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佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない  作者: 終焉エンドレス
8/15

8:バタフライにも至れない



 十二月も、ほとんど何事もなく過ぎた。


 時雨の誕生日は一日で、サプライズパーティーとかしようかと事前に鵜飼くんに相談したら、便所虫を見るような顔をされた。

 だから大きな文房具屋で少し高級なシャープペンシルを買って、ギフト包装とかもしてもらわず、むき出しで渡すだけにした。時雨は思ったよりもずっと喜んでくれたので、やっぱりサブライプパーティーをしてもよかったんじゃないか、先に池井くんに相談したらよかったと思ったけど、人のせいにするのはよくないな。


 一月、十七日は俺の誕生日で、何かの機会に言ったのを覚えていたらしく、池井くんがおめでとうと言ってくれた。時雨は覚えていなかった。

 でもシャーペンのことを知っている鵜飼くんが、知らせた方がいいんじゃないと言うので知らせてみた。時雨は食堂で、いちばん値段が高いチキン南蛮丼をおごってくれて、帰りにコンビニでピザまんも買ってくれた。次の日にも校内の自動販売機でジュースをおごってくれようとしたから、もういいよと言っておいた。


 二月、三月も平穏に過ぎたと思う。

 バイトで初めて大きなミスをして、支配人に直接怒られたけど、俺がしばらく落ち込んでいたら、次から気を付けるだけでいいんだよと励ましてくれた。それからはあまりミスをしていない。


 四月、始業式の日。


 廊下に張り出されたクラス分けの掲示を、ドキドキしながら見上げた。時雨といっしょだといいな。それか池井くん。最悪、鵜飼くんでも許しますから。居丈高な俺の願いは通じて、時雨と同じクラスだった。池井くんと鵜飼くんはそれぞれ別のクラスになったけど、部活が一緒なんだから別にさみしくもない。一人ぼっちにならないとわかった瞬間、現金な俺だった。ジュリアさんも同じクラス。鳳凰院さんは別のクラスだったから、それはがっかりした。担任は英語の石黒先生だった。


「クラス分けもランダムじゃないからな」


 始業式の帰り道、いつものドトールでアイスコーヒーを飲みながら、時雨は珍しく指でリズムなんかを取っていた。口には出さないけど、時雨も俺と同じクラスになったことがちょっとは嬉しいんじゃないだろうか。イケメンで器用なこいつだって、新学期は緊張するんだろう。


「コミュ障っぽいやつを、完全に友達と分断したりはしないんだろ。不登校とか出たら担任が面倒見るわけだし」

「俺ってコミュ障なのかな」

「だいぶマシになったよ。去年の今頃はホントにヤバかったけどな」


 去年の今頃、俺が一番迷惑をかけた相手に言われると、うんとしか返せない。


「鳳凰院さんは別になっちゃったから、ちょっと残念だな」

「え、お前、まだ鳳凰院のこと好きだったの」


 好きというほどの言い方をされると恥ずかしい。自分でもよくわからない。気になる女の子、かわいいと思う女の子。ジュリアさんのこともそう思っているし、卒業した春日井先輩のことも、違う意味だけど好きだった。俺って、ちょっと多く接する機会のある女子を、端から好きになってしまうしょうもない男なのかもしれない。


 俺がそう言うと、時雨はあからさまに小馬鹿にした。


「モテないメンズは大変ねえ」

「ひとりだよ。モテるメンは、いつまでも作らないのかよ、彼女」

「フリーでいたほうがいろんな女子が親切にしてくれて便利だろ」

「女子ってそんなに薄情じゃないだろ。相手に彼女がいるとかいないとかで、わざわざ態度変えないよ。マンガじゃないんだから」


 時雨はその時、たぶん初めて、俺を見上げるようにしたと思う。物理的にじゃない。少しお兄さんを見るというか、そういう意味で。


「言うようになったじゃん、佐藤」

「お前だって本気で言ってるわけじゃないんだろ。俺にはそういうの話したくないんだったら、まあいいけどさ」

「何が何でも避けようとかしてるわけじゃないんだけど、男同士でそんなこと話してたって進展しないし、意味なくない?」

「進展しないとは限らないだろ。ダブルデートとかあるだろ、四人で遊びに行ったりさ」

「ダブルデートって、シングルデートふたつだろ。ゼロふたつからは生まれねーよ」

「確かに。今のはゲームの知識だった」


 時雨は口がうまいから、俺はいつもこんな風に話をうやむやにされる。

 俺だって別に、いつだって恋愛の話をしたいハッピー野郎というわけじゃない。だけど女子と付き合ってみたいとは思っているし、モテるのにそうしないやつには興味がある。


 モテるのに彼女を作らない時雨は、めんどくさそうに窓の外を見た。


「彼女できたら言うとは思うよ。できないと思うけど。できてもダブルデートは絶対しない」

「楽しそうだけどな」

「お前の彼女より、僕の彼女のほうが絶対に美人じゃん。お前の彼女がかわいそうで、気まずいわ」


 なんてことを言うんだ、こいつ。それに、わからないだろ。俺が鳳凰院さんやジュリアさんと付き合ったら、お前がどんなにイケメンでも、勝てる彼女はなかなか作れないと思うけどな。

 言ったら鵜飼くんにぶっ飛ばされるだろう。でも言わないからぶっ飛ばされない。俺は、今でもフェミニズムとか、そういうのはわからないけど、わかったことも少しある。言うからぶっ飛ばされるんだ。けして口に出してはいけないことというのが、世の中にはある。言われたくないことも。俺は高畑さんに言った言葉を今も後悔している。


 皮肉というわけじゃなく、単純に気になって、俺は聞いてみた。


「お前でも、彼女には美人を選ぶんだな」

「いやあ、性格がブスだったらダメだよ? でも心が美しかったらどんな顔でもいいって言ったら、それはウソじゃん。受験と同じ。足切りって言うと言い方悪いけど、第一関門。顔は最初のとこだけで、それ以降は性格で第二第三って分かれる」


 言い方は本当に悪いけど、言っていることはわかる。


「時雨ってどんな顔が好きなの? かわいい系とか、きれい系とか、年下系とかお姉さん系とか。前、鳳凰院さんのことかわいいって言ってたよな」

「言ったっけ? まあかわいいんだとは思うけど、僕は鳳凰院ちょっとナシだわ。なんとなく姉ちゃんに似てんだよね」


 あ、そうか、それも言っていた。鳳凰院さんに似ている時雨の姉ちゃん、見てみたいな。当時の俺も同じことを考えた気がする。


「じゃあ年下系が好きなんだ?」

「あー、顔の好みだとお姉さん系だな。姉ちゃん童顔だし。背も高いほうが好き。姉ちゃんチビだし……これって低身長コンプの現れだと思う?」


 どっちかというとシスコンの現れのような気がする。姉ちゃんを意識しすぎじゃないか?


 しかし、お姉さん系の顔立ちで背の高い女子というのは、一年の頃のクラスにはいなかった気がする。しかも美人。こいつ、かなり理想が高いな。それでシスコン。なるほど、だからずっと彼女がいないのか。


「なんか安心した」

「何を安心したんだよ。なんだその優しい笑顔! 笑うな! あっち向け」


 たっぷり笑って見つめてやった。




 七月、期末テストてジュリアさんは学年十一位だった。


 それでも充分すごいと思うけど、ジュリアさんはだいぶショックだったようで、エイケンの部室でもうなだれていた。


「番場さあ、そんなにぐったりされると、あんたより下だった俺たちの立場がないんですけど」


 たぶん慰めているんだろうけど、鵜飼くんのちょっかいは傷心に火をつけたみたいで、ジュリアさんは「あーっ!」と叫んで机を叩いた。


「知らないし、あたしよりバカのことなんか! 学年上位だと落ち込む自由もないワケ!?」

「ジュリーめっちゃ言うじゃーん。どうせバカですよーっと。でも俺は三十位のバカだから、次の中間では捕捉しちゃうかもねー?」


 池井くんがめっちゃ冷やかす。部員はみんなジュリアさんのヒステリーに慣れてきていた。


 三年で二十位前後だった野田部長と、九十位前後だった鳳凰院さんは、二人で次に見る映画の話をしていた。

 百位より少し下だった俺は単語帳をめくっていた。鵜飼くんの順位は知らない。


 ちなみに、エイケンに一年生は一人も入ってこなかった。いちおう、四月に手書きのポスターは掲示したんだけど、マジで一人も見学にさえこなかった。野田部長は頭を抱えていたけど、でも、六人の部というのも楽しいよなと俺は思った。口に出して言えばよかったんだろうけど、野田部長の好感度を上げても仕方ないし。




 八月、バイトの時給が三十円上がった。とてもうれしかった。




 九月、野田部長が引退した。去年と違って誰も泣かず、二年生が五人で声を揃えて「今までありがとうございました」と言ったのも、ちょっとバカにしてるっぽくなってしまった。


 でも、本当にバカにしてるやつはいなかったと思う。野田部長が率いてくれた一年は楽しかった。クセのある先輩だったけど、いいところもある人だったんです、警察から表彰されたこともあるし、うっうっ。


 死んだみたいになってしまった。部長ではなくなった野田先輩は死なず、元気に受験勉強をしていた。




 十月を過ぎて、十一月。

 文化祭の時期になり、俺は久しぶりに、裏庭の石のことを思い出した。


 ――行ってみようかな。


 一瞬、そう思った。


 だけど、用事がないのにわざわざ行くのもバカバカしいし。俺はもうゲームとか、そういうことを考えたくなかった。BGMはまだときどき聞こえる。ピロリンとデデドンの頻度は上がった。三択もけっこう。でもそれらのことはあまり気にしていなかった。




 十二月十八日。


 野田先輩が死んだ。



 去年の夏の、あの事件の加害者が、野田先輩を逆恨みしたんだそうだ。野田先輩のせいで捕まり、被害者の女子にも嫌われ、受験にも失敗したんだと、前から周りに言いふらしていたらしい。浪人生のそいつは、予備校の帰りの野田先輩を、五回も六回も、七回も刺したんだそうだ。


 七回のくだりは噂だった。本当かどうか知らない。だけど、野田先輩がいたましい事件に遭って、亡くなったということは、朝のホームルームで、石黒先生が真っ青な顔をしながら語った。


 ジュリアさんが椅子から崩れ落ちて、周りの席の女子が悲鳴をあげている。


 俺は机を蹴って立ち上がった。


 また女子の悲鳴。うるさい、黙れ。


 お前たちはどうせ野田先輩のことを知らない。映画館に制服で来る人。見るからにオタクで、けっこうな童貞なのに、他校の女子を助けたという人。自分の選んだディスクが不評だと不安そうで、好評だと得意そうだった人。


 うるさい、叫ぶな! 知らないくせに!


 教室を飛び出した。階段を下りながら二回転んだ。


 そんなこと知るか! 知らないくせに!


 なんで一年はひとりも見学にこなかったんだ。野田先輩は歓迎会のためのお菓子を買っていたのに。部費の割かれない部だから、自腹でだ。あの神経質な先輩が、飲食禁止の視聴覚室で、新入生にこっそり出してやろうと用意していたのに、どうして誰も!


 石黒先生が途中まで追いかけてきたのはわかったけど、女の先生の足なんかすぐ振り切れる。


 あんたはバレー部のほうが忙しいのか何なのか知らないけど、エイケンにはほとんど来なかったくせに。野田先輩はあんたの分まで俺たちに気を使っていた。あんたが代わりに気を使ってくれたらよかったのに。あんたが代わりに。あんたが代わりになればよかったんだ! それが顧問の仕事じゃないのか!


 野田先輩から、次の部長に指名されたのは俺だった。鵜飼くんはガラじゃなくて、ジュリアさんはバイトが忙しくて、池井くんはもう受験勉強を始めているから。鳳凰院さんはスマホを自由に使えないから。


 すごくおかしいですよと俺は言った。俺だってガラじゃないし、バイトをしているし、受験勉強にはまだ取り掛かってなかったけど、スマホを持っていない。そろそろ貯金ができたから、格安のやつなら買えるかもしれないと考えてはいたけど。


 まあ頑張れ、なんとかなるさと野田先輩は言った。きみはけっこうそつなくやるから、やれるだろうさと。


 そつなく、それはどういう意味の言葉だ? 俺は一年の四月から、一度も裏庭に行っていない。どうでもいいような理由だ。怖いとか気持ち悪いとか、子供みたいな理由だ。


 怖かろうが気持ち悪かろうが、ズルだろうがチートだろうが、現実だろうが妄想だろうが、どうだっていいだろうが!

 実害はないんだ。死ね! 試すべきだった。俺が! 毎日行ってもよかった。細かくセーブをすればよかったんだ。様子をうかがいうかがい、ズルくセコく、失敗のないように記録しておけばよかった。次はそうする。次があれば。だから、だから次に行かせてくれ。


 そこに、裏庭に、瓜川先生のもう新車ではなくなったカローラの手前に、その緑色のボウリング玉は浮いていた。


 手を伸ばす。絶対にセーブをしないように、ぐちゃぐちゃのスープになった頭の中で、それだけは氷のように固く念じていた。


・セーブ

・ロード

・リセット(セーブデータがある場合は使用できません)


 はい、真ん中。




 いま教室に戻れば、高畑さんが泣いているだろう。

 瓜川先生のカローラの、ぴかぴかの表面を眺めながら、俺はそう考えていた。


 一日単位でセーブをしよう。

 そして記憶にある限り、前回と同じことをする。俺は、そこでちょっと笑ってしまったのが自分でも不気味だったのだが、こんなふうに思ったからだ。


 ――前回の続きを見たい。他のルートではなく、あのルートの。


 この発想がゲームそのものだ。そして一日おきにセーブしようとしている。エイケンの部員が元気なことを確認して、その翌朝に――それか部活帰りに、急いで来よう。


 バタフライ効果というものがある。少しのずれを始めとして、大きな変化を起こしてしまうという事象。映画系の部活に所属するやつなら、この言葉を知らないことはないだろう。

 ずらしたくないと思った。時雨に話しかけられたきっかけのテストは、九十何点だったかな、話しかけられるまで細かくやり直そう。俺にはそれができるんだから――。


「孝太郎!」


 早すぎる。覚えのないことが起こるのが。やり直し確定だ。


「孝太郎、手、血が出てる! いえ、手を見ないでいい。ゆっくり先生を見て!」


 石黒? 何も顧問の役割を果たさなかった、ちょっと若いというだけで生徒に人気のある、ろくでもない英語教師。


 振り向いた。なんでそこに立っているんだ。さっきの、ホームルームのときと同じ、黄色のスーツで。こんな話をするのに黒じゃないということは、家に帰るヒマがなかったんだなと考えたから、覚えている。


「孝太郎、保健室に行こう。コーヒーでも飲もう? こっちに来て」


 生徒思いっぽい、哀れっぽい顔をしやがって。何もしなかったくせに。月に一度もエイケンに顔を出さなかったくせに。

 運動部の顧問って激務で過労死ラインらしいよ。時雨がそんなことを言っていたことがある。そんなもんか、先生も大変なんだなとその時は思った。


「孝太郎」


 知らない。春日井先輩や野田先輩が、あんなに気を使って後輩の面倒を見なければいけなかったのは、あんたのせいだろ! 野田先輩なんか、あきらかにそういうタイプじゃなかったのに。ガラじゃなかった。誰よりもそんなことが向いていなかった。けどそつなくやってくれた!


 まばたきをするとボタボタと涙が落ちていった。石を、石のあったはずのところを見る。


 瓜川先生のカローラには細かい傷がたくさんついていた。

 光っていたのは、俺の目の涙がそう見せていただけだった。




 手のひらと、すねから血が出ていた。でも別に骨折とかそんな話じゃない。刺された人に比べれば、本当にくだらない傷だった。

 翌日も、なんと俺は学校を休むことを許されなかったから、右足を少しひきずって登校した。


 ――おおげさな。三年生なんて、あんたには関係ないでしょう。

 ――学校を休みたいだけでしょう。あんたってずっとそう。小学校のときから。

 ――最近は 部活か 知らないけど    受験   浪人なんて


 そういう不快なBGMが鳴り続けているから、俺は校門のところで吐いた。何度も吐き続けていると、いつの間にか石黒に背中をさすられていた。周りにたくさん人が集まっていて、くそ、見るな。


「今日は保健室で過ごさない? 出席はちゃんとつけておくから。横になっててもいいよ」


 うるさい、触るな。石黒の親切ぶった腕を振り払った。ちょっと顔に当たったかもしれない。知るか。


 俺が不登校になったら面倒を見なければいけないから、だから優しいふりをしているんだ。大丈夫、俺は不登校になんかならない。中学の頃だってそんなことは許されなかったんだから。


 教室に入って自分の席に座ると、ジュリアさんが話しかけてきた。


「おはよう……」


 この子、こんな怯えるみたいな声を出すことがあるんだな。俺は目の前に立っている金髪のクラスメイトを見上げた。


「おはよう」

「あの、手――ケガ? だいじょうぶ?」


 化膿しないようにと、きのう保健室でやたらと包帯を巻かれたんだ。あとで病院に行ってねと言われたけど、包帯巻いてるんだからいいでしょうと言われた。だからいいんだ。


「うん、だいじょうぶ」

「でも右手だから、大変だよね。ノートとか貸そっか」

「大変じゃない」


 ぜんぜん。刺された人に比べれば。

 ジュリアさんは目を真っ赤にしていて、今日はカラーコンタクトを着けていなかった。化粧もしていない。それでもやっぱりきれいな子なんだなと思った。美しい。そんな言葉で形容されるのがふさわしい子。形容した人はもういない。


「野田先輩と付き合ってあげればよかったのに」


 きみを美しいと言ったあの人と。


 ジュリアさんはひゅっという変な音を発した。


「何言ってんの……? やめて」

「あの人はきっと、きみのことが好きだったのに」

「やめてよ、佐藤」

「どうせ処女じゃないんだろ。ちょっとくらい付き合ってあげて、いい思いをさせてあげたらよかったんだ。こんなに早く死ぬんだったら」


 ジュリアさんの腰がかくんと折れたようになって、床に膝をついた。ぼろぼろと泣いている。この子は血の気が少ないみたいだ。昨日も倒れていた。ダイエットなんかするからだ。そんなに細いのに。


「佐藤」


 時雨が力をこめたこぶしを俺のこめかみに当てていた。


「黙れ。なあ佐藤、保健室に行こう」

「行かない」

「行くんだよ。立て」


 俺が座ったままでいると、腕を強い力で引っ張って、無理やり立たせようとしてきた。おい、そっちはケガをしてるほうの手だぞ。


「痛いって」

「悪い。でも立てよ。石黒先生のことも殴ったんだってな」


 こいつもこんな声を出すことがあるのか。ジュリアさんにも思ったことを、時雨に対しても思った。こんなに冷たい声を出すんだな。


 あ、そうか、わかった。


「時雨、お前、石黒のことが好きなんだ。背、高いもんな。それに美人って言ってたっけ。だからクラス替えのとき嬉しそうだったんだ。だから過労死とかどうとか、あいつがウチの部に来ないことをフォローしてたんだ!」

「佐藤!」

「だから彼女いなかったんだ。お前みたいなイケメンでも、教師とは付き合えないもんな!」


 チビのこいつの力では、俺をどんなに引っ張っても立たせることはできない。


 もっと強い力で引っ張られた。椅子から尻が浮く。


 武田くん、百八十センチをもう超えた、二年全体でも一番大きい男子が、俺の首根っこをつかんでいた。そういえば、こんなやつもまた同じクラスだったっけ。


 ひげを生やした顔を俺に近付けてきて、大人と変わらない太い声で言った。


「番場に謝れ。篠田にも、石黒にも。今日はいいけど、いつか絶対に」


 いつか? それは一体どういうものなんだろうと、俺はぼんやり考えていた。




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