泥棒猫になり損ねた男爵令嬢は、策士な公爵令息に溺愛される。第二王子の公妾になるつもりが、どうしてこうなった。
騙された!
ケリーはハンカチを噛んだ。こんな話は聞いていない。繊細な絹のハンカチならあっさりと裂けたかもしれないが、没落寸前の男爵令嬢ケリーのハンカチは丈夫な木綿でできている。多少噛みついたところでびくともしなかった。
***
ケリーが通っているのは、貴族の子女ばかりを集めた王都でも選りすぐりの学園だ。生徒たちは高度な学問を学びつつ、人脈作りに励む。それは女生徒たちの間においては、当然ながら結婚相手を見つけるという形になるのだが、もともと男爵家の私生児として生まれ、人生の大部分を下町の平民として生きてきたケリーにはとんと縁のない話だった。
だが母親を亡くしたケリーのことを引き取った男爵は、なぜか彼女が玉の輿に乗ると確信しているらしい。そういう見通しの甘さが男爵家の懐事情を悪化させたのだろう。在学中に良い条件の結婚相手を引っ掛けることができなければ、好色なひひジジイの元に売り飛ばすと脅されて、ケリーはしぶしぶ学園の門をくぐった。
とはいえ玉の輿を成功させるためには、相手側の女生徒を蹴落とす覚悟を持たなければならない。貴族の結婚は椅子取りゲーム。義理人情の下町で育ち、根っこがお人好しなケリーには難しい。
そんな中耳にしたのが、第二王子と婚約者である公爵令嬢に関する噂だ。学生でありながら女遊びにうつつを抜かす彼と婚約者の間柄が冷めきっているという話を聞いて、一世一代の大勝負に出たのである。正妃などという大層な立場なんて求めない。狙いは公妾だ。
王子にそれとなく接触すれば、彼を崇拝する取り巻きたちの仲間に入ることができた。父親の遺伝子のおかげでそれなりに美しい顔を持ち、平民育ちということで貴族文化とは異なる考え方を持つ彼女は、無事に「おもしれー女」枠に入ることができたのである。
そして本日、めでたく第二王子の婚約者さまに呼び出されたというわけだ。
(釘を刺されるだけで済むのか、それとも話の進め方次第では退学処分、いや物理的な処分も十分ありえる……。バカな父親のせいで人生終わりとか、最悪だわ)
こわごわと高位貴族専用のサロンに入室したケリーだったが、なぜか彼女は呼び出した張本人に笑顔で労われた。
「忙しいところ、無理を言ってごめんなさいね。どうぞ、緊張しないでちょうだい。さあこちらにおかけになって」
座り心地の良さそうな椅子を勧めてくれたのは、公爵令嬢ベアトリス。慈悲深いと評判の彼女は、泥棒猫であるケリーに対しても怒りを見せることはないらしい。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
「あなたを呼んだのは、他でもないの。殿下の無聊を慰めてくださったお礼が言いたくて」
「それはどういう意味でしょうか」
「ああ、勘違いしないでちょうだい。わたくし、嫌味を言っているつもりはないの。本当に心から感謝しているのよ。殿下を楽しませることは、わたくしにはできないことだから」
穏やかに微笑むベアトリスは、心の底からケリーに感謝しているように見える。それがなんとも不思議で、ケリーは少し怖くなった。ひとの男に手を出すなんてどういう了見だと激昂される方がまだマシだ。その不安感をベアトリスも感じ取ったのだろう。困ったような顔で、耳打ちしてきた。
「ここだけの話にしてくださる? 殿下には、他に好きな方がいらっしゃるの」
「好きな方、ですか?」
「絶対に手に入らない相手を恋い慕う可哀想なお方。けれど第二王子という立場ゆえに、城から離れることも許されない。だから、あの方が心を癒せるならどんな花を愛でても良いと思っておりますの」
第二王子が望んでも手に入らない相手などいるのだろうか。確かに身分差は障害にはなるが、絶対というものではない。ケリーが狙っていたような公妾などは、日陰の身とはいうものの寵姫を手に入れるための常套手段だ。それなのに、代替品で慰めなければならないだなんて。
「……まさかっ!」
(お相手は、王太子妃殿下だとおっしゃるの?)
この国との同盟を強化するため、隣国から嫁いできた末王女。まさか第二王子は、彼女に横恋慕しているというのか。明言してはならない事実を前に、ケリーは肌が粟立つのを感じた。恐る恐る質問を重ねる。
「自分ひとりだけを見てほしいとは思わないのですか?」
「だって、そんなこと無理だもの。あの方はわたくしなんか気にも留めていらっしゃらないわ。だったらわたくしにできることは、あの方が少しでも心安らかでいられるように居心地の良い空間を作ることだけ」
「周囲に愛のない政略結婚と思われようとも?」
「心無い言葉は確かに寂しいわ。けれど、必ずわたくしの元に帰ってきてくださるのであれば別に構わないの。たとえ、他に行く場所がないだけなのだとしても」
最悪だ。ここまで覚悟を決めた彼女の告白を聞いて、「わかりました。それでは寵愛係としてがんばります!」と言える厚顔な女がどれだけいることだろう。
ケリーは愚かでも、恥知らずでもない。あるいは彼女が生粋の貴族ならば、貴族として成り上がりたいと思える人間ならばベアトリスの言葉は渡りに船だったのだろう。けれどケリーはあまりにも善良で小心者だった。
(お母さんと同じ、悲しそうな瞳……)
ケリーは自分にできる限り精一杯の淑女の礼をとる。
「謹んでお断りさせていただきます。私の行動でお心を患わせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
「まあ。お給金次第で考え直していただくことは」
「何卒お許しを」
「そうなの。残念だわ」
その声音は言葉通りにしか聞こえない柔らかなもので、ケリーは冷や汗が流れる。彼女は婚約者への愛情を一体どれほどまでに内側に溜め込んでいるのだろう。
噂を鵜呑みにした自分の、なんと愚かなことか。
「可愛いお嬢さん、お気をつけなさい。この学園は平等と謳ってはいるけれど、そんなものは建前でしかないのよ。学園を卒業した後に待っているのは完全なる序列社会。学園で反感を買えば、その後の人生に大きく影響が出るわ」
「どうして……」
貴族社会では婉曲表現しか用いられない。それにも関わらず彼女はケリー相手にわかりやすい言葉で注意してくれる。
「だってあなたって裏表がなくて可愛らしいんですもの。それに最初からお金目当てのあなたが殿下のお相手なら、私だって心穏やかに過ごせるわ。そうだ、お友だちにならない? わたくしと一緒にいれば、いろいろと便宜をはかってあげられるわ。そうね、まだ玉の輿を狙っているのなら私の弟なんていかが? 少しばかり年が離れているけれど、賢い子よ」
「いえいえ、勿体ないお言葉です」
彼女の申し出は後ろ盾のないケリーには魅力的だが、愛の重すぎる彼女の側にいたら、ストレスで胃に穴が開いてしまうに違いない。ケリーは大慌てでサロンを飛び出した。
父に命じられたとはいえ、安易に妾になろうと考えた自分が悔しくて仕方なかった。
***
騙された!
ケリーは地団駄を踏んだ。おかげでちょっと年季が入っていた靴のヒールが折れる。本当についてない。
でもこれで吹っ切れた。必死でお金を貯めて買った憧れの靴だったが、いつの間にかすっかりヘタレてしまっていたのだから。どうして気がつかなかったのだろう。今目に飛び込んでくるのは小さな傷ばかりだ。目の前のこの男と同じように。
ベアトリスと異なり、目立たないようにサロンに呼び出すという心配りもできない、気の利かない男。声は聞こえずとも、学園のいたるところから様子を伺い知ることが可能な中庭で、ケリーは第二王子に詰問されていた。
「ベアトリスの周りをうろちょろするんじゃない。わたしだって、彼女とは今週まだ一度しかお茶をしていないというのに」
「何を勘違いしているのか知りませんが、うろちょろしているのは私のほうではなく、ベアトリスさまのほうです」
「お前ごときが、ベアトリスの名を呼ぶだと?」
「そうおっしゃられましても。ベアトリスさまのご命令ですので」
「ならば、わたしも命じよう。ベアトリスの視界から今後一切消えろ」
(面倒くせえな、こいつ)
あの一件以来、ベアトリスはケリーのことを「お友だち」認定したらしい。ケリーは正直迷惑だと思っているので、ふたりきりのときはかなりの塩対応だ。だが、普段かしずかれ、媚びへつらわれるベアトリスには、ケリーのその対応こそが心地良いのだという。恐ろしいことに、次期公爵家当主となる弟の嫁になれと積極的に仲を取り持とうとしてくる有様だ。
(結局のところ、「親友」枠も「おもしれー女」枠の亜種なのでは?)
その上、叶わぬ恋に身を焦がしているらしい第二王子の八つ当たりにまで付き合ってやる心の余裕は、ケリーには存在しなかった。何よりベアトリスの呼び出し以来、ケリーは自分から彼に近づくことはやめている。うざ絡みは迷惑でしかないのだ。
ベアトリスが言葉通り親友であるというのなら、がつんと第二王子に言ってもなんとかなるだろう。とうとうケリーはベアトリスの実家の権力に頼ることに決めた。王子には散々暴言を吐かれてきたが、借りは返してやるつもりだ。
(ベアトリスさまに後ろから刺されませんように)
「まるでベアトリスさまが大切なようにおっしゃるのですね」
「ベアトリスはわたしの婚約者だ。大切に思うのは当たり前だろう」
「それならば、どうしてあのような不実な行いを繰り返すのです?」
見目の良い女性がいれば当然のように自身の取り巻きにしてしまう軽薄な男。そんなゲス野郎が何を言うと鼻を鳴らせば、第二王子は日頃の女受けする甘い笑みを投げ捨てて、ギラギラとした瞳で睨み付けてきた。
「ベアトリスが大切だからこそ、彼女が望むように不実な行いを繰り返しているんだ」
「はあ?」
「彼女はね、馬鹿で愚かで軽薄な当て馬が好きなんだよ」
「正気か?」
もはや猫を被ることを諦め、下町らしい口の悪さでツッコミを入れるケリー。
(王子さまの口から、当て馬とかいう言葉は聞きたくなかったなー)
リアル当て馬は、正直とても可哀想な生き物なのだ。果たして王子はそこまで知っているのか。ケリーはツッコミたくなるのを必死にこらえながら、相づちを打つ。
「わたしたちは幼少の頃から交流していてね。一緒に物語を読むことも、観劇に出かけることだってたくさんあったよ。それで気がついたんだ。彼女が好きになる物語の登場人物は、毎回ダメな男ばかり。たくさんの女を侍らせるけれど、本当に大切な女性の愛だけは手に入れられない男。第二王子という中途半端なわたしには、ぴったりの役どころじゃないか」
「なんだそれ」
ケリーは第二王子の言い分に頭が痛くなった。好きな女の性癖のために不実な男の振りをし続けるとか、気が狂っている。しかも、とうのベアトリスはこの男の生き方を喜ぶどころか、日々胸を痛めているではないか。完全に無意味である。
そもそもなんなのだ、このバカップルは。お互いのことが好きなはずなのに、妙に低すぎる自己評価と呆れるほど強すぎる自己犠牲の精神のおかげで明後日の方向に走り出し、周囲に迷惑をかけまくっている。そのせいでケリーの学園内の評価までも妙なことになってしまい、友人と呼べる相手はベアトリスしかいない。
イライラし始めたケリーは、溜まりにたまっていた鬱憤を残さず第二王子にぶちまけた。
「バカバカしい、お互い公認の上で寝とられごっこでもやってるんですか?」
「なんて失礼なんだ。わたしは彼女以外の女性と閨を共にするつもりはない。当然だろう、わたしの肉体はすべて彼女だけのものなのだから」
「逆に気持ち悪い」
この男は、始終華やかな女たちを侍らせ、しまりのない顔でふらふら出歩いている。それにも関わらず、全員と清らかな関係だと? プレイボーイは一体どこへ行った。
「まったく、いかがわしい。学園内でただれた関係を楽しめと?」
「殿下の脳内はただれるどころか、すでに腐ってとろけきっているじゃないですか」
処女を捧げると言われて男性は嬉しいのかもしれないが、いちいち童貞を捧げると宣言されても困る。いやまあ、ベアトリスは嬉しいのかもしれないが。
「バカじゃないの。はあ、もういい加減うんざりだわ。特殊プレイに付き合うつもりはないのよ」
(高位貴族は政略結婚だなんて嘘っぱちなんだわ)
腹が立ったので、ヒールの折れた靴を投げつけてやる。ヒールが脳天に刺さって昏倒でもすればいいのに、男は表情ひとつ変えることなくさらりと避けてみせた。本当に頭にくるやつだ。まったく、リア充は死ねばいいのに。
(もうすぐかな。声は聞こえなくても、ベアトリスさまは遠見も読唇もがっつりできたよね)
ケリーがため息をひとつこぼせば、驚いたような、けれど頬を赤く染めたベアトリスが中庭に駆け込んできた。
***
騙された!
ケリーはひとりうなだれた。二度あることは三度ある。古くからあることわざの意味を、その身で味わいたくはなかった。
「どうしたんです。顔色が悪いようですが」
微笑みかけてくる婚約者を前に、ケリーは頬をひきつらせる。誰だ、この貴公子は。整いすぎたその顔に、思い出したくもないバカップルの面影を見つけたような気がして、彼女はしくしくと胃が痛くなった。
(いやいや、髪の色も違うし、そもそも次期公爵家のご当主さまが呑気に城で下っ端文官なんかやってるはずないよね?)
本当ならへたりこみたいところだが、これだけひと目のある場所で目立つことはしたくない。何と言っても、王都でも人気のレストランなのだ。限られた人間しか入ることのできない場所。ここでの出来事は善かれ悪しかれあっという間に広がってしまう。
「あ、あはは、大丈夫。あなたがあまりにも素敵過ぎて、ちょっとびっくりしただけ」
「いつもは適当な身なりをしていますからね。ですが、特別な日には僕だってそれなりの格好をしたいんです」
にこりと微笑まれたはずなのに、蛇ににらまれたような気持ちになるのはなぜだろう。ケリーはうっすらと涙が浮かびそうになるのを必死でこらえた。これはきっと嬉し涙だ。そうだ、そうに違いない。
貴族社会の闇を垣間見た彼女は玉の輿に乗ることを潔く諦め、学園を優秀な成績で卒業した。そして、伯爵令嬢として王宮のとある部署に文官として配属されたのだった。
第二王子と公爵令嬢の明後日な方向のすれ違いが無くなった結果、ふたりは国内でも評判のおしどり夫婦となった。そして彼らはケリーの恩に報いるためにと、彼女を評判の良い伯爵家の養女にしたのである。
実際、彼らはケリーの遠い親戚にあたる人物たち。母を亡くしたあげく、実の父親に利用されていた彼女を癒してくれたのもまた彼らである。優しい家族と癖が強すぎるものの頼もしい友人、そして働きがいのある職場。ケリーの人生は、まさに順風満帆そのものであった。
なおケリーの父親は過去の悪どい所業がばれたために、強制労働コースとなっている。とはいえ生かさず殺さずで有名な場所のため、不摂生でダラダラ貴族として過ごしていた頃よりも、よほど健康的に過ごしているらしい。もちろん、それが彼にとっての幸せかどうかというのはまた別問題ではあるのだが。
そして職場でケリーが出会ったのが、今目の前にいる婚約者ニコラスである。伸ばしっぱなしの長い前髪に特徴的な分厚い瓶底眼鏡。文官の制服は立派なものなのに、いつも猫背なせいでちっともしまらない。けれどとても博識で、誰に対しても平等な男だった。
学園での生活を通して、ケリーは平凡こそ幸せなのだと実感していた。もちろん多少のお金はあったほうがいい。けれど、金だとか美貌だとかは、望めば望むほどさまざまなやっかいごとを招き寄せるのだと身にしみた。
そんなケリーにとって、変人だが真面目で博識なニコラスはとても好ましい人物だった。彼となら、きっと慎ましくも幸せな家庭を築くことができるだろう。そう思っていたのに。
「ねえ、ニコラス。ちょっと確認していい?」
「はい、なんでしょう」
「私がもともと伯爵家の生まれではなく、実際のところは没落寸前の男爵家の私生児だったって前に話したことがあったわよね。その件について、本当にあなたのご家族は気にされていないの?」
「もちろんです。むしろみんな、君と家族になれることを首を長くして待っていますよ」
「首を長く……って、そんなにお待たせしちゃったかな?」
(いやいや、1年くらいだよね? 恋人がいなかった息子にようやく春が来たってそれくらいの意味だよね? 頼む、お願いだから、そうだと言って)
「僕が学園に入学する前からですから、10年近くになるでしょうか。まあそれだけの時間がありましたから、いろいろと動く時間ができたとも言えるのですが」
(終わった……)
白目になって口から泡を吐きたい。それを必死に堪えながら、ケリーはワインを口に運ぶ。
「あ、ありがとう。あのね、もうひとついいかな」
「何でもどうぞ」
「今日のニコラスがびっくりするくらいカッコいいから、もしかして高位貴族なのかなって心配になっちゃって。そんなことないよね。一応名簿も確認してみたけれど、今いる部署にそんなひといないもんね」
ここまで来ての最後の悪あがき。必死に希望を見つけようとするケリーに、悪魔が艶やかに微笑んだ。
「名前を変えて潜り込むことは簡単なことでしたよ」
「……えーと、一体何のために?」
「僕はずっと君が好きだったというのに、君ときたらいつもするりと逃げてしまうのですから」
「だって、どう考えても釣り合わないじゃん。私のほうが年上だし……」
結婚相手として、いきなり年の離れた美少年を連れてこられたあの衝撃は忘れられない。うっかり犯罪者になったような心持ちだった。
「他のみなさんにとっては、僕の顔だとか、血筋だとか、公爵家の次期当主という立場はとても魅力的に映るようなのですが。どうしてこんなに嫌がられてしまうのでしょうね。そんなに僕のことが嫌いですか?」
「……もう勘弁して」
冗談でも「嫌い」とは言えないくらい、愛している。それがわかっていて真顔で問いかけてくるのだからタチが悪い。そしてそういうところがこの姉弟は本当に良く似ている。
「だからもう絶対に逃げられない状態になってから、正体を明かそうと決めていたんです。いわゆるサプライズってやつですね」
「サプライズって嫌われるんだよ。知ってた?」
「おや、知りませんでした」
(ちっくしょう!)
「一生懸命で頑張り屋さん、ちょっと口が悪くて、それなのに間抜けでおっちょこちょいな君が大好きなんです」
そんな正面きって馬鹿だと告げてくる男性なんてお断りだ。そう告げようとしてケリーは気づく。すでに店中の人間が、穏やかに、けれど確実にこちらを見守っていることに。完全に嵌められている。
ここで求婚を拒んで社交界を敵に回すほど、ケリーは鋼のメンタルを持ってはいない。それにケリーは、この腹黒で性格の悪い男にすっかり惚れてしまっているのだった。
ずっと昔から自分のことが好きだったと言ってくれているのだ。一途な純愛ではないか。もしやこの男、ストーカーだったのではないかだなんて疑ってはいけない。
「結婚を承諾してくださって安心しました。拒まれても丸め込むつもりでしたが、それだとちょっと時間がかかってしまうので」
「諦めるって選択肢はないのよね。ほんと、殿下といい、あなたたち姉弟といい……」
「いやいや、おしどり夫婦にはかないませんよ」
「はい、不敬罪ね」
食事を楽しむケリーの左手の薬指には、ニコラスの瞳と同じ色の宝石で彩られた美しい指輪が輝いている。
***
後年、子どもたちから夫婦のなれそめについて聞かれたケリーは、苦笑いで答えた。
「私は馬鹿だったから、物事の表面しか見なかった挙句すっかり騙されたの。あなたたちは、もう少し思慮深く生きてちょうだい」
ため息をつくケリーと、そんな彼女を後ろから笑顔で抱き締めて離さない父親の姿に、子どもたちは愛され過ぎるのも大変なのだとひそかに納得したのだった。
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