1-1 海の泡にはなりません
「メルル!さぁ、この短剣で王子の胸を突き刺すのよ!」
………………………?
目の前の暗い海の中に、5人の髪の短い女性が浮かんでいる。そして、私に向かって物騒な事を叫んでいるのだけど。
なぜ?どうして夜の冷たい海の中に?助けたほうがいい?と混乱で固まる。
いや、よく見たら、あれは人ではない。下半身が魚だ。下半身が魚の、女の人達。
もしかして、人魚だろうか。
「さぁ、早く!王子に愛され結婚できなければ、あなたは海の泡となって消えてしまうのよ!」
意味がわからない。首を傾げた私の視界に、今度はギラリと光る短剣が入ってきた。ちなみにその短剣は私の手の中だ。
先程の下半身が魚の者たちが言っていることと合わせると……多分これでその王子とやらを殺せということなのだろう。
後ろを振り返る。背後の窓をのぞくと、船の中には仲睦まじく寄り添って眠る男女の姿。何となく察した。あの片割れが王子だろう。痴情のもつれだろうか。
とにかく、海の泡となろうがなるまいが、人殺しなどしたくない。そして私はメルルじゃない。そう思って反論しようとしたのに、口はパクパクとするだけで、何故か声が出なかった。
「メルル!?どうしたの!?はやく!」
なぜ声が出ないのか。死ぬほど不便だ。
困ったなと思いつつ、とにかく何か手はないかと頭を悩ませた時―――不意に、自分のものでは無い記憶が蘇ってきた。
深い海の底。
穏やかな暮らし。
初めての海の上。
大きな船、綺羅びやかな宴、それを襲う嵐。
海に落ちてきた美しい男。
その男を寝かせた、静かな、白い浜辺。
そうだった。『私』は人魚で。お姉さまたちから聞く地上の話に夢を描き、そして王子に恋をした。そうして、『私』は人になる決意をしたんだった。
海の魔女との契約。
飲み干した薬。
人の身体、失った声。
それでも、拾い上げてくれた優しい王子と共に過ごす日々は幸せだった。
穏やかに流れていく、王宮での暮らし。
望めども出ない声。
伝えられない、叶わぬ恋心。
その想いをのせ、舞った美しい踊り。
でも、王子がその手に取ったのは、隣国の姫君の白魚のような手だった。
そして『私』は、お姉様達が美しい髪を犠牲にして手に入れた短剣で、王子を殺して魔法を解き、人魚に戻ろうとした。
でも、愛する王子を殺すことはできなかった。
『私』は人魚に戻る道は選ばず、己の命を捨て、愛する王子が幸せになる道を選んだ。
失恋の痛みに、心が泡となり、溶けるように消えていく。
記憶はそこで途切れていた。
―――どうして、『私』は………『メルル』はこんな悲恋をしてしまったのだろう。
ゆるゆると首を振り、深くため息を吐く。そして、もう一度振り返った。
可愛らしい女性に寄り添い、幸せそうに眠る、『私』が恋をした王子。
サラサラの金髪。
涼やかな顔立ち。
思い出に残る、優しい笑顔。
―――メルルが王子を愛した気持ちは本物だわ。だけど………
ギリ、と手に力を込める。
長い長いため息を吐いた私は、メルルの澄みわたった青い海の様な美しい目を鬼の形相で釣り上げた。そして、苦々しい気持ちと共に、心の中で大声で叫んだ。
―――最っっ低!!!
ふざけんじゃない。顔だけの男なんてクソ食らえだ。
口先だけの甘い言葉。
美しさで覆われた、醜悪な欲。
どれほどそれがこの世を腐らせ、踏みにじり、人々の憎悪を膨らませるのか。
もう、そんな俗世とはおさらばだと思っていたのに。
ふざけるのも大概にしてほしい。ギリリと手元の短剣を握りしめる。
田舎とはいえ、誇り高き農業先進国フィンティアの王女、シャルロッティ=バルバドロス=フィンティアが、こんなだらしない王子に愛されないと死ぬですって?!
顔だけの男にやり込められるなんて二度とゴメンだわ!!
メルルの記憶が蘇るほど、ふつふつと怒りが湧き上がる。この背後で眠るレオナルド王子とやらは、メルルに気を持たせるだけ持たせて他の女と結婚する最低野郎だ。そればかりか、まだメルルを手元に置こうとしていた。
『大丈夫、君を捨てたりしないよ?』ってにこやかに笑ってらっしゃいましたけどね。それってつまり、便利な愛人かそれ以下よね?ペット?お人形?冗談じゃないわ。しかもメルルが王子のことを好きなのも分かっているのだ。なんならキスもハグもしていた。最低だ。最低野郎だ。メルルの友人として隣りにいたなら、思いっきり肥溜めに蹴り落としてやったところだ。こんな男、肥料にすらならんだろうけど。
湧き上がるピュアで一途なメルルの想いに余計に怒りが燃え上がり、背後で眠る幸せそうなクソ王子の顔をキッと睨む。怒り狂った雄牛の群れの中に落としてやりたい。
怒りの矛先を求めるように、短剣を怒りに任せて振り下ろす。海の魔法を秘めた美しい短剣が、船べりの木でできた手すりにグサリと突き刺さった。
お姉さまたちが驚いてぱちゃぱちゃと海の中で狼狽えているのが視界の端に見えた。
ちょっとスッキリした。
少し落ち着こう。
私は未だ混乱する頭をなんとか働かせ、状況を整理した。
どうやらこの私、農業小国フィンティアの田舎王女シャルロッティ=バルバドロス=フィンティアは、『メルル』という、人間になった人魚の身体に乗り移った。
お姉様達は美しい髪と引き換えに魔女の短剣を手に入れ、それで私を人魚に戻して助けようとしてくれている。でも、私には私の生き方があるわ。正直クソ王子にも海の中の暮らしにも興味はない。
なんで私が人魚の身体に乗り移ったのかは分からないけど。こうなったら、好きにさせてもらおう。
そう決めたら、何だか頭がクリアになってきた。うん、きっと、大丈夫。今ここには、私を拘束し、害する者はいない。
私はふぅと息を吐いて、顔を上げた。ここは、夜の沖に浮かぶ、豪華な船。これから、どうしようか。
後ろで幸せそうに眠っているクソ王子と姫をちらりと振り返る。とにかく、このクソ王子を殺すのも自分が死ぬのもゴメンだ。返り血も浴びたくないし、同じ空気すら吸いたくない。一刻も早くこんなボウフラよりも価値の無い男からは離れよう。
失恋したら泡になって死ぬ。声は出ないし味方もいない。最悪だわ。でも、負けてなるものですか!
状況を把握し確固たる決意を抱いた私は、近くにあった古びた樽の蓋を手に取った。
そして、手すりに突き刺さっていた短剣をフンッと引き抜くと、ガリガリと蓋の表面を削りながら文字を書いていった。
*****
親愛なる海の魔女様
いかがお過ごしですか?
私はお陰様で無事に人となり、地上で快適に暮らしています。
さて、早速ですが、先日取り交わしました契約内容について、質問がございます。
もはやレオナルド王子に恋をしていない場合でも、レオナルド王子に愛されなければ泡になって死にますか?
残念ながら複数の女に気を持たせるクソ野郎だった為、正直今から愛されても困るなと思っている所存です。
想定外の状況となり、お手数をおかけして申し訳ございません。
恐れ入りますがご回答のほど宜しくお願い致します。
*****
―――シャルロッティ………と書きそうになって、慌てて『メルル』と署名する。
そして極めて残念な表情のまま、その文字を書きなぐった蓋を海の中へ放り投げた。
お姉様たちがその蓋に集まる。
「なにこれ?」
「蓋がボロボロよ?」
「お絵描きしたのメルル??」
えぇい、まさかお前ら文字が読めないのか!?あぁ、海の中じゃ文字とか使いにくいわよね。確かに。まぁ魔女なら読めるはず。
イライラしつつも、なんとか海の魔女へ届けてもらうために、身振り手振りでの伝達を試みる。
ゾワゾワした魔女の身体を、両腕をウネウネさせて表現し、嫌味な表情の顔マネをする。
「あははは!メルル変な顔!なにあれ?」
「お父様かしら?」
違う違うとブンブンと首を振る。本当に何なんだ。私は芸人ではないのだけど。
ヤケクソになった私は、魔女が術を使う時のウオォォみたいな気合のこもった様子を全身全霊で表現した。
「怖っなにあれ!?」
「海の魔女みたい……」
そう!それ!!私は必死でブンブンと首を縦に振った。そして、別の樽の蓋を手に持ち、ドウゾー!!と大げさなジェスチャーで誰かに渡す真似をした。
「なるほど?」
「あの海の魔女に」
「この呪いのお絵描きを」
「ドリャー!と突きつけたらいいのね!?」
ちょっと違うが届くならもういいかと、ウンウンと首を縦に振る。お姉様達は、何故か元気いっぱい、任せて!!と言って樽の蓋と共に海の中へ消えて行った。
お姉様たちが海に潜り、急に辺りは静まり返った。
風のない夜の海の上。船がチャプチャプと揺れる音が響く。闇夜のような海の色と混ざった空には満月が浮かび、薄い雲を帯のように照らしていた。
はぁ、とため息を吐いて、船べりの手すりにもたれかかり、目を瞑る。
瞼の裏に浮かぶのは、この身体に入る前まで自分が生きて見てきた景色だった。
長閑な牧草の広がる景色。
遠くの山々。
瑞々しい青空と森。
そう、そんな田舎のフィンティアが大好きだった。
だけど。
黒々と舞い上がる煙。
横たわるたくさんの民。
フィンティアは、戦に破れた。
そして、敗戦国フィンティアに、帝国の優しげな末の王子が訪れたのだった。
小国の王女である私に与えられた、人質のような縁談。
連れて行かれた、栄えた城下町と豪華な王宮。
見慣れぬ菓子が並ぶ、華やかな茶会。
都会の美女が揺れる、綺羅びやかな夜会。
嘲笑う目。
踏みにじられた尊厳。
親しい人のいない、慣れない人の輪。
沢山の女性に囲まれた王子。
見下した表情。
耐え忍ぶ日々。
それが終わる日々は、ふいに訪れた。
反乱した民の群れ。
切り裂かれたドレス、地下の牢屋。
軽蔑の眼差し。
硬いパン。
少しして、私は牢から連れ出された。
眩しくて目に刺さるような、久々の陽の光。
そこには、光を反射する、木の柱に支えられた大きな刃があった。
滴る血。
転がる王族の頭。
耳に残る、罪人と、私を呼ぶ人々の声。
確かに、贅沢をしていたのかもしれない。
温かいベッドに、雨漏りのしない屋根。
上質なドレスに、義務的に贈られる宝石に、誰かが作ってくれる晩餐。
味方がいない人質のような片身の狭い後宮での、何十番目かわからない側室だとしても。
民のように、飢えと寒さに苦しむことはなかった。
それでも。
綺羅びやかな帝国の後宮なんかより。
故郷の小国の田舎王女として、雨漏りのする豚小屋の掃除をしているほうが、ずっと楽しかった。
そっと首に手を這わせる。
最後まで、堂々と。
石を投げられても、罵倒されても。
私は背筋を伸ばし、涙の一つも見せなかった。
それが祖国を離れても持ち続けた、小国の王女としての、最後の矜持だった。
敗戦国の人質として帝国に渡り、形だけの側室となってしまったけれど。
それでも、祖国の幸せを願わない日は無かった。
満月を見上げる。
故郷のみんなは、元気だろうか。
祖国を離れたあの日、お父様は泣いていた。
本当は、ただ一人、娘を愛してくれる人に嫁がせたかったって。幾人もの美女を侍らせるような権力者なんて間違っている。人を大切にできない者は、いつか巡り巡って、自分に跳ね返ってくると。そんな奴らに娘を渡したくないと。
権力とは、責任がついてくるもの。
だからあの王子も、国王も王妃も、民の怒りを買い、みんな処刑されることになったのだろう。
そして、私も。
目を開けて、再び暗い空と揺れる水面をぼんやりと眺める。
―――なんの因果なのか分からないけど、私はこうして、泡となって死んでしまった人魚の娘の身体の入り、また生きることになった。
それなら、今度こそ、自分らしく最後まで生き抜いてもいいだろうか。
静かな甲板に、チャプチャプとした水音が響く。
暗い水面には、船のランプの明かりが一筋の光となって走り、どこかへ向かう道のように、ゆらゆらと静かに揺れていた。
お読み頂いてありがとうございます!
少しでも楽しい時間をお過ごし頂けたら嬉しいです。
「人魚姫切ないよね」と思っている読者様も、
「シャルロッティこれでどうやって幸せになるの?」と心配して下さった優しい方も、
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