第十五話 約束
直人の作業場は、研究所の地下にある。
博士の工場とは廊下を挟んだ向かい側。広さは同じくらいだが、雰囲気は少し違う。博士の部屋が年季の入った職人の工房なら、直人の部屋はまだ育ちかけの何かだ。設計図は壁に貼られているが、余白が多い。机の上には作りかけの部品が並んでいる。
直人は椅子に座って、ノートに数式を書き込んでいた。
放課後の研究所は静かだ。廊下の向こうから博士が独り言を言う声がかすかに聞こえてくる。それ以外は、ペンの音だけだ。
扉が開いた。
ノックなしだった。
「へえ、ここが直人くんの作業場か」
美代が入ってきた。制服のまま、鞄を肩にかけている。部屋をぐるりと見回し、遠慮なく歩き始めた。
「ちょっと、勝手に入ってきていいの」
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
美代は壁の設計図に近づいた。食い入るように眺めている。
「これ、全部直人くんが書いたの?」
「ザイロンに教わりながらだけど」
「この式、大学レベルじゃない」美代は指で数式をなぞった。「ここの展開、どういう発想でこうなったの?」
直人は少し考えてから説明した。美代は黙って聞いている。うなずきながら、時々鋭い質問を挟んでくる。
「じゃあここは?」
「それはザイロンの故郷の技術を応用して……」
「ザイロンの故郷?」
「宇宙の話になるけど」
「聞きたい」美代は迷わず言った。
直人は少し笑って、椅子を引いた。「座れば?」
美代は作業台の端に腰を下ろした。直人が話し始めると、美代は目を輝かせて聞いた。ヤマトのこと、ヨーロピアンのこと、黄金の星のこと。美代は時々「それって地球から何光年くらい離れてるの」「重力はどのくらい違うの」と聞いてくる。答えるたびに、また次の質問が来る。
「宇宙って本当に広いんだね」美代はぽつりと言った。
「広いよ。どこまでも続く感じ」
「私も行ってみたいな」美代は窓のない壁を見つめた。「色んな星、見てみたい。宇宙人もいるんでしょ?会ってみたいな」
直人は少し黙った。ザイロンのこと、マクシーのこと、フィオナのこと、ロベルトのこと。会ってきた顔が頭の中に浮かんだ。
「いつか連れて行ってやるよ」
美代が直人を見た。
「本当に?」
「本当に」
美代は少し間を置いて、それから笑った。「約束だよ」
直人はその笑顔を見て、思わず目をそらした。
*
しばらくして、二人は研究所を出た。
エントランスの角で、ザイロンが書類を抱えて立っていた。二人が並んで歩いていくのを、黙って眺めた。
廊下が静かになった。
ザイロンはぼそりと呟いた。
「……これが噂に聞く、春が来たってやつだな」
それだけ言って、書類を抱え直し、副所長室に戻っていった。
*
夕方の道を、二人は並んで歩いた。
「ねえ、さっきの式なんだけど」美代が言った。「あそこの係数、もう一つ別の解き方があると思うんだけど」
「どういう方法?」
美代が説明し始めた。直人は聞きながら、頭の中で式を展開する。
「あ、確かに」直人は言った。「その方がシンプルだ」
「でしょ」美代は得意げに笑った。
二人はそのまま数学の話を続けた。物理の理論に移り、またいつの間にか宇宙の話に戻っていた。気づけば駅の前まで来ていた。
美代が足を止めた。少し間があった。
「ねえ、直人くん」
「うん」
「お父さんのこと、どう思う?」
直人は少し考えた。守の顔が浮かんだ。深々と頭を下げて、封筒を差し出した、あの日の顔。
「……よく知らないけど」直人は正直に答えた。「あまり良い印象はないかな」
美代はうなずいた。「そうだよね。お祖父ちゃんに冷たかったから」
「美代は?」
美代はしばらく黙った。夕方の風が吹いた。
「お父さんはね」美代はゆっくり言った。「本当はどこかで、お祖父ちゃんのことを尊敬してると思う」
「そう思う?」
「うん」美代は視線を落とした。「家にお祖父ちゃんの論文が全部揃ってた。本棚の一番上の段に、ずっと」
直人は何も言わなかった。
「表には出さないけど」美代は続けた。「捨てられなかったんだと思う。どんなに仲が悪くても、お父さんにとってお祖父ちゃんは、やっぱりすごい人なんだよ」
風が吹いた。電車の音が遠くから聞こえてきた。
直人は空を見た。もう星は見えない。でも、どこかにある。どこまでも続く星の海が。
「美代」
「うん」
「守さんと博士、いつかまた仲良くなれるといいね」
美代は少し驚いた顔をした。それから、静かに笑った。
「うん」
改札の前で、二人は別れた。
直人は帰り道を歩きながら、美代の「約束だよ」という言葉を思い出した。
いつか、連れて行く。
本当の宇宙へ。




