表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない  作者: 終焉エンドレス
9/15

9:冬 暮れてゆく



 連れて行かれた保健室で寝て、夕方に家に帰って、寝て起きてまた保健室に行った。教室に行っても、どうせまた追い出されるだろうから。俺が謝るまで、武田くんは俺を許さないだろう。身体が大きいからっていばってる、乱暴なやつ。


 休み時間に、石黒が来た。顔が腫れたりはしていなかった。ベッドで寝ている俺の隣、小さな椅子に座った。


「次の時間は、あたしは授業がないから。ここにいてもいい?」

「うちのクラスの篠田、あんたのことが好きなんです」

「そうなんだ。ここにいてもいい?」


 俺は何も言わなかった。チャイムが鳴る。石黒は何分か、何十分か黙っていたが、ゆっくりと言った。


「仲がよかったんだね」

「篠田とですか?」

「いいえ、三年の――」


 言いよどむな。その名前は汚らしいものか? 死んだら忌まわしいものになるのか。


「仲がよかったかはわからないですけど、お世話になりました。顧問も来ない部だったので」

「ごめんね」


 ふざけるな。あんたの声は聞きたくない。しゃべり方が似ているんだ、春日井先輩に。おおげさなジェスチャーも。彼女がエイケンにいた頃は、まだ野田先輩だって。


 春日井先輩は石黒先生から影響を受けているんだな、とは思っていた。少人数なのに部にしてもらって、視聴覚室を借りられるようになったんだと言っていたことがある。バレー部が忙しいのに、石黒先生が親切で。顧問がいないと学校の設備は使えないから。


「危ないことをするなって。他の学校の女子なんか助けることないって、顧問ならさあ!」

「ごめんね」


 石黒は泣いていた。俺も泣いている。俺は親友の好きな女を泣かせていると思った。もう親友じゃないだろうけど。

 泣いていないふりをしながら、石黒は俺の手をそっと持ち上げた。包帯でぐるぐる巻きになったほうの手。


「お母さん、病院に連れて行ってくれなかったんだね。電話で聞いた」

「お母さんはいない。血は繋がってない」


 血以外のものだって何も。毎日、冷凍食品を詰めた弁当を俺に持たせる。毎日、毎日毎日、白飯とコロッケだけの弁当。残せば怒鳴られるから、食べきれない日は公園で捨てた。中学の頃、それをクラスの女子に見られて、だから佐藤はゴミ弁。


「先生と行こう。放課後、車で連れて行くから。行けそうかな」

「行きたくない」

「そうなんだ。明日なら行ける? 帰りも家まで送っていくから、その時におうちの人と話をしたいんだ」

「俺の家のことなんか今どうだっていいだろ。ケガだってそのうち治るよ。よけいなことしないでくれ」


 石黒は俺の手を、持ち上げた時のようにそっと離した。


「番場は気にしないでって言ってる。ほかの部員も、みんな孝太郎を心配してるよ」

「カースト高い女子にあんなこと言ったんだから、もうみんな俺をゴミと思ってますよ。武田とか、高畑にブスって言ったのだって根に持つやつなのに。あいつジュリアさんのこと好きだし」

「人の心のことを想像して、言いふらすのはやめなさい」


 時雨がどうしてこの教師のことを好きなのか、ルックスを第一関門としか思っていないあいつが、どうして二年になっても好きでいるのか、わかったような気がして目の前がぼやける。喉がひりひりして痛い。


「先生、俺は一年の春を三回やったんだ」

「留年してたっけ。ごめん、そういう記録があったかな――」

「違う、頭がおかしくて妄想したんだ。高校に入って、新学期が不安で、このままだと一人ぼっちでずっと、文化祭とか、何もなくてつまんない、中学と変わらない生活になるんだろうなって、そういう妄想」


 実際には少し違うけど、いや、違わないのかもしれない。結局、あの石はなかったし、どうだっていい。映画のフィルムの最初だけがたるんでいて、あとは正常みたいな、そういう話なんだろう。


「秋まで妄想して、また春に戻って、ちょっと妄想して戻って、そしたら篠田が話しかけてきてくれた。そこからは楽しかった。少しいろいろあったけど、それでも。だから、セーブもロードもリセットも、最近は全然考えなかった」

「リセット?」


 石黒はその言葉にだけ反応した。


「リセットというのは、どういうことかな」

「嫌な響きだよね。でも大丈夫。セーブデータを作ったらリセットはできないから」

「そうだね。それは正しいことだ」


 そうなんだろうと俺も思う。だからそうなったのだ。俺の頭が作り出す妄想機関は、俺の価値観を反映する。


「捕まったんですか?」


 七回刺したやつは。


 石黒は少し喉を詰まらせて、「うん」と言った。


「その場で取り押さえられて、現行犯で」

「取り押さえたやつ、一年半後に刺されないといいですね。そんなに早く出てこないか」

「うん、それに――警察官だから」


 じゃあ、一年半前のときも、その警察官が取り押さえてくれたらよかったのに。見るからに非力な野田先輩なんかじゃなくて。表彰なんかしなくていいから。


 チャイムが鳴って、石黒は「また来るから」と言って出て行った。俺はその「また」が怖くて、養護教諭に包帯だけ巻き直してもらって、すぐ帰ってきた。




 翌日、十二月二十一日。


 また、保健室に登校した。養護教諭は赤木さんに少し似ているおばさんで、ずっと俺に多くのことは言わなかった。でも、優しくしてくれた。


 石黒――石黒先生がまた来た。授業中か休み時間か、うとうとしていたからわからないけど、また椅子に座ったからしばらくいてくれるんだろう。


「俺がここにいること、みんな知ってるんですか」

「――うん。登校するとき、会うでしょ。孝太郎はあんまり見てないかな」

「視野が狭いから。小四の頃、叩かれて壁に頭ぶつけて、右側が半分くらい見えない」


 テロップはその、見えないはずの右下に出る。もうずいぶん出ていないけれど。


「そうだったんだね。ごめん、先生、左側に座ろうか」


 石黒先生を困らせたいわけじゃないんだ。もう違う。


「いいんです。そうじゃなくて、俺、学校に来てるのに、謝りにこないやつだと思われてますよね。思われてるっていうか、事実そうなんですけど……」

「大丈夫だよ。みんな高校生なんだから、そんなに子供じゃないよ」

「顔に当たって、ごめんなさい。あのとき」

「大丈夫。ぜんぜんなんともなかったから」

「女の人なのに」

「ポリティカル・コネクトレスの見地からは、ちょっといただけない発言だな」


 少し沈黙。


「ジュリアさん――番場さんは、俺のせいで変なこととか言われてないですか」

「生徒の雑談をぜんぶキャッチすることはできないけど、大丈夫だと思うよ。なにか言われてたとしても、あの子は強いもん。ハングリーだよ。わかるかな、意味」

「わかります。そういうところが好きだったから」

「そうなんだ」

「でも同じくらい、鳳凰院香織さんのことが好きでした。同じ時期に」

「やるじゃん」

「でも、もっとずっと、篠田時雨のことが好きでした。そういう意味じゃなくて」

「どういう意味だっていいんだよ。そうだね。きみは篠田のことが好きだったよね。一年の四月からずっと」

「謝りたい」


 あいつがずっと言わなかったことを、クラスの中で叫んでしまったこと。俺はおかしい人間だと思う。自分がつらい時は、人につらいことを言ってもいいと思っている。高畑さんに、ジュリアさんに、時雨に。どうしてなんだ。自分がそうされてきたから? そんなの言い訳にならない。


「俺みたいなのと仲良くしてくれたのに」

「仲良くしてあげたとは、篠田は思ってないんじゃないかな。最初はそうだったかもしれないけど、最近は違うでしょう」

「みんなにどんな顔して会えばいいのかわかりません。転校もできないのに」

「そうしたい? 先生ができるだけ方法を考えてみようか。おうちにも取り計らってみる」

「ここで逃げるなんてできない」

「ねえ孝太郎。それこそ、ロードなんじゃないかな。リセットじゃないよ。なかったことにするんじゃなくて、立ち直るための復帰」


 チャイムが鳴った。




 十二月二十二日。


「明日、終業式ですね」

「そうだね。手と足のケガ、どう? まだ痛い?」

「マシになってきました。先生、クリスマスは彼氏と過ごすんですか」

「いないよ、彼氏は」

「美人なのに?」

「彼女と過ごすんだよ。ないしょだよ? 彼女だからじゃなくて、彼氏だとしてもないしょ。風紀を乱すとか、学校がいろいろうるさいんだ」


 そうなんだ。

 それは、本当に、ぜんぜん気がつかなかった。気がつくとか、つかないというのも変な表現なのかもしれない。


「篠田が知ったら悲しみますね。彼女だからじゃなくて、彼氏だとしても」

「篠田なら大丈夫だよ。ラバーを作ろうと思ったら、いくらでもできるよ」

「イケメンだから?」

「クレバーだから。それに、とてもコンシダレートだから」


 どういう意味だったっけ。でも、調べなくてもわかるような気がする。あいつのことを表現するなら、いい意味に決まっている。そりゃ悪いところもあるけど、そこはクレバーが表現しているから、あとはいいところだけだ。


 ふと、今さら気になった。


「先生はどうして毎日来てくれるんですか? 学校でこういう……事件みたいなのがあったら、ショックを受けてる生徒はたくさんいますよね。同じクラスの人とか。ひとりの生徒に、こんなに時間を割くのって、大変なんじゃないですか」

「詳しいね、孝太郎」


 映画から得た知識だけど、それなりに合っていたらしい。


「うちの学校にはスクールカウンセラーがいないから、今人を探してるんだ。冬休みが明けたら来てもらえると思うから、孝太郎も話してみたらどうかな」

「専門家がいないから、先生が来てくれてるんですか」

「担任だからね。うちのクラスで特にショックを受けているのは、やっぱり同じ部活だった子だから。そう、先生も同じ部活だったから――」


 石黒先生はずっと顔色が悪い。事件の日からは特に、その前からも少し。美人なのに唇ががさがさで、過労死ラインという言葉を思い出した。


 うちのクラスで同じ部活なのは、ジュリアさんだ。彼女にもこうやって接する時間を作っているんだろう。石黒先生は担当の科目があって、担任のクラスがあって、バレー部の顧問をしているのに。三時間くらいのバイトを週に三日とか、そんな俺とは違う世界の、本当の仕事。俺みたいなガキに、代わりに死ねばよかったのにと心の中で怒鳴られる仕事。


「俺、アルバイトしてたんですけど、きのう電話して辞めたんです。無断欠勤したし、ケガしちゃったし、それに受験生になるし。スマホを買いたかったけど、結局ムリだったな。関係ないこと、聞いていいですか」

「いいよ。なにかな」

「児童相談所って、高校生は使えないんですか」

「いえ、十八歳未満を対象としてるから、高校生でも大丈夫だよ。連絡を取りたい? もう担当の相談師さんとかいるのかな? 実はね、先生もその話を孝太郎にしようと思ってたんだ」

「俺はもう児相は嫌です。自分のことを話すのも、家のことを言われるのも嫌だから。俺じゃなくて、いや、俺みたいなのが、人のこと気にするのって変かな」

「大丈夫だよ。話してみて」

「鳳凰院香織さんが自分の服を一枚も持ってないのは、児相の人が親に注意してくれたりしないんですか」


 石黒先生は俺が何を言っても、動揺したり驚いたりしない。俺を不安がらせないように。でも、今のは少しだけびっくりしたようだった。


「鳳凰院が、そうなの? ええと、彼女は制服以外の服を持っていない?」

「持ってるけど、全部親が選んで、自分で選んで買うことができないんだそうです。俺と同じで」

「そうか……」


 石黒先生は難しい顔になった。考えながらというように、ゆっくり言う。


「鳳凰院が相談所に訴えれば、相談所が親御さんにアドバイスすることはあると思うよ。ただ、強制力を持つかというと、内容的にも――どうだろう。ごめんね、先生も詳しくはないから、はっきりしたことは言えない。調べてみるね。その結果や何かを、君に伝えることができるかどうかはわからないけど。鳳凰院のプライバシーだから」


 どうやら俺はまた石黒先生の仕事を増やしてしまったようだ。鳳凰院さんの担任でもないのに。それに、生徒の私服の話なんて、学校が知ったことではないだろう。でも児童相談所を鳳凰院さんは知らないかもしれない。俺には合わなかったけど、彼女には合うかもしれない。


「俺が言ったこと、鳳凰院さんには」

「言わないよ。どちらにせよ、新学期にはスクールカウンセラーが彼女とも話すだろうし――彼女も同じ部だったからね――そこで聞いてもらうようにする。彼女の担任の先生には、話さないでおこうと思う」

「何先生でしたっけ」

「江戸川先生」


 国語の、痩せたおじさん先生だ。粘着質な喋り方をして、授業に関係ない、たとえばペンの持ち方とかを、嫌な言い方でみんなの前で注意する。俺はあんまり好きじゃない。石黒先生もそうなのかもしれない。あの先生が、女の子の服のことなんか理解できるとは思えなかった。


 それに、連鎖的に思い出す。江戸川先生は確か、新聞部の顧問じゃなかったか。個人的なことをあまり話したくないという鳳凰院さんの、この学校を選んだ動機なんかを全校に公開した部。まあ、新入生にそういうインタビューをするのも、その回答を掲載するのも、ふつうのことなのかもしれない。でもあれは、さらし者みたいな記事だった。


 なんで今こんなことを考えているんだろうと、自分でも不思議に思う。あの校内新聞のことなんて、鳳凰院さんだって忘れているだろう。現実逃避というやつなんだろうか。


 石黒先生は腕時計を見た。


「池井が孝太郎をとても心配していて、もしよかったら、今日ここでお弁当を一緒に食べたいと言ってたよ。どうかな? 無理はしなくていいよ」


 池井くんが? 一度俺の弁当をからかってきたけど、その場で時雨にチョップされて、すぐに謝ってくれた。それからは二度とからかわれていない。クラスが変わってからは、昼を一緒に食べなくなった。


 時雨やジュリアさんの顔を見るのはまだ怖いけど、池井くんになら会えるかもしれない。


「会いたいです」


 石黒先生は心配そうだったけど、この人を安心させるためにも、俺は少しずつ何かをしなければいけない気がした。今はいいけど、いつか絶対。武田くんに言われたことが、俺の中で傷のようになっている。いつかというのは、それが塞がる日なんだろう。戻ることはできないけど、復帰の日。急ぎすぎてもいけないんだと思う。石黒先生はそれを心配しているんだろうから。


 でも、友達に会いたい。俺はそう思った。




 池井くんと弁当を食べるのは、ずいぶん久しぶりだった。

 クラスが変わってからは、昼休みに四人で集まることがなくなったから。どうせエイケンで会うし、池井くんにも鵜飼くんにも自分のクラスの友達がいる。


 相変わらず池井くんの弁当はおいしそうで、俺の弁当は二色だった。


「なんか、もっと気持ち的な、その、そういう理由だと思ってたけど」


 焼いたウインナーを食べながら、池井くんは遠慮がちに言った。


「思ったより物理の感じなのな。よかった、つうのも違うか。ごめん」


 心ではなく身体のケガだったんだ、じゃあよかったね、ということを言いたんだろう。手の包帯を見てそう思ったらしい。

 一年の頃から坊主頭を続けているこの友達は、ザツでおおっぴらな性格だけど、心のケガのほうが身体のそれよりも深刻だ、という価値観を持っているようだ。今まで知らなかった。


「わざわざ来てくれてありがとう」

「わざわざって、やめろよ。そういうの」

「え、ごめん」

「そんな立派な気持ちで来たわけじゃねえから」


 立派? 箸を止めた俺を見て、池井くんはちょっと焦ったらしい。


「や、責めに来たとかでもねえから! 食えよ。食わないとケガも治んねえだろ」

「俺ばっかり被害者ヅラしててごめん」


 池井くんだって立場は俺と同じだ。同じくらいショックを受けただろうし、たぶん泣いたと思う。池井くんは見かけによらず涙もろくて、悲しい映画を見た帰り道では口数が少なくなる。もちろん、映画と現実は違う。つらいことに。


「そんなこと言うなよ……」


 池井くんも箸を止めてしまった。


「部長さ、エイケンってもう活動できないよな」


 九月から池井くんは俺を部長と呼んでいる。鵜飼くんと鳳凰院さんも。ジュリアさんだけは恥ずかしいらしくて呼ばなかった。


 エイケンの活動のことなんて考える余裕はなかったから、初めて考えて、俺は答えた。


「できないと思う」

「うん。俺さ、部屋にあったDVDとか、全部押し入れに入れちまった。映画って、人とか死ぬじゃん、フツーに。殺すとか死ぬとか、フツーに出てくるし、今までそれ見て楽しかったのにさ」


 そうかと、俺は悲しい気持ちになった。確かに、映画の中では人が簡単に死ぬ。男が刺されるシーンがあるかもしれない。そんな映画は珍しくないし、じゃあ俺たちはこの先、もう映画を見ることができないんだろうか。みんな映画が好きだったのに。野田先輩もそうだった。だからみんな集まったのに。


「鵜飼くんはどうしてる?」


 去年の夏、野田先輩について誤解が広まっていた時期、彼は誰よりもショックを受けていた。俺よりもずっとだ。フェミニストだからじゃなくて、野田先輩になついていたから。


「鵜飼はあれから学校来てない。連絡も返ってこない」

「そうか」


 心配だな。自分だってずっと保健室のベッドにいるくせに、俺はそんなことを思う。


「鵜飼くんの家って知ってる?」

「マンションの下までは行ったことあるけど、部屋番号はわかんねえ。それにあいつ、こういう時は殻にこもるってか、放っといてほしい方だろ」


 俺もそう思う。なのに今ここに池井くんがいるということの意味を、俺は少し考える。俺も自分を殻タイプだと思っていたけど、池井くんはそう思っていないみたいだ。


「鳳凰院さんと――ジュリアさんは?

「学校には来てると思うよ。クラス違うから、毎日かはわかんねえけど。きのう帰りに外でジュリアさん見かけたんだけど、急にやつれちゃってて、びっくりして声かけらんなかった」


 元から痩せてるのに、ジュリアさん、やつれてしまったのか。俺がひどいことを言ったせいもあるんじゃないか。彼女だってすごくショックを受けていたのに決まっているのに、あんなことを。池井くんはあのことを知っているんだろうか。


 いや、知っていたら来てくれなかっただろう。知らないままでいてほしいと、薄汚いことを考える。

 でも池井くんは、半分くらいは知っていた。


「お前さ、グロセン、石黒先生に、変なこと言ったってホントなのか? なんか、処女とか、やばいこと」


 噂が交錯しているんだ。石黒先生を乱暴に振り払って、そのあとジュリアさんに暴言を吐いた。女の人に連続でひどいことをしたから。俺はなんだ? なんでこんな人間なんだ。


「そんなこと言ってないだろ? 言うわけねえじゃん、お前がさ。みんな適当なことばっかり言って、マジでやってらんねえよ。ふざけんなよ」


 ごめん。俺はきみのことも裏切ってしまったんだな。


「言ったよ」


 池井くんは、百パーセント予想外というわけでもなかったんだろう、半分くらい残っている自分の弁当を見つめている。


「なんで? 部長、佐藤、そんなこと言うやつじゃなかったじゃん。俺、わかんねえよ。の――野田先輩のことと関係あんの? なんで?」


 距離を取られた。当たり前のことだ。俺は弁当箱のフタを閉じる。同じように半分くらい残っていたけど、もう怒鳴られることなんかどうでもいい。


「石黒先生に言ったわけじゃないんだ。顧問なのにあんまり部に来てくれなかったから、八つ当たりで悪い態度は取ったけど。ひどいことを言ったのはジュリアさんにだよ。野田先輩に、」


 ためらった。自分を守るためじゃなくて、池井くんが傷つくかもしれないと思って。だけど、いつか耳に入るなら、せめて自分で。


「野田先輩にやらせてやったらよかったのにって言った。死ぬんだから、野田先輩はきみを好きだったんだからって……」


 池井くんは、やっぱり、傷ついた顔をした。不謹慎な効果音を鳴らすなよ、俺の頭。もう池井くんにも嫌われた、そんなことわかっているんだから。


「ひでえ」

「自分でもそう思う。本当に。それで、時雨と武田くんに引っ張られて、教室を追い出されたんだ」

「そりゃ、お前さ、そうだよ」

「わかってる。ジュリアさんに謝りたい。電話をかけたらキモいかな? エイケンの連絡網って、こんなことに使ったらダメかな」

「ダメじゃねえとは思うけど」


 池井くんは弁当の残りを箸でかき混ぜながら、ため息を吐いた。


「内容ひどすぎんだろ。直接謝ったほうがいいんじゃねえの? いっしょに行ってやろうか? 冬休みになる前に謝ったほうがよくねえ?」

「謝りに行っていいのかな? こんなやつが会いに行ったら、キモいんじゃないかな」

「そうかもしんねえけどさ、そんなこと言われて、謝りにも来られないほうが絶対イヤだろ。いや、わかんねえ、俺にもわかんねえよ。こういうの、篠田とかに相談したほうがいいんじゃねえの? 俺たちよりは女ゴコロみたいなのわかるだろ」

「時雨にも、俺、ひどいこと言ったから」

「どういうこと?」


 あいつが石黒先生を好きだということをみんなにばらして、だから彼女がいないんだなとか、余計なことをたくさん言った。


 俺がそれを話すと、池井くんは不思議そうというか、たぶん「拍子抜け」という感じの顔をした。


「それはまあ篠田は嫌だったと思うけどさ、ジュリーに比べれば、そんなたいしたことでもなくね? 篠田なら謝ったら許してくれるんじゃねえの?」

「許してくれるかな」

「あ、じゃあさ、いやもう昼休み終わるな。じゃあ放課後、篠田のこと連れてきてやろうか? 今、全部の部活が活動休止になってるからさ。そんなことになってんなら、いきなり教室は行きにくいだろ」

「いいの?」

「いいよ。ジュリーに言ったことはマジひでえと思うけど、それはちゃんと謝らねえと俺も許さねえけど、そのくらいならさ。だって」


 友達だろ。きみはそう言おうとしたんだろうけど、きみはセリフを言うタイプの人じゃないから、うまく言えなくて詰まってしまったんだな。それがわかる。友達だから。一年半、いろんなことをしゃべってきたから。


「まだ友達でいてくれる?」

「なんで俺の言おうとしたことわかるんだよ! こえーよ。だからまあ、うん」


 それ以上、池井くんは何も言わなかった。




 もしかして、怒っていない可能性もあるんじゃないかと思ったけど、時雨は怒っていた。だけど保健室に来てくれた。


「池井に気ぃ遣わすなよ! 話終わるまで待とうかとか言ってたけど、帰させたからな。あんな坊主頭にデリケートなことさせんなよ」


 いつも石黒先生が座っている、ベッドの脇の椅子に座ると、時雨は早口で俺を怒った。


「お前がショック受けてるんなら、池井だってそうだろ。そのへんわかんないかな」

「わかる。池井くんにも申し訳ないと、思う」


 言いながら泣きそうになって、ぐっとこらえた。泣いたらしゃべれなくなってしまう。


 時雨は身長のわりには長い足を組んで、軽く俺をにらんだ。


「池井はいいやつだよ。佐藤さ、ホント、あいつに感謝しろよ」

「うん。してる」

「お前はあんまりいいやつじゃないよな」

「うん。ごめん」

「もう話せんの?」


 最後に話したのは、あの取り乱した時だったから、もう取り乱していないのかという意味だろう。


「うん。お前の、個人的なことをみんなの前でしゃべって、本当にごめん」

「ひでーよけっこう。相手、担任だよ? 話す機会がかなりあんだよ! もちろん向こうは知らんぷりしてくれてるけど、相当気まずいわ。みんな知ってるしさあ」

「ごめん」


 いいよとは言わなかった。そりゃそうだ、よくないんだから。でも、そこまで本気で怒っているわけではないんじゃないかと、俺は感じた。いや怒ってはいるんだけど、傷ついたりはしていないのかな、と思う。


 時雨はふーっと息を吐いた。


「鵜飼はずっと休んでるんだって。知ってるか?」

「うん、さっき聞いた」

「その、例の先輩の件については僕は何も言えないけどさ。――ケガ、どう?」

「大丈夫だよ」

「そか。ってか、聞いていいのか? なんでケガしてんの」

「あの日、俺、動揺して外に出たろ。その途中の階段で転んだりして。どうでもいいケガ」

「どうでもよくはないけどさ」


 もしかして俺が、誰かとケンカしたりしたのかもしれないと思ったのかな。ほっとしたようだった。


「骨折してんのか? 僕、あのとき引っ張っちゃったけど、もしかして」

「いや大丈夫。手は切っただけで、包帯がおおげさなのは、手の傷は菌が入って化膿しやすいからだって」


 あのとき引っ張ってくれてありがとう。俺があれ以上のことをしてしまう前に。もっとも、それまでにかなりのことをしてしまった。俺はそれを償わなければならない。


「ジュリアさんのこと――」

「番場本人よりも、周りの女子が怒ってる。武田もな。ちょっと、お前の立場の回復は難しいかもしれない」


 わかってる。そうだろう、あんなことを女子に言うやつ。


「謝るんだろ。ちゃんと」

「うん、謝りたい」

「じゃあ謝れよ。こういう風に呼び出すのはまずい。教室、来られるか。あした」

「行くよ」


 中学の頃の比じゃない目で見られるだろう。でも、池井くんはまだ友達だと言ってくれた。


 復帰したい。前と同じようにはいかなくても、せめて近いところまで。


「もうあんまり話しかけないようにするから。教室でも」

「番場に?」

「お前に」


 時雨は上履きを脱ぐと、俺の足をキックしてきた。


「痛い! そこは本当に痛い」

「わり。しょうもないこと言うもんだから」

「うん。こういう言い方したら、お前がヒールになっちゃうもんな」

「ヒールって何? ヒールレスラーとかの意味? オタク用語はわかんねえよ」


 オタク用語じゃない。本が好きだという女の子が、クラスメイトの女の子に照れ隠しで言った言葉だ。

 時雨は上履きを履きながら言った。


「でも確かに、そういう考え方もあるか。みんなの前で謝ったら、番場も許すって言うしかないわな。言わせることになるか」

「高畑さんにもそう言われた」

「あったな、そんなことも。よく覚えてるじゃん」

「なのにやらかしちゃったんだ。次から気をつけろってお前に言われたのに」

「それについては、まあ正直がっかりしてるよ。お前ってショック状態だとやらかしちゃうヒトなの? 特に、女子に? それはホントに最悪だぞ」


 わかってる。俺は本当に最悪な人間だ。自分のことを脱ぎ捨てたい。装備みたいに。


 だけど俺はゲームの主人公じゃなく、現実世界の人間として生きる。ロードも、しない。石黒先生はそうしてもいいと言ってくれたけど、そうしたら俺はまたやらかす気がする。


「番場本人に聞いてみるよ。あと別に、僕には普通に話しかけてきていいから。もう三年になるし、みんな忙しくなるから、いじめとかダルいこともたぶんないと思うよ。ボス猿がまあまあ良識的なほうだし」


 でも、その武田くんを怒らせたんだ。時雨が言ってくれているのは楽観的な見方で、俺を励ますためだろう。だけど。


「まだ友達でいてくれる?」

「キモいんだよオタクは。聞いたことないわ現実でそのセリフ。友達って、今日からそうとか、明日から違うとか、そういうもんじゃないから。まあ僕がそんなようなこと言っちゃったことあるな、それはゴメン。友達っていうのもそうだし、お前の人間性っていうの? それも、ひどいこと一回言ったら全部ナシになるとか、そんな簡単なもんじゃないから。ゲームじゃないんだからさ」

「ありがとう」


 俺を人間だと思ってくれて。


「コンシダレートってどういう意味?」

「何? もう一回言って」

「コンシダレート。たぶん、コンシダレートな人、みたいな使い方をすると思う」

「Considerate? 配慮ができるとか、人の気持ちを思いやれるとか? Considerateな人って使い方は聞いたことないけど、形容詞だし、言わなくはないのかな。優しいの中でも、察しがあって理解がある的な意味だね」

「石黒先生が、お前のことをそういう人間だって言ってたよ」


 人の気持ちのことは言いふらしてはいけないけど、これはいいと思う。


 時雨はひざのほこりを払いながら、ふうんそう、と言った。こいつにしては珍しく、ちょっとセリフっぽかった。




 終業式が終わったあと、俺と時雨はあのドトールにいた。

 テーブルに置いた時雨のスマホが時計を表示している。待ち合わせの時間を少し過ぎた。

 金色の髪の女の子が、自動ドアから店内に入ってくる。時雨が立ち上がった。俺も立とうとしたけど、いいと言われた。


「あっちの飲み物買ってくるだけ。お前は待ってろ」

「あとで出す」

「そうして。――番場!」


 二人がちょっと話してから、カウンターに注文して、コーヒーカップを受け取ってこっちへ来た。

 店内には二人用のテーブルしかないから、時雨は隣のテーブルのイスに座った。空いているから大丈夫だろう。


 正面に座ったジュリアさんに、俺は頭を下げた。


「ごめん。本当に、きみにひどいことを言ってしまった」

「うん」


 ジュリアさんはホットコーヒーに軽く口をつけて、俺と目を合わせない。でも小さな声で言った。


「マジひどかった。ないよね」

「ごめんなさい」

「あたしのこと前からそう思ってたんでしょ。そういう風に――そういう女って」

「違う」

「違わないでしょ。思ってなきゃ出てこない。言葉は、そこにある思考をさらうから」


 思考をさらう。初めて聞いた言葉だったけど、意味はわかる。


「あたしは処女じゃないよ、確かに。でもあんたの言ったことは、野田先輩のことも侮辱したし」

「うん、そうだ……」

「許してないよ。ていうか、許す日はこないと思う」


 当然だと思った。時雨も何も言わない。ジュリアさんが俺と二人きりになりたくないと言ったんだろう。だからそこにいてあげているだけ。


「でも、佐藤も悲しかったっていうのは、だからあんなこと言ったっていうのはわかるから、あたしはもうそのことは言わない。これでいい?」

「うん。ごめん」


 ジュリアさんは少し、ほんの少しだけ笑った。俺のことは見ないまま、下を向いて。


「あんま見ないでね。スッピンだから、恥ずかし。なんか、チャラチャラする気になれなくて。これメイクしてる子のことバカにしてるよね? あたしの中にもそういう部分ってあるんだ」

「喪に服すみたいな意味だろ」


 時雨がそう口を開いた。短く続ける。


「変なことじゃない。世界中にある概念。つまり普通の発想」

「ありがと。篠田はオトナだよね」

「うるさいなあ」


 え、急に怒るなんて、と俺はびっくりしたけど、ジュリアさんは笑った。さっきよりも自然に。


「ゴメン、そういう意味じゃないんだって。佐藤、知らないかな? 篠田はオトナが好きだから、同級生なんてガキで相手にされないんだよねって、みんな言ってんの」

「ごめん。俺のせいだ」

「やめろ、マジになって言うな。ダルいなあ、ほんとさあ!」

「でも篠田、えらいよね。男子ってこういうとき、あんなやつ好きじゃないとか、相手のこと乱暴に言うじゃん。それ絶対言わないから、ホント、オトナだなって思った」

「やめろって。そんな良い風に解釈してくれなくていいよ。相手が学内の人間だから、なんか言ったら伝わるだろうと思って言わないだけ」

「コンシダレートなんだ」


 俺が言うと時雨は珍しくむくれた。ジュリアさんは、この子ならコンシダレートの意味は知っているだろうけど、俺の発音が悪かったみたいで伝わっていない。


「告らないの?」


 ジュリアさんに聞かれて、時雨は少しむっとしたようだったけど、たぶん少しよくなった空気を崩さないために答えてくれた。


「しないし、するにしても卒業の時に言うよ。フラれた担任に進路相談するなんて、冗談じゃないだろ」

「フラれるの確定?」

「そりゃそうだろ。都条例とかにも引っかかるんじゃないの?」

「ヘンじゃん? 男は十六で結婚できるのに、十八だと都条例? 生徒相手だと服務規程的なヤツに違反するのかもしんないけど、卒業するなら生徒でもないじゃん」

「あれ? ホントだ。番場、すごい賢いな」


 時雨が目を丸くした。ひょっとしてフラれないかもしれない、少しだけでもそう思ったのかもしれない。


 でも、きっとダメだと俺は知っている。彼女がいるんだよ、石黒先生には。


 だけど言わなかった。これはそのうち時雨を傷つけることになるかもしれないけど、それでも言うべきじゃないことだから。


ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ