偽者だけど伯爵家の娘として溺愛されます
私の一日は化粧とヘアセットで始まる。腕利きメイドに丹念に肌を整えられ、巧みな手さばきで眉を描かれ、ブロンドのかつらを載せられて。そしてかつらがずれないようにピンが留まれば完成だ。
袖を通した秋物ドレスは落ち着いたネイビーブルー。私の明るい水色の瞳とよく合っている。日焼けもせず、指先が荒れてもおらず、誰から見ても思春期の貴族のお嬢様。姿見の中の自分の姿に「よし」と呟いて背を正す。
朝日の差し込む長い廊下を歩いていくと先導していたメイドがそっと食堂の扉を開いた。広々とした室内には早くも一家の全員が揃っている。
「おはよう、エルシー」
にこやかに呼びかけてくるのはスノーフィールド家の奥方、エルシーの母親だ。今日も彼女のスカイブルーの目は優しい。
「よく眠れたかね?」
続けて体調の確認をするのはスノーフィールド家の当主、エルシーの父親である。伯爵位を持つこの金髪紳士は常に威厳に満ちている。
「さあ、早く食べようよ」
着席を促してくるのは十も年上のエルシーの兄。言葉に乱雑なところはなく、品の良さが感じられた。
「あら? 今日の卵料理はなかなか凝っているわね」
「本当だな。挽肉と玉葱が入っている」
「エルシーが成長期だし、料理長が頑張ってくれたんじゃないかな」
「まあ、それじゃ残しちゃ悪いわね」
「しっかり食べるのよ、エルシー」
和気あいあいとした一家団欒のやり取りに私は眩しく目を細める。焼きたての白パン、カリカリのベーコン、ふわふわのオムレツ、新鮮なサラダ。それらを笑顔で胃に収めつつ内心ふうと息をついた。大テーブルで談笑する夫妻と息子とを見やって。
美味しい食事、なごやかな家族、絵に描いたような幸せな朝──なのだけど。
問題は私が本物のエルシー・スノーフィールドではないということだ。
ここにいると自分がただの平民の少女であるのを忘れてしまいそうになる。一体どうしてこんなことになったのだろう……。
***
私──ミズリン・キーツが身を寄せていた孤児院に旦那様がやって来たのは半年前の出来事だった。外はポカポカいい天気で、私は洗い桶に浸した洗濯物の山をえい、えい、と踏んでいて、同じようにシーツを洗うほかの子供とワイワイお喋りしていたのを覚えている。
──ミズリン、この方があなたをお迎えしたいそうよ。
──あなたの顔立ちが亡くなった娘さんによく似ているんですって。
先生の言葉にみんなざわついて、それからすぐに口々にお祝いをしてくれた。お貴族様だよ、やったじゃん! 幸せになってね、ミズリン! たまには遊びにきてくれよな! と。
施設のために旦那様が用意した寄付金はクラクラするほどの高額で、私には断るという選択肢は持てなかった。だって仲間や先生の生活を楽にしたかったから。
それでも最初に旦那様の計画を聞いていればもっと悩んでいたと思う。私は養女として引き取られるのではなく、娘を亡くして心身を病んだ奥様のために臨時のエルシー・スノーフィールドとして雇われたのだから──。
「今日もよく食べられたわね。偉いわ、エルシー」
「だってどれもすっごく美味しいんだもの! この家のシェフって天才ばかりだわ」
「うふふ。だけど急がずにちゃんと噛むのよ?」
「ええ、お母様。喉に詰まると大変だものね」
奥様に呼びかけるとき私の舌は少しだけ縮こまる。私を実子のエルシーだと微塵も疑わない笑顔。無垢な眼差しにたじろいで。
四十代半ばに近いのに奥様はお綺麗だ。日に溶けそうに淡い金髪、透き通った空色の瞳、長身はすらりと伸びて姿勢も良く、半年前まで死の淵で寝込んでいたとは思えない。
──私のエルシーをどこへやったの。
──エルシーを返してちょうだい。
甦るのは繰り返されるうわ言と瘦せこけた頬の青白さ。私がエルシーの服を着て、かつらをかぶって出てきた途端に深い嘆きが止んだこと。あれから奥様は二度と娘を喪うまいと私にたくさん食べさせて、夜は早々に寝かしつける。
偽者なのになあ、と思う。衰弱死寸前だったこの人には必要な処置だったとは思うけれど。
騙しているのは心が痛い。注がれる愛情が本物だと感じるからこそ。
私は小さくかぶりを振った。とにかく今の私の役目は奥様が元気になるまでエルシー役をこなすことだ。きまりの悪さはあるけれど、上手くいけば施設への謝礼も増えるし頑張ろう。
「ねえエルシー、朝食を終えたら兄様と少し庭を歩かないかい? 昨日最初の秋バラが咲いたそうだよ」
「……! うん!」
と、仮初の兄イドワード様に誘われて一も二もなく私は頷く。秋バラと聞いて私の心は早くも浮かれ調子だった。
お屋敷に来てからワクワクすることだらけだ。孤児院ではバラなんて高級な花は植わってすらいなかった。大きな陶器のプランターからこぼれるほど咲くペチュニアも、小さな風に可憐に揺れるサルビアも。中でも私が一番気になっているのは──。
(い、いけない。また自分の趣味で頭がいっぱいになってるわ)
ハッと気づいて私は思考を落ち着かせる。なんのためにここにいるの。奥様の健康のためでしょう、と。
悩ましいのは嘘が生み出す罪の意識だけではなかった。本に人形、絵画に庭園、この屋敷には私の冷静さを削ぐものが多すぎるのだ。
「いいわね、秋バラ。お供しましょう」
取り繕って澄ました顔で私はパンを咀嚼する。本当に、難しい仕事を任されたものである。
***
さて、朝食が済むと私はさっそくショールを羽織って庭へ出た。お屋敷を囲む深緑の園は森を模して広く深く、半年経っても私はまだ全踏破したことがない。十四歳の女の子が一人で歩き回るには危険だと止められるのだ。動物が出ると言ったってせいぜいリスか小鳥くらいのものなのに。
だから私は庭を歩こうと誘われるだけで大喜びしてしまう。このお屋敷にもいつまで留まっていられるか定かではないし、機会さえあればいろいろと見ておきたいものは多いから。まあ多分、イドワード様のほうは秋バラ見物を装って私個人に話があるだけだろうけど。
「じゃあ行こうか」
「ええ」
微笑むイドワード様に頷いた。そしてすぐに彼の隣を歩き出す。
見回したのは秋の庭園。そこには華やかな春や夏とはまた違う味わいがある。赤黄に色づき始めた木々。鈴なりに垂れた小さな果実。全体にくすんだ色合いの風景だが、しっとりとした静けさが心地良い。
(あ、ポプラ。あっちはハーブ園だわ)
細い小径を歩きつつ私はあちこちに目をやった。散策はやはり楽しい。自分の立場を考えるとあまりうっとりもできないけれど。
「そこ、足元に気をつけてね」
「あ、ええ、ありがとう」
貴公子然としたイドワード様は草花や樹木に気を取られては立ち止まる私に優しく寄り添ってくれる。振り向けば青い瞳が柔らかく緩められ、妙にむず痒くなってしまった。
いたことがないからわからなけれど、兄ってこんな感じなのだろうか。奥様に似て線の細いイドワード様は物静かで儚げで、私の周りの男の子たちとは全然違う。汗など掻きそうにもないし、一つ結びの後ろ髪は跳ねたことすらなさそうだ。世の中にはこんな天使のごとき男性もいるらしい。
「君はすごいね」
と、笑顔は崩さないままでイドワード様が呟いた。瞳の奥に隠し切れない深い悲しみを宿して。
「そうしていると本物のエルシーが帰ってきたみたいだ」
「……!」
イドワード様の声に刺々しさはない。単に率直な感想を口にしただけのようだ。けれど私は鉛を飲み込んだみたいに動けなくなってしまう。
旦那様が娘の代わりを探したのは息子にそう頼まれたからだと聞いている。このままでは病に没した妹を追って母まで冥府へ発ってしまうと。つまり彼は偽者を偽者と承知で受け入れてくれているのだけど──。
「えっと……」
何と返せばいいかわからず結局そのまま黙り込んだ。するとイドワード様は苦笑を浮かべて「ごめん」と小さく詫びてくる。
「あの子は庭を歩くのが好きだった。花壇に何か見つけるたびに覗き込んでさ。後ろ姿が本当にそっくりだったから」
思い出を辿る瞳はどこか遠い。こんなとき私は酷く肩身が狭くなってしまう。死者のふりをするばつの悪さにもイドワード様は理解を示してくれたけれど。
「僕の前ではミズリンに戻ってくれてもいいからね。ずっと演技を続けるのは大変だろ?」
「あ、りがとう、ございます……」
しどろもどろになんとか私は礼を言った。気まずい理由はわかっている。彼が私の振舞いを、無理に己を捻じ曲げたものだと捉えているからだ。こんな年下の娘に別人としての発言や行動を求めることに彼もまた罪悪感を抱いているから……。
「困り事があればいつでも頼って。息抜きの相手にもなるよ」
善意の申し出に私はウッと息を詰めた。いえ別に、困り事なんてありませんと心の中で返答する。
信じがたいかもしれないけど私はほとんど素なんです。花や草木が気になるのも、秋バラに釣られたのも、私自身の反応なんです──。
「は、はい」
私が頷くとイドワード様もうんうんと頷いた。「無理しないでね」と気遣われ、更にいたたまれなくなる。
エルシー役を務めるうえで困ったことなど一度もない。なぜなら私は役柄を作り込まなくても趣味や嗜好や性格が彼女とそっくりだったからだ。
研究用にと渡された日記を読んだときは驚いた。物語が大好きで、夜空の星を見上げているのも大好きで、季節の草花をこよなく愛し、手持ちの人形すべてに美しい名をつけて大事にしていた亡き令嬢に。こうまで気性の似通った人間がこの世に存在していたのかと。
エルシーは平民の私などよりはるかに多くの書物を所有していたし、人形のコレクションも桁違いの量だったが、根っこは私と近しいのだと確信している。だって彼女の生きた痕跡に囲まれていると私はとてもしっくり来るのだ。
さながら魂の双子だ。とても他人とは思えない。
ただそのせいで悪いことをしている気分になるときがある。屋敷での生活を楽しみすぎてしまったり、必要以上にエルシーでありすぎたりして。
この半年で気づいたことだがどうやら私は何かにはしゃいで自然体になったときが一番彼女に似るらしい。旦那様もイドワード様もそういう私に目を瞠り、心痛を新たにしている気配がある。
奥様の件は仕方ない。命のかかっていることだから私だって割り切っている。けれど私が素でいるとき、旦那様やイドワード様に不要な苦しみを与えているのはやはり心苦しかった。私が私でいるだけで誰かを傷つけてしまうのが。
(こんな歪な治療法、早くやめたほうがいいんだよね……)
私はふうと息をつく。美しい花壇も小径を彩る低木も見ないようにして。
ここでしか見られないもの、触れられないものを味わうのはやっぱり一人のときにしよう。今更だけれどそう誓う。今日のこの抑えたはしゃぎかたでさえもエルシーを思い起こさせてしまうなら。
「秋バラはどっちですか? 今日は冷えるので早く見に行って戻りましょう」
促せばイドワード様は「うん」と応じて歩き出す。私は大人しく彼に続いた。
──茂みの奥、不審そうにこちらを見つめる視線には気づかないままで。
***
庭園には結局少し長居した。イドワード様と秋バラの生け垣を眺めていたら奥様がやって来たからだ。
「エルシー!」
明るい声で呼びかけられて私はちょっとドギマギする。振り返りつつ素早く仕事の顔に戻ると「お母様!」と手を挙げた。
「エルシー、イドワード、誘いにきたの。私の温室にも寄っていかない?」
半年前より随分しっかりした足取りで奥様はこちらに近づく。断る理由などないので私たちは「ええ!」「もちろん」と快諾した。
奥様のガラス温室は庭の奥の区画にある。いつもは立ち寄れない場所だ。私は浮き立つ心を静め、けれど喜んで見えるように、慎重にエルシーの顔を拵えた。役目を弁えるのだという心構えは温室を見るなり吹き飛んでしまったけれど。
「わあ……! すごい!」
上げてしまった歓声は完全に私の声だった。だって私がこのお庭で一番気になっていた花が──一つ一つ可憐な星の形をした薄紫のクレマチスが、園芸用の細い柱に、天井に、蔦を絡ませていくつも咲いていたからだ。
きっとこれがエルシーの日記にもあった『星巡り』と呼ばれる花に違いない。素敵だ、素敵だと絶賛する彼女の記録を読んだときからひと目見たいと思っていた。
なるほど確かに素敵すぎる。光に満ちたガラス温室の眩しさと相まって、目の前に広がる景色はまるで真昼の宇宙である。
「とっても綺麗……!」
ツンと伸びた六枚の花弁の中央には一条の白筋が走り、この花の星らしさを引き立てた。掴めば掌に収まりそうな中ぶりサイズなのも愛らしい。
見渡せば温室の至るところにクレマチスはひょこりと顔を出している。頭を上に向け、下に向け、私は頬を紅潮させた。蔓性植物はすぐに伸びてしまうから管理もひと苦労だろうに、どこに咲いた花も見ものだ。
「まあ、ふふふ、初めて見たみたいに喜んでくれるのね」
と、奥様がクレマチスに夢中になった私に優しく笑いかける。ハッとした私は慌てて「だって一年ぶりなんだもの!」と取り繕った。
けれどこれは失言だったようである。途端に奥様は笑むのも歩むのも止めてしまった。そうして頬杖をつきながら首を傾げて考え込む。
「一年ぶり……? 一年前って一緒に温室に来たかしら……?」
その発言に貼りつけていた作り笑いが更にぎこちなく劣化する。
ギクリとしたのは私だけではなかったようだ。静観していたイドワード様も滅多に見せない焦り顔で奥様の気を逸らし始めた。
「き、来たんじゃないかな? エルシーはこの花が大好きだしさ。ほら、温室に咲いているだけじゃもったいないって外にも植えさせたじゃないか」
「ええ、でも、あれはもっと前の話じゃなかったかしら」
「そうだっけ? けど久しぶりなのは間違いないよね」
「まあそうね。二年ぶりくらいにはなるかしらね。どうして去年はクレマチスを一緒に見にこなかったのかしら……」
「そ、そんなことよりほら! この鉄アーチの花のつきかた特にバランス良いと思わない? 庭師のセンスと頑張りが伝わるよね?」
「ああ、そうね。そこは私もお気に入りよ」
奥様はにこやかにどんな趣の仕上がりを依頼したか、庭師がどのようにその要望に応えたかを語り始める。先程抱いた疑念はけろりと忘れたようだ。
あ、危なかった。エルシーが病没したのが二年前、私がスノーフィールド家に来たのが半年前だから、一年前の奥様はまだ狂乱の中にいたのだ。咄嗟の話でも空白期間に触れるのはなるべく避けるようにしなくては。
(イドワード様、ありがとう……!)
内心で貴公子を拝むと私は今度こそ快活な笑顔を作る。それから奥様の腕に自分の指を絡め、娘らしくぴたりとくっついた。
「まあ、大きくなっても甘えん坊ね」
私の誤魔化し行為には嬉しげな微笑みが返る。奥様はそのまま温室の隅から隅まで私を案内してくれた。愛しい娘を満足させるべく盛りだくさんの解説を添えて。
「温室の外のクレマチスも来月には咲くと思うわ。あなたの十五歳の誕生日を祝うときはそれをブーケにしてもらいましょう」
そんな一言で温室鑑賞は幕を閉じた。どうやら小さな危機は乗り切れたようである。私たちは順番にガラス扉をくぐり抜け、肌寒い庭へ舞い戻った。
「ねえ、エルシー、この後はお母様とショッピングにでも行かない? あなたもブティックやカフェは嫌いじゃないでしょう?」
「わあ、本当? ついていく!」
娘を想う母の誘いを無下に拒むわけにいかない。私は元気に即答した。
本物のエルシーが死んだのはたった十二歳の秋だ。奥様には大人向けの街のカフェにもブティックにも娘を連れて行ってやれなかった。だからかこうして頻繁に私に声をかけてくる。有り得たはずの思い出を穴埋めするように。
「良かった。それじゃ私は馬車の手配をしてくるわね」
そう言うと奥様は足早に去っていく。イドワード様も母親のほうを案じたか、私に静かに「お屋敷までまっすぐ帰るんだよ?」と告げるとその後を追いかけていった。
(珍しい。外で一人になっちゃったわ)
私はゆっくり木立の道を引き返す。秋を彩る植物に目をなごませながら。
──そのときだった。突き刺すような鋭い視線を感じたのは。
「この偽者! 奥様の大事なガラス温室にまで入りやがって!」
唐突に耳を疑う言葉がぶつけられる。驚いた私は「え!?」と振り返った。私がエルシー・スノーフィールドではないことは奥様以外全員承知の事実であるが、お役目中に罵倒されるなど初めてだ。
「なんなんだよ、お前は! エルシーお嬢様を馬鹿にしてんのか!?」
見れば私に吠えてきたのは十一、二歳くらいの黒髪の男の子だった。お屋敷で働く子供など数少ないからひと目ですぐにピンとくる。彼は生前のエルシーが仲良くしていた庭師の孫のアマロだと。
「え、えっと……」
叫び声に身がすくみ、私はその場に立ち尽くした。掴みかかられそうになって思わず瞼を瞑ってしまう。けれど拳は私に届かずまた別の声が乱入した。
「こ、これ! アマロ! 何をやっとるんじゃ!」
木立からすっ飛んできたのは老齢の庭師である。彼は筋張った硬い腕で孫を私から引き剥がした。 アマロは黒い目を釣り上げて「何だよ!」と暴れたが、小柄な身体はたちまち押さえ込まれてしまう。
「申し訳ございません! これにはよく話して聞かせておきますので……!」
「い、いえ、お気になさらず」
ペコペコ頭を下げる庭師に私はそう首を横に振るしかなかった。びっくりはしたが責めるようなことではない。奥様の前でもないのだし。
「あのクレマチスは奥様がお嬢様のために育てたんだ! 偽者が気軽に触っていいもんじゃないんだからな!」
「こら! やめんか馬鹿者!」
まだ何事か叫びながら、力任せに引きずられて少年は退散していく。しばらくぽかんと私はそれを見つめていた。小さく胸をざわざわさせて。
(そうだよね……。怒る人だっているよね……)
偽者でもいいからもう一度娘に会わせてやりたいと願う人もいれば、偽者の存在自体認められない人もいる。そんなごく当然のことが心臓に突き刺さる。
私だって大好きな両親の真似をする者がいたらどんな気持ちになることか。アマロはエルシーの幼馴染だ。治療のためでも許せないものがあるのだろう。
「…………」
綺麗な花を見た後なのに私の足は重かった。
街でのひとときを楽しむ奥様の前ではなんとか笑っていたけれど。
***
自分によく似た死者のふりをして暮らすのは思ったよりも気疲れする。
これは仕事だ。あるがままに笑って楽しんで「エルシー」としてのひとときを享受すればいい。そう思うのにどうにも心が咎められて。
食事の席で奥様に「偉いわ。全部食べられたのね」と褒められるたびに麦粥も飲み込めなくなった病気の少女に思い馳せずにいられない。「子供は元気が一番よ」と事あるごとに繰り返す奥様の深い後悔に。
『お母様が温室のクレマチスを分けてくれたわ!』
『よく育つようにアマロにいっぱい相談しなきゃ!』
日記の中のエルシーは溌剌として死の予兆さえ感じさせない。高熱で意識が混濁した後は見る間に衰弱したそうだから自分でも二度と目覚められないとは思いもしていなかっただろう。そのうえ死後に偽者まで現れるとは。
ここにいると何が正しいのかわからなくなってくる。最優先は奥様で、危険な精神状態を脱するまでは「エルシー」としてそばにいる必要がある。それだけは心得ているけれど。
でも奥様が自発的に夢の世界から抜け出すなんて有り得るかしら?
表面上は健康になってきていてもあの人はまだ──。
「浮かない顔だな。街は楽しめなかったかね?」
ハッと私は面を上げた。「あっ、いえ、そんなことは」と慌てふためいて否定する。
いけない、いけない。疲れのせいか少しぼんやりしていたようだ。今は一日の報告を旦那様に行う大切な時間なのに。
「奥様に新しいドレスを買っていただき、カフェではタルトをごちそうになり、私もゆったり過ごさせてもらいました。奥様も満足そうなご様子でしたし、治療としてもいい時間だったのではないでしょうか?」
今日の出来事は以上です、と締めくくる。なるべく平静を保って。
庭師の孫に絡まれた話はしなかった。報告したらアマロが処分されてしまう気がしたから。
私が笑顔で執務室に立っていると大きなデスクに腰を下ろした旦那様が眉をしかめ、小さくない溜め息をつく。旦那様のこういう顔にはもう慣れた。慣れたから次に来る言葉もなんとなく予想できた。
「……本当にすまないな。おかしな頼みを引き受けてもらって」
旦那様には私の表情が作られたものか否か判別できるようである。気遣いの感じられる目が私を映してまた歪む。
「時々は時間を作ってミズリン・キーツに戻ってくれ。こちらも一日くらいなら自由に過ごしてもらえるように調整する」
イドワード様と似たようなことを言うのだな、と私は思わず口元を綻ばせた。旦那様も私に対して申し訳なく感じてくれているようだ。
誰も悪くない、と思う。いろんなことがねじれてしまっているけれど、みんなただ守りたいものがあるだけだと。
「私なら大丈夫ですよ。エルシーお嬢様とは気が合うみたいで演技してるって感じがほとんどありませんし」
嘘ではなかった。似ているがゆえに悩む日もあるがそんな苦痛は知れていて、スノーフィールド家の人々の苦しみの比ではない。
旦那様はまだ何か言いたそうにしていたが、かぶりを振って前を見据えると私と青い目を合わせた。血は繋がっていないけれど私と同じ色をした。
「君のいた孤児院への謝礼は弾むよ。もうしばらく妻を頼む」
「──はい」
金銭というわかりやすい報酬を示してもらえると私の中のもやもやも少しは晴れるような気がする。それに奥様が買ってくれた服や靴を自分のものにするよりは、贈り物は返上して別に給金を渡されるほうが私の性にも合っている。
ぺこりと一礼して私は執務室を後にした。
そうしてまた作られた夢の日々に戻っていった。
***
土台の不安定さはともかく私の職務は順調だった。イドワード様や旦那様が時にハッとするほどに私は「エルシー」をやれていたし、奥様も自分が死の淵にいたことなどすっかり忘れて毎日笑顔で過ごしていた。
奥様はもう私の姿が見えなくてもお屋敷を探し回ったり不安で泣き出したりしない。一日に数度も顔を合わせれば十分落ち着いている様子だ。
だから油断したのだと思う。私は私のこの役目を最後まで果たし通せると。
それは「エルシー」の誕生日を一週間後に控えた日曜の夕方だった。
私は家族の団欒に使う居間のソファで物語を読んでいた。
いつもならまだ読んだことのない本を手に取るのに、その日に限って私は昔親に読み聞かせてもらった本を棚から選んでしまったのだ。
読書は気をつけないといけない。花を見るより星を見るより没頭してしまうから。けれど同時に読書は安全でもあった。上品な伯爵家の人々は文章を読んでいる人間の邪魔をしたりしないからだ。花や星なら隣で一緒に見ようと考えるかもしれない。でも本は、基本的に一人だけの楽しみだった。
(懐かしいなあ、このお話。初めて読んだときはまだ文字を知らなかったから、何回もママに続きをせがんだっけ)
私は分厚い本のページをぱらりとめくる。内容は覚えていた通りだった。幼い少女が親を亡くし、森の魔女に弟子入りする幻想譚。少女が徐々に魔女と家族になっていく描写が温かで微笑ましい。
遠く離れた別々の場所でエルシーと同じ話を読んでいたなんて不思議な気分だ。きっと彼女も私と同じ場面を読んでドキドキし、同じところでホッとしたのだろうなと思う。私たちはあまりにも同じものばかり好きだから。
ページをめくる。物語を読み進めるたびに私は私を忘れていく。自分の名前が「ミズリン」なのか「エルシー」なのか、五分もすればもう意識の外だった。
ページをめくる。もっとめくる。熱中は次第に疲労を引き寄せた。くあぁ、と大きなあくびをかいたのは本の半ばを過ぎた頃のことだったか。
眠気というのは一度まとわりついてくると容易に去って消えてはくれない。私はソファに背を預け、ついウトウトと目を閉じた。
幼い頃に好きだった本を読んだこと、お屋敷での生活にすっかり慣れたこと、忘れかけていた家族の温もりに触れたこと。そのうちの何が要因だったのかはわからない。わからないが、私は古い夢を見た。
遠い、遠い日の懐かしい夢を。
小さな木の部屋。つましいベッド。そこに私とママが二人で並んでいる。少女と魔女の本を開いて。
優しくて綺麗で賢くて、読み書きだってできるママ。私が将来飢えて困ったりしないようになんでも教えてくれた人。
花が好きで、星が好きで、人形が好きで、物語が大好きで、そんなママを私は本当に愛していた。
パパが死んでから本はほとんど手放したし、私がしきりに見せてとねだった星くず石の結婚指輪も質に入ってしまったけれど、どんな夜も温かな手が頭を撫でて髪を梳かしてくれたことは今でもずっと覚えている。
大好きな優しい手つき。花のような甘い香り。喪うなんて考えてもいなかった。
もし私がママより先に死んでいたらママも私を探したかな?
奥様みたいによその子を私だと思い込んだかな?
それはなんだか悲しい気がする……
「ママ……」
ぽろりと口からこぼれ出たのはもう会えない人を呼ぶ声。自分の寝言で目が覚めて、私はハッと私の髪を撫でる誰かに気がついた。
「…………ッ!」
息を飲む。いつの間にか私の隣に腰かけていた奥様に目をやって。
聞かれただろうか? 街娘の使う呼称を。到底貴族らしくないそれを。
「あ……」
かつらの下の地毛も見られたのではないかと私はソファで凍りついた。
奥様はキョトンとした目で私を覗き込んでいる。それがどういう表情なのか私にはとても測り切れない。
呼吸もできずに何十秒硬直していただろうか。やがて奥様は夢見心地の顔に戻り、優しい声で囁いた。
「こんなところで居眠りしては駄目よ、エルシー。風邪を引いてしまうわ」
熱が出たら大変よ、と続いた言葉に心底から安堵する。
その直後、私はもう一度不安の底に突き落とされた。
「ねえ、笑わないで聞いてちょうだいね。今なぜか一瞬あなたが別のお嬢さんに見えてびっくりしたのよ。成長期だからかしら? 子供って少し見ないうちにどんどん変わっていくわよね」
「────」
私はもう会話や読書どころではない。引きつった笑みを浮かべて「それで変な間があったの?」などと明るく尋ね返し、返事を聞くのもそこそこに本を閉じて立ち上がった。
「あ、私、ちょっと用事を思い出したわ。また後でね、お母様」
動揺を無理やり抑えて私は居間を後にした。逃げるように無人の廊下を一人早足で駆け抜ける。
──どうしよう。
──どうしよう。どうしよう。
偽者だとばれてしまったら奥様はまた死の国に向かうかもしれない。
元々が似ているから大丈夫だって気を抜いてしまったんだ。奥様と出くわす可能性のある場所では素になっちゃいけなかったのに。
ああ、私──最悪だ。
***
駆け込んだのはイドワード様の私室だった。不在かもしれないと思いながらノックをすれば「どうぞ」と穏やかな声が返る。この半年、私は一度もこの人に困り事の相談なんてしなかった。だから彼は青ざめきった私を見やってとても驚いたようだった。
「どうしたんだい? 何かあった?」
「あ……っ」
かじかむ舌で、震える声で、私は先程起きた出来事を打ち明ける。完全に私のミスだ。責められても仕方ない。そう思うのにイドワード様は小さな溜め息すらつかなかった。むしろ彼は口元をやわらげて私に笑いかけてくれる。
「そうか。話してくれてありがとう。大丈夫だから落ち着いてね。まだそんなに焦る状況じゃないはずだと思うから」
「……! はい!」
その言葉で私の目尻を濡らす涙は一旦奥に引っ込んだ。旦那様にも知らせに行こうと言う彼に、私は唇を引き結んでこくりと頭を頷かせる。
廊下を移動する間、イドワード様は私の手を握ってくれた。「いやかな?」と聞かれたけれどブンブンと首を横に振る。今の私にはイドワード様の気遣いかとても心強かった。本物の兄のようにそばについていてくれることが。
私たちは夕暮れ前の執務室に歩を速めた。
面会を求めると旦那様はすぐに扉を開いてくれた。
「勘付かれたかもしれない? エルシーが別人だということに?」
「はい。申し訳ありません。私がその、うっかりして……」
強面をしかめた旦那様に私はもう一度イドワード様にした説明を繰り返す。今度こそ叱られる覚悟をしたが考え込んだ旦那様が出した結論は私には意外なものだった。
「いや、そろそろ真実を伝えるときが来たのかもしれない。今までの君の働きで妻も随分回復している。……現実と向き合う好機なのではないか?」
旦那様はこう続ける。一瞬でも娘がほかの人間に見えたのは頭が矛盾を理解している証拠だと。心のほうも今ならついてくるかもと。
「………………」
私はごくりと息を飲んだ。そんなに上手く行くだろうかという疑念と、上手く行ってほしいという希望が胸でせめぎ合う。
表面上は平和でも私が「エルシー」で在り続けるのが不自然なのは間違いない。やめられるなら終わりにしたい。私のためにも、奥様のためにも。
だってやっぱりこの先一生本物の娘のことを忘れたままなんて悲しすぎる。奥様が愛しているのは私ではなくエルシーなのに。
「そうだね……。確かに今がいい機会かもしれないね……」
私の隣でイドワード様もそう呟く。私たちは互いを見やって頷き合った。旦那様の提案で、奥様に「エルシー」の正体を明かすのは夕食後にしようという運びになる。──結果は散々だったけれど。
***
私たちは医者ではない。けれど医者に匙を投げられた奥様に手を差し出せたのは私たちだけだった。
こんな治療では骨が曲がったままになる。わかっていてもぱっくりと開いた傷をとにかく塞がねばならなくて、激しい出血が収まったら収まったでみんな静かに途方に暮れていたのである。
奥様に自力で立ち直ってほしい。自分で正気を取り戻し、自分で「エルシー」が何者か気がついてほしい。願っていた未来の片鱗がちらついて、私たちは少し迂闊にそれに飛びつきすぎたかもしれない。
奥様を呼び出したのは居間だった。「娘が別人に見えた」のがこの部屋なので場所は変えないほうがいいだろうと旦那様が言ったからだ。
花瓶や絵皿やペーパーナイフ、見てわかる危険物は事前に取り除いておいた。混乱した奥様が凶器に成り得る道具を手にしないように。
卒倒する可能性も考えて私たちは全員ソファに着席した。奥様を挟んで右に旦那様が、左にはイドワード様が。どちらにふらついたとしても支えられる算段だ。
私は奥様の真向かいの一人席に腰かけた。どきん、どきんと心臓を跳ねさせて。
「どうしたの? 改まってこんな風に集まって……」
奥様は青い瞳をぱちくりと瞬かせる。その無防備さに私は少し怖くなる。
何の身構えもない人に与えるには打撃が大きすぎやしないか。けれど痛みは、どうせずっとは避けられない類のものだ。
「うん、実はさ……」
切り出したのはイドワード様だった。この中で一番声が柔らかくて、偽の妹を用意するのを思いついた最初の人。
「薄々気がついていたんじゃないかと思うけど──」
その後のことは、最悪よりも最悪だったと言うほかない。
私たちは失敗したのだ。
奥様を闇から救い出すことに。
「──ッ馬鹿な話をしないで!! エルシーが偽者のはずないでしょう!?」
お屋敷中に轟くような絶叫に私はびくりと肩をすくめる。言葉もなく、表情もなく、エルシーの死と私の雇用について聞いていた奥様は、唐突に立ち上がると怒りで額を青ざめさせた。
手負いの獣が毛を逆立てて外敵を威嚇するように奥様は長い金髪を振り乱す。いつもは慈愛に満ちた双眸も今はひたすら憤激し、不愉快な説明を撤回しないイドワード様と旦那様を激しく睨みつけていた。
「エルシーは私の可愛いエルシーだわ! ほら、よく見て!!」
私の腕を引っ張って騒ぎ立てる奥様を旦那様がどうにか宥める。けれど興奮状態は容易には収まらず、奥様は喉が裂けるんじゃないかと心配になるくらい大声で怒鳴り続けた。
「嘘よ、嘘! 全部嘘に決まってる!! 私からエルシーを奪わないで!!」
奥様は痛いほどの力で私を抱き寄せる。その姿が玩具を取り上げられまいとする子供のようで私は胸が苦しかった。
子供にとって時に玩具は世界のすべてだ。失えば美しい夢は破壊される。
奥様はまだ真昼に見る夢がなければ一人で立って歩けないのだ。その手から杖をもぐのが早すぎた。
「ねえ、あなたは私の娘よね!?」
鬼気迫る顔でそう問われ、私は頷くしかなかった。
外すつもりでいたかつらには触れもせず、私は奥様を抱きしめ返す。
心の中でごめんなさいと繰り返して。
「うん、うん、お母様。私はエルシー・スノーフィールドよ……」
奥様の病状が急激に悪化したのは言うまでもない。半年前の逆戻りだ。
始終不安に駆り立てられ、私のそばをついぞ離れない奥様はまともな生活ができなくなった。旦那様にもイドワード様にも猜疑と敵意の目を向けて、食卓ももう囲めない。
私にはメイクを落とす時間どころか整える時間さえ持てなかった。ミズリン・キーツに戻れるのはお屋敷が寝静まった深夜の数時間だけだった。
「ねえエルシー、あなたは私のエルシーよね?」
一日に何度も何度も奥様が心細そうに尋ねてくる。崩れたメイクもほつれたかつらも目に入っているはずなのに。
私を隣に座らせて、さめざめ泣きすがってくる。
手を握り、慰める以外私に何ができただろう?
──そうして一週間が過ぎ、エルシーの誕生日がやって来た。
***
リボンと花で飾りつけられたお屋敷は華やかだった。まるでなんの不幸にも見舞われていない幸福な家のように。
空は澄みきった秋晴れで、心ばかりが重たく暗い。ガーデンパーティーの主役として豪勢に着飾っていても今日は「貴重な経験をしている」と浮かれるなんて不可能だった。
庭園を一望してみるが笑顔の人間は一人もいない。旦那様も、イドワード様も、慣習的に集められた使用人たちも、庭の真ん中に立つ私と奥様を気遣わしげに見やっている。
遠巻きな輪の中に黒髪の少年を見つけて私は思わず息を飲んだ。「この偽者!」と憤る声が私の耳に甦る。
彼──アマロも奥様に何が起きたか聞いたのだろうか。こちらをきつく睨む目は先日のそれよりも鋭い。
(嫌われて当然だよね。偽者のくせにその役もこなしきれなかったんだから……)
せっかく用意してもらったテーブルの料理も菓子も食べる気になれなかった。これはエルシーのためのものだ。頭の中で響く声が私の足を縫い止める。
けれどいつまでもぼうっと突っ立っているわけにもいかない。パーティーは私が動かねば始まらないし終わらないのだ。
「エルシー、たくさん食べてね。料理長に頼んであなたの好きなリンゴタルトを山ほど焼かせたんだから」
私にそう笑いかけてくる奥様は、私が本当にリンゴタルトを喜ぶかこっそり試しているようだった。どうするべきかわからないまま私はエルシーのふりを続ける。
「ありがとう、お母様。とっても美味しそうだからお母様もたくさん食べてね」
奥様はもうこれがままごとであることに気がついていると思う。だって少し前までは私が「エルシー」であることにもっと確信を持っていた。目を泳がせて逸らすことも、逆につぶさに顔かたちを観察することもなかったのだ。
「お誕生日おめでとう、エルシー」
奥様がお祝いの言葉を告げると同時、使用人一同がそれに合わせて拍手した。と、固まっていた庭の空気がわずかにほぐれ、多少はパーティーらしい雰囲気が流れ出す。
私は切り分けてもらったタルトを無理やり飲み下した。旦那様が合図すると使用人にも飲食が許可され、わいわいと話し声が大きくなる。
歓談の雑音が今はありがたい。すぐそばで奥様がぼそぼそ呟く「この子は私のエルシーよ」との言葉まで紛らせはできなかったが。
(奥様……)
私はぎゅっと指先を握り込む。
この人をこのままにはしたくない。だけど私にはできることなんてもう何もない気がした。夢から覚めかけたこの人を、夢のほうにも現実のほうにも促してあげられない。手をこまねいて見ているだけだ。
「そうだ、そろそろプレゼントを渡しましょうか」
ぽんと両手を打った奥様はいやに明るくテーブルに積まれた箱を持ち出した。
開かれた包みから取り出されたのは青と水色の宝石が散りばめられた首飾り。奥様は「あなたが十五歳になったら人生の記念になるアクセサリーを贈りたいと思っていたの」と微笑んだ。
首飾りは奥様が、奥様の実母から受け継いだ品だという。頂戴したのはやはり十五になった日で、そのときから奥様は自分の娘に首飾りを引き継がせる日を心待ちにしていたのだと。
「気に入ってくれたかしら?」
問いかけながら奥様は私の首に鎖をかける。本来ならエルシーがつけるはずだったネックレス。渡せなかった宝物。
「ありがとう……」
返した声は震えて少し掠れていた。美しい石に触れた指も。
その後も旦那様やイドワード様が私に贈り物をくれた。と言ってもこれらは形だけのことで、出先で奥様に買ってもらったドレス同様に伯爵家にそのまま返却するのだが。
使用人たちも代表らしい数人が私のもとへと寄ってくる。こちらは返さずに済むような花や焼き菓子のプレゼントを用意してくれていた。
最後に私の前に立ったのはアマロだ。彼の手にも美しいブーケがあった。
星の形の薄紫のクレマチス。エルシーの愛した花。そしてアマロがエルシーと育てた大切な思い出の花。『星巡り』。
黒々とした彼の両目は射抜くように私を見た。瞬間、嫌な予感が湧き上がる。
アマロは私の身を飾るネックレスに冷めた視線を送った後、何本もの花々を束ねたブーケに手を突っ込んだ。少年の細腕が掴んだのは隠されていた小さな霧吹き。水もたっぷり仕込まれた。
直感的に何をされるか理解する。けれど顔を庇った両手はとてもじゃないが間に合わなかった。咄嗟にぎゅっと目を瞑ることができたくらいで。
「偽者があの人の居場所を奪うなよ……!」
エルシーに似せた私のメイクを台無しにするためにアマロは水を吹きつける。怒りに満ちた大声で彼は私に吐き捨てた。
「この花はお前のための花じゃない! エルシーお嬢様の花だ!」
アマロの叫びが空気を揺るがす。
私が何か言う間もなかった。彼は周囲から飛び出した使用人たちに首根っこを押さえられ、芝生に身体を転がされた。
老いた庭師が駆けてきて「申し訳ございません! 申し訳ございません!」と平謝りで無礼を詫びる。旦那様もイドワード様も顔面蒼白で奥様を振り返っただけだったけれど。
「…………ッ!!」
かつてこれほどの緊張がこの家を見舞ったことがあっただろうか。
傍らで私を見守っていた奥様は庭師の孫の狼藉に激昂を露わにした。普段は穏やかな人なのに、わなわなと肩を震わせて「エルシーになんてことを……」と真っ赤な顔で力いっぱい拳を握る。
愛情が暴走しているのかもしれない。今の奥様は私を「エルシー」と思い込むためにより一層強い感情を必要としていたから。
「お前……ッ! 今まで良くしてやったのに! よくも私の可愛い娘に暴力を振るったわね!? 屋敷から追い出してやる!」
いけない、と私は思わずアマロの前に躍り出た。奥様が振り上げた掌はぶんと空を切り裂いて私の頬を張り飛ばす。
「……っ!?」
痛みはさして感じなかった。今はそれより大事なことがほかにあった。
たら、と顎を伝った水が地に落ちる。化粧はきっと無残なことになっているし、今の衝撃でかつらもずれたかもしれない。
魔法は解けてしまったのだ。
ならばもう、私は私の言葉でこの人に語りかけるしかない。
「おやめください……! この子が誰のために怒ったのかわかるでしょう!?」
決死の覚悟で訴える。両腕を広げ、庭師の孫を庇いながら。
アマロもまたエルシーを愛していたのだ。家族のようにか友人のようにかは知らないが、きっと奥様と同じように、エルシーという女の子を。
「罰してはいけません……! この子はエルシーお嬢様の大切な友達なんですから……!」
声の限りに私は叫ぶ。強く奥様の目を見据えて。
あってはならない。夢と現実を取り違えてエルシーの宝物を捨て去るなんて。
奥様に必要なのは偽の娘などではなく、ともに同じものを愛し、ともに痛みに耐えてくれる人のはずだ。
「お願いですからおやめください……!」
必死なだけの無様な懇願。届くかどうかもわからない。
私は奥様を見つめた。奥様も私を見つめていた。
震える青い目を瞠って。
──そうして長い沈黙が過ぎた。
「…………そう。あの子はもういないのね…………」
ぽとりと声と水滴が落ちる。
夢から覚めた奥様は芝生に散らばったクレマチスを拾い上げ、呆然とそこに立ち続けた。
***
──それから。エルシーの誕生日が明けた三日後、私はイドワード様と庭園のガラス温室に出向いていた。解雇には至らなかったものの二日間の謹慎処分を受けたアマロが職務に復帰しているはずだからだ。
「あ、いた」
私が彼の黒髪を見つけて近くに歩んでいくとアマロがバッと振り返る。蔓に埋もれてクレマチスの剪定をしていた少年は、目が合うなりすごい勢いで頭を下げて直角に腰を傾けた。
「ごめん! この前は本当に悪かった!」
温室中に響く声に私はハハ……と小さく笑う。
「そんなに何度も謝らなくても大丈夫だよ。誤解なら解けたんだし」
かぶりを振りつつ応じるとアマロは肩を縮こまらせて「うう……オキヅカイイタミイリマス……」と覚えたてらしい感謝の言葉を口にした。
恥じ入る姿を見ていたらだんだん気の毒になってくる。私は気にしてないよとは何度も伝えたのだけど。
(まあ、でも、スケールの大きい勘違いって恥ずかしいよね……)
アマロは私が「エルシーに成り代わり、お屋敷を乗っ取ろうとする悪女」だと思い込んでいたそうだ。なぜそんなことになったかというと、奥様の精神状態を考慮してみんな歯に衣着せた断片的な説明しかしなかったのが原因らしい。
彼にとって私は突然現れた不審人物でしかなかった。どこから来たのか、何が目的なのかもさっぱりわからない。ただ旦那様にも奥様にもイドワード様にもエルシーの名で呼ばれている。
あまりにも意味不明なのでアマロは独自に使用人のお喋りなど立ち聞きして私の調査をしたらしい。その噂話の中の一つにロマンス小説の感想が混じって『悪女ミズリン』が爆誕してしまったようだ。
以来彼は私を敵視するようになった。庭師の祖父から詳細かつ正しい経緯を知らされてもその頃には認識修正不可能になっていて、「奥様の治療のためとか言ってみんなあの女に騙されてるんだ」としか思えなかったと──。
(アマロには申し訳ないけど、なんだかちょっと可愛いわ……)
私は頬に力をこめて緩みかけた口元を引き締める。少年は気まずげに、けれどまっすぐに私を見やって改めて深く礼をした。
「あの、本当に、庇ってくれてありがとう」
奥様の状況も知らずに浅はかなことをした、と彼は言う。もっととんでもない事態を引き起こすところだったかもしれないと。
とは言え結果だけ見ればあれが最も功を奏した荒療治となったのだ。謹慎が二日程度で済んだのも怪我の功名ゆえだろう。
「……エルシーお嬢様のふりはもう、しなくても良くなったんだな」
と、アマロがしみじみ私の格好を眺めて言う。
今日の私はノーメイクで、ヘアスタイルも地毛を晒した茶色のボブで、お嬢様らしく見えるのは仕立てのいい服と靴だけだった。
「うん。必要なくなったから」
答えつつ私は微笑む。脳裏には三日前、奥様と交わした会話が甦った。
──あなたがずっとエルシーの代わりをしていてくれたのね。
──長い時間がかかったけれど、やっとあの子にお別れを言えた気がするわ…………。
少し憔悴してはいるものの奥様はお元気だ。食事も取れるし不眠に悩んでもいない。何より私に「ミズリン」と呼びかけてくれる。
──私たちが永久に喪ったと思っていた温かい時間をくれてありがとう。
──思い返せばあなたはやっぱりエルシーとはどこか違っていたのだけど、この屋敷にひととき光が戻ってきたようだったわ……。
こうしてすべてが終わってみると奥様には私という「世話を焼く相手」がいたことも良かったのではないかと思う。親を亡くした悲しみを私が引きずらずに済んだのは孤児院に年少の子供がたくさんいたからだ。
自分で思っていたよりは支えになれていたのだろう。ならきっと、エルシーも私が彼女の名を騙ったのを許してくれると信じたい。
「私こそごめんね、アマロ。事情はどうあれイヤだったよね。赤の他人が大事な友達のふりして生活してるなんて……」
私は彼に頭を下げる。会いにきたのはこれを伝えるためだった。パーティーのときはドタバタしていたし、奥様優先でほとんど話せなかったから。
私はずっと誰かに謝りたかったのだ。必要な偽者だったとわかっていても。
「いいよ、もう、やめてくれよ」
アマロはぶんぶん首を振る。それよりも、と彼は神妙な顔で続けた。
「仕事が終わったんだったら……あんた屋敷を出ていくのか?」
問いかけに私はピシリと硬直する。「え、えっとぉ、それはぁ……」と濁しているとこれまで黙って見守っていたイドワード様が私の横から顔を出した。
「ミズリンは僕たちのたっての希望を受け入れてスノーフィールド家に残ってくれるんだったよね?」
儚げな微笑を向けられて私はウッと身を反らす。儚げなのに圧が強い。有無を言わせない凄みがある。
「そうなのか? じゃあ今度のお詫びに好きな花植えてやるよ!」
アマロにも無邪気に喜ばれ、私は弱り果ててしまった。
そう──お屋敷ともこれでお別れと思ったのに、なぜか私は伯爵家の正式な養女として貰われることとなったのである。
──君がいなくなると思うと寂しいな。
そう言い出したのは旦那様だ。鋼のごとく表情の動かない人だけど、口にする言葉には偽りがない。
イドワード様もすぐに乗っかって「久しぶりに家にいて楽しいと思えたもんね」と同調した。「叶うならこのままずっとうちにいてほしいよ」と。
奥様まで「あら、いいわね。私も賛成だわ」と頷いたときは驚いた。まだ私にエルシーの面影を重ねているのなら危険である。今後は拭いがたい差に苦しむことになるかもしれない。言葉を尽くして諭したのだが。
「ミズリンはずっと僕たちの気持ちを第一に考えてくれてきた。だから僕らはこの恩をできるだけたっぷりと返したいんだ。アマロ、君もミズリンに良くしてあげてね? 言わなくてもわかっていると思うけど」
イドワード様の──否、お兄様からの声がけにアマロは「はい!」と背を正す。
「お任せください! 俺は、えっと……ミズリンお嬢様? に誠心誠意お仕えすることを誓います!」
ひいっと私は縮こまった。ミズリンお嬢様だなんて私には不似合いすぎる。
(今まではお嬢様って呼ばれても平気だったけど……!)
慣れないもぞもぞした感覚に私は一人身をよじった。スノーフィールド家に入れてもらったのはとても嬉しいことなのだが、戸惑いもしばらく続きそうだ。
(新しく家族になりたい、か……)
私もこの半年余りで旦那様や奥様を他人とは思えなくなった。つらそうなら手を貸したいし、悲しそうなら涙を拭きたい。できればそばで幸せな彼らを見ていたい。
そういう気持ちを積み重ねた先にあるのが家族の絆なら、始まりは偽物でもいつか本物になれるかもしれない。
「それじゃそろそろ行かなきゃね」
お兄様が私の手を取って温室の出口を振り返る。外には私たちを迎えにきたらしい養父母の姿があった。
「ミズリン!」
奥様が私に手を振る。エルシーに向けていたのとはまた少し違う笑顔で。
悲しみが去ることはないだろう。
でも誰でも、新しい喜びを迎えることはできるはずだ。
「はーい!」
私は明るく手を振り返した。今日はこれから四人で街に赴いて、新しい部屋の新しい家具を揃える予定だ。いつまでもエルシーの部屋に間借りするのも悪いから。
この先は、私はエルシーの穴を埋める存在としてではなく、ただのミズリンとして彼らと過ごしていく。秋と冬と春と夏と、その次の秋と冬も。
偽者だけど伯爵家の娘として溺愛されます(完)