかった。ただ、並んで、宇宙を見ていた。どこまでも続く星の海を、ガラクタの船の小さな窓から、じっと見つめていた。
「博士、もう一度ワープしよう」
しばらくしてから、直人は言った。
博士はゆっくりと操縦席に手をかけ、ぽつりと答えた。
「もっと遠くへ行くぞ」
「うん」
「しっかり掴まっておれ」
その瞬間、パロディアンが悲鳴を上げた。
ガガガガガッ――!
計器盤がいっせいに赤く点滅し、エンジンから白煙が噴き出す。博士は計器を叩き回しながら叫んだ。「計算が! 計算が合わん!」
直人はマッサージチェアの肘掛けにしがみつく。窓の外には、見たこともない星が急速に近づいてくる。煌めく高層建築、縦横無尽に飛び交う光の粒――空飛ぶ車の群れだ。
「博士、あれ――!」
「わかっとる! だが止まらん!」
超文明の星の、大通りのど真ん中に、パロディアンは轟音とともに叩きつけられた。
*
連行された警察署で、二人はこっぴどく絞られた。
「どこから来た」「あの物体は何だ」「許可なく着陸した理由を述べよ」
矢継ぎ早に浴びせられる質問に、博士は腕を組んで黙り込み、直人はただ縮こまっていた。取調べは二時間を超え、日が傾く頃、二人は留置所に放り込まれた。薄い毛布と硬いベッドだけの、小さな部屋だった。
「博士……パロディアンはどうなったんだろう」
鉄格子の向こうを見つめながら、直人は呟いた。
博士は壁にもたれ、目を閉じたまま答えなかった。
*
その頃、パロディアンは街はずれの廃棄所に運ばれていた。
「なんだこのガラクタの塊は」作業員の一人が、煙草を口にくわえたまま言った。「錆びた廃車をくっつけただけじゃねえか。……とっとと解体しようぜ。運びづらくてしょうがねえ」
重機に乗ったもう一人の作業員がアームを動かしかけたその時。
「待て」
低い声が飛んだ。
作業員たちが振り向くと、そこに一人の老人が立っていた。八十を超えているとは到底思えない、鋭い眼光と逞しい肉体。白髪を無造作に後ろへ撫でつけ、油染みた作業着を着ている。
重機の作業員がアームを止めた。「Dr.ドルトン! なぜ貴方がこんなところに……」
「通りかかっただけだ」ドルトンは静かに歩み寄り、パロディアンの側面をパンパンと叩いた。「こいつは俺が引き取る。済まねえが、どこか邪魔にならねえとこに置いといてくれ。後で輸送車を手配する」
「し、しかしこれはただのガラクタで――」
「ガラクタか」ドルトンは遠い目をした。トラックのバンパー、バスの降車ボタン、繋ぎ合わせた廃車の残骸。その歪な鉄の塊を、老人はゆっくりと眺め回した。「……俺にはそうは見えねえな。こいつにゃ夢と希望が詰まってる」
それだけ言うと、ドルトンは踵を返した。
「じゃあ頼んだぜ」
作業員たちは顔を見合わせ、黙って重機のアームを下ろした。
*
翌日の昼過ぎ、留置所の職員が扉を開けた。
「面会だ」
連れていかれたのは、透明の板で仕切られた部屋だった。向こう側の椅子に、筋骨逞しい老人が腕を組んで座っている。昨日の取調べとは違う、静かな圧があった。
直人と博士が向かい合う形で腰を下ろした途端、老人は博士を真っすぐに見据えた。
「あんただろ。あの宇宙船を作り上げたのは」
前のめりになりながら、低い声で言う。
博士の目が、かすかに光った。「左様」
「ワープ機構はどういう原理だ。あの船体構造で重力制御をどう実現した。推進システムは――」
そこから先は、直人には全くついていけなかった。量子トンネル効果、非ユークリッド空間、慣性質量と重力質量の等価性――専門用語が洪水のように溢れ出し、博士も負けじと言葉を返す。二人の声はどんどん大きくなり、身を乗り出し、透明の板を叩きながら、熱く、尽きることなく語り続けた。
職員が「お時間です」と割って入ったのは、それから一時間後のことだった。
*
「保釈の手続きは済んだ。ついてこい」
部屋を出たドルトンが振り返りもせずに言った。博士が大股で後を追い、直人はその後ろを小走りでついていく。
「あの……パロディアンは?」と直人が聞いた。
ドルトンは歩きながら、ぶっきらぼうに答えた。「俺の作業場にある。無事だ」
直人は胸を撫で下ろした。
ドルトンの作業場は、街の中心から少し外れた巨大な建物だった。扉が開いた瞬間、直人は思わず足を止めた。
広い。天井まで届きそうな棚に部品が所狭しと並び、見たこともない機械が床にずらりと並んでいる。壁には設計図が無数に貼られ、空飛ぶ車のエンジンらしきものが何台も吊り下げられていた。
そしてその奥に、パロディアンがいた。
昨日と変わらない、歪で力強い鉄の塊。直人は駆け寄り、側面に手を当てた。冷たくて、硬くて、確かにそこにある。
「よかった……」
背後では、すでに博士とドルトンが設計図を広げて話し込んでいた。
直人はパロディアンから離れ、作業場をそろりそろりと歩き始めた。棚の部品を一つ手に取っては戻し、机の上の設計図を覗き込み、吊り下げられたエンジンを見上げる。地球にいた頃はゲームの画面の中にしかなかったものが、ここでは全部本物だった。触れるし、匂いもするし、重さもある。
「それ、空飛ぶ車の第三世代エンジンだ」
不意に声がして、直人は飛び上がった。ドルトンがいつの間にか隣に立っていた。
「触っていいぞ」
「え、いいの?」
「壊れるようなものは置いてない」
直人は恐る恐る、もう一度エンジンに手を伸ばした。ひんやりとした金属の感触。複雑に絡み合う配管と、精巧に組み合わさった歯車。これが空を飛ぶ力を生み出しているのだと思うと、指先から何かが伝わってくるような気がした。
ドルトンはそれを黙って見ていた。そして、また博士のところへ戻っていった。
作業場に、二人の老人の声と、直人が部品を手に取る小さな音だけが響いていた。




