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第十話 地球の重力

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家が見えた。

直人は路地の角で足を止めた。二階建ての古いアパート、錆びた自転車、郵便受けから溢れかけたチラシ。何も変わっていない。半年以上宇宙を旅してきたのに、ここだけ時間が止まっていたみたいだった。

隣でザイロンが言った。「行け」

「うん」

直人は深呼吸して、玄関のドアを開けた。

「直人!」

母親が飛んできた。直人が声を上げる間もなく、強く抱きしめられた。

「どこ行ってたの、どこ行ってたのよ、警察にも届け出て、学校にも……」

母親の声が震えていた。直人は黙って抱きしめ返した。

長女が腕を組んで立っていた。「半年以上よ。どういうつもり?」

「宇宙に行ってた」直人は正直に答えた。

沈黙が落ちた。

兄が眉をひそめた。「宇宙?」

「博士と一緒に。博士の宇宙船で」

「博士って」長女が言った。「もしかして近所の古い工場でガラクタ作り続けてる変わり者の学者のこと?」

兄が「ああ」とうなずいた。「確か帝都工業大学の名誉教授の榊って学者だ。有名人じゃないか」

母親が直人から離れた。その目が、心配から別の何かに変わっていた。スマホを取り出し、画面を操作し始める。

「母さん、何してるの」

「あっもしもし、そちらに榊という教授がいるはずなんですが……はい、そうです。その人がうちの息子を半年以上どこかに連れ回してたんですよ」

「母さん、やめて」直人は母親の腕を掴んだ。「博士は何も悪いことしてない」

「あんたは黙ってなさい!」

母親の声が鋭く飛んだ。直人は手を離した。

母親は電話を続けた。長女と兄は黙って見ていた。直人はその場に立ち尽くしたまま、何もできなかった。

翌朝、博士の工場の前に十数台のパトカーが並んだ。

直人は自転車を止めて、遠くからその光景を見ていた。制服姿の警官が工場の中に入っていく。しばらくして、博士が連れ出されてきた。

白衣ではなかった。くたびれた普段着に、ボサボサの白髪。手に手錠がかかっている。

直人は自転車を置いて走り出した。「博士!」

博士が振り返った。その顔を見た瞬間、直人は足が止まった。

博士は、穏やかな顔をしていた。

怒ってもなく、悲しんでもなく、ただ静かに直人を見ていた。

「直人」博士は言った。「心配するな」

警官が博士をパトカーに乗せた。ドアが閉まった。車が走り去っていく。

直人はその場に立ったまま、パトカーが見えなくなるまで見送った。

直人は警察に、学校に、何度も足を運んだ。

「博士は何も悪くない」「僕が一緒に行きたいと言ったんだ」「博士は僕を傷つけたりしなかった」

何度訴えても、大人たちは同じ顔をした。話を聞いているようで、聞いていない顔だった。

それでも直人は諦めなかった。

その証言が少しずつ積み重なり、判決は懲役二年となった。直人の言葉が酌まれた結果だと、守が後から教えてくれた。

それでも直人には、短いとは思えなかった。二年間、博士は工場に戻れない。パロディアンにも触れない。

判決から数日後の夕方、玄関のチャイムが鳴った。

母親がドアを開けると、スーツ姿の男が立っていた。四十代くらい、整った顔立ちだが目に温かみがない。

「榊守と申します。父がご迷惑をおかけしました」

男は深々と頭を下げ、封筒を差し出した。母親が受け取る。厚い封筒だった。

直人はリビングの入口から、その様子を見ていた。

守は顔を上げ、直人と目が合った。一瞬だけ視線を交わし、それからすぐに母親に向き直った。

「今後このようなことがないよう、父の身辺は私どもで管理いたします」

それだけ言って、守は帰っていった。

母親は封筒を持ったまま、しばらく玄関に立っていた。

直人は何も言えなかった。

翌日、直人は守に電話した。

受付に何度も断られながら、それでも食い下がった。「榊博士の件で話があります。直接お会いしたいんです」三度目の電話でようやく守が出た。

「……何の用だ」冷たい声だった。

「博士に会わせてほしいんです」直人は言った。「お願いします」

沈黙があった。

「君が直人くんか」

「はい」

また沈黙があった。それから守は短く言った。「一度だけだ」

面会室は狭かった。

透明の板で仕切られた向こうに、博士が座っていた。白衣ではない、グレーの服を着ている。でもボサボサの白髪はそのままだった。

直人が席に着くと、博士は顔を上げた。

そして、にっこりと笑った。

「おお、直人か。元気そうじゃないか」

その笑顔を見た瞬間、直人は胸が痛くなった。明るい。わざと明るくしている。直人を心配させないように。

「博士……」

「どうした、そんな顔して。儂は元気じゃぞ。飯も三食出るし、運動の時間もある。悪くない」

「そんなの……」

「それよりお前、ザイロンとはまだ会っとるか?」

直人はうなずいた。「会ってる。工場にいる」

「そうか」博士は嬉しそうに言った。「あいつ、意外と律儀じゃな」

少しの沈黙があった。

「博士」直人は言った。「旅、楽しかったな」

博士の目が、少し和らいだ。「そうじゃな」

「ヤマトの廃材処理センター、マクシーのこと覚えてる?」

「覚えとるとも。あの小僧、筋がよかった」

「ドルトンさんも」

「あの爺さんには世話になったな。儂の設計を一発で理解しおった。あれは本物じゃ」

二人は話し続けた。フィオナのこと、ロベルトのこと、黄金の星のこと。ザイロンが金塊を取ってきた話をすると、博士は「あいつめ、勝手なことを」と言いながら笑った。

時間はあっという間に過ぎた。

職員が「そろそろ」と声をかけてきた。

博士は立ち上がった。それから直人をまっすぐに見た。

「直人」

「うん」

「二年なんてあっという間じゃ」博士は静かに言った。「儂が戻る頃には、お前も少し大きくなっとるだろうな」

「博士が戻ってきたら、また一緒に発明したい」

博士は少し目を細めた。「ならばそれまでに、少しは勉強しておけ。儂の話についてこれるくらいにはなっておれ」

「なれるかな」

「なれるとも」博士はぼそりと言った。「お前は筋がいい」

職員が博士の肩に手をかけた。

博士は直人に背を向け、歩き始めた。その背中は小さかった。でも、曲がっていなかった。

扉が閉まった。

直人は透明の板の前に座ったまま、しばらく動けなかった。

筋がいい、という言葉が頭の中で繰り返されていた。

工場に行くと、ザイロンがいた。

パロディアンはもうない。がらんとした工場の中に、ザイロンだけが立っていた。

「どうだった」ザイロンが聞いた。

直人は少し黙ってから答えた。「博士が、戻ってくる頃には勉強しておけって言ってた」

「そうか」

「だから」直人は顔を上げた。「ザイロン、博士が戻ってくるまでの二年間、俺に科学技術の全てを教えてほしい」

ザイロンは少し黙った。直人を見ていた。

「全て、か」

「全部だ。博士の話についていけるくらいになりたい。博士が戻ってきた時に、一緒に発明できるくらいになりたい」

またしばらく沈黙があった。

工場の外で風が吹いた。設計図がかすかに揺れた。

「……わかった」

ザイロンは短く言った。

「いつから始める」と直人が聞いた。

「今日からだ」ザイロンは壁の設計図に目を向けた。「まず博士が残したものを全部理解しろ。話はそれからだ」

直人は設計図に近づいた。数式が並んでいる。記号が並んでいる。全然わからない。

でも、直人は笑った。

「よろしく頼む、ザイロン」

「……ああ」

工場に、二人分の気配が満ちた。

二年後、博士が戻ってくる。それまでに、直人はここで育つ。

窓の外には、青い空が広がっていた。どこかに星がある。まだ見ていない星が、無数にある。

直人はもう一度、設計図を見つめた。

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