1-2 夜の海と輝く泡
隣国の姫と王子の船旅は、二人の結婚を華やかに祝うために行われたものだった。綺羅びやかな宴。美しい舞。酔いしれる酒に、とろけるほど美味な料理。
二人の愛を育むための船旅には、コックに踊り子、警備にメイド、お偉いさんになぜか若い娘まで、老若男女が入り乱れた大人数の船旅だった。
君の美しい踊りも見せて欲しいと、人伝に王子が言ってきた。意味がわからない。ぜひとのことだったが、声が出ないのをいい事に、切なげな顔でふるふると頭を振るだけで周りは納得してくれた。声が出ないのも便利な時もあるらしい。まぁ文字は書けるんだけどね。しれっと盛り上がる輪のなかから外れ、のんびりと船縁にもたれかかる。
遠目に王子が姫とイチャついているのが見える。この中で踊れって?鬼畜もいいところだ。呪いの踊りすら踊ってやりたくないわ。やれやれと心の中で悪態をつく。
そうしてうまく距離を保ちながら、船酔いしそうな残念な船旅を耐え忍んだ。船に缶詰になった人魚だとか笑えない。早く陸に上がりたい。そんな気持ちだった。
これ何日続くんだろう……と不安に思った次の日の夜中。幸いなことに、その船旅は終わりを迎えた。
月の出た静かな夜更け。
船は王宮のある静かな入江に碇を下ろした。
予定より早くついたのだろう。みな今日は船の中で眠り、朝になったら下船するとのことだった。
もちろん王子は姫と仲睦まじくベッドの中だ。ある意味良かったのかもしれない。私の部屋に来られても困るのだから。
キョロキョロと辺りを見渡す。もうこの船の中はうんざりだ。誰もいないのをいい事に、船上から海に降りるためのはしごを伝って船から降りた。
備え付けられていた小舟で浜辺まで行き、靴を手に持ちスカートを捲りあげ、ちゃぷんと浅い砂浜に足をつける。
冷たい海水が足元をさらい、少しぶるりと震えた。流石に夜中は海水も冷たい。パシャパシャと浜辺を歩いて、白い砂浜に足をのせた。
美しい、入江の白い砂浜。ここは、メルルが溺れた王子を送り届けた場所。そして、海の魔女の薬を飲み干し、人魚であることを捨て、人となった場所。
海で一番だという美しい声を失い、家族の元を離れて王子のもとへ向かったメルルは、とても幸せそうに、王子の側で過ごしていた。
切ない気持ちになりながら、メルルの記憶をたどる。声を出せずに、伝えられなかった沢山の気持ち。せめて……と、やるせない気持ちになる。
せめて、メルルが、文字を知っていたら良かったのに。
紙もペンも無い、穏やかな海の底で生きてきた人魚のメルルは、文字も手紙も知らなかった。
流木の枝で、砂浜に『メルル』と文字を書く。しっとりとした砂に書かれたそれは、再び押し寄せた泡立つ波によってあっと言う間に見えなくなり、攫われるように消えて無くなった。
切ない気持ちでそれを見る。
メルルの魂は、今どこに――
そうして、思いに耽ろうとしたときだった。
ぞわりとした悪寒が、あたりの空気に満ちた。
――何、これ!?
明確な、おぞましい何かを感じて身を震わせる。緊張の中、注意深く耳を澄ますと、大きな岩陰の向こう側から何か声が聞こえた。
そっと白い岩肌の影から向こう側を覗く。
「まさか、こンなに簡単に、やラレちまうナンてなァ?」
小さな子供が、砂浜に立っている。上品な服に整った髪。それなのに、その目は赤く割けるように光り、口は禍々しく歪み、そして黒い煙のような何かを体中に纏っていた。
明らかに人ではない何か。
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「人ってノハ、簡単ニ戦力がおチる。とくに、権力者と子供を見セルと、傷ツケられなクテ、手モ足も出ナイ」
「……クソっ、たれ」
もう一つの声にハッとする。目を凝らすと、暗がりの浜辺には、もう一人の男がいた。くたびれたローブに、乱れたやや長めの黒髪のその男は、崩れ落ちるように浜辺に膝をついていた。
「クク、他国を助けヨウとシて、死ヌ気分はドウだ?」
禍々しい黒い煙が膝をついた男に纏わりつき、苦しそうに男が呻く。
「醜い欲に、まみれるよりは、マシだ」
「ハ、エラいねぇ。流石りっパな国のオ方ダヨ。でモ分カッタだろウ?無駄ナ正義ナンテ振りかざスもんジャないシ、オレノ妖術二お前タチの魔術ハ効かナイ」
「今日、効かなかった、だけだろ」
「強気だネェ。そうカもね。残念ナガら、次ハ無いケド」
黒い煙が怪しく蠢き、紫色の光を放つ。
「死ネ」
紫の光がギラリと強く光り、次いで辺りは暗闇に包まれた。
ドサリ、と男が倒れる音。
それから、その人ではない何かは、子供の身体とは思えない強い力で男を片手で引きずると、砂浜に乗り上げていた古いボートに乱暴に乗せ、暗い海に向けてボートを蹴るように送り出した。
ザァ、という波音に乗り、ボートは沖へと流れていく。
恐らく、離岸流に乗ったのだろう。ボートは川に流されるように緩やかに沖に向かって流れていった。
それを見届けると、人ではない子供のような何かは、子供らしからぬ足取りで静かに陸地の方へ消えていった。
――死んでしまったのかしら。
暗がりの中、見えなくなりそうなボートに目を凝らす。
話していた内容からすると、男は他国の人間で、この国を助けようとして失敗したようだった。
あんな子供の様な得体のしれない危ない者がいること自体、恐ろしいのだけど。
――醜い欲に、まみれるよりは、マシだ。
男が言ったその言葉が頭に浮かび上がる。
祖国を離れ、帝国の豪華な王宮の中で虐げられながら、何度も思ったその気持ち。他人の口から語られたその言葉が、どうしても頭から離れなかった。
ちゃぷんと、波の中に足をつける。
それから、弾かれたように海の中へ駆け込んだ。腰まで冷たい海に浸かり、海の中で前へ進もうともがく。
緩く舞い上がる砂を蹴り進むが、波にもまれ早く進めない。泳ごうにも、何故か泳ぎ方が分からなかった。
そう、『私』は、大きな尾ひれのある泳ぎ方しか知らない。
そうしている間にも、船はゆるゆると進み、波間に消えていく。風が、焦ったように、ビュウと音を立てて吹いた。
見失う――!
一気に深くなり、ざぶん、と頭が海水につかる。瞬間、大きな魚影が目の前を横切った。
二匹の、自分の胴体より大きな魚。
引き締まった流線型のその体には、銀の鱗が滑らかに輝いている。
直感で分かった。この子達は、私を助けに来てくれた。
その二匹の硬い背びれに捕まると、二匹は私の身体を両脇から支えるように、海面スレスレを泳ぎ始めた。
海面に顔を出すと、ボートがぐんぐんと近づいてくる。
月の光がほのかに反射する漆黒の冷たい海の中を、私と二匹の魚が、滑るように進んでいく。
しばらくして、ちゃぷんと音を立てて、私はボートに手をかけた。
さすが人魚。魚に助けてもらえるなんて。昔は美味しそうな魚だなと思っただけだろうけど。不思議と親愛の気持ちが湧いた。
――ありがとう、お魚さん。
二匹の大きな魚は、嬉しそうにボートの周りを踊るように泳いだ後、深い海の中へと戻っていった。
それを見届けてから、ざぶんと海から出て、ボートの中に入る。
男は、ボートの底で固く目を閉じたまま、ぐったりと横たわっていた。慌てて息を確かめると、かすかだがまだ息はある。心臓も動いているようだった。
ペチペチと頬を叩く。反応は無い。暗がりの中よく見ると、体中に呪詛のような呪いの文字が浮かび上がっていた。
――これは、古代の文字だわ。
祖国で学んだ古代の農作の歴史書を思い出す。物の形に近いその言葉は、全ては理解できないけれど。注意深く読み解くと、いくつかの言葉は理解できた。
――朝の陽の光。魂の消滅。恐らく、このまま朝になれば、この人は死んでしまう。
呪いを解く力なんてない。絶望に胸が暗く染まり、船の中で濡れた体を震わせた。
ふと、ふわりと温かい風が頬を撫でた。そして、はっと気がついた。
――魔法。
そう、人魚は海の魔法を使うことができる。人魚の身体では無いけれど、さっき魚と意思疎通ができたのだから、メルルの魔法の力は失っていないのかもしれない。
メルルの記憶を辿る。そう、思い出した。海の力を使った、浄化の魔法だ。この呪いを、魔法で操った海の水に溶かして、男の体から解き放つ。その海水を、海に戻すと穢れるから――
私は、覚悟を決めた。
月明かりの中、そっと男の胸元に手をかける。
月の光を浴びた、海の水。この男の身体から呪いが全て洗い出されるよう、海に祈る。
ひゅうと柔らかな風が吹き、ザァ、と月明かりをいっぱいに溜め込んだような海の水が、泡立つように海面から立ち上がった。それは、まるで重さなんて無いようにボートの中に流れ込んで私と男をすべて包み込み、月光の中、泡立つ波で洗い流すように渦巻いた。
しばらくして、光が落ち着いた頃。呪いを含んで濁ったその海水は、ザァ、と宙に登ってから、私の頭の上に流れるように落ちてきた。そして、私の身体の表面を滑るように流れてから、海の中へ帰っていった。
静かになったボートの中。男の様子をうかがう。呪詛の無くなった男の身体は綺麗になり、呼吸も落ち着いて顔色も戻ってきているようだった。
――良かった。
そう思いながら、身体を丸める。
――っいててて………
胸元を抑える。ちらりと見ると、濡れた服の向こう側に、痣のように黒い呪いの残渣が見えた。
こんな汚い呪いで海の水を穢すわけにもいかず、自分の身体に取り込んでみたのだけど。
恐る恐る触ってみる。呪いの効力はもう無いようでホッとした。時々古傷のように痛むぐらいで、あとは何ともなさそうだ。若干見た目が悪いが、胸の膨らみの上のほうにあるし、露出度が高い服を着る予定もないから大した問題は無いだろう。
ふぅ、と安堵のため息を吐いて、オールを手に取った。このまま沖に流されてしまえば結局遭難だ。バチャバチャと必死でオールを操る。離岸流の流れが急で、沖へ沖へと流されていくのを必死で横切る。
ザァ、と柔らかな風が吹き、波が揺れた。わ、と思ったら、船が陸の方へ進み始めた。ビックリして辺りを見ると、ボートの周りの湖面が泡立つ波で光り輝いている。
――すごい、これも人魚の魔法なのかな。
まるで、月明かりの道を船で進んでいるようだ。暖かな風が、ボートと私と、そして横たわる男をつつみ込み、光の中を陸の方へ押し進めてくれている。
しばらくして、砂浜がはっきり見えてきた。ボートは浅瀬を緩やかに進み、静かに白い砂浜に乗り上げた。
柔らかな風がまたヒュ、と吹き、海の泡の光が落ち着いて、仄暗い砂浜の景色に戻る。
再び暗闇にらない事に気付いて水平線を見ると、空が白み始めていた。男は変わらず規則正しい呼吸をしている。
――良かった、大丈夫みたいだ。
ほっとしながら、男の濡れて乱れた前髪を整えた。穏やかな寝顔は、もっさりとした頭の割には綺麗で、少年のようで親しみを感じた。
少しして、朝日が水平線の向こうから顔を出した。朝の清々しい光が私たちを照らす。
私には、この人が誰なのかは分からないけれど。
他国のために命をかけたというこの人が、この後、醜い欲にまみれることなく生きてくれるといいなと思った。
朝日が登ったことを知らせる鐘がなり、遠目に海に祈りを捧げる者たちが出てきたのが見える。
きっと、この男は誰かが見つけて介抱してくれるだろう。私はすぐにその場を離れて岩陰に身を隠した。
しばらくして、浜辺に降りてきた人々が、ボートの中で横たわるびしょ濡れの男を発見して騒ぎ始めた。この様子ならもう大丈夫だろう。
私は男の無事を祈りながら、冷え切った身体を引きずり、その場を離れた。
朝日が輝く白い浜辺には、暖かい風が踊るように、柔らかく吹いていた。
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「おぃぃまた知られずに助けてんじゃんかぁぁ!!」と童話と同じ展開に絶望した読者様も、
「フッわかってるぜこの男だろ?」と先読みした勘のいい読者様も、
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