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佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない  作者: 終焉エンドレス
6/15

6:青春は夏の季語 春って入ってるけど



 八月に入った。


 エイケンに入った頃から、俺はゲームをやらなくなっていた。セーブとかロードとか、リセット、その文字を見るのも嫌だったから。それに、四本しか持っていないソフトはどれも何十回も遊んだから、本当はもう全然おもしろくないと思っていたんだ。他にやることがないからやっていただけ。


 バイトは少しだけ慣れた。まだ一人では仕事を任せてもらえないけど、シーツはシワを作らずにかけられるようになったし、業務用の掃除機の重さにも慣れた。


 エイケンのみんなで映画館に行くという話は、なかなか実現しなかった。みんなそれぞれ、アルバイトや旅行、予備校や塾の夏期講習の予定があって、十一人全員が丸一日空いている日というのがほとんどないらしい。池井くんがそう教えてくれた。


「三年はみんな予備校か塾に通っててさあ、じゃなくて、一ノ瀬先輩は通ってないんだっけ。まあ忙しいらしいよ。俺も週三でシフト入れちまったし」


 前回、四人で集まった時と同じく、今日も池井くんはヒマなら来いよと言ってくれた。


 俺は途中のコンビニでペットボトルのアイスコーヒーを買った。バイト代が入ったから。袋はいらないですと言って冷たいペットボトルを持ちながらコンビニを出て、あっと気付いて、また店内に戻った。もう三本同じコーヒーを買って、持ちきれないから袋ももらった。袋も三円かかるんだな。


 四本のペットボトルが入った袋を持ちながら、俺はうきうきして、走り出したいような気持ちになった。俺ってちょっと、けっこう、大人っぽくなったんじゃないかと思ったのだ。


 コンビニでコーヒーを買って、しかも、友達の分も買ったほうがいいんじゃないかと思いついた。時雨にはドトールでおごってもらったことがあるし、友達の家に行く時には普通、お菓子とかジュースを持って行くものらしい。


 池井くんの家でバイトを探した日、鵜飼くんは途中のコンビニでポテトチップスを買っていたし、次に集まった時も同じものを持ってきていた。その日、時雨も何個かお菓子を持ってきた。勧められたから俺も食べたけど、食べながら、申し訳ないなと思ったのだ。みんな何も言わなかったけど、気がきかないしずうずうしいやつだと思われたかもしれない。


 ――佐藤くん、言われたことをするだけじゃなくて、自分で考えて動くことも意識してみてね。


 バイト先の、面接をしてくれたあのおじさん(みんなが支配人と呼んでいた)にそう言われて、意識するようになった。たとえば、お風呂を掃除している赤木さんを客室から呼んでも、シャワーの音で聞こえないことがあるから、シャワーが止まっているときに声をかけるとか。


 たぶんこういうのは「常識」とか呼ばれるもので、おじさんが言ったのはもっと違う意味だと思う。先回りして色んな仕事をできるようになってね、みたいな意味なんだろう。


 でも、俺にはきっと「常識」がほとんどないから、シャワーのことさえ大きな発見だと思った。自分で気付いたという、そのことが、すごく重要なことのような気がしたのだ。


 うちに来るときはジュース買ってきてよと池井くんに言われたわけじゃない。でも、いつもみんなジュースのペットボトルを持ってきているし、これは、これって、正解なんじゃないか?


 不正解だったと気付いたのは、コーヒーを渡したときだった。池井くんと時雨は自分のジュースのペットボトルを近くに置いている。鵜飼くんは今日は来ないということだった。


 つまり、みんなジュースを自分で用意しているんだから、コーヒーは余分だったのだ。そりゃそうだよ、考えたらわかるじゃないか。だから前、鵜飼くんも時雨も、お菓子を持ってきたんだ。


 大人っぽくなったどころか、俺は頭が悪いんじゃないかと思ったけど、池井くんも時雨も「サンキュ」とコーヒーを受け取ってくれた。


「俺はコーヒー飲めねえから、父ちゃんにやるよ」


 そういえば池井くんは、ドトールでもコーヒーじゃなくてジュースを飲んでいた。それを覚えてるのに気がつかなかった。俺って気がきくようになったのかもなんて、大人っぽくなったなんて、ぜんぜん気のせいだったようだ。


「ごめんね。お菓子買ってきたらよかった」


 俺が謝ると、池井くんは気まずそうにして、ああまたやらかした。二重、三重に俺は馬鹿だ。

 時雨がコーヒーのキャップを開けて飲んで、うめーと言った。まだ自分のジュースが残ってるのに、気を使ってくれたんだな。


「前、ドトールでおごってくれてありがとう。終業式の時」

「いいって。バイトはどう? 続いてんの?」

「うん、まだ作業は慣れないけど、少し褒めてもらえることもある。注意されることもあるけど」

「俺も注意されまくり! トレイ、丸いお盆ね、こうやって片手で持つんだけどさあ、料理を乗せるときは重いほうを手前にすんだよね。そうしないと外側に倒れてお客様に向けてこぼしちゃうとか、説明されたらナットクなんだけどさ、こっちは初バイトなんだから知らなくね? もっと優しく教えてほしいわ」


 池井くんは最初に面接したファミレスには落ちてしまったけど、次に面接した別のファミレスに受かった。客が多くて忙しい店で、そのうえ先輩が厳しいからキツいらしい。だけどまかないはおいしいから夏休みの間は続けるんだそうだ。

 俺は坊主だから制服が似合わないんだとか、もしクラスのやつが客で来たら恥ずかしいとか、たらたら文句を言ってから池井くんは俺に話を振ってきた。


「佐藤のバイト先って、かわいい子とかいる? ときめき出会いとかさ、あったりしちゃった?」


 俺とペアを組んでくれるのはいつも赤木さんだ。俺よりも年上の子供がいて、自分の年は教えてくれないけど、五十歳よりは下のような気がする。


「おばさんとしかしゃべってないよ。他の女の人もおばさんで、フロントには若い女の人もいるけど、社員さんだし。あいさつしかしたことない」

「若いって何歳くらい? かわいい?」

「さあ、二十五歳……くらい? かわいいっていうか、普通」


 と答えてから、こういうことを言うのはいけないのかもと思ったけど、じゃあどう言ったらいいのかはわからなかった。

 時雨はコーヒーを飲みながらつまらなそうに言った。


「ファミレスのほうがビジホよりは出会いあるだろ。いないのかよ、かわいい子」

「早番のパートさんの中にわりとキレーな人がいるけど、結婚してるし。かわいいっつか、同い年くらいのコってみんな彼氏いるんだよなー」

「彼氏がいたとしても、ステキな人にはそれを隠すような気もするけどな」

「え、何、どういうこと?」

「お前に彼女がいたとしても、アンジーみたいな女に『彼女いるの?』って聞かれたら、いないって言っちゃわない?」

「アンジー誰? 彼女いるのにいないフリして、二股狙っちゃうってこと? そんなのしねえよー。俺、一途だもん。めっちゃ彼女大事にするし」

「へー。池井、彼女いたことあるんだ」

「ねえよ! ねえけどさあ」

「彼女いたことないやつの、俺は一途なんだっていう宣言、根拠なさすぎるんだよな」


 時雨はからかうような口調だけど、池井くんはちょっと本気でムッとしたみたいだ。


「じゃあ、篠田は彼女いたことあるんだな」

「ないけど、あーわり。変なこと言っちゃったな」

「はぐらかすなよ。お前も鵜飼もそういう話しねえけどさ、俺たちがガキだからバカにしてんの? ウソじゃんか、お前たちに彼女いたことないとか」


 え、ウソだったのか。コーヒーを飲んでいた俺はちょっとむせた。

 時雨も少しびっくりしたように、しげしげと? そういう感じで池井くんの顔を見ている。


「ウソじゃないよ。鵜飼もウソついてないと思うけど、そんな風に思ってた?」

「モテてるじゃんか。小原さんとかさあ」

「うちのクラスの小原みすず? 池井、あの子のこと好きなの?

「ちげえよ、だからはぐらかすなってば。今はお前の話じゃん。佐藤も気になるって言ってただろ」


 俺が? 確かに、友達に彼女がいたかどうかっていうのは気にはなるけど、時雨はいたことがないと前に言ってた。鵜飼くんがどうかは知らない。

 でも、池井くんが何にイライラしてるのかはわかる気がした。「俺たちがガキだからバカにしてる」、確かに、俺もそんなふうに感じることはある。バカにしてるとまでは思わないけど、いや、鵜飼くんはバカにしてるかも。


 時雨は右手にジュース、左手にコーヒーのベットボトルを持った。


「わり、調子に乗ったな。今日は帰るわ」

「なんで? そうじゃねえだろ。そういうさあ、すぐ引っ込めんなよ」


 そうだ。俺も今、きっと池井くんと同じ気持ちだ。

 時雨は相手の顔色がわかる。すぐ謝る。そして立ち去ろうとする。


 四月、青春劇場と呼ばれたあれのとき、俺は時雨に、お前のことが嫌いになったかもしれない、と言った。それは俺が悪かったんだろう。


 でも、だからってなにも、「ごめんっした」って、「修復ムリっぽいな」って、そんなこと言って背中を向けなくてもよかっただろ。もう友達をやめるみたいな、そんな態度を取られなければ、俺だって四月から泣いて劇場を開催したりしなかったと思う。池井くんも今、そういう気持ちなんじゃないか。


 時雨はジュースを置いて、言った。


「ごめん」


 池井くんは何も言わない。ぶすっとした顔をしている。

 だから俺が答えた。


「友達って、もっとちゃんと話すんじゃないかな。いろんなこと、女の子のことも」

「その友情観は賛同しかねるけど、今帰ろうとしたのはごめん。お前のことも、池井のことも、別にバカになんかしてないよ。僕はホントに、女のハナシとかあんまり興味なくて、それだけ。軽い気持ちで――一途がナントカとか、ヘンなこと言って悪かったよ」

「池井くんが怒ってるのはそこじゃないよ」

「言わんとすることはわかるんだけどさ、言わせてもらうと、僕たちがウソをついてるとか言われるのも、心外っていうか、いい気持ちはしない」

「悪りい」


 今度は池井くんが謝った。顔はまだちょっと不機嫌そうだけど、本当に悪かったとは思っているようだった。

 時雨がコーヒーをちびちび飲む。


「気に障る言い方だったらあれだけど、マラソンとかアイドルの話ってしないだろ。そういうのと同じで、僕はその話題に興味がないから話さないだけ。鵜飼とかは、たぶんもうちょっと複雑なんだろうけど」

「俺はアイドルも興味あるよ……」


 池井くんはアイドルのレミちゃんが好きだ。あの水着の写真の子。


「そうかよ。じゃあ話したらいいじゃん、聞くよ。なんて名前のアイドル?」

「わかんねーやつに言っても意味ないじゃんか。あー。うん」


 わかったと池井くんはつぶやいた。俺も、わかった。

 俺は気になっていたことを聞いた。


「アンジーって?」

「アンジェリーナ・ジョリーですけど」


 時雨にしては珍しく早口で、ちょっと恥ずかしがっているように見えた。アンジェリーナ・ジョリー。知らないけど、有名人かな。アイドルじゃないんだろう。池井くんは知っているみたいだった。


「篠田、アンジェリーナ・ジョリー好きなの? 出てるDVDあるよ、テイキング・ライブス」

「映画って長いからあんまり見る気にならないんだよな。二時間かけて作り話を見る意味が正直わかんねーよ」

「作り話って! 篠田のボキャ、ときどき変でおもしれえ。ノンフィクションが好きなん?」


 池井くんは機嫌が直ったみたいだ。映画が好きなのに、二時間かけた作り話と言われることは別にいいんだな。俺はちょっと、ちょびっとだけど、いやな言い方だなと思ったんだけど。映画はおもしろい。俺の知らない世界、知らない人たちの話は、とても引き込まれる。暗かったり、悲しい気持ちになる映画もあるけど、それでももう一度見たいと思ったりした。


「僕、番場が映画とか小説とか好きだっていうの、意外だなと思ったんだよね。見た目がああだからってより、あんなに勉強できるのに、作り話見るのに時間割くんだみたいな」

「偏見やべえ。うちの部の先輩とかも成績そんな悪くねえと思うよ、知らねえけど。つか俺たちのことも、作り話なんか好きなバカどもだなーとか思ってたん?」

「満たされない現実からの逃避的なことはすこーしあるのかなと思ってた。バカにはしてない、そもそも僕、そんなに周りのことバカにしまくってるキャラじゃねーよ。いちいちバカにするほど興味ないし。これ悪い意味じゃないからな」


 う、今、どわーんとした暗い感じのBGMが流れ――そうになったけど気をそらした。


 ・公園でバドミントンでもしない?

 ・鳳凰院さんは今頃リゾートかな。

 ・ジュリアさんのバイトって何なんだろうね。


「公園でバドミントンでもしない?」


 「嫌だよ」と「暑いわ」がステレオになった。


「佐藤、バド好きなん? 俺は体育以外でスポーツとかやりたくねえわ。運動部のヤツってマジ尊敬する」

「バドミントンは面白いよ。運動部は俺も尊敬する。毎日練習してるし、朝練とかも」

「なんで急に持ち上げるんだよ。よせやい」


 卓球部員は鼻の下をこするまねをした。作り話が嫌いなわりにそういうジェスチャーはするんだ。


「篠田って運動部に入らなきゃもっと上の学校行けただろ? ウチの学校って、卓球部もそんな強くないよな? なんでウチにしたん?」

「家から近い公立で、同中のやつがあんまり志望してなかったからかな。デキるやつはもっと上行くし、バカは来ないし。たいした理由じゃないよ」

「高校デビューつってたっけ」

「なんかその言葉が独り歩きしてるっぽいけど、コンタクトにしただけだよ。池井はなんでウチにしたの?」

「ぶっちゃけ滑り止め。本命落ちて、そんときは落ち込んだわ。笑っちまうんだけど、その時まで自分のことけっこーデキるヤツとか思ってたんだよな。あんま勉強しなくてもついていけて、運動も嫌いだけどできなくはねえし。オタクだけど暗く見えねえとか言われるし」

「でも実際、池井ってそうだよな。期末前もそんなに勉強してなかったんだろ? 器用くんだな」

「けど調子こくほどじゃなかったってことなんだよな。なんか大げさだけど、社会の厳しさを初めて知ったつうか。努力しないでテキトーにやってていけるのって、そろそろ限界なんだなとか思って、焦ったわ。同い年の連中はもっと早く気付いてたんだろうなとかさ」


 勉強も運動もできないわけじゃない。けど突出してできるわけでもない。それは俺も同じだ。


「池井くん、大学はいいところ狙うの?」

「え? そんなこと話したことあったっけ。まあ、ちょっと。ムボーかもしんねえけど」


 聞いたことはないけど、今の話でなんとなくそう思った。きっと大学受験では勉強をするんだろう。しなくても平均点を取れる池井くんが本気を出したら、きっといいところへ行ける。


「つか、鳳凰院さんってなんでウチにしたのかな? フツーに考えたら私立だろ、ああいうコは」


 池井くんはあの校内新聞を見なかったらしい。学校でいちばん志望動機が有名な子なのに。


「家が近いかららしいよ」


 俺が言うと、時雨が「どうかな」と言った。こいつはあの新聞を見たはずだけど。


「それは公式見解ってやつで、ホントはなんかある気がするけどな。あの子こそ高校デビューなんだろ? お前たちから聞いたけど」


 なんかって? 俺は経験が乏しくて単純だから、つい「いじめ」という可能性を思いついてしまうけど、確か中学はお嬢様学校と言っていた気がする。そういうところでもいじめってあるんだろうか。でも、お嬢様だからいじめをしないという決めつけも変か。


「茶髪にしてみたかったとか?」


 思いついたことを言ってみた。お嬢様学校では茶髪が禁止なのかもしれない。時雨は冗談だと思ったようだった。


「聞いたことないわ、その選び方」

「でもジュリアさんはガリ勉したくないから進学校にしなかったって言ってたし、自由にしたかったとか、あるかもしれない、だろ」


 言っていて自信がなくなってきた。確かに、これはたぶん違うだろうな。


 時雨は全然関係ないことが気になったらしい。


「ジュリアさんって、聞いててくすぐったいんだけど。池井もそう呼ぶよな。お前らの部って、そういう文化?」

「そう呼んでほしいって言ってたから。入部の自己紹介のとき。だから、そういう文化? かな」

「そうそう。俺も呼んでて恥ずかしいけど、本人の希望だから。恥ずかしいって、名前がじゃねえよ? 女子を下の名前で呼ぶとかさ、慣れてねえし」

「俺はジュリアさんって名前も呼んでて恥ずかしいけど」


 時雨と池井くんはどこか痛いみたいな顔をした。


「言うかね、それを」

「佐藤さ、それマジさ」


 俺はまたやらかしたみたいだ。


「ごめん」


 謝ってから、二人に注意された意味がわかった。


「違うんだ、ジュリアさんって名前が恥ずかしいとかじゃなくて。呼んでる自分が恥ずかしいっていうか、俺なんかが言うのが似合わないっていうか……」

「俺もそう言ったべ」


 そうか、池井くんが言ったのは同じ意味だったのか。

 時雨は苦笑いした。


「佐藤コータローと池井ヒロミチにはキラキラネームの苦労はわからないよな。まあ本人が下の名前で呼んでくれって言ったんなら、番場は気にしてないのか」


 もしかして、時雨は下の名前で呼ばれるのが嫌なのか。いや、そう呼んでくれって自分で言ったはずだぞ。そうだよな、確か。あれ、でも池井くんや鵜飼くんは篠田と呼んでる。俺が何か記憶違いをしているのか?


「篠田は自分の名前イヤなん?」


 池井くんがサクッと聞いた。


「いや、もう慣れたけど、シグレくんってどう書くのって聞かれて、時に雨ですって答えるときは、僕なにを説明してんだって思う。あんまり使わないだろ、人の名前に雨って漢字」


 俺もそう思ったことがある。それで調べて、時雨というのは、秋や冬に降る雨のことだと知った。でも、いい雨らしい。


「しかも篠田だよ? 篠田なのに、雨って。指向性が強いんだよ」


 シコーセー? 池井くんもわかっていないみたいだ。時雨は説明してくれた。


「しのつく雨、って言うだろ。篠が突くような雨」

「知らねえ。シノがそもそも何? みんな知らんくね? それは篠田の自意識過剰なんじゃねえの」

「時雨、自分の名前が気に入ってるって言ってなかったっけ」

「言ったか? あー、高校デビューだから、下の名前を芸名にしようかなとか思ったんだ。恥ずくてすぐやめたけど」


 芸名って、と池井くんが笑う。前に、お前は芸能人かよみたいなことを言っていたけど、今は俺もそう思った。


「いや笑うけどさ、篠田時雨はまあまあハードル高いよ? 番場ジュリアほどじゃないけどな。鳳凰院は香織だっけ。やっぱりお嬢様の親はそこまでキラキラした名前つけないんだな。キラキラネームつける親って低学歴が多いらし――やべ、番場ジュリアの話してるときに言うことじゃないな。ナシにして」

「ひでえ」


 池井くんがまた不機嫌になりそうだった。俺は思いついたことを少し大きめの声で言った。


「鵜飼達也ってかっこいいよね。主人公みたいで」

「それな」


 よかった、池井くんが笑って同意してくれた。


「イケイとウカイって似てるし、達也って呼んでいい? って聞いたら、友達っぽいから嫌だとか言われてさあ」


 「友達だろ」「友達じゃん」時雨とハモッた。


「だよな? 俺、中学の友達にはフツーにヒロとか弘道って呼ばれてたし。え、別に俺、鵜飼に嫌われてるとかじゃねえよな?」

「池井は好かれてるだろ。気難しそうな鵜飼先生にしては、かなり素直になついてるんじゃないの?」

「篠田さ、そういう嫌味っぽいやつ、俺かなり怖えんだけど」

「え? わり。でも鵜飼もこんなもんじゃない? お前、あいつの毒舌は平気なのな」


 俺は逆だ。時雨の言うことはあんまり気にならないけど、鵜飼くんの言うことにはドキッとするし、嫌なやつだと思うこともある。

 みんな感じることが違うんだ。当たり前のことだけど、当時の俺にとって、このときの会話はやけに印象的だった。




 八月十九日、ようやくエイケンの全員の予定が合ったと聞いていたけど、当日の待ち合わせ場所に戸丸先輩と矢内先輩、一ノ瀬先輩は来なかった。なんと鵜飼くんも。


 四人も来ないことに驚いたのは俺だけで、他のみんなはあらかじめ知っていた。四人は日程に関係なく、不参加と決まっていたとのことだった。


「塾とかで忙しいのもあると思うけど、シャイボーイ多いからね。女の子と外出するのが恥ずかしかったんじゃないかな」


 いつものポニーテールに、白いTシャツとジーンズを着ている春日井部長は、いよいよスポーディな雰囲気だ。誰よりも先に、待ち合わせ場所――映画館が入っているショッピングモールの入り口前に来ていて、そう教えてくれた。


「シャイなのと協調性がないのは違うと思いますけど。何人もいない部なのに、四人も来ないなんて」


 俺の次、三番目に来たのは野田先輩だった。その時点でまだ待ち合わせ時間の十五分前で、部長も野田先輩もずいぶん早く来るんだなと思っていた。俺は遅刻しないように、この駅までの路線や所要時間をあらかじめ調べていて、でも初めて来る場所だから、余裕を持って家を出た。


 春日井部長は明るくてさっぱりした人だけど、休みの日に、私服姿の女子と二人でいるなんて、なんだか緊張するし、何を話したらいいんだろうと困っていたから、すぐに野田先輩が来てくれてホッとした。俺と同じで制服を着てきたことも。


 春日井部長はそれを笑った。


「なんで野田も制服なの! 佐藤くんが現れた時もびっくりしたのに、もしかしてあたしが少数派?」


 野田先輩はふてくされてぶつぶつ言った。


「ちょっと考えたんですけど、考え方的には、校内行事の一環なのかなって。部の活動なわけだし。補導とかされたくないし」

「俺もそう思いました」

「そっかあ。事前に話しとけばよかったねって、いやでも、制服で来るのは予想できないよ。あとえっと、柴村と、池井くんと鳳凰院さん、ジュリアさんだね。みんな制服だったらどうしよう。あたしだけ引率みたいかも」


 次に来た柴村先輩は紫色のTシャツに黒いパンツで、黒いリュックを背負っていた。トレードマークの分厚いメガネがしっくり来ている。


「なんで一、二年は制服なの? 暑くない?」

「うるさいな、僕は予備校もこれで通ってるから、これで外出するのが慣れてるんですよ。別にいいでしょう」


 さっきとは違う理由を野田先輩が言って、春日井部長はにこにこしている。


 映画の開始時間に少し余裕をもって合わせて、待ち合わせ時間は十二時半。池井くんは五分前に来た。パーカーとジーンズ。


「はよざっす、先輩たちなんか食ってきたっすか?」

「食ってない」

「僕は家で軽く」


 柴村先輩と野田先輩が答えると、待ち合わせ時間を決めた春日井部長はごめんねと言った。


「前の上映は朝八時だし、次の上映は夜七時だし……中途半端な時間になっちゃった。見たあとでみんなでなんか食べよっか」

「え、女子と一緒に食事に行くってことですか」


 コキコキのことを野田先輩が言っている。春日井部長はぎゅっと目をつぶった。


「その女子がまだ来ないんだよね。途中でナンパとかされてたらどうしよう。あー失敗したかも、駅の中で待ち合わせにしたらよかったかなあ」

「春日井だって女子だろ? 駅でこの人数がたむろってたら周りに迷惑でしょ? だから待ち合わせはここで正解」


 柴村先輩のフォローに、春日井部長はほっとしたようにうなずいた。

 池井くんはナンパという言葉が気になったみたいで、そういうやつがいないか探すようにきょろきょろした。


「俺、駅までちょっと戻って見てきましょうか? あの二人、特にそういう、目立ちますし」

「行ってくれる? ありがとう」


 春日井部長に両手を合わされて、池井くんは張り切って駅の方へ走って行った。このモールは駅のすぐ隣にあって、最寄りの改札からは三分も歩かないけど、他の改札口を使う人はけっこう歩くのかもしれない。そうか、女子はナンパされることもあるんだ。


 俺も一緒に行ったほうがよかったのかも、と池井くんが見えなくなったあたりで気付いた。バイトを始めてもまだまだ気がきかない。


「どうもでえーす」


 予想していなかった方向からその声がした。池井くんが向かった駅とは逆方向、俺たちの後ろから。番場ジュリアさんはモールのエスカレーターを下りてきた。


「おお、おはよ! 女子が駅で迷ったりしてないかなって、いま池井くん走らせちゃった。もう来てたんだね」

「早く着いたから、服とか見てたんでえす。遅れてないですよね?」

「大丈夫、ぴったり。じゃあ、あと鳳凰院さんだけかな」


 俺は気がきかないのに、ときどきピッとひらめくというか、「そんなことは言っていないけど、本当はこういう意味なんじゃないか」と思うことがある。


 春日井部長は、ナンパされているんじゃないかと心配していたのに「駅で迷ったりしてないかなって」と言った。ジュリアさんは早く着いたのにぎりぎりまでどこかで時間をつぶしていて、それって、立っていたらナンパをされるから?

 それがどういうことかはハッキリわからないけど、女子にとってデリケートな話なのかもしれない。


 ジュリアさんは私服だった。長い金髪を耳の下でひとつにまとめて、肩の紐が細くてぴったりした服、どういうふうに呼ぶ服なのかな、オレンジ色の服を着ていて、肩がむき出してドキッとした。下は膝までのショートパンツで、おしゃれな感じのサンダルを履いている。


 周りを歩いている女の人たちと比べて、服装はそんなに派手というわけでもないのに、ジュリアさんはとても目立った。校内と違って、街なら金髪にしている人だって珍しくないのに、通りがかる人もチラチラとジュリアさんを見ている気がする。


「君は美しいね」


 ええっ!! 俺も柴村先輩も、春日井部長もみんなびっくりして、そんなことを言った野田先輩をいっせいに見た。コキコキの童貞が、急にどうしたっていうんだ!


 ジュリアさんもお化粧をばっちりした目を丸くして、あ、どうも、と言いながらぺこっとした。


「え、急にびっくりです。野田先輩ってそういう人だったんですかあ? 意外でえす」

「客観的な評価のつもりで、変な意味じゃないよ。すごく均整の取れた人なんだなと感じたから」


 戸丸先輩や鵜飼くんなら注意するかなと思ったけど、二人ともいないのでみんなはへーという顔になった。女子に対して、そんなことを言う人だったんだ。


 均整が取れた、というのは、スタイルがいいという意味かな。ジュリアさんの身長は高くも低くもないけど、サンダルのかかとが厚いから、学校で見るよりも背は高く見える。制服よりも身体のラインが出ている服だから、腰がきゅっとくびれているのがわかった。胸はそんなに大きくないけど――恥ずかしくなって目をそらした。女子の胸をじろじろ見るやつだと思われたかな。


 とても目立つ女の子。不参加の人の気持ちもちょっとわかるような気もした。こんな子とグループで街にいるなんて、シャイボーイには荷が重い。制服で来てしまった俺なんか、特にぜんぜん釣り合わない。


 同じように制服で来たくせに、野田先輩はジュリアさんと普通におしゃべりを始めた。女子と一対一で話せて、しかもあんなことを言うなんて、この先輩には裏切られたような気持ちだ。同類のシャイボーイだと思っていたのに。そういえば他校の女子を助けて表彰されるなんて、本当は女子に慣れていてモテる人なのか? そのわりにはさっき、女子と食事と聞いてそわそわしていたけど。


 春日井部長と柴村先輩はスマホを見ながら話していて、俺は入らないほうがいいだろう。柴村先輩は待ち合わせ場所に来たとき、春日井先輩の白いTシャツを見て、まぶしそうな顔をした。

 俺はエイケンでもあぶれている、とは思わなかった。確かに俺だけぽつんとしてしまったけど、嫌じゃない。部室でも同じような状況で、そんなふうに思うことがある。


 駅のほうに目をやると、池井くんが戻ってくるのが見えた。女の子といっしょに。その黒いワンピースの女の子を見た瞬間、俺の中でぎくっという音が鳴った気がした。同時に、パーパーというラッパのようなしらべで始まるBGM。

 ぎくって、悪いことを指摘された時とかの擬音だと思うけど、そうじゃなくて、意外だ、とても似合ってる、きれいだ、という気持ちが全部一緒に生まれた音だ。


 お嬢様だから、白いワンピースなんかで来るのかなと思っていた。もしくは親が厳しいということだから、俺たちみたいに制服とか。


 ワンピースはワンピースだけど、色は黒くて、袖がないからジュリアさんと同じく肩が見えている。スカートの裾は長めだ。久しぶりに会ったからか、茶色の髪は前よりも長くなっている気した。鎖骨の下あたりまでのそれを、ストレートに下ろしている。やっぱり胸が大きくて、うう、また目を反らす。


 彼女もヒールのあるサンダルを履いていて、もともと背が高いから、隣にいる池井くんと頭の位置はほとんど変わらない。体型は大人っぽいのに少し童顔で、でも耳にキラキラ光るピアスは似合っている。学校に着けてきていたのと同じピアス。他にアクセサリーは着けていない。


 ジュリアさんのように、みんなが見るほど目立つというわけではないけど、俺はほんとにきれいな子だと思った。映画の、それも古い白黒の、その中に出てくる女優みたいだった。


 その女の子はおでこに汗をかいていて、駅の中を走ってきたのかもしれない。小さなバッグから、あの白いハンカチを取り出して、それで顔を押さえながら、鳳凰院香織さんはみんなのところへ来た。


「ごめんなさい、反対の出口に行ってしまって。けっこう歩いてから気がついて、変だなとは思ったんですけど、戻って駅の中でも迷って――あの、遅刻ですよね、本当にごめんなさい」


 息も少し切れている。首にも汗のすじが流れていた。

 池井くんはなんとなく得意そうだ。


「南側の出口に行こうとしててさ、迎えに行ってよかったわ。鳳凰院さんってもしかして、電車乗ったことない?」


「乗ったことくらいあるよ。あ――あの、ごめんなさい」


 その場にいたみんなが、なぜか少し黙っていたのは、俺と同じ理由だったのかもしれない。男子も女子も、その黒いワンピースの女の子に見とれていたんじゃないか。


 春日井部長はその子に抱きついて、いいよ! と大げさに叫んだ。


「ごめんね、学校から寄りやすい駅だから、みんなもわかると思ったの。鳳凰院さんは初めて来たんだよね? 改札からの出方、もっと詳しく送っておいたらよかったね」

「言うほど遅刻でもないし。三分くらい? 誤差でしょ? 入場まで余裕もあるし」


 柴村先輩が鳳凰院さんに話しかけるなんて珍しいけど、これも春日井部長へのフォローなのかもしれない。

 池井くんがこっそり俺の隣に来て、小声で言った。


「すげえ短い距離だったけど、優越感みたいなの感じちゃったわ。やばくね? 私服の女子と二人で歩いたことなんてねえし。キンチョーしてほとんど喋れなかったけど」


 ・許さん。

 ・自分だけずるいぞ。

 ・合流できてよかったね。


「合流できてよかったね」

「そんな広い駅でもねえけど、そういえば佐藤もここ初めてって言ってたっけ? 慣れてないと出口がわかりにくいんかな。まっすぐ来れた?」

「うん、下調べしておいたから」

「真面目くんだな。え、っつか、ジュリアさんヤバくね? 服めっちゃエロくね?」

「池井くんはゴリゴリだね」


 均整が取れてて美しい、なんて言った野田先輩とは感想も語彙も違いすぎる。でも、俺も心の中では池井くんとたいして変わらないかも。ジュリアさんのむき出しの肩にはドキッとしたし、今も直視することができない。

 鳳凰院さんのワンピースも同じくらい肩が出ているのに、そこを見るのは恥ずかしくはなかった。じろじろ見るやつと思われたくないから、こっちも直視はしないけど。


 来てよかったな。まだ映画館にも入っていないのに、俺は本当にそう思った。




「その野田先輩っていう人のディテール、そこまで詳しく教えてくれなくていいわ」


 エイケンのみんなで映画を見に行った日。その何日か後の土曜日、あのドトールで俺と時雨はしゃべっていた。


 池井くんの家に集まったあの日、帰り道で、夏休み最後の土曜に遊ぼうと時雨が誘ってくれたからだ。普通の友達同士っていうのは、スマホで約束のやり取りをしたりするんだろうから、俺みたいなのは誘いにくいだろう。なのに声をかけてくれて嬉しかった。


 遊ぶというから、またバドミントンなんかをやるのかと思っていたけど、時雨は暑くてどこにも行きたくねーよと言った。たぶん会って話すだけのことも「遊ぶ」というんだな。普通の人には当たり前のことなのかもしれないけど、俺には、そう、そういう常識がなかったから。


「柴村先輩とやらが女部長のことを好きっぽいとかいう話も興味ない。映画は面白かったの?」

「面白かったけど、映画にも興味ないんだろ」

「そうだけどさ。映画館、初体験だったんだろ? どうだった?」

「楽しかったよ」


 俺もたいがいボキャブラリーが貧弱だけど、そうとしか言えない。


 映画館のロビーって、あんなに広くて高級感のある場所だったんだ。キャラメルポップコーンの甘い匂いがして、あんなにいい匂いがトラウマだなんて鵜飼くんは可哀想だ。ひょっとして、だからあの日も来なかったのかな?


 ロビーにある機械でチケットを発券して、飲み物を買った。女の子たちはポップコーンを買っていて、俺はその大きさに驚いたけど、映画が終わる頃には全部なくなっていた。


 映画は外国の古いアパートを舞台にしたホラー作品で、怖かったけど、色んな時代の色んな人が、同じ部屋で怪奇現象に遭うという、その作りが凝っていて面白かった。


 同じモールの中にあるファミレスで、ポテトやサンドイッチを分け合って食べたのも楽しかった。野田先輩と鳳凰院さんがいつものように難しい感想を言って、柴村先輩が自分の意見で返して、春日井部長が褒める。俺と池井くん、それにジュリアさんはあんまり感想を言わなかった。俺はいい言葉が思いつかなかっただけだけど、池井くんはホラーが苦手で半分くらい目をつぶっていたらしい。ジュリアさんは、もしかすると内容に不満を持ったのかもしれないけど、空気を悪くしないように黙っていたのかもしれない。


「ふうん。番場ってそういうとき空気読めるの? 読めないの? お前の話だとどっちだかわかんない感じだけど」


 俺にもわからない。最初は大変な子が来てしまったと思ったけど、戸丸先輩は違うとらえ方をしたようだし、俺も今ではそんなに変な子だとは思わない。


「ジュリアさんは肩がこう、紐になってる服を着てて、あの左側に座ってる人みたいな」

「キャミソールみたいなの? って、いらねえよ番場が着てた服のディテールも」

「ああいう服をなんていうのか知りたかったから」

「お、ファッションに興味出た? ユニクロとか行く? 近いし」

「行きたい、けど、買って帰れないから」

「そか、まあ見るだけでも今度行かね? バイトはどうなの、順調?」


 どう答えたらいいのかわからなくて、俺はアイスコーヒーをひと口飲んだ。


 仕事には慣れてきて、水場の掃除も任されるようになった。だからそろそろペアじゃなくて、一人で回れるかもねと赤木さんに言われているけど、俺の契約は夏休みの間だけだ。赤木さんにはそれが伝わっていないらしい。


 せっかくいろいろ教わって、できるようになってきたのに、一人前になれないまま終わるというのは残念だった。おじさん、支配人も、シフトは調整するから、新学期も続けてくれると助かるんだけど、と言ってくれている。


「夏休みが終わっても、バイトは続けたいんだ」

「続ければ? 勉強会って言っとけば文句言われないんだろ。ビジホの清掃なら知り合いに見られることとかもないだろうし、バレる要素ってあんまりなくないか?」


 俺もそう思う。だから続けられるかもしれない。週に一日か二日、それと土日も入れるかも。短い時間しか働けないけど、そのぶん頑張るつもりはある。

 時雨もそう思うなら、大丈夫なんじゃないか。勇気がわいてきたと言った俺を時雨は笑った。


「いいじゃん、やる気あって。でも支配人のおっさんに、親が過保護みたいなこと言ったのはちょっとまずかったかもな」

「まずかったって?」

「いや、実際どういう言い方したのかはわからないけど、親がバイトに反対してるって伝えちゃったならさ、そいつ採用した時点で、支配人は共犯になるわけだろ。親が反対してるのわかっててバイト雇うのって、たとえば親にバレたときさ、訴え――わかんないけどさ、面倒になるかもしれないだろ。支配人にも黙ってりゃ、バイト先のことも騙してたってことで、お前ひとりが悪者になるだけで済むけど」


 頭の中がざーっと冷たくなるのがわかった。金切り声、あの人の声みたいなBGMが鳴る。


 ――共犯って? 俺を採用してくれたおじさんが?


 必死に思い出す。面接のとき、俺はどこまで話したっけ? 親に反対されているとまで言っただろうか。確か、少し嘘もついた気がする。それはどんな嘘だった!?


 時雨は俺の顔を見て慌てたようだった。


「いや、わり、大丈夫だよ。だからさ、ほぼバレないと思うし。俺もちょっとなら口裏とか合わせるしさ。ただ、次のバイトとか受けるなら気を付けた方がいいって言おうとしただけ」

「うん――ありがとう」


 口裏のことも、そのアドバイスも。

 考えたこともなかった。俺のせいで、俺の家が、支配人に迷惑をかける? 共犯?

 俺はよっぽどひどい顔をしているのか、時雨が肩を揺さぶってくる。普段はあんまり俺に触ってくることはないやつなのに。


「大丈夫だって! そんな顔すんなよ。もしバレたからって犯罪でもないんだし、な?」



 陰鬱なフラグが立ったと思っただろうけど、その後、俺はそのビジネスホテルでバイトを続け、二年の冬に辞めるまで、とうとう家にバレることはなかった。

 俺が金切り声で叱られるのはどうでもいいけど、支配人に迷惑をかけることを想像すると、夜眠れなくなる時があったから、本当によかった。


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