9:冬 暮れてゆく
連れて行かれた保健室で寝て、夕方に家に帰って、寝て起きてまた保健室に行った。教室に行っても、どうせまた追い出されるだろうから。俺が謝るまで、武田くんは俺を許さないだろう。身体が大きいからっていばってる、乱暴なやつ。
休み時間に、石黒が来た。顔が腫れたりはしていなかった。ベッドで寝ている俺の隣、小さな椅子に座った。
「次の時間は、あたしは授業がないから。ここにいてもいい?」
「うちのクラスの篠田、あんたのことが好きなんです」
「そうなんだ。ここにいてもいい?」
俺は何も言わなかった。チャイムが鳴る。石黒は何分か、何十分か黙っていたが、ゆっくりと言った。
「仲がよかったんだね」
「篠田とですか?」
「いいえ、三年の――」
言いよどむな。その名前は汚らしいものか? 死んだら忌まわしいものになるのか。
「仲がよかったかはわからないですけど、お世話になりました。顧問も来ない部だったので」
「ごめんね」
ふざけるな。あんたの声は聞きたくない。しゃべり方が似ているんだ、春日井先輩に。おおげさなジェスチャーも。彼女がエイケンにいた頃は、まだ野田先輩だって。
春日井先輩は石黒先生から影響を受けているんだな、とは思っていた。少人数なのに部にしてもらって、視聴覚室を借りられるようになったんだと言っていたことがある。バレー部が忙しいのに、石黒先生が親切で。顧問がいないと学校の設備は使えないから。
「危ないことをするなって。他の学校の女子なんか助けることないって、顧問ならさあ!」
「ごめんね」
石黒は泣いていた。俺も泣いている。俺は親友の好きな女を泣かせていると思った。もう親友じゃないだろうけど。
泣いていないふりをしながら、石黒は俺の手をそっと持ち上げた。包帯でぐるぐる巻きになったほうの手。
「お母さん、病院に連れて行ってくれなかったんだね。電話で聞いた」
「お母さんはいない。血は繋がってない」
血以外のものだって何も。毎日、冷凍食品を詰めた弁当を俺に持たせる。毎日、毎日毎日、白飯とコロッケだけの弁当。残せば怒鳴られるから、食べきれない日は公園で捨てた。中学の頃、それをクラスの女子に見られて、だから佐藤はゴミ弁。
「先生と行こう。放課後、車で連れて行くから。行けそうかな」
「行きたくない」
「そうなんだ。明日なら行ける? 帰りも家まで送っていくから、その時におうちの人と話をしたいんだ」
「俺の家のことなんか今どうだっていいだろ。ケガだってそのうち治るよ。よけいなことしないでくれ」
石黒は俺の手を、持ち上げた時のようにそっと離した。
「番場は気にしないでって言ってる。ほかの部員も、みんな孝太郎を心配してるよ」
「カースト高い女子にあんなこと言ったんだから、もうみんな俺をゴミと思ってますよ。武田とか、高畑にブスって言ったのだって根に持つやつなのに。あいつジュリアさんのこと好きだし」
「人の心のことを想像して、言いふらすのはやめなさい」
時雨がどうしてこの教師のことを好きなのか、ルックスを第一関門としか思っていないあいつが、どうして二年になっても好きでいるのか、わかったような気がして目の前がぼやける。喉がひりひりして痛い。
「先生、俺は一年の春を三回やったんだ」
「留年してたっけ。ごめん、そういう記録があったかな――」
「違う、頭がおかしくて妄想したんだ。高校に入って、新学期が不安で、このままだと一人ぼっちでずっと、文化祭とか、何もなくてつまんない、中学と変わらない生活になるんだろうなって、そういう妄想」
実際には少し違うけど、いや、違わないのかもしれない。結局、あの石はなかったし、どうだっていい。映画のフィルムの最初だけがたるんでいて、あとは正常みたいな、そういう話なんだろう。
「秋まで妄想して、また春に戻って、ちょっと妄想して戻って、そしたら篠田が話しかけてきてくれた。そこからは楽しかった。少しいろいろあったけど、それでも。だから、セーブもロードもリセットも、最近は全然考えなかった」
「リセット?」
石黒はその言葉にだけ反応した。
「リセットというのは、どういうことかな」
「嫌な響きだよね。でも大丈夫。セーブデータを作ったらリセットはできないから」
「そうだね。それは正しいことだ」
そうなんだろうと俺も思う。だからそうなったのだ。俺の頭が作り出す妄想機関は、俺の価値観を反映する。
「捕まったんですか?」
七回刺したやつは。
石黒は少し喉を詰まらせて、「うん」と言った。
「その場で取り押さえられて、現行犯で」
「取り押さえたやつ、一年半後に刺されないといいですね。そんなに早く出てこないか」
「うん、それに――警察官だから」
じゃあ、一年半前のときも、その警察官が取り押さえてくれたらよかったのに。見るからに非力な野田先輩なんかじゃなくて。表彰なんかしなくていいから。
チャイムが鳴って、石黒は「また来るから」と言って出て行った。俺はその「また」が怖くて、養護教諭に包帯だけ巻き直してもらって、すぐ帰ってきた。
翌日、十二月二十一日。
また、保健室に登校した。養護教諭は赤木さんに少し似ているおばさんで、ずっと俺に多くのことは言わなかった。でも、優しくしてくれた。
石黒――石黒先生がまた来た。授業中か休み時間か、うとうとしていたからわからないけど、また椅子に座ったからしばらくいてくれるんだろう。
「俺がここにいること、みんな知ってるんですか」
「――うん。登校するとき、会うでしょ。孝太郎はあんまり見てないかな」
「視野が狭いから。小四の頃、叩かれて壁に頭ぶつけて、右側が半分くらい見えない」
テロップはその、見えないはずの右下に出る。もうずいぶん出ていないけれど。
「そうだったんだね。ごめん、先生、左側に座ろうか」
石黒先生を困らせたいわけじゃないんだ。もう違う。
「いいんです。そうじゃなくて、俺、学校に来てるのに、謝りにこないやつだと思われてますよね。思われてるっていうか、事実そうなんですけど……」
「大丈夫だよ。みんな高校生なんだから、そんなに子供じゃないよ」
「顔に当たって、ごめんなさい。あのとき」
「大丈夫。ぜんぜんなんともなかったから」
「女の人なのに」
「ポリティカル・コネクトレスの見地からは、ちょっといただけない発言だな」
少し沈黙。
「ジュリアさん――番場さんは、俺のせいで変なこととか言われてないですか」
「生徒の雑談をぜんぶキャッチすることはできないけど、大丈夫だと思うよ。なにか言われてたとしても、あの子は強いもん。ハングリーだよ。わかるかな、意味」
「わかります。そういうところが好きだったから」
「そうなんだ」
「でも同じくらい、鳳凰院香織さんのことが好きでした。同じ時期に」
「やるじゃん」
「でも、もっとずっと、篠田時雨のことが好きでした。そういう意味じゃなくて」
「どういう意味だっていいんだよ。そうだね。きみは篠田のことが好きだったよね。一年の四月からずっと」
「謝りたい」
あいつがずっと言わなかったことを、クラスの中で叫んでしまったこと。俺はおかしい人間だと思う。自分がつらい時は、人につらいことを言ってもいいと思っている。高畑さんに、ジュリアさんに、時雨に。どうしてなんだ。自分がそうされてきたから? そんなの言い訳にならない。
「俺みたいなのと仲良くしてくれたのに」
「仲良くしてあげたとは、篠田は思ってないんじゃないかな。最初はそうだったかもしれないけど、最近は違うでしょう」
「みんなにどんな顔して会えばいいのかわかりません。転校もできないのに」
「そうしたい? 先生ができるだけ方法を考えてみようか。おうちにも取り計らってみる」
「ここで逃げるなんてできない」
「ねえ孝太郎。それこそ、ロードなんじゃないかな。リセットじゃないよ。なかったことにするんじゃなくて、立ち直るための復帰」
チャイムが鳴った。
十二月二十二日。
「明日、終業式ですね」
「そうだね。手と足のケガ、どう? まだ痛い?」
「マシになってきました。先生、クリスマスは彼氏と過ごすんですか」
「いないよ、彼氏は」
「美人なのに?」
「彼女と過ごすんだよ。ないしょだよ? 彼女だからじゃなくて、彼氏だとしてもないしょ。風紀を乱すとか、学校がいろいろうるさいんだ」
そうなんだ。
それは、本当に、ぜんぜん気がつかなかった。気がつくとか、つかないというのも変な表現なのかもしれない。
「篠田が知ったら悲しみますね。彼女だからじゃなくて、彼氏だとしても」
「篠田なら大丈夫だよ。ラバーを作ろうと思ったら、いくらでもできるよ」
「イケメンだから?」
「クレバーだから。それに、とてもコンシダレートだから」
どういう意味だったっけ。でも、調べなくてもわかるような気がする。あいつのことを表現するなら、いい意味に決まっている。そりゃ悪いところもあるけど、そこはクレバーが表現しているから、あとはいいところだけだ。
ふと、今さら気になった。
「先生はどうして毎日来てくれるんですか? 学校でこういう……事件みたいなのがあったら、ショックを受けてる生徒はたくさんいますよね。同じクラスの人とか。ひとりの生徒に、こんなに時間を割くのって、大変なんじゃないですか」
「詳しいね、孝太郎」
映画から得た知識だけど、それなりに合っていたらしい。
「うちの学校にはスクールカウンセラーがいないから、今人を探してるんだ。冬休みが明けたら来てもらえると思うから、孝太郎も話してみたらどうかな」
「専門家がいないから、先生が来てくれてるんですか」
「担任だからね。うちのクラスで特にショックを受けているのは、やっぱり同じ部活だった子だから。そう、先生も同じ部活だったから――」
石黒先生はずっと顔色が悪い。事件の日からは特に、その前からも少し。美人なのに唇ががさがさで、過労死ラインという言葉を思い出した。
うちのクラスで同じ部活なのは、ジュリアさんだ。彼女にもこうやって接する時間を作っているんだろう。石黒先生は担当の科目があって、担任のクラスがあって、バレー部の顧問をしているのに。三時間くらいのバイトを週に三日とか、そんな俺とは違う世界の、本当の仕事。俺みたいなガキに、代わりに死ねばよかったのにと心の中で怒鳴られる仕事。
「俺、アルバイトしてたんですけど、きのう電話して辞めたんです。無断欠勤したし、ケガしちゃったし、それに受験生になるし。スマホを買いたかったけど、結局ムリだったな。関係ないこと、聞いていいですか」
「いいよ。なにかな」
「児童相談所って、高校生は使えないんですか」
「いえ、十八歳未満を対象としてるから、高校生でも大丈夫だよ。連絡を取りたい? もう担当の相談師さんとかいるのかな? 実はね、先生もその話を孝太郎にしようと思ってたんだ」
「俺はもう児相は嫌です。自分のことを話すのも、家のことを言われるのも嫌だから。俺じゃなくて、いや、俺みたいなのが、人のこと気にするのって変かな」
「大丈夫だよ。話してみて」
「鳳凰院香織さんが自分の服を一枚も持ってないのは、児相の人が親に注意してくれたりしないんですか」
石黒先生は俺が何を言っても、動揺したり驚いたりしない。俺を不安がらせないように。でも、今のは少しだけびっくりしたようだった。
「鳳凰院が、そうなの? ええと、彼女は制服以外の服を持っていない?」
「持ってるけど、全部親が選んで、自分で選んで買うことができないんだそうです。俺と同じで」
「そうか……」
石黒先生は難しい顔になった。考えながらというように、ゆっくり言う。
「鳳凰院が相談所に訴えれば、相談所が親御さんにアドバイスすることはあると思うよ。ただ、強制力を持つかというと、内容的にも――どうだろう。ごめんね、先生も詳しくはないから、はっきりしたことは言えない。調べてみるね。その結果や何かを、君に伝えることができるかどうかはわからないけど。鳳凰院のプライバシーだから」
どうやら俺はまた石黒先生の仕事を増やしてしまったようだ。鳳凰院さんの担任でもないのに。それに、生徒の私服の話なんて、学校が知ったことではないだろう。でも児童相談所を鳳凰院さんは知らないかもしれない。俺には合わなかったけど、彼女には合うかもしれない。
「俺が言ったこと、鳳凰院さんには」
「言わないよ。どちらにせよ、新学期にはスクールカウンセラーが彼女とも話すだろうし――彼女も同じ部だったからね――そこで聞いてもらうようにする。彼女の担任の先生には、話さないでおこうと思う」
「何先生でしたっけ」
「江戸川先生」
国語の、痩せたおじさん先生だ。粘着質な喋り方をして、授業に関係ない、たとえばペンの持ち方とかを、嫌な言い方でみんなの前で注意する。俺はあんまり好きじゃない。石黒先生もそうなのかもしれない。あの先生が、女の子の服のことなんか理解できるとは思えなかった。
それに、連鎖的に思い出す。江戸川先生は確か、新聞部の顧問じゃなかったか。個人的なことをあまり話したくないという鳳凰院さんの、この学校を選んだ動機なんかを全校に公開した部。まあ、新入生にそういうインタビューをするのも、その回答を掲載するのも、ふつうのことなのかもしれない。でもあれは、さらし者みたいな記事だった。
なんで今こんなことを考えているんだろうと、自分でも不思議に思う。あの校内新聞のことなんて、鳳凰院さんだって忘れているだろう。現実逃避というやつなんだろうか。
石黒先生は腕時計を見た。
「池井が孝太郎をとても心配していて、もしよかったら、今日ここでお弁当を一緒に食べたいと言ってたよ。どうかな? 無理はしなくていいよ」
池井くんが? 一度俺の弁当をからかってきたけど、その場で時雨にチョップされて、すぐに謝ってくれた。それからは二度とからかわれていない。クラスが変わってからは、昼を一緒に食べなくなった。
時雨やジュリアさんの顔を見るのはまだ怖いけど、池井くんになら会えるかもしれない。
「会いたいです」
石黒先生は心配そうだったけど、この人を安心させるためにも、俺は少しずつ何かをしなければいけない気がした。今はいいけど、いつか絶対。武田くんに言われたことが、俺の中で傷のようになっている。いつかというのは、それが塞がる日なんだろう。戻ることはできないけど、復帰の日。急ぎすぎてもいけないんだと思う。石黒先生はそれを心配しているんだろうから。
でも、友達に会いたい。俺はそう思った。
池井くんと弁当を食べるのは、ずいぶん久しぶりだった。
クラスが変わってからは、昼休みに四人で集まることがなくなったから。どうせエイケンで会うし、池井くんにも鵜飼くんにも自分のクラスの友達がいる。
相変わらず池井くんの弁当はおいしそうで、俺の弁当は二色だった。
「なんか、もっと気持ち的な、その、そういう理由だと思ってたけど」
焼いたウインナーを食べながら、池井くんは遠慮がちに言った。
「思ったより物理の感じなのな。よかった、つうのも違うか。ごめん」
心ではなく身体のケガだったんだ、じゃあよかったね、ということを言いたんだろう。手の包帯を見てそう思ったらしい。
一年の頃から坊主頭を続けているこの友達は、ザツでおおっぴらな性格だけど、心のケガのほうが身体のそれよりも深刻だ、という価値観を持っているようだ。今まで知らなかった。
「わざわざ来てくれてありがとう」
「わざわざって、やめろよ。そういうの」
「え、ごめん」
「そんな立派な気持ちで来たわけじゃねえから」
立派? 箸を止めた俺を見て、池井くんはちょっと焦ったらしい。
「や、責めに来たとかでもねえから! 食えよ。食わないとケガも治んねえだろ」
「俺ばっかり被害者ヅラしててごめん」
池井くんだって立場は俺と同じだ。同じくらいショックを受けただろうし、たぶん泣いたと思う。池井くんは見かけによらず涙もろくて、悲しい映画を見た帰り道では口数が少なくなる。もちろん、映画と現実は違う。つらいことに。
「そんなこと言うなよ……」
池井くんも箸を止めてしまった。
「部長さ、エイケンってもう活動できないよな」
九月から池井くんは俺を部長と呼んでいる。鵜飼くんと鳳凰院さんも。ジュリアさんだけは恥ずかしいらしくて呼ばなかった。
エイケンの活動のことなんて考える余裕はなかったから、初めて考えて、俺は答えた。
「できないと思う」
「うん。俺さ、部屋にあったDVDとか、全部押し入れに入れちまった。映画って、人とか死ぬじゃん、フツーに。殺すとか死ぬとか、フツーに出てくるし、今までそれ見て楽しかったのにさ」
そうかと、俺は悲しい気持ちになった。確かに、映画の中では人が簡単に死ぬ。男が刺されるシーンがあるかもしれない。そんな映画は珍しくないし、じゃあ俺たちはこの先、もう映画を見ることができないんだろうか。みんな映画が好きだったのに。野田先輩もそうだった。だからみんな集まったのに。
「鵜飼くんはどうしてる?」
去年の夏、野田先輩について誤解が広まっていた時期、彼は誰よりもショックを受けていた。俺よりもずっとだ。フェミニストだからじゃなくて、野田先輩になついていたから。
「鵜飼はあれから学校来てない。連絡も返ってこない」
「そうか」
心配だな。自分だってずっと保健室のベッドにいるくせに、俺はそんなことを思う。
「鵜飼くんの家って知ってる?」
「マンションの下までは行ったことあるけど、部屋番号はわかんねえ。それにあいつ、こういう時は殻にこもるってか、放っといてほしい方だろ」
俺もそう思う。なのに今ここに池井くんがいるということの意味を、俺は少し考える。俺も自分を殻タイプだと思っていたけど、池井くんはそう思っていないみたいだ。
「鳳凰院さんと――ジュリアさんは?
「学校には来てると思うよ。クラス違うから、毎日かはわかんねえけど。きのう帰りに外でジュリアさん見かけたんだけど、急にやつれちゃってて、びっくりして声かけらんなかった」
元から痩せてるのに、ジュリアさん、やつれてしまったのか。俺がひどいことを言ったせいもあるんじゃないか。彼女だってすごくショックを受けていたのに決まっているのに、あんなことを。池井くんはあのことを知っているんだろうか。
いや、知っていたら来てくれなかっただろう。知らないままでいてほしいと、薄汚いことを考える。
でも池井くんは、半分くらいは知っていた。
「お前さ、グロセン、石黒先生に、変なこと言ったってホントなのか? なんか、処女とか、やばいこと」
噂が交錯しているんだ。石黒先生を乱暴に振り払って、そのあとジュリアさんに暴言を吐いた。女の人に連続でひどいことをしたから。俺はなんだ? なんでこんな人間なんだ。
「そんなこと言ってないだろ? 言うわけねえじゃん、お前がさ。みんな適当なことばっかり言って、マジでやってらんねえよ。ふざけんなよ」
ごめん。俺はきみのことも裏切ってしまったんだな。
「言ったよ」
池井くんは、百パーセント予想外というわけでもなかったんだろう、半分くらい残っている自分の弁当を見つめている。
「なんで? 部長、佐藤、そんなこと言うやつじゃなかったじゃん。俺、わかんねえよ。の――野田先輩のことと関係あんの? なんで?」
距離を取られた。当たり前のことだ。俺は弁当箱のフタを閉じる。同じように半分くらい残っていたけど、もう怒鳴られることなんかどうでもいい。
「石黒先生に言ったわけじゃないんだ。顧問なのにあんまり部に来てくれなかったから、八つ当たりで悪い態度は取ったけど。ひどいことを言ったのはジュリアさんにだよ。野田先輩に、」
ためらった。自分を守るためじゃなくて、池井くんが傷つくかもしれないと思って。だけど、いつか耳に入るなら、せめて自分で。
「野田先輩にやらせてやったらよかったのにって言った。死ぬんだから、野田先輩はきみを好きだったんだからって……」
池井くんは、やっぱり、傷ついた顔をした。不謹慎な効果音を鳴らすなよ、俺の頭。もう池井くんにも嫌われた、そんなことわかっているんだから。
「ひでえ」
「自分でもそう思う。本当に。それで、時雨と武田くんに引っ張られて、教室を追い出されたんだ」
「そりゃ、お前さ、そうだよ」
「わかってる。ジュリアさんに謝りたい。電話をかけたらキモいかな? エイケンの連絡網って、こんなことに使ったらダメかな」
「ダメじゃねえとは思うけど」
池井くんは弁当の残りを箸でかき混ぜながら、ため息を吐いた。
「内容ひどすぎんだろ。直接謝ったほうがいいんじゃねえの? いっしょに行ってやろうか? 冬休みになる前に謝ったほうがよくねえ?」
「謝りに行っていいのかな? こんなやつが会いに行ったら、キモいんじゃないかな」
「そうかもしんねえけどさ、そんなこと言われて、謝りにも来られないほうが絶対イヤだろ。いや、わかんねえ、俺にもわかんねえよ。こういうの、篠田とかに相談したほうがいいんじゃねえの? 俺たちよりは女ゴコロみたいなのわかるだろ」
「時雨にも、俺、ひどいこと言ったから」
「どういうこと?」
あいつが石黒先生を好きだということをみんなにばらして、だから彼女がいないんだなとか、余計なことをたくさん言った。
俺がそれを話すと、池井くんは不思議そうというか、たぶん「拍子抜け」という感じの顔をした。
「それはまあ篠田は嫌だったと思うけどさ、ジュリーに比べれば、そんなたいしたことでもなくね? 篠田なら謝ったら許してくれるんじゃねえの?」
「許してくれるかな」
「あ、じゃあさ、いやもう昼休み終わるな。じゃあ放課後、篠田のこと連れてきてやろうか? 今、全部の部活が活動休止になってるからさ。そんなことになってんなら、いきなり教室は行きにくいだろ」
「いいの?」
「いいよ。ジュリーに言ったことはマジひでえと思うけど、それはちゃんと謝らねえと俺も許さねえけど、そのくらいならさ。だって」
友達だろ。きみはそう言おうとしたんだろうけど、きみはセリフを言うタイプの人じゃないから、うまく言えなくて詰まってしまったんだな。それがわかる。友達だから。一年半、いろんなことをしゃべってきたから。
「まだ友達でいてくれる?」
「なんで俺の言おうとしたことわかるんだよ! こえーよ。だからまあ、うん」
それ以上、池井くんは何も言わなかった。
もしかして、怒っていない可能性もあるんじゃないかと思ったけど、時雨は怒っていた。だけど保健室に来てくれた。
「池井に気ぃ遣わすなよ! 話終わるまで待とうかとか言ってたけど、帰させたからな。あんな坊主頭にデリケートなことさせんなよ」
いつも石黒先生が座っている、ベッドの脇の椅子に座ると、時雨は早口で俺を怒った。
「お前がショック受けてるんなら、池井だってそうだろ。そのへんわかんないかな」
「わかる。池井くんにも申し訳ないと、思う」
言いながら泣きそうになって、ぐっとこらえた。泣いたらしゃべれなくなってしまう。
時雨は身長のわりには長い足を組んで、軽く俺をにらんだ。
「池井はいいやつだよ。佐藤さ、ホント、あいつに感謝しろよ」
「うん。してる」
「お前はあんまりいいやつじゃないよな」
「うん。ごめん」
「もう話せんの?」
最後に話したのは、あの取り乱した時だったから、もう取り乱していないのかという意味だろう。
「うん。お前の、個人的なことをみんなの前でしゃべって、本当にごめん」
「ひでーよけっこう。相手、担任だよ? 話す機会がかなりあんだよ! もちろん向こうは知らんぷりしてくれてるけど、相当気まずいわ。みんな知ってるしさあ」
「ごめん」
いいよとは言わなかった。そりゃそうだ、よくないんだから。でも、そこまで本気で怒っているわけではないんじゃないかと、俺は感じた。いや怒ってはいるんだけど、傷ついたりはしていないのかな、と思う。
時雨はふーっと息を吐いた。
「鵜飼はずっと休んでるんだって。知ってるか?」
「うん、さっき聞いた」
「その、例の先輩の件については僕は何も言えないけどさ。――ケガ、どう?」
「大丈夫だよ」
「そか。ってか、聞いていいのか? なんでケガしてんの」
「あの日、俺、動揺して外に出たろ。その途中の階段で転んだりして。どうでもいいケガ」
「どうでもよくはないけどさ」
もしかして俺が、誰かとケンカしたりしたのかもしれないと思ったのかな。ほっとしたようだった。
「骨折してんのか? 僕、あのとき引っ張っちゃったけど、もしかして」
「いや大丈夫。手は切っただけで、包帯がおおげさなのは、手の傷は菌が入って化膿しやすいからだって」
あのとき引っ張ってくれてありがとう。俺があれ以上のことをしてしまう前に。もっとも、それまでにかなりのことをしてしまった。俺はそれを償わなければならない。
「ジュリアさんのこと――」
「番場本人よりも、周りの女子が怒ってる。武田もな。ちょっと、お前の立場の回復は難しいかもしれない」
わかってる。そうだろう、あんなことを女子に言うやつ。
「謝るんだろ。ちゃんと」
「うん、謝りたい」
「じゃあ謝れよ。こういう風に呼び出すのはまずい。教室、来られるか。あした」
「行くよ」
中学の頃の比じゃない目で見られるだろう。でも、池井くんはまだ友達だと言ってくれた。
復帰したい。前と同じようにはいかなくても、せめて近いところまで。
「もうあんまり話しかけないようにするから。教室でも」
「番場に?」
「お前に」
時雨は上履きを脱ぐと、俺の足をキックしてきた。
「痛い! そこは本当に痛い」
「わり。しょうもないこと言うもんだから」
「うん。こういう言い方したら、お前がヒールになっちゃうもんな」
「ヒールって何? ヒールレスラーとかの意味? オタク用語はわかんねえよ」
オタク用語じゃない。本が好きだという女の子が、クラスメイトの女の子に照れ隠しで言った言葉だ。
時雨は上履きを履きながら言った。
「でも確かに、そういう考え方もあるか。みんなの前で謝ったら、番場も許すって言うしかないわな。言わせることになるか」
「高畑さんにもそう言われた」
「あったな、そんなことも。よく覚えてるじゃん」
「なのにやらかしちゃったんだ。次から気をつけろってお前に言われたのに」
「それについては、まあ正直がっかりしてるよ。お前ってショック状態だとやらかしちゃうヒトなの? 特に、女子に? それはホントに最悪だぞ」
わかってる。俺は本当に最悪な人間だ。自分のことを脱ぎ捨てたい。装備みたいに。
だけど俺はゲームの主人公じゃなく、現実世界の人間として生きる。ロードも、しない。石黒先生はそうしてもいいと言ってくれたけど、そうしたら俺はまたやらかす気がする。
「番場本人に聞いてみるよ。あと別に、僕には普通に話しかけてきていいから。もう三年になるし、みんな忙しくなるから、いじめとかダルいこともたぶんないと思うよ。ボス猿がまあまあ良識的なほうだし」
でも、その武田くんを怒らせたんだ。時雨が言ってくれているのは楽観的な見方で、俺を励ますためだろう。だけど。
「まだ友達でいてくれる?」
「キモいんだよオタクは。聞いたことないわ現実でそのセリフ。友達って、今日からそうとか、明日から違うとか、そういうもんじゃないから。まあ僕がそんなようなこと言っちゃったことあるな、それはゴメン。友達っていうのもそうだし、お前の人間性っていうの? それも、ひどいこと一回言ったら全部ナシになるとか、そんな簡単なもんじゃないから。ゲームじゃないんだからさ」
「ありがとう」
俺を人間だと思ってくれて。
「コンシダレートってどういう意味?」
「何? もう一回言って」
「コンシダレート。たぶん、コンシダレートな人、みたいな使い方をすると思う」
「Considerate? 配慮ができるとか、人の気持ちを思いやれるとか? Considerateな人って使い方は聞いたことないけど、形容詞だし、言わなくはないのかな。優しいの中でも、察しがあって理解がある的な意味だね」
「石黒先生が、お前のことをそういう人間だって言ってたよ」
人の気持ちのことは言いふらしてはいけないけど、これはいいと思う。
時雨はひざのほこりを払いながら、ふうんそう、と言った。こいつにしては珍しく、ちょっとセリフっぽかった。
終業式が終わったあと、俺と時雨はあのドトールにいた。
テーブルに置いた時雨のスマホが時計を表示している。待ち合わせの時間を少し過ぎた。
金色の髪の女の子が、自動ドアから店内に入ってくる。時雨が立ち上がった。俺も立とうとしたけど、いいと言われた。
「あっちの飲み物買ってくるだけ。お前は待ってろ」
「あとで出す」
「そうして。――番場!」
二人がちょっと話してから、カウンターに注文して、コーヒーカップを受け取ってこっちへ来た。
店内には二人用のテーブルしかないから、時雨は隣のテーブルのイスに座った。空いているから大丈夫だろう。
正面に座ったジュリアさんに、俺は頭を下げた。
「ごめん。本当に、きみにひどいことを言ってしまった」
「うん」
ジュリアさんはホットコーヒーに軽く口をつけて、俺と目を合わせない。でも小さな声で言った。
「マジひどかった。ないよね」
「ごめんなさい」
「あたしのこと前からそう思ってたんでしょ。そういう風に――そういう女って」
「違う」
「違わないでしょ。思ってなきゃ出てこない。言葉は、そこにある思考をさらうから」
思考をさらう。初めて聞いた言葉だったけど、意味はわかる。
「あたしは処女じゃないよ、確かに。でもあんたの言ったことは、野田先輩のことも侮辱したし」
「うん、そうだ……」
「許してないよ。ていうか、許す日はこないと思う」
当然だと思った。時雨も何も言わない。ジュリアさんが俺と二人きりになりたくないと言ったんだろう。だからそこにいてあげているだけ。
「でも、佐藤も悲しかったっていうのは、だからあんなこと言ったっていうのはわかるから、あたしはもうそのことは言わない。これでいい?」
「うん。ごめん」
ジュリアさんは少し、ほんの少しだけ笑った。俺のことは見ないまま、下を向いて。
「あんま見ないでね。スッピンだから、恥ずかし。なんか、チャラチャラする気になれなくて。これメイクしてる子のことバカにしてるよね? あたしの中にもそういう部分ってあるんだ」
「喪に服すみたいな意味だろ」
時雨がそう口を開いた。短く続ける。
「変なことじゃない。世界中にある概念。つまり普通の発想」
「ありがと。篠田はオトナだよね」
「うるさいなあ」
え、急に怒るなんて、と俺はびっくりしたけど、ジュリアさんは笑った。さっきよりも自然に。
「ゴメン、そういう意味じゃないんだって。佐藤、知らないかな? 篠田はオトナが好きだから、同級生なんてガキで相手にされないんだよねって、みんな言ってんの」
「ごめん。俺のせいだ」
「やめろ、マジになって言うな。ダルいなあ、ほんとさあ!」
「でも篠田、えらいよね。男子ってこういうとき、あんなやつ好きじゃないとか、相手のこと乱暴に言うじゃん。それ絶対言わないから、ホント、オトナだなって思った」
「やめろって。そんな良い風に解釈してくれなくていいよ。相手が学内の人間だから、なんか言ったら伝わるだろうと思って言わないだけ」
「コンシダレートなんだ」
俺が言うと時雨は珍しくむくれた。ジュリアさんは、この子ならコンシダレートの意味は知っているだろうけど、俺の発音が悪かったみたいで伝わっていない。
「告らないの?」
ジュリアさんに聞かれて、時雨は少しむっとしたようだったけど、たぶん少しよくなった空気を崩さないために答えてくれた。
「しないし、するにしても卒業の時に言うよ。フラれた担任に進路相談するなんて、冗談じゃないだろ」
「フラれるの確定?」
「そりゃそうだろ。都条例とかにも引っかかるんじゃないの?」
「ヘンじゃん? 男は十六で結婚できるのに、十八だと都条例? 生徒相手だと服務規程的なヤツに違反するのかもしんないけど、卒業するなら生徒でもないじゃん」
「あれ? ホントだ。番場、すごい賢いな」
時雨が目を丸くした。ひょっとしてフラれないかもしれない、少しだけでもそう思ったのかもしれない。
でも、きっとダメだと俺は知っている。彼女がいるんだよ、石黒先生には。
だけど言わなかった。これはそのうち時雨を傷つけることになるかもしれないけど、それでも言うべきじゃないことだから。
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