バカの外伝
気づいた時には目の前に少年がいた。木の葉を沢山付けた木の下で、揺れる日の光に目を細め、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
読みかけだったであろう分厚い本を閉じ、もたれた体を起こして胡座をかいてから、
「さて、君はどこから現れたのでしょうかね?」
そう、口を開いた。世界が緑で染まり、暖かい風が草葉を揺らした季節。それが、生きるということを教えてくれた、少年との初めての出会い。
どこから現れたのか。その答えは持っていなかった。だからボーッと少年の顔を眺めていた。
「……それでは質問を代えましょう。あなたはいったいナニモノですか?」
その答えは、答えにならないかもしれないけれど、一応持っていた。
――精霊
もっと沢山話そうとしたけれど、伝えられたのはそれだけだった。それだけのことだったけれど、少年は深く考えるように目を伏せて暫く黙ったままだった。
「あなたは……精霊、なのですね?」
その言葉に頷きをもって返し、少年を見つめた。少年の碧く長い髪が風に靡き、こちらを見ていた翡翠のような目を遮った。そして、こう言ってくれた。
「もしあなたが……いや、そうだ、あなた。どこにも行く宛がないのなら、暫くここにいるといいです。大丈夫、誰も気にしないですから」
その言葉に、何故か救われた気がしたのは、今でも気のせいではないと思っている。
あの優しい声色と、どこからか聞こえた場違いなほどに大きな虫の声は、今でも昨日のことのように想い出せる。
少年と出会ってから少し経った。あの頃は緑に色付いていた庭も、緩やかに黄色や赤で色づき始めた季節のこと。
その頃には定位置が、青年と出会った木の下になっていた。少年が言ってくれたように、何もせず立っていても寝転がっても、枝から逆さにぶら下がっていても、通っていく人間や駆け回る犬猫達は皆、自分の生を謳歌していた。
こちらに目を配ってくるのは、あの少年だけだった。朝露で濡れた庭に、日の光照らす庭に、月の見守る夜に。少年はふらりと庭に姿を表しては、こちらに話しかけてきた。
「精霊さん、ご機嫌いかがですか?」
――何も代わりはしない
「精霊さん、その木が好きなのですか?」
――わからない
「精霊さん、もう暫くいても大丈夫ですよ」
――そうか
たったそれだけの、会話とも呼べない疎通。それでも少し待ち遠しいと思っていた理由。それは今なら分かる。多分、楽しかったのだろう。
……いや、そういえば少年の他に二人、何故だかいぶかしむような目線を投げ掛ける者がいた。
自らの生に意味を見出だしていなさそうな、気だるげな雰囲気の少年と。そして絶望の中に生きているような、それでいて救いを夢見る少女と。
目があった気はしなかったが、こちらを見ていた気がする。それが何故か無性に気になって、彼らに足を向けたとき、そんなときには必ず少年が近くに来た。
「彼らは気にしなくていいですよ。多分、君の後ろの木の模様でも見ていたのでしょう」
こほっと一つ咳をして、何か急いでいたのか肩を上下させて、いつでも側にいた。その姿を見る頃には、少年と少女のことは忘れていた。
不思議に思ったのは、それから数回、そのようなことが起こってから。他のことに気を取られそうになると、少年がいつも近くにいて。そして必ずこう言っていた。
「大丈夫ですよ、気になさらないでください」
と。
まるで、他のことに気を逸らさないで欲しいと言わんばかりだった。
木の葉が地面を飾り付けた季節のこと。少年は夜にしか庭に姿を見せなくなった。
風が運ぶ匂いも変わり、確かに涼やかな色になったと感じた頃。だいぶ着膨れた青年が夜にだけその身を月明かりの下に踊らせた。手にはランタンと湯気の上るコップを携えて。
――それは、何が入っている
多分それが、少年に初めて声をかけた日だろう。何故話しかけたのかは、今でも分からない。多分、これからも分からない。
「これですか?これは……お茶ですよ。私はこれが好きなんです」
そういってコップを揺らした。届いた香りは初めての物で。
――その香りは、知らない
「ふふっ、でしょうね。これから先、もしかしたら知るかもしれませんよ」
そう微笑みかけて、中身を呑み込んでいた。
この頃くらいだったろうか。少年との会話は、少し長くなり始めた。月と星が見守るなかで、他愛もないような夢物語。
「私はですね、何も失いたくなかったんです」
そう、溢したことがあった。満点の星空の、ただ一点だけを見つめて……誰に伝えるわけでもなく、ただ漏らした。未だかつて見たこともない、綺麗な横顔だった。
そこまで冷えていなかったと思うが、少年の声とコップを持った手は、心なしか震えていた。
次の瞬間にはいつもの表情に戻っていて、さしてきにしてもいなかった。それでも時折思ってしまう。
あの時、もう少し踏み込めばよかったか、なんて。
世界から木の葉が消えた季節のこと。少年の姿も消えていった。夜の庭は一人だけのものとなり、また言葉の伝え方を忘れそうになった。
その日はよく分からないが、初めて木の下から動こうと思ったことを覚えている。
それまでは気にしていなかった、少年が出て来ては消えていく建物を見詰め、初めて渦巻いた感情に戸惑っていた。これも今でははっきりと分かる。少年に会えるかもしれないという期待と、会話を楽しんでいたのだという郷愁。
地面を浮き上がらせた霜柱の上を、ゆっくりと撫でるように近づいていった。あの日の空は、月はなかった。
建物に近付いてから、上の窓から呼ばれた気がした。小さな声で、
「こっちですよ」
と。
気のせいではないと思い、そのまま窓辺に近付いた。
「ふふっ……やはり聞こえましたか。……こほっこほっ……」
ベッドから半身を起こし、口元に手を当てた少年がそこにはいた。どうしてだろうか、少し細くなっている気がした。
――何故、最近、いない
「夜、ですか?すみません、少し体調を崩しましてね……」
――言葉の伝え方を、忘れそうだ
「ははは、確かに。あなたは元から口下手でしたからね」
口元に当てた右手を確認し、布団の中に右手をすぐに仕舞った。その時は寒いのだろうと思った程度で。
「どうぞ、窓辺にでも腰を掛けて下さい」
――あぁ
言われるがままに腰を落ち着け、久々に向き合った。ほんの少しの間、顔を会わせなかった程度で、少年が次は何を話すのかと胸を踊らせた。
「私は、失いたくなかったんです」
想いとは裏腹な哀しげな声。いつかに聞いたその言葉は、今でも胸に沈んでいる。
「私は、皆を守れるようになりたかったんです」
目線を落として、手を、声を震わせていた。
「皆なんて言わない。この両の手で届く所を、両の足で駆けられるまで。でも……」
上げた顔は初めて、濡れていた。
「私には、時間がなかったんです」
震える手を布団から引き抜き、見詰めていた。見間違えでなければ、紅くしっとりと濡れていた。
「あなたともっと、話したかった。あの子達とも、遊びたかった」
――何を、言っている?まだ、話せるではないか
そうかけた言葉に、少年はゆっくりと首を振った。
「あと、少しなんです。私が、生きていられるのは」
――生きる?
「あなたたちとは少し違うんです。時間の流れが……時間の、制限が」
羨ましそうな声で、時間を気にしていた。
「精霊さん。お願いがあります」
――なんだ
「私の最期には、願いを聞いていただけませんか」
――分かった。最後には必ず
「あぁ……」
今でもあの優しい声が残っている。
「よかった」
と。
あれから数日経って、世界は銀色に染められた。定位置は相変わらず、あの木の下だった。
あの日あの後、少年は眠りについた。本当にただの眠りに。今でもうつらうつらとしているらしい。たまに窓から覗くけれど、起きている姿を見ることはまだない。
少年の変化と言えば、腕に管が刺さっているくらいか。あとは出入りをする者で、何やら白のコートに身を包む者が増えた。そこに同じ顔はいないと思う。
この天気は流石に人間には堪えるらしく、気だるげな少年や絶望を湛えた少女は見なくなっていて、興味を惹き付けるモノは何もいなくなっていた。
この場を離れようと何度も思ったが、少年の最後の願いを聞くまではどこにもいけないと思っていた。思い返せば、最初の願いを聞いていないのだから、最後の願いなんてものは無いのに。
そしてある三日月の夜。建物が少し騒がしくなった。そんな中で声が届いた。
「お願い、頼めますか」
待ちに待った少年の願い。直ぐ様窓辺に腰掛けた。
窓から覗いた部屋の中は、何やら涙を流す人達と、俯く白いコートに身を包む数人と。そして、あの夜よりも更に窶れた少年が横たわっていた。髪は枯葉色、目は窪み光が弱く、覗いた手は地に落ちた枝のようで。ただ、少年の想いは変わっておらず、愚かなことに外見は然程気にはしなかった。
「……精霊さん……いますか……?」
――やっと、だな
「……えぇ……お願い、しますね……」
――あぁ
少年の想いを、叶えたかった。ただそれだけだった。
「私の……想いを……継いでください……」
――承った。どんな願いだ
「私が死んだら、家族を……あの少年と少女を……守ってください」
そこで気付いた。最後の願いではなく、最期の願いなのだ、と。
――死ぬのか
「えぇ……恐らく……こほっ……」
――もう、話せないのか
「……すみません」
窓辺からおり、少年に近付く。改めてみれば、血の気のない真っ青な肌、枯れ枝のような手、光の薄れた目。あのときは、哀しかったのだろう。
「あなたは、良き友人でした……精霊にしては、雰囲気が……違いましたが……」
――気付いていたのか
「ふふっ……えぇ、一応」
無理をして笑う少年に手をかざす。流れ込んできたのは、あの時の少年と少女と冒険をする夢。近付かせまいとしたのは、子供ながらに自分が先に声をかけたいという、ほんのささやかな我儘。そして、話し相手の、友人の精霊が消えてしまうかもしれないという想いから。
――馬鹿だな
少年も、『私』も。
――いつか、会える日を
「……そんな日が、来ると……いいですね……」
この世から離れようとした、その瞬間。
――契約。『少年』の生と願いを叶える。代償は、『私』の全て。
その時に私と少年は混ざった。
あの木に身を預け、幾日か経った。あの日は家の者が喜び、医者が驚愕に顔を歪めた。
あの少年にはまだ言えなかったあの言葉。私は君の思うような精霊ではない、と。
私は純粋な精霊ではなく、精霊の中でも忌み嫌われる混霊。契約の精霊と、死を報せる精霊。どちらもマイナーなものではあるが、少年は薄々気付いていて、あの願いを私にしたのだろう。
上からひらりと白い花びらが、虚空に伸ばした掌に乗る。少し前までは決して交わることのなかった、常世と隠世が、少年のおかげで混ざりあっていた。
「エルルム」
「ノノンノ」
少年の……今は私の、名前を呼ぶ二つの声。振り向けば、少年が、ノノンノ・エルルムが話したがっていた、遊びたがっていた少年と少女がいた。
私は胸に少しだけ、手を当てる。服の下に刻まれているのは、私の契約紋。そして変わってしまったのは、碧かった髪は暗い紅に、翡翠のような目は血のように紅く染まっていた。
「お前が言ったように、一応学園とやらの試験に申し込んでみたぞ」
「貴方からは不気味な何かを感じますから、わたくしも一緒に受けようと思いましてね」
突き出した二本の手には一枚の紙。そしてあの日の契約を思い出す。
【精霊を触媒に少年の身体を再構築する】
胸の辺りに刻まれた契約紋。恐らくだが、あと数年で再構築も済むだろう。多少は性格がこちらに引っ張られるだろうが、許してもらいたいところだ。
そして再構築が済めば身体を明け渡し、私は彼の武器となろうと決めた。私が成れる武器といえば、契約の代償を刈り取る……死を報せ魂を刈り取る大鎌。武骨なものだが、それでよい。
頬を掠めた花びらに目を向け、少年が帰ってくるのを待つしかないと切り替える。……どういう話し方だったか、それを毎回思い出して、そして帰ってくるまで、誰も死なせはしない。
それが、契約だからな。
「やぁ、リオルド君にクレアさん。今日も元気そうですね」
そう言葉を出して、寄り掛かっていた木から歩き出す。私の木は、もう見つけた。




