第十四話 転校生
榊未来科学研究所が開設されて一年が過ぎていた。
副所長のザイロンを中心に研究所は動き続けてきたが、所長室の椅子だけはずっと空いたままだった。その椅子に博士が座るようになって、三ヶ月が経つ。
博士の工場、と呼ばれるようになった一角は、研究所の中でも特別な場所だった。備え付けの作業台、壁一面の設計図、所狭しと並ぶ実験器具。博士はここに籠り、朝から晩まで何かに没頭していた。
ザイロンが扉を開けたのは、夕方のことだった。
博士はデスクでノートとにらめっこしていた。手元には冷めたコーヒーが置いてある。いつ淹れたものか、湯気もない。
「爺さん」
返事がない。
「爺さんよ」
「うるさい、今考えとる」
ザイロンは部屋に入り、博士の隣に立った。ノートを覗き込む。びっしりと数式が書き込まれている。
「仕事は逃げねえんだ」ザイロンは言った。「そんな忙しなく動き回っては根を詰めて、ノートとにらめっこじゃすぐ過労で死んじまうぞ。オレと違ってひ弱な人間なんだからよ」
博士はペンを止めなかった。「ふん……いらん心配じゃザイロン。儂はこうしてる方が健康なんじゃ」
「なんだその適当な理論は」
博士はペンを置き、椅子の背もたれに寄りかかった。天井を見上げ、ぼそりと言った。
「直人に後れを取ってたまるか」
ザイロンは少し黙った。
「……相変わらずだな」
「何が」
「あの子どもに張り合ってるのか、それとも自分に言い聞かせてるのか、どっちだ」
博士は答えなかった。代わりにペンを取り直し、またノートに向かった。
ザイロンは冷めたコーヒーを見て、新しいものを淹れに行った。
*
翌朝、直人の中学校。
朝礼のざわめきが収まりきらないうちに、担任の八代が教壇に立った。四十代の女性で、きびきびした物言いをする。
「おはよう。早速だがこのクラスに新しく仲間となる転校生を紹介する。じゃ榊、自己紹介して」
扉が開いた。
教室がざわめいた。
「うわ、めっちゃ美人」
「可愛い……」
小声があちこちから漏れた。
少女は教壇の前に立った。落ち着いた目をしている。長い髪、小柄な体。教室の視線を一身に受けながら、表情一つ変えない。
「榊美代です。よろしくお願いします」
それだけだった。短く、静かな声だった。
美代はゆっくりと視線を巡らせた。そして直人のところで、その目が止まった。
ほんの一瞬、美代は小さく笑った。
直人は思わず目をそらした。
*
授業が始まると、美代の秀才ぶりはすぐに知れ渡った。
数学の問題を、誰より早く解く。英語の長文を、辞書なしで読む。理科の実験では手順を一度見ただけで完璧にこなす。
「凄え……」
「転校生、頭いいじゃん」
周囲から声が漏れた。
直人は斜め前の美代の席を、授業中何度か見た。美代は静かにノートを取っている。派手さはない。でも、解答を書く手の速さが、普通じゃない。
あの解き方、どこかで見たことがある気がした。
*
放課後、直人は下駄箱で靴を取り出していた。
「ねえ、直人くん」
振り返ると、美代が立っていた。
「今から研究所?」
直人は少し固まった。「そうだけど……何で君がそんなこと知ってるの?」
美代は少し首を傾けた。その表情は穏やかで、驚いた様子もない。
「知ってるに決まってるでしょ」美代は静かに言った。「だってそこの所長の榊博士は、私のお祖父ちゃんだし」
直人は靴を持ったまま、固まった。
「……え」
「神崎直人くんのことは、お祖父ちゃんからずっと聞いてたよ」美代は続けた。「宇宙に一緒に行った男の子って」
直人は美代を見た。落ち着いた目、静かな声。博士とは全然似ていない。でも、何かが似ている気がした。
「榊……美代」直人は呟いた。「じゃあ、守さんの」
「お父さんのこと知ってるの?」
「少しだけ」
美代は少し目を伏せた。それからまた直人を見た。「お祖父ちゃんに会いに行っていい?」
直人は少し考えて、うなずいた。「一緒に来る?」
美代は小さく笑った。さっき教室で見せた、あの笑い方と同じだった。
「ありがとう」
二人は並んで校門を出た。夕方の風が吹いていた。
*
研究所に着くと、エントランスにザイロンが立っていた。
美代を見た瞬間、ザイロンの動きが止まった。
「……お前は」
「初めまして」美代はザイロンを見上げた。「榊美代です。お祖父ちゃんにここにいると聞きました」
ザイロンはしばらく美代を見ていた。それから直人を見た。
「連れてきたのか」
「うん」
ザイロンは少し黙って、廊下の奥を指した。「工場にいる」
美代は深呼吸した。それから歩き始めた。
直人はその後ろをついていきながら、美代の背中を見た。小柄で、静かで、でも足取りは迷っていない。
工場の扉の前で、美代は立ち止まった。
ノックした。
「開いとる」
博士の声がした。
美代は扉を開けた。
博士がデスクから顔を上げた。美代を見た瞬間、その手が止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
博士の目が、かすかに揺れた。
「……美代」
「お祖父ちゃん」美代の声が、少し震えた。「久しぶり」
博士は椅子から立ち上がった。よろよろと、でも確かな足取りで美代に近づいた。
直人はザイロンと目を合わせた。二人は黙って、扉の外に出た。
扉が閉まった。
廊下に、博士と美代の声がかすかに聞こえてきた。何を話しているかはわからない。でも、静かな声だった。
ザイロンが壁にもたれた。
「知ってたの?」直人が聞いた。
「守から連絡が来ていた」ザイロンは短く言った。「美代がこの街の中学に転校すると」
「なんで教えてくれなかったの」
「お前が自分で気づく方が面白いと思った」
直人は少し呆れた。「ザイロンって意外と意地悪だよね」
「そうか」ザイロンは鼻を鳴らした。「……否定はしない」
廊下に、夕方の光が差し込んでいた。




