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その夜、私は久しぶりにどうしようもなく様々な感情に飲み込まれていた。自己表現があまり得意ではなく、周りに言われた言葉などを必要以上に気にしてしまうタチなので、最近は私をよく知ってくれている旧友や家族以外とプライベートで深くかかわることを避けてきた。仕事は接客業だが、自分のことを話したり感情的になったりということはないので、店員と客という、明け透けに言ってしまえば上辺だけの関わり、仕事上必要、となれば割り切ってそこそこ淀みなく接することができる。なのに、今日は完全に油断していた。あれほど他人のペースに巻き込まれるなんて、見知らぬ人が短期間に私のプライベートスペースに難なく入り込んでくるなんて。しかも更に厄介なのは、それが嫌ではなかったこと。もっと違う形で出会っていれば、仲良くなれたかもしれないのに。歳だってそう離れていないだろうし、ご近所さんだし、何か素敵な接点があったかもしれないのに。なんて考えているということは、私はかなり彼を気に入ってしまったのだろう。それに、最後は一番の弱点に触れられて焦っていたとはいえ、ろくにお礼も言えずにお家を飛び出してしまった。はぁ。溜息がとまらない。そんな思考をぐるぐると頭の中で回した後、重い腰をあげて明日の仕事に備える。明日も早番だし、こんな夜は早く寝るに限る。寝て起きたら、怪我もあの男性との出会いも、忘れていたらいいのに。
次の日、痛む体を引きずって何とか家を出た。もちろん、何も忘れることなど出来ないし、怪我もそのままだ。むしろ、体中にできた打ち身の痛みは増している。顎の傷はマスクで誤魔化せたし、仕事着は白いシャツに黒のスラックスというシンプルな服装なので、白い包帯は長袖シャツと一体化してくれている。職場の制服が長ズボンであったことは、私が就職を決めた大きな理由の1つだ。同業でも他のメーカーになると、ストッキングにスカートのところが多く、足が露出してしまう。そんな中、珍しく長ズボンであり、私の1つの大きな悩みを解決してくれる化粧品に携われる、という理由から、現在の仕事に就いている。
さて、そんな今日の私の実際は青紫のアザだらけだが(今朝着替える際アザの多さに絶句した)、怪我をした部分の肌はどこも露出していないので、見た目には分からないだろう。財布から定期を出して改札を通ろうとすると、一緒にカードが付いてきて落ちた。ただでさえ朝のラッシュ時に流れをとめることは顰蹙なのに、体の痛みのせいで素早く拾うことが出来ず、数人から冷たい視線を感じて縮こまる。うぅ、今日も生きにくい世の中だ。何とか落ちたものを拾い、財布にしまうのは後にしてとりあえず電車に乗り込む。電車の中で何気なくカードを見ると、それは見慣れない病院の診察券だった。八月朔日美容皮膚科・形成外科……?そんなところに罹った覚えはないが、患者氏名欄には確かに私の名前。首をひねりながら裏にかかれた地図を見て、思わず声が出る。肩をすくめて周りを見渡すが、ほとんどの人がスマホに夢中だし、イヤフォンを付けている人が大多数なので幸い気付いた人はいなさそうだ。地図が示すのは、昨日私がお邪魔した謎の彼のマンションの1階にある病院だった。私は昨日、あの病院で処置してもらったのか。診察券には、更に次回の予約日にも記載があり……え、日付は今日? 時間は……いつでも? そんな適当な予約があるだろうか。誰が書いたのだろう。とはいえ、当日に仕事を休むことはできないので時間指定がないのは有難い。早番だし、仕事帰りに急いで寄れば、診察時間内ギリギリに滑り込める。顎の切り傷は痕にならないかも気になるし、大人しく行ってみよう。彼と鉢合わせるなんてこと、ないよね。病院の建物を思い浮かべると、その最上階に住む男の顔も連想されるが、慌てて頭の中から追い出す。