表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

無能メイドだと追放されたので、辺境城の仕事を一晩で全部改善したら――伯爵に求婚されまして!?

作者: 猫又ノ猫助
掲載日:2025/12/04

「――リリア、おまえは今日限りで解雇だ」


 その瞬間、心臓が“ことん”と落ちたような気がした。


 けれど、驚きはなかった。

 私が働いてきた侯爵家では、気を抜けば「使い勝手のいい道具」として扱われるのが常だったから。


「……どうして、でしょうか」


 そう問いながら、声は震えていた。

 情けない。でも震えるのは、悔しいからじゃなくて――


 “やっぱり、こうなるんだ”


 そんな諦めが胸にあったからだ。


 執事長は、まるで埃でも払うように言い放つ。


「気が利くのと、有能なのは違う。おまえは、その区別ができていない」


「……」


「勝手に判断して動く者は、迷惑だ。主に従えない者は、無能だ」


 言い返したいことはいくらでもあった。

 だって私は――


 ・主の嗜好を覚え、料理人に共有して

 ・季節ごとの催事を見越して予算を組み

 ・使用人全体の導線を調整し

 ・放置されていた倉庫の在庫まで整理して


 ……むしろ働きすぎだったと思う。


「あなた方が何も仰らないから、必要だと思ったことを――」


「それが“無能”だと言っている!」


 壁に響く怒声に、周囲の使用人たちが視線を伏せる。

 誰も助けない。

 ――いつものことだ。


 胸の奥で、何かがぱきんと割れた。


(ああ……そっか。私、最初から“居てもいなくてもいい人間”だったんだ)


 気づいたら、冷静になっていた。


「……わかりました。お世話になりました」


 深く頭を下げた瞬間、執事長は鼻で笑った。


「おまえのような者、どこへ行っても務まらん」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。

 でも――


(なら、その“どこへ行っても”で、証明してみようじゃない)


 そう思ったら、意外なほど心は静かだった。


 屋敷を出ると、冬の風が頬を刺す。

 でも冷たいのに、少しだけ自由の匂いがした。


「……次、だ」


 私は通りの掲示板に歩み寄る。

 張り紙は、貴族向けの屋敷使用人募集ばかり。

 その中で、一枚だけ異質な紙が目に入った。


『辺境ハルグラン城 使用人急募』

『給与優遇。経験不問。住み込み歓迎』


 見た瞬間、胸がひくりと動いた。


(辺境……)


 貴族が避ける土地。

 魔獣が多く、冬は雪に閉ざされ、領主は“冷徹の伯爵”と呼ばれる男――


 でも、紙は不思議なほど惹かれた。

 まるで、そこだけ光って見えた。


 風がふっと強く吹いて、紙が揺れる。


(……行け、って言われてる?)


 そんな錯覚すら覚える。


「よし」


 私はその紙を剥がし、しっかりと握りしめた。


 追放されたばかりのはずなのに、胸はふわりと軽い。

 あの屋敷にいた頃より、息がしやすい。


(無能かどうか……私が決める)


 そうつぶやいたとき、雪雲の切れ間から陽射しが差した。


 ◇


 辺境ハルグラン城に着いた瞬間、思わず声が漏れた。


「……本当に、“城”ですよね?」


 石壁は黒ずみ、屋敷の扉は半分外れ、外庭は雑草どころか小さな森になりかけている。

 荷馬車から降りた私に、馬車の御者がぼそりとつぶやく。


「お嬢さん……こんなところに来るなんて、物好きだねぇ」


 ……自覚はあります。


 でも、ここしかなかった。

 ――いや、違う。


 ここじゃなきゃいけない気がした。

 帰り道、陽射しが差した瞬間の、あの胸の熱さをまだ覚えている。


「さてと……」


 不安と期待が入り混じったまま、扉を押し開ける。

 すると、いきなり――


「……誰だ」


 背筋を撫でるような低い声。


 暗い玄関ホールの奥に影があり、そこからひとりの男が現れた。


 黒髪。

 深い藍に沈む瞳。

 軍服のように簡素な黒衣。

 長身で、私より大きな影が、ゆっくりと近づいてくる。


「…………」


 言葉が出なかった。

 顔が、整いすぎて。


 緊張で固まっていると、彼は首を少し傾けた。


「君が……新しいメイドか?」


 声は相変わらず低くて、だけどびっくりするほど優しい。

 怖いと思う前に、胸が熱くなる。


 ……違う、これは緊張。

 絶対、緊張です。


「は、初めまして。リリアと申します。今日から――」


「来て……くれたんだな」


 なぜだろう。

 そのひと言が、やけに胸に響いた。


 来てくれた“だけ”で、こんな顔をするの?


 藍の瞳が微かに揺れている。

 驚きと、安堵と、……ほんのわずかな喜びの色。


 こんな表情、初対面の相手に見せる?


 戸惑う私に、彼は姿勢を正して名乗った。


「私はハルグラン伯爵、セイグランだ。……荒れているが、どうか気にしないでくれ」


 気にしないでくれって、無理です。

 でも、問題はそこじゃない。


(この人……どうしてこんなに優しい雰囲気なんだろう)


 噂では“冷徹の伯爵”と呼ばれていたはずなのに。


「あ、あの……本当に、私なんかでよろしかったんですか? 経験はそれなりにありますが……」


 すると彼は、一瞬だけ目を見開いた。


「“私なんか”?」


 なぜか、寂しそうに眉を寄せる。


「君は……自分を低く見積もりすぎる」


 え。

 会ったばかりの私の何を見抜いてくるんですか。


 胸の奥がざわつく。


 彼は視線をそっと落とした。


「正直に言うと……期待していなかった。これほど荒れた城に、わざわざ来る者などいないと」


 その声はどこか震えていた。


「だから、君を見た瞬間……風が変わった気がした」


 心臓がどきん、と跳ねる。


「……風が、変わった?」


「来てくれたことが、嬉しかったんだ」


 ……ずるい。

 そんな声、そんな言い方、反則。


 初対面なのに、胸の奥をぎゅっと掴まれる。


「わ、私……微力ながら、精一杯、努めます!」


 必死にそう言うと、伯爵はふっと柔らかく微笑んだ。


 微笑んだだけで、空気が変わる。

 あまりの柔らかさに、思わず見惚れてしまう。


(こんな……地獄みたいに荒れた城と、こんな優しい人が同居してるなんて……ちょっと反則では?)


「リリア。まずは城を案内しよう。……歩きにくいから、私の後ろに」


 少し距離を詰めて歩く彼の背中を見ながら、私はなぜだか、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。


 辺境の城は荒れている。

 でも、この人の側だけは……不思議と安心できる。


 この温度がなんなのか、まだわからないけれど。


 ――追放された先で、私はもう“何か”に触れ始めている。


 甘い予感が、胸の奥でじっとりと広がり始めた。


 ◇


「本当に……一晩でやるつもりなのか?」


 伯爵――セイグラン様の問いかけは、驚きよりも心配が勝っていた。


 その声音が優しすぎて、胸がきゅっとなる。


「はい。いまがいちばん“動き時”です」


 そう返すと、彼は視線を逸らして、低く息をついた。


「……無理はするな。君が倒れたら困る」


 倒れたら困る――

 それが“領主としての当然の言葉”なのか、それとも――

 どこか個人的な響きが混ざっているのか。


 わからない。

 でも、聞いた瞬間、心臓が跳ねたのは事実。


「大丈夫です。慣れてますから」


「……それも、心配だ」


 え。

 心配、ですか?


 見上げた瞬間、セイグラン様と目が合った。


 藍色の瞳が、思ったより近い。

 ほんの少し傾けられた顔には、明らかに“個人的な心配”が滲んでいる。


(そんな顔……されたら……)


 頬が熱くなる。


「し、失礼します! と、とりあえず、厨房から見てきます!」


 逃げるようにその場を離れ、私は荒れ果てた城の中へ足を踏み入れた。


 掃除具は散乱。

 倉庫は迷宮。

 帳簿は、もはや紙の墓場。


(……うん。ひどい。でも、治せる)


 むしろ燃える。

 “無能”と切り捨てられた私を、誰よりも私が証明したい。


 私は袖をまくり、手を動かし始めた。


 ・倉庫を分類し直し

 ・使用人導線を組み替え

 ・移動の無駄をゼロにし

 ・厨房の在庫を棚卸し

 ・必要物資と不要物資を即座に分別し

 ・壊れた器具は修理班に回し

 ・掃除班を増やして優先度順に割り振る


 気づけば夜が更けていた。


 額から汗が落ち、手は震えているのに、心はどこか弾んでいる。


(……楽しい)


 追放されたときの痛みが、薄れていく。


(ここなら……私、役に立てる)


 そう思ったときだった。


「リリア」


 振り向くと――

 セイグラン様が月明かりに照らされて立っていた。


(…………か、かっこいい……)


 月光に縁どられた横顔があまりに整っていて、思わず息が止まった。


「こんな時間まで……ずっと働いていたのか?」


 彼が一歩近づく。

 影が私を包むように伸びる。


「だ、大丈夫です。本当に慣れてて……」


「慣れていることが、問題なんだ」


 低く、少し震えた声。


 次の瞬間、ふらりと足元が揺れた。


「あ……」


 倒れそうになった身体を、強い腕がしっかりと受け止める。


「っ……す、すみませんっ……!」


「謝るな」


 腕の中はあたたかくて。

 まるで外の冬が嘘みたいに、ぬくもりに包まれる。


「無茶をしただろう?」


 囁き声が耳元で落ちる。


 距離が、近い。

 息が触れそうなほど近い。


「でも……やるべきことが、たくさんあって」


「それでも無茶はするな。……君が倒れたら、私は……」


 私は……?


 続きを聞きたくて、胸が苦しい。


 セイグラン様は、そっと私の頬に触れた。


 大きな手。

 優しい熱。


「君の働きで、城が生き返っている。……まるで魔法だ」


「ま、魔法なんて……」


「君が来てから、城の空気が変わった。……私もだ」


 え。


 胸が跳ねる。


「私も……変わった?」


「君が働いている姿を見ていると……胸が、ざわつく。理由はまだわからない」


 そんなこと言うの、反則です。


「でも……君をずっと見ていたいと思ってしまう」


 視線が触れ合って、呼吸が止まる。

 熱が広がる。


「……すみません。こんな仕事の最中に。無遠慮でした」


 彼はそう言ってそっと腕を離した。

 離された瞬間、胸が冷えたのが自分でもわかる。


 ああ……だめだ。

 私、この人の温度を知ってしまった。


「リリア」


 名を呼ばれるだけで、胸が甘くしびれる。


「よくやった。本当に……ありがとう」


 その言葉だけで、涙が滲んだ。


 誰かに“ありがとう”と心から言われるなんて、いつ以来だろう。


 泣きそうになってうつむいた私の手を、彼がそっと取った。


「君は“無能”ではない。……君は、私を救った」


 ――救った。


 そんな重すぎる言葉を、あまりにも優しい声で言うから。


 胸の奥が、痛いほど熱くなった。


 気づけば空が白んでいる。


 一晩働いた疲れと、セイグラン様の言葉の余韻で、胸はまだふわふわしていた。


(……どうしてこんなに、苦しくて、あたたかいんだろう)


 追放されたときの自分に言いたい。


 “ここで、人生が変わるよ” と。


 そして、セイグラン様の声が、朝の光の中で響いた。


「リリア。これからも……私のそばで力を貸してほしい」


 その“私のそばで”に、胸が甘く震えた。


 私は――

 この人の隣にいる未来を、初めて“想像してもいいかもしれない”と思ってしまった。


 ◇


 翌朝。

 一晩で改革した城は、早くも“呼吸”を取り戻していた。


 使用人たちが私を見る目が変わっている。

 驚きと、少しの尊敬と……そして、あたたかな笑顔。


(認められるって……こんなに嬉しいんだ)


 それだけで胸が満たされていたのに。


 その中央廊下で、彼――セイグラン様と視線が合った瞬間。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 だって、あの人が。

 藍色の瞳で、こちらを“探していた”みたいに見てくるから。


「リリア。……無事でよかった」


 その一言からして、もう優しさが溢れすぎている。


「え、えっと……無事です。寝ましたし」


「ちゃんと寝たのか? ……倒れたら、私はまた抱きとめる羽目になる」


「そ、それは……迷惑ですよね」


「迷惑ではない。むしろ……」


 言いかけて、彼は視線を逸らした。


 “むしろ?” の続きを言わない。

 でも耳が赤い。


(……あの伯爵様が、照れてる?)


 そんなの反則だ。


 胸がじんわり甘くて痛い。


 午前中は、以前からある機材の優先度をまとめ、厨房長や侍女長と話し合った。


 すると、どの部署からも同じ声があがる。


「伯爵様がね、“リリアの言うことは全部通せ”と仰ったのよ」


「なんでも、あんたを“信頼してる”ってさ」


 信頼。

 その言葉だけで、膝が少し震えた。


 信頼されるなんて。

 そんなあたりまえのことが、とんでもないご褒美みたいに胸を満たす。


(……セイグラン様。私、本気でこの城に貢献します)


 そう誓って、夕方まで走り回った。


 その間――

 気づけば、何度も背中にあの視線を感じた。


 視線が絡むたび、心臓が跳ねる。


(……意識しているのは、私だけじゃない?)


 そう思ってしまうほど、彼の目はやさしくて甘い。


 一日の仕事が終わったころ。


「リリア。少し、外へ出ないか」


 セイグラン様が私を城のバルコニーへ誘った。


 夕焼けが城壁の向こうへ沈んでいく。

 静かで、風だけがやわらかく頬を撫でる時間。


「城を……ありがとう。君のおかげで、ここまで一日で変わるとは思わなかった」


「いえ。私はただ、役目を果たしただけで」


「役目、か」


 彼は私のすぐ横に立つ。

 触れればすぐそこにある距離。


(ち、近い……)


 どれほど近いかといえば、風で髪が揺れたら、彼のコートに触れそうなほど。


「君がここに来てから……私は変わった」


(また……)


 その言葉。

 胸の奥を甘く溶かす危険な響き。


「変わった……ですか?」


「城を立て直したいと思うようになった」


「それは、伯爵様がもともと……」


「いや。違う」


 彼はゆっくりと私に向き直った。


 藍色の瞳が、夕焼けの色を吸い込んで揺れる。


「君が来る前の私は、何もかも諦めていた。

 城も、自分も、未来も」


 夕風が吹く。

 彼の髪が揺れ、影が私の胸元まで落ちてくる。


「でも、君が動く姿を見て……私は思った。

 “もう一度、立ち上がりたい” と」


 胸が、熱い。


 目の奥がじんわりと潤む。


「そんな……私は、ただ必死で……」


「君の必死さに、私は救われた」


 彼が一歩――近づく。


 心臓が跳ねる。

 呼吸が止まる。


「リリア。君は気づいているか?」


「き、気づいている……って……?」


「私が、君を“目で追ってしまう”ことに」


 耳が、いっきに熱くなる。


 だって。

 だって、それは――


「私は……君を見ない日はない。

 姿を探してしまう。

 声を聞くだけで、一日が少し明るくなる」


 そんな。

 そんな告白めいたこと。


「どうして……そんな……」


「理由は……まだ完全には言えない。

 だが、確かなことがひとつある」


 彼は私の手を取った。


 夜風に触れて冷えていた指が、熱に包まれる。


「君がここにいてくれることが……私は、何より嬉しい」


 その瞬間。


 胸が、きゅっと甘く締めつけられた。


 もう駄目だ。

 好きにならない方が難しい。


「……私も、この城に来られてよかったです」


 言った瞬間、セイグラン様が柔らかく微笑んだ。


 その笑顔が、想像以上に優しくて。

 胸が壊れそうになる。


 空に星がひとつ灯るころまで、私たちは手をつないだまま立っていた。


 言葉は少なかった。

 でも、静かな時間が、甘くて、心地よくて。


(こんな夜が……ずっと続いてほしい)


 そう思ってしまったとき。


 セイグラン様がそっと手を離しながら言った。


「リリア。……もう少しだけ、私のそばにいてくれ」


 その“そばに”に、胸が跳ねる。


「はい……」


 返事をすると、彼はすごく嬉しそうに微笑んだ。


 その笑顔だけで、また胸が熱くなる。


 ――気づけば、もう後戻りなんてできない。


 私は確実に、この人に惹かれている。

 そしておそらく……彼も。


 甘く深い予感だけが、夜の匂いに溶けて広がっていった。


 ◇


 翌日。

 改革が一段落し、城の空気が明るさを取り戻してきた頃。


 私は使用人たちと書類の整理を進めていた。


 そのとき――

 外の門の方からざわめきが起こった。


「公爵様の家臣たちが伯爵様に謁見を求めているらしいぜ」


「なに、あの有名な……?」


「どうやら“救援要請をした”と言ってるとか」


(救援……?)


 嫌な予感がして、私は足を向けた。


 謁見の間。

 すでにセイグラン様は冒険者たちと対面していた。


 その中心に――

 見覚えのある金髪の青年がいた。


(……元の職場の同僚)


 私を“無能なメイド”と呼び、追放した男。


「伯爵殿! うちの家は今、大ピンチなんです!

 だから――その、例のメイドを返してほしい!」


 セイグラン様の眉が、ぴくりと揺れる。


(…………はい?)


 耳を疑う言葉。


「メイド・リリア! あいつは確かに無能ですけど、雑務だけは早いんですよ! あいつがいなくなって、うちは地獄でして!」


 “無能だけど使えるから返せ”。

 そう言いたいのだろう。


 胸が冷える。

 それと同時に、なぜか背中に強い視線を感じた。


 振り向くと――

 セイグラン様が、怒気を押し殺したような深い藍色の瞳でこちらを見ていた。


(……怒ってる?)


 理由がわからず、胸がざわめく。


「リリアは――返さない」


 セイグラン様の声は低く、静かで、そして鋭かった。


「え、でも! あいつはうちの――」


「彼女は私の城で働いている。

 そして……私が、手放すつもりはない」


(え……)


 その“私が手放さない”の一言が、全身に熱を走らせた。


 執事は食い下がる。


「いやいやいや! 借りてるだけですよね!?

 だって、うちが育てたメイドで――」


「……育てた?」


 セイグラン様の空気が一瞬で冷えた。


「追放したのだろう?」


「そ、それは……まあ、その……」


「無能と罵り、功績を奪い、傷つけ、追い出しておいて……

 必要になったら取り戻しに来る?」


 セイグラン様が一歩、青年へ踏み込む。


 その気迫に、冒険者全員が後ずさる。


「……二度と彼女の名を軽々しく口にするな」


(……な、なんでこんなに怒って……)


 その瞬間。

 視線が再び私に向けられる。


 熱を帯びた、激しいほどのまなざし。


(もしかして……これ、嫉妬?)


 胸がどくんと跳ねた。


 彼は執事たちを追い返し、扉が閉まると同時に、私の方へと歩いてきた。


「リリア」


 名前を呼ぶ声が、いつもより低い。


 胸がざわつく。

 というか――甘くて危険だ。


「……あの男達のところへ戻る気は、ないよな?」


「え? えっと……そんな、ありません!」


 即答だった。

 すると彼は、ふっと息を吐いた。


 安堵――それがはっきりと伝わる。


「ならいい」


「伯爵様……そんなに心配することないです。

 あそこに戻るつもりなんて、本当に――」


「心配した」


 その短い言葉に、足がすくむ。


「私は、君を失うところだった。

 その可能性があると考えただけで、正直……気が狂いそうだった」


(気が、狂いそうって……)


 近い。

 いつもの“ちょっと近い”じゃない。


 手を伸ばせば触れる距離。


 いや、触れられている。


 セイグラン様は、私の肩をそっと掴んだ。


「リリア。頼むから……私のそばから離れないと言ってくれ」


 胸が甘くしびれる。

 息が吸えない。


「……離れません。私は、ここで働きたいです」


 それ以上の言葉は怖くて言えなかった。


 でも、その一言だけで、彼はわずかに微笑んだ。


 次の瞬間。


 廊下の奥から突然――

 甲高い音と、落下物の影が見えた。


「危ない!」


 セイグラン様が私を抱き寄せ、身体を覆ってくれた。


 胸に押しつけられた温度。

 息が耳元を掠める。


 倒れた装飾品が床に砕け散る音が響く中。


 私はただ、彼の腕の中にいた。


「っ……怪我は?」


「だ、大丈夫です……」


「よかった……」


 そう言って、彼は私を抱きしめたまま離さなかった。


「……もう、嫌だ。

 危険に巻き込まれるのも、君が怯えるのも、

 誰かに奪われるかもしれないと考えるのも」


 腕に力がこもる。


(だめ……こんなの……)


 胸の奥が熱でぐちゃぐちゃになる。


「リリア。私は……君を――」


 言いかけた瞬間、彼は言葉を飲み込んだ。


 でも、その沈黙が、もう答えを示している。


 抱き寄せる腕の強さも。

 震える息も。

 私を守るために一瞬で動いた彼の行動も。


 全部が、ひとつの気持ちから来ている。


(……セイグラン様。私……)


 心臓がどくん、と跳ねる。


 恋だ。

 もう確実に。


 部屋に戻っても、胸の鼓動が落ち着かない。


(あんなふうに、抱きしめられて……

 “離れないでくれ”なんて言われて……)


 顔を枕に押しつけても消えない甘さ。


 彼の腕の感触。

 熱。

 囁く声。


 全部、記憶に焼きついてしまっている。


(……どうしてこんなに、好きなんだろう)


 答えは簡単。


 “守られて嬉しかったから”

 “頼られて胸が熱くなったから”

 “あの人の優しさが、心にずっと触れていたから”


 そんな理由が、溢れるほど出てくる。


 もう誤魔化せない。


 私は――

 伯爵セイグラン様が好きだ。


 そして彼も、きっと。


 夜が深まるほど、甘い予感は濃くなるばかりだった。


 ◇


 翌朝。

 昨夜の出来事が胸に残りすぎて、私はまともに眠れなかった。


(あんなふうに抱きしめられたら……眠れませんって……)


 頬がまた火照り始める。

 思い出すだけで心臓が痛いほど跳ねる。


「おはようございます、伯爵様」


 勇気を振り絞って声をかけると、

 セイグラン様はほんの一瞬、表情を硬くした後――


「……おはよう、リリア」


 いつもより少し声が低い。


(これ……照れてる?)


 彼は人前だと感情をほぼ出さないけれど、

 ほんの微かな変化なら、今の私にはわかる。


 距離が近づいたから、だろうか。


 胸がくすぐったくなる。


 午前の仕事を進めていると、

 ふと、背中に熱い視線を感じた。


(また……見てる)


 書類棚を整理していても、

 廊下を歩いていても、

 茶を淹れていても。


 セイグラン様の視線が、何度も、何度も触れてくる。


「……えっと。なにか?」


 思わず問いかけてしまう。


「いや……」


 彼は視線を逸らすが、耳がほんのり赤い。


(可愛い……)


 いや、可愛いって言ったら失礼なのだけれど、

 冷徹の伯爵と呼ばれる男がこんなふうになるなんて、

 誰も信じないだろう。


 胸がじんわり温かくなる。


 でも、どうしてこんなに見てくるのか。

 気になって仕方がない。


 昼過ぎ。

 倉庫の備品チェックをしていると、

 セイグラン様が入ってきた。


「手伝う」


 いつも通り短い言葉なのに、

 距離の詰め方が明らかに“いつもと違う”。


 肩が触れそう。

 指先がぶつかりそう。

 息がかかる距離。


(ち、近い……)


 手を伸ばそうとした瞬間、

 セイグラン様の指が私の手の甲にかすかに触れた。


「っ……」


「……すまない」


 謝る声が、ひどく甘い。


 謝っているのに、まるで触れたことを喜んでいるようで。

 私は胸を押さえた。


(こんなの……意識しないなんて無理)


 顔が熱くなるのを隠せない。


 彼も視線をそらし、喉をひくりと鳴らした。


 その仕草が、またズルい。


(私、絶対に意識されてる。

 ……けど、気のせいだったらどうしよう)


 恋を自覚したせいで、

 すべての仕草に敏感になってしまう。


 夕方。

 お茶の差し入れをすると、セイグラン様がふっと微笑んだ。


「……君が淹れた茶は、落ち着く」


 胸がきゅうっとなる。

 そんな言葉、反則だ。


「よかったです。お気に召して」


「“気に入っている”どころではない。

 ……君がそばにいると、私は……」


 言いかけたところで、扉がノックされた。


「失礼します、伯爵様!」


 使用人の声に、空気が割れる。


 セイグラン様がこっそり眉を寄せる。


(今……絶対、何か言おうとした……)


 知りたい。

 聞きたい。


 けれど、遮られてしまった。


 胸の奥がむずむずする。


 “あと一歩”なのに、その一歩が届かない。


 これが恋か。

 苦しいのに、甘い。


 夜、片付けをしていると、セイグラン様が小さく私を呼んだ。


「……リリア。少し来てくれ」


 案内されて入ったのは、執務室ではなく、

 小さなバルコニーだった。


 月が綺麗に照らす静かな空間。


「ここは……?」


「君に見せたい景色がある」


 視線を向けると、

 月明かりに照らされた雪原が一面に広がっていた。


 美しい。

 息が漏れるほどに。


「……綺麗です」


「君に見せたかった」


 その声に、胸が大きく跳ねた。


 彼は私を見ている。

 景色でも、月でもなく。


「リリア。私は、君がそばにいると……心が穏やかになる」


「……」


「仕事に集中できる。

 食事が美味い。

 夜が静かすぎない。

 朝が、悪くない」


 一つずつ言葉を重ねるたび、

 心が溶けていく。


「……それが、全部……君のおかげだ」


 甘い。

 甘すぎる。


 このまま抱きしめられるんじゃないか――

 そう思った瞬間。


「リリア。お願いがある」


「……なんでしょう」


「……明日も、私のそばにいてほしい」


 言われた瞬間、

 胸の奥でなにかが破裂するほどに熱くなった。


(そんなの……言われなくても)


 でも、声に出すのは恥ずかしい。


「……はい。伯爵様が望むなら」


 セイグラン様は、ほっと息を吐いた。


 そして――

 月明かりの下で、私の手に触れかけて、

 またそっと離した。


 触れたい。

 でも、触れられない。


 その距離が、甘くて、切ない。


 部屋に戻ると、心がじんじんする。


(あの言い方……もう、ほとんど告白じゃないですか……)


 でもはっきり「好き」と言われたわけではない。


 じれったい。

 でも、幸せ。


 愛されている気がして。

 求められている気がして。


 そして私自身も――

 もう完全に、彼に恋してしまっている。


(明日も……その次も……伯爵様のそばにいたい)


 そう願う自分がいる。


 甘さが胸いっぱいに広がって、

 眠れそうにない夜だった。


 ◇


「リリア。……こちらへ」


 いつもより低い声で呼ばれ、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 ハルグラン城の夜は深い。

 暖炉の炎が揺れる執務室は、いつもより静かで――

 今日の伯爵は、どこか落ち着かないように見えた。


 わたしの視線を避けるように、書類をそっと閉じる伯爵。

 その仕草すら、どうしようもなく絵になる。


(……まだ何か、失敗した?)


 そんな不安が胸をかすめる。

 けれど次の瞬間、伯爵の言葉がその不安を吹き飛ばした。


「……リリア。少し、話したい」


「はい。何でしょうか」


 伯爵は、しばらく黙った。

 炎の音だけが、ぱちぱちと響く。


 やがて、深く息を吸って――

 ゆっくりと、こちらを見た。


「……私は、おまえの働きぶりを見てきた」


「……?」


「いや。“働きぶり”だけではないな。……おまえという存在そのものを、だ」


 一瞬、心臓が跳ねた。


 伯爵は視線をそらさずに続ける。


「初めておまえが城に来た日。雪の中で紙を握りしめ、迷いながらもまっすぐ歩いてきた姿を、私は窓から見ていた」


(え……?)


「寒さで震えていたのに、目だけが強かった。……あの目を見た瞬間、私は思ったのだ。『ああ、この者は嘘をつかない』と」


 胸が熱くなる。

 わたしは自分でも気づかないほど、小さく息を呑んだ。


 伯爵は歩み寄ってくる。

 黒いマントが揺れ、影が近づくたびに鼓動が速まった。


「リリア。おまえがしてきた“気づきすぎる”仕事は――」


 そして、彼はそっと私の手を取った。


「この城がずっと欲していたものだ」


「……っ」


 温度が違う。

 伯爵の指が触れただけで、体の奥まで熱が広がる。


「私は、冷徹だと呼ばれている。……その自覚もある。

 領地を守るために感情を捨ててきた。

 だが――」


 わずかに、声が震えた。


「おまえが来てから、私の世界はずっと鮮やかになった」


 言葉が胸に落ちて、呆れるほど涙が出そうになった。


(そんなふうに……思われていたなんて……)


「だから……」


 伯爵は手を離さないまま、ほんの少しだけ距離を縮めた。

 息が触れ合う距離。


「リリア。私は――おまえを特別に思っている」


 世界がぐらりと揺れたような錯覚を覚えた。


「……わ、わたし……?」


「そうだ。

 使用人としてではない。

 救い手としてでもない。

 ……ひとりの女性として、だ」


 頬が一気に熱くなる。


 伯爵は、まっすぐ見つめてくる。


「返事を急がせはしない。だが覚えておいてほしい。

 おまえが望むなら――私はこの手を、二度と離さない」


 その言葉は、甘くて、重くて、幸福で。

 息をするのさえ苦しいほどだった。


(伯爵さま……)


 うまく言葉にできない。

 でも胸の奥は、伯爵を求めて泣いていた。


 伯爵はゆっくりと手を離す。

 指先が離れる瞬間だけ、まるで恋の甘さを示すように、名残が絡んだ。


「……今日は休むといい。明日も、私の隣に立ってくれ」


 その声音が優しすぎて、涙がこぼれそうになる。


「……はい。伯爵さま」


 扉を閉めて廊下に出た瞬間、わたしは胸を押さえた。


(……だめだ。落ち着かない)


 心臓が、ずっと伯爵を呼んでいる。


 ああ、これは――

 恋だ。

 と、ようやく認めざるを得なかった。


 ◇


 伯爵の告白から、一晩が過ぎた。


 眠ったはずなのに、胸はずっと熱いままだった。

 伯爵の言葉が、耳の奥で何度も反響して。

 気づけば、枕を抱えたまま転がっていた。


(わたしを……女性として……特別に……)


 思い出すだけで顔が熱くなる。

 絶対に人に見せられない表情をしている自信がある。


 そんなふうに、自分の頬を押さえていたとき。


 ――コンコン。


「リリア、朝だ。起きているか?」


(……え、伯爵さま!?)


 心臓が跳び上がりそうになった。


 慌てて身なりを整え、扉を開ける。

 そこには、いつもより柔らかい瞳の伯爵が立っていた。


「……おはよう。眠れたか?」


「は、はいっ……! ええと、その……ほどほどに」


「そうか。なにかあれば言え。私は、おまえにはどんな些細なことでも助けになりたい」


(……過保護スイッチ、入ってる?)


 昨日までと明らかに距離が違う。

 近い。

 そしてなにより――視線が甘い。


 朝の光の中、伯爵が私を見下ろす表情は、どこか恋人のそれに似ていた。


「さあ、一緒に食堂へ行こう」


「い、いえ、執務がお忙しいのでは……?」


「おまえを迎えに来る時間くらい、どうということはない」


 さらりと手を差し出してくる伯爵。

 わたしは反射的に胸元に手を当てた。


(……これ、わたしが手を取っても……いいの?)


 昨日、あんなふうに言われたばかりだ。


 もしこれを受け取ったら――

 たぶん、戻れない。


「……あの、伯爵さま。手は、その……」


「いや、気にする必要はない」


 伯爵が、ふっと笑った。

 そのまま自然に――わたしの手を包む。


「おまえが恥ずかしがっても、私は構わん。……一歩ずつでいい」


 し、心臓が溶けた。


(ずるい……そんな言い方……)


 手の温かさが、体の芯まで満たしてくる。


 二人で並んで歩くと、廊下で使用人たちがぎょっとしていた。

 けれど伯爵は気にしていない。

 むしろ誇らしげに見える。


(これ、完全に“特別扱い”だ……)


 そして食堂の席に着くと、さらに甘さは増した。


「リリア。冷めている。新しい皿を持ってこよう」


「あっ、そ、そんな……自分で取りますから!」


「いや。おまえはゆっくり食べろ。私はおまえに無理をさせたくない」


 “見せつけるように世話を焼く伯爵”に、料理人と兵士たちが視線を泳がせている。


(ちょっと待って……恥ずかしすぎるんだけど!?)


 しかし伯爵は、こちらの混乱には気づかない。

 むしろ、満足げに目を細めている。


「……こうして並んで食事をするのは、悪くないな」


「わ、わたしも……その……」


 言葉が詰まる。

 その沈黙ごと、伯爵が優しく受け取った。


「リリア。昨日の話は、忘れていないだろう?」


「……忘れられません」


「なら、いい」


 炎のように甘い声音で、伯爵は告げた。


「私は、おまえを急かすつもりはない。

 だが、少しずつ――こうして距離を縮めさせてくれ。

 おまえの心が、私の方へ向くように」


(……もう向いてます、なんて……言えない)


 恥ずかしすぎて口にできない。

 でも、胸はきゅうっと伯爵を求めていた。


「今日、午後に視察に出る。……おまえも同行してほしい」


「わ、わたしが……ですか?」


「おまえの判断力と目を借りたい。……それに、離れているのは面白くない」


「っ……!」


 言葉が甘くて、倒れそう。


 伯爵の“恋人未満だけど限りなく甘い距離”は、わたしの心をどんどん溶かしていく。


(わたし……こんなふうに、誰かに大切にされたこと……なかった……)


 胸があたたかくて、涙がこぼれそうになった。


 伯爵は優しく言う。


「無理はさせない。だが……私の隣にいてくれ。

 それが、いまの私の願いだ」


 そんなふうに言われて、どうして断れるだろう。


「……はい。喜んで、伯爵さま」


 自然に微笑むと、伯爵の表情が解けた。

 まるで、宝物を手にした子どものように。


(ああ……しあわせだ)


 その幸福が、視察の先でさらに甘さを帯びて、深まっていくことを――

 このときの私はまだ知らなかった。


 ◇


 午後の視察は、領内でも少し奥まった森の木こり小屋だった。

 寒さが厳しく、空気が澄みすぎているほど冷たい。


 伯爵と肩を並べて歩くだけで胸が落ち着かない。

 でも、それ以上に――


(さっきから……伯爵さま、近い)


 手袋越しに触れそうな距離で歩かれると、意識してしまう。

 けれど伯爵は横目でちら、と見て、ほんのり口元を緩めた。


「寒くないか?」


「だ、大丈夫です……!」


「本当か?」


 そう言って、わたしのマントの襟元を直してくれる。

 首もとに触れた指が冷たくて、でもその冷たささえ嬉しい。


「……これでいい」


 その声がやさしくて、胸の奥があたたかくなった。


 小屋に着き、内部を確認していると――

 微かに、木々が揺れる音がした。


(……風?)


 そう思った瞬間。


 ガサッ――ッ!


 森の奥から影が走り出した。


「っ!? 魔獣――!」


 牙を向けた灰色の狼型魔獣が、こちらへ一直線に突っ込んでくる。


 怖い。

 体が固まる――その刹那。


 伯爵が腕を伸ばし、わたしの腰を強く抱き寄せた。


「リリア、下がれ!」


(ひ……っ! 近い近い近い!!)


 でも恐怖よりも、伯爵の腕の強さに一瞬で包まれて、頭が真っ白になる。


 伯爵のマントに包まれたまま、後ろへ引き寄せられる。

 頬が伯爵の胸に触れ、心臓の鼓動が伝わってきた。


(こんな……密着……!)


 魔獣が跳びかかろうとした瞬間、伯爵の剣が閃く。


 ――鋼の一閃。


 狼は一撃で地に倒れた。


(強い……)


 でもそれ以上に――

 伯爵の手が、わたしを離そうとしない。


「リリア……無事だな?」


 声が震えている。

 普段あんなに冷静なのに――今の伯爵は、完全に取り乱していた。


「は、はい……伯爵さまが……守ってくださって……」


「当然だ。おまえを失うものか」


 その言葉が甘すぎて、胸がずくんと痛むほど響いた。


 伯爵はわたしの頬に触れ、傷がないか丁寧に確かめる。

 指が触れた場所が熱を帯びていく。


「怖い思いをさせた……すまない」


「そんな……謝らないでください。わたし、伯爵さまのおかげで……」


 言いかけたとき。


 伯爵が、わたしの手を強く握った。

 まるで、離れたら消えてしまうとでも思っているように。


「リリア。……もう二度と、おまえを危険な場所へは連れて行かない」


「えっ……!?」


「私は領主だ。判断はする。だが……おまえの身が危うくなるのなら、すべての選択を変える。

 ……それほど、おまえは私にとって大事だ」


 胸の奥が熱く溢れ、息が苦しくなる。


(そこまで……思ってくれて……)


 伯爵はわたしの手をそっと包み込み、額を寄せてくる。

 冷たい風の中で、体温だけがやけに濃い。


「……怖かっただろう。よく耐えた」


 その声に、緊張の糸が切れそうになった。

 涙がこぼれそうになった瞬間、伯爵がさらに抱き寄せる。


「泣くな、リリア。……私はずっとそばにいる」


 胸元で聞こえる低い声。

 体中が、その温度に溶けていく。


(……この腕の中、ずっと……)


 わたしが小さく息を震わせると、伯爵の腕に力がこもった。


「本当に……おまえを危険に晒すくらいなら、私はすべてを捨てられる」


 その告白は、愛の宣言じみていて――

 心の底から、嬉しかった。


「伯爵さま……わたし、本当に大丈夫です。

 むしろ……守ってもらえて、すごく……」


「すごく?」


「……うれしかった、です」


 言った瞬間、伯爵の呼吸が止まった気がした。


「……リリア。おまえは……」


 その後の言葉は、震えていた。


「……私を試しているのか?」


(ち、違います!?)


 恥ずかしさで体が熱くなる。

 でも伯爵の手は、離れなかった。


 互いの鼓動だけが、森の中で響いていた。


 ◇


 魔獣騒ぎの翌朝――。


 目を覚ますと、胸の奥がまだじんわり熱い。

 昨夜、森で伯爵に抱きしめられたときの体温が、まだ残っている気がする。


(あんなに……近かった……)


 思い出しただけで顔が赤くなる。

 そんなややこしい心の状態のまま、使用人棟から執務室に向かうと――


 伯爵が、見たことのないほど疲れた顔をしていた。


(え……? 寝てない?)


 だが、わたしが来た瞬間、彼は驚くほどやわらかく微笑んだ。


「――リリア。……来てくれて、よかった」


 その声が、まるで救われたような響きで。

 胸が締め付けられた。


「伯爵さま……夜は眠れましたか?」


「……いや。おまえの顔を見るまで眠れそうにないと思った」


(え!?)


 あまりに直球で、心臓が跳ねる。


 伯爵は椅子から立ち上がり、ゆっくりとわたしに歩み寄る。

 その歩幅がいつもより静かで、でも確実に迫ってくる。


 そして――


 すっと、わたしの髪に触れた。


「……昨日のことが、ずっと頭から離れなかった」


 温かい指が髪を梳くたび、心臓が沸騰しそうになる。


「魔獣が突進してきた、あの瞬間……」


 伯爵の手が、わたしの頬へ移る。


「リリア。私は……おまえを失うのが本当に怖かった」


 低く震える声。

 普段の冷静な伯爵とは違い、感情がむき出しになっている。


「危険に巻き込んだ私が悪い。

 だが……あのときおまえを抱きしめた瞬間、

 “もう絶対に離すまい”と……心の底から思ってしまった」


 頬に触れる手が、熱い。

 わたしの胸まで焼けるように熱くなる。


「伯爵さま……」


「リリア」


 伯爵が一歩近づく。

 逃げ場がない。

 いや、逃げたくない。


「私に……おまえを守らせてくれ。

 そして……そばにいてほしい」


 甘すぎる声音。

 息が触れてしまいそうな距離。


(落ち着けない……! でも……)


 伯爵は、わたしの返事を待つように指を絡めてくる。


「……いつか必ず、正式に言うつもりだ。

 だが、言葉より先に“証”を集めているところだ」


「証……?」


「おまえを迎えるために必要なものを、ひとつずつ整えている」


 耳元で囁かれ、背筋が震える。


「屋敷の部屋を準備した。

 婚姻許可も領主会に申請した。

 必要書類も……すべてそろいつつある」


(え……ちょ……!?)


「まだ言葉にはしない。焦らせるつもりもない。

 だが――リリア」


 伯爵はわたしの手をぎゅっと包み、指の背に口づけを落とした。


「私はもう、“決めている”」


(っ、近い……甘い……手にキスって反則……!!)


 視界が揺れる。

 体も心も追いつかない。


「リリア。おまえを守り、幸せにするためなら……私はなんでもする。

 だからどうか、覚悟しておいてほしい」


 覚悟――?


「……私がおまえを迎えに行く日が近いと」


 甘い声が、耳たぶをかすめた。


(これ……ほぼ求婚では……!?)


 伯爵はゆっくりと離れる。

 それでも指は絡んだまま。


「今日の視察は中止だ。おまえを休ませたい。

 ……それに、私が気が散る」


「気が……散る?」


「おまえを直視すると、どうにも冷静でいられない」


 わたしの手を撫でながら、伯爵はため息交じりに微笑んだ。


「昨夜からずっとだ。……おまえのせいだぞ、リリア」


(ず、ずるい……そんなの……)


 胸が甘く痺れる。


 伯爵は最後に、指先でわたしの頬をなぞり――


「焦らずともいい。

 けれど私は、もう戻れない。

 おまえを手に入れる未来しか、考えられない」


 甘く、強い宣言だった。


 ◇


 その日は朝から、屋敷全体がどこか落ち着かない空気だった。


 廊下を歩けば、使用人たちが

「今日……でしょうね」

「いよいよだな……」

 と、妙にそわそわしている。


(な、なにかあるの……?)


 胸騒ぎを覚えながら執務室に向かうと――

 扉の前に立っていた従者が、まるで儀式前のように深々と頭を下げて扉を開けた。


「リリア様、お入りください。伯爵様がお待ちです」


「お、お待ち……?」


 言葉の意味を考える間もなく扉が閉まり、広い執務室の中央に立つ伯爵の姿が目に飛び込んできた。


 いつもより綺麗に整えられた装束。

 きつく結ばれた口元。

 わずかに緊張の影を帯びた眼差し。


(……えっ、なんか……すごい雰囲気……)


 伯爵はゆっくりこちらに歩み寄り、真っ直ぐ目を見つめてきた。


「リリア。来てくれて、ありがとう」


「え……あの……」


「緊張しているのは私のほうだ」


 胸元に手を当てながら、苦笑混じりに言う。


(伯爵さまが緊張……?)


 そんな貴重な姿に見惚れてしまったのも束の間、

 伯爵は意を決したように息を整えた。


「リリア。少し……話がある」


 促されて、向かい合うように椅子に腰かける。

 テーブル越しではなく、すぐ隣に。


 距離が近い。

 心臓が跳ねる。


「昨日まで、ずっと考えていた。

 おまえの人生を、私がどこまで背負えるのかを」


 伯爵はわたしの手を取る。

 ゆっくり、丁寧に。


「……結論は変わらない。

 何度考えても、どれほど悩んでも――

 “おまえを手放したくない”という思いが強くなるばかりだ」


 わたしの指を包む手が震えている。


(この人、こんなに……わたしのことを)


 胸がいっぱいになって言葉が出ない。


 伯爵は続ける。


「リリア。

 おまえは私の屋敷を一晩で立て直した“有能なメイド”かもしれん。

 だがそれ以上に――」


 テーブル越しに身を寄せ、額をそっと触れさせるほど近くで囁いた。


「……私の、心そのものだ」


(こ、心……!?)


 熱が一気に顔に昇る。


「魔獣から救って以来、恐ろしくて仕方がない。

 おまえが怪我をしたら、泣いたら、誰かに奪われたら……。

 そんな未来を想像しただけで、夜も眠れん」


 伯爵の指がわたしの頬に触れ、そっと撫でる。


「だから……守らせてほしい。

 大切にさせてほしい。

 笑って、怒って、泣いて――

 そのすべてを、私に預けてほしい」


 そして、ゆっくりと片膝をついた。


 胸が大きく揺れる。

 呼吸すら忘れそうになる。


「リリア」

 呼ばれた名が甘く震える。


「……私と、生涯を共に歩んでくれ」


「……っ!」


 指先に、温かい口づけ。

 誓いを刻むように。


「おまえを妻として迎えたい。

 この先の人生を、隣にいてほしい。

 ……どうか、私の願いを聞いてくれ」


 わたしの喉が震え、言葉が詰まる。

 でも胸の奥から、答えは自然にわきあがってきた。


「……そんなの……断れるわけ、ありません……!」


 言った瞬間、伯爵の顔が大きく揺れ、深い安堵の息を漏らした。


 そして。


 力強く抱き寄せられた。


「……ありがとう。リリア。

 もう……絶対に離さない」


 肩に回された腕は熱くて、愛があふれていて――

 胸の奥が甘く、幸せで、満たされていく。


「私の妻になるおまえを、必ず幸せにする。

 この命にかけて」


 わたしもそっと、その腕に手を添えた。


「伯爵さま……わたしも……。

 わたしも、あなたと一緒に生きたいです」


 伯爵はわたしの額にそっと唇を寄せ、

 震える声で呟いた。


「――リリア。愛している」


 甘くて、強くて、逃げられない言葉。

 わたしの心は、その瞬間、完全に伯爵のものになった。

お読みいただき、ありがとうございます!!


「面白かった!」「続きが気になる!」と思った方は、

☆☆☆☆☆を面白かったら★5つ、つまらなかったら★1つにして頂けると、とても嬉しく思います!


また、『ブックマークに追加』からブックマークもして頂けると本当に嬉しいです。


皆様の評価とブックマークはモチベーションと今後の更新のはげみになりますので、なにとぞ、よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ