第十一話 研究所
空が青かった。
二年ぶりに外を歩く空気は、なんだか軽かった。博士は正門を出ながら、ゆっくりと深呼吸した。
まず大学に行こう。
それだけ決めて、博士は歩き始めた。
*
帝都工業大学の正門をくぐると、守衛が立ち上がった。
「失礼ですが」
「榊だ。名誉教授の榊じゃ」
守衛の顔が微妙に動いた。「少々お待ちください」
待つこと十分。事務員らしき若い女性が小走りでやってきた。深々と頭を下げ、それから困ったような顔をした。
「榊先生……その、申し上げにくいのですが」
「なんだ」
「先生は昨年、大学の規定により懲戒免職処分となっております」
博士は少し黙った。「そうか」
「大変申し訳……」
「いや、いい」
博士は踵を返した。
*
工場に向かった。
長年住み慣れた路地を歩く。角を曲がれば見えるはずの古い建物、溶接の火花、ガラクタの山。
角を曲がった。
そこには、アスファルトが広がっていた。
白線で区切られた駐車スペース。整然と並ぶ車。工場の面影は、どこにもない。
博士はその場に立ち尽くした。
大学もない。工場もない。パロディアンもない。
足から力が抜けた。博士はゆっくりとその場に膝をついた。アスファルトが冷たかった。空が青かった。
どれくらいそうしていただろう。
エンジン音がして、一台の車が止まった。
ドアが開き、スーツ姿の男が降りてきた。四十代くらい、真面目そうな顔をしている。男は博士を見て、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません博士。刑務所に伺ったのですが、行き違いになったようですね」
博士は顔を上げた。「君は?」
男は名刺を取り出した。「申し遅れました。私、千葉大学で機械工学を専門にしております、堀田と申します」
博士は名刺を受け取り、眺めた。
「詳しい話は研究所でしましょう」堀田は静かに言った。「ここから近い場所にあります。乗ってください」
博士は少し堀田を見た。それから黙って立ち上がり、助手席に乗り込んだ。
*
車は二十分ほど走った。
やがて見えてきたのは、真新しい大きな建物だった。ガラス張りの外壁が朝の光を反射している。広い敷地に、整備された駐車場。
「おかしい」博士は呟いた。「こんなところに、こんな施設はなかったはずだ」
「ええ」堀田は言った。「まだ建てられて一年ほどですから、博士がご存知ないのも無理はありません」
車が止まった。堀田が降り、博士のドアを開けた。
「ここは貴方の研究に心から心酔している、全国の有志によって建てられました」
博士は建物を見上げた。ガラスの向こうに、白い廊下が見える。人影が動いている。
「儂の、研究に?」
「はい」堀田は静かに、しかしはっきりと言った。「博士の研究を信じている人間は、世の中にたくさんいます」
博士はしばらく黙って建物を見ていた。それから小さく息を吐き、歩き始めた。
*
自動ドアが開いた。
広いエントランスだった。白い壁に、設計図が額に入れて飾られている。博士は足を止めた。見覚えのある設計図だった。自分が書いたものだ。いつ、どこで書いたものか、全部わかる。
「博士」
堀田が奥へ促した。廊下を進む。左右に部屋が並び、ガラス越しに研究員たちが作業しているのが見えた。みんな若い。真剣な顔をしている。
突き当たりの扉の前で、堀田が止まった。
「副所長室です」
扉を開けた。
広い部屋だった。窓から光が差し込んでいる。正面の大きなデスクに、一体のロボットが座っていた。
ザイロンだった。
その隣に、少年が立っていた。背が伸びた。顔つきが少し変わった。でも、その目は変わっていない。
直人だった。
直人が口を開いた。「博士」
博士は動けなかった。
ザイロンが立ち上がった。「……戻ってきたか」
その一言で、何かが崩れた。
博士の目から、涙が溢れた。
拭おうともしなかった。ただそこに立って、ザイロンと直人を見ていた。皺だらけの顔を涙が伝い、博士は声も出なかった。
直人が駆け寄った。「博士……」
「うるさい」博士はしゃがれた声で言った。「何も言うな」
直人は黙った。
しばらく、誰も何も言わなかった。窓から光が差し込んでいる。廊下の向こうから、研究員たちの声がかすかに聞こえてくる。
博士がようやく口を開いた。「直人」
「うん」
「大きくなったな」
直人は少し笑った。「まだ中学生だけど」
「ザイロン」
「なんだ」
「お前が副所長か」
「ああ」ザイロンは短く答えた。「文句があるか」
博士は涙を拭いながら、鼻を鳴らした。「文句はない。……よくやった」
ザイロンは何も言わなかった。でも、その目が少し和らいだ気がした。
堀田が静かに口を開いた。「博士、ここは貴方の研究所です。好きに使ってください」
博士は部屋を見回した。設計図、工具、机の上に並ぶ部品。工場とは違う、きれいで広い場所。でも空気は似ていた。
「一つ聞いていいか」博士は堀田に言った。
「なんでしょう」
「パロディアンは」
堀田は少し間を置いた。それから、扉の外へ目を向けた。「ついてきてください」
*
案内されたのは、建物の裏手にある大きなガレージだった。
シャッターが上がった。
そこにいたのは、見慣れた鉄の塊だった。トラックのバンパー、バスの降車ボタン、繋ぎ合わせた廃車の残骸。歪で、力強い。
パロディアンだった。
「警察から引き取るのに時間がかかりました」堀田が言った。「損傷箇所もありましたが、修理しました」
博士はゆっくりと近づいた。側面に手を当てた。冷たくて、硬くて、確かにそこにある。
「よかった」と直人が呟いた。
博士はパロディアンの側面をパンパンと叩いた。いつものように。
「まだ動くか」
「動く」ザイロンが答えた。「いつでも飛べる」
博士は振り返った。直人を見た。ザイロンを見た。堀田を見た。
それからまた、パロディアンを見た。
「そうか」
博士はぼそりと言った。それだけだった。
でも、その声は穏やかだった。
ガレージに、朝の光が差し込んでいた。




