5:夏への扉(パイン材)
そのビジネスホテルは駅前にあって、家から歩いて二十分はかからない。
学校帰りにも寄りやすい場所だった。見たことはあるはずけど、これまで意識したことはない、地味なグレーの六階建ての建物だ。
ロビーにいた五十代くらいのおじさんが、二階の事務室(ドアのプレートに書いてあった)まで案内してくれて、その人が俺の面接をしてくれる人だった。
「夏休みだけで、週一日か。確かに、それでいいっていう条件で出したのはウチだけどね」
優しそうな人だったけど、これは落ちそうだなと俺はすぐに思った。もっとたくさん働ける人を雇いたいんだろう。
事務室はそんなに狭くはないけど、デスクがふたつと、両側の壁にぎっしりロッカーがあって、俺のためにパイプ椅子を広げてもらうと、通路というものはなくなった。誰か入ってきて、邪魔になったりしないといいけど。
「一年生だと、これまで何もアルバイトの経験はない?」
「はい、すみません」
「いやいや、まあそうだよねえ。でも清掃って、最初はペアでやってほしいんだよね。それで週一日だと、ひとり立ちしたときには夏休みが終わってるよねえ――」
実は、もっと働く日は増やせるんじゃないかと思っていた。
学校のある間はエイケンの活動があるから、週に三日は働けない。あとは土日を入れて四日。さすがにいきなり帰りの遅い日が増えたら、怪しまれてしまうかもしれない。
だから最初は週に一日だけ。それで、できるかどうか様子を見てみたいと思ったけど、夏休みじゃないか。エイケンは夏休みは活動しないんだ。
でも、夏休みも活動するのだと説明したら? そうじゃなくても、友達と遊ぶとか、勉強会だと説明してもいいかもしれない。あの人たちは俺に興味なんかない。俺が人並みっぽく金を稼いだりするのがおもしろくないだけだ!
「週に二日、できるかもしません」
「あ、そう。土日も入れる?」
土日は親父が家にいることがあるぶん、平日より出てくるのは難しいかもしれない。
「平日だけだとダメですか」
「ああ塾とか? うーん、長期で来てくれるんならこれでも採るけどね。この午後五時から八時っていうのも塾か何かの関係?」
「すみません、それは学校があるときに書いちゃったから……夏休みなら、昼から来られます」
「あれ、そうなの? 早く言ってよ。週に二日、午後のそうね、三時から四時間。それで来てくれるんなら助かります。いつから来られる?」
「あさってから夏休みなので、それなら、いつでも!」
採用されるかもしれない。そう思ったら、声がハキハキと大きくなった。エイケンで集まることがあるかもしれないけど、みんなで都合を合わせると言っていた。俺のバイトの日を伝えたら、集まるのは別の日にしてくれる気がする。
「うん、ありがとう。合否は今週じゅうに電話で伝えるので、あれ? この番号、おうちの電話?」
おじさんは俺の出した履歴書を見ている。
電話? 電話で合否を? 今ここで決まるんじゃないのか。
「携帯、持ってないってことはないよね?」
「持っていません。それだとだめですか?」
おじさんは、うーんと首をひねった。
「シフトの調整とか、他の人が急に休みになったから来てほしいとかね、連絡を取りたいことは多いんですよ。おうちの電話って、何時までならかけてもご迷惑にならないかな?」
何時でも、きっとダメだ。
俺がすぐに出ない限り、バイトがバレる。いやすぐに出たって、長く話していたら内容を聞きに来るだろう。
バイトって、携帯電話が必要だったのか。他のバイトでもそうなのかな? だとしたら、俺はどこでも働けない。
おじさんは優しそうな顔を曇らせた。あれ。おじさんの周りも曇っている。
「ちょっと君、大丈夫?」
「携帯がないと、採用してもらえないんでしょうか。俺、」
週に一日ではバイト代もそんなに多くないだろうと思っていたけど、週に二日なら、もしかして携帯電話を買えるかもしれないと思った。
なのに、携帯電話がないから不採用になるかもしれない。
「あの、もしかしてごめんね。志望動機に家計のためとあるけど、おうちが経済的に厳しいから、そのためにアルバイトを考えているのかな?」
俺は食事には困っていないし、家も一軒家だしきれいだ。うちは貧乏ではないと思う。
でも俺の自由になる金はない。かっこつけて家計のためと書いたけど、それは嘘だよな。でも、でもわかる。俺は嘘をつかないとアルバイトに採用されないんだ。だって、携帯電話も持っていないんだから!
「家に心配かけたくないから、アルバイトのことは知られたくないんです。だからできれば、電話は……。親が再婚して、気を使わせてるから。携帯もそのうち、バイト代で買いたいけど」
言っていて、あれ、これって嘘ではないんじゃないか、と思った。脚色というのかな、ちょっと事実と違う言い方はしてるけど、だいたいは本当のことだ。
おじさんはしばらく黙っていたけど、何度かうなずいた。
「本当は、親御さんの承認のない未成年は雇いたくないんだけども、君のこと追い返せないでしょう。いいです。あさっての午後三時、来られる? 他の人とも調整して、そのときシフト決めましょう。緊急時とかはもちろんあれだけど、そうじゃなければ、あんまり電話もかけないようにするから。どう?」
どうって? どうって、もしかして。
「合格なんですか?」
「七月中は研修期間。その間の時給は、さっきの説明の五十円引き。八月からはさっきの金額になります。大丈夫?」
「大丈夫! 大丈夫です!」
あさって、午後三時。
親を殺してでも来ようと思った。そういう言葉が映画に出てきたけど、俺は比喩じゃなくて、本当にそう思った。
次の日、終業式が終わったあと、俺は池井くんと時雨と三人でドトールにいた。学校から少し離れているから、同じ制服を着たやつは見当たらない。コーヒーチェーンの白い椅子に、男子高校生はあまり似合わないし、俺は特に浮いている気がする。
飲み物をカウンターで注文する店なんて、初めて入った。氷のたっぷり入ったアイスコーヒーは冷たくておいしい。
同じものを飲んで、うめー、と言っている時雨におそるおそる話しかける。
「バイト代の支給は月末って言ってたから、それで返す」
「おう、そうして。でもまあいいよ。バイト受かったお祝いっつったじゃん」
「つか、その場で受かったの羨ましすぎ。いいなあ。俺は土曜日までに電話で知らせますって。いつかかってくんのかわかんねえし、風呂も落ち着いて入れねえよ」
池井くんはオレンジジュースを飲みながら、スマホを見たりテーブルに伏せたりしている。
「風呂に入ってるような時間は避けるんじゃないの? 常識的な時間にかかってくるだろうよ」
時雨はバイトをしたことがないくせに知ったかぶっている。俺たちのグループで唯一のバイト経験者、鵜飼くんは気が付いたらもう帰っていた。彼はいつもマイペースだ。
「池井も別に落ちる理由ない気がするけどな。面接でなんかやらかした?」
「わかんねー! でもロードしたい! 九月以降も続けてくれる可能性はありますかって聞かれて、どうですかねーとか言っちまった。ああいうときって、ウソでもハイって言ったほうがいいよな? やる気ナシと思われたかも」
「そのウソはつかないほうがいいよ」
俺は面接してくれたおじさんの顔を思い浮かべてそう言った。
時雨はコップの氷をカシャカシャとストローで混ぜながら、多少のウソも必要だと思うけど、と言う。
「自分をよく見せるのって、ウソっていうか、努力のうちだろ。まあ佐藤はさ、あんまりウソつけないところが人のツボに入ることもあるんだろうけど。バイト先の人、いい人そうでよかったな」
ツボがどうとか、そういえばこの前も言っていた。変なことを言うからツボに入ってウケる、という意味だと思っていたけど、どうやら違う気がする。
「俺、人のツボに入るの?」
「その面接のおっさんは完全にそうだろ。今時、スマホも持ってない苦学生が来て、働いて買いたいんです、頑張りますって泣きながら言ったら、そりゃ不採用とは言えねーだろ。僕がそのおっさんでも言えないよ」
「苦学生じゃないし、泣いてないよ」
たぶん。鼻水も出なかったし。
「それにスマホ持ってないの、担任にもバカにされたよ。中学の頃」
時雨も池井くんも、うげ、という顔をした。
「たまにいるよな、いじめに加担する担任。ダルすぎ。まあ、ある種のやつのツボに入るように、ある種のやつの嫌悪ポイントに触れることもあるんだろうけどさ。僕も中一とかでお前と同じクラスだったら、どう接してたかわかんないし」
「篠田、マジ? 怖えよ」
「いじめねーよ。わざわざいじめはしないけど、こいつウザいなと思ったやつを避ける権利は誰にでもあるだろ。カースト、ん、影響力のあるやつがそうすると、コバンザメみたいなのが調子に乗って、エスカレートしたりするじゃん。女のいじめはわかんないけど、男のいじめってそういう、たいしたことない流れの延長だろ。池井は安全圏のヤツだからピンと来ないかもしれないけど」
「俺? 安全圏かあ? 篠田のほうがぜってーカースト上じゃん。俺なんてオタク野郎だし」
「でも身長が高い」
池井くんの身長は平均くらいだと思う。俺と同じくらい。百七十ちょっと。
それより明らかに低い時雨は、自分が言ったことを後悔しているみたいだった。俺はたぶん、春よりは人の表情が読めるようになっている。
「チビだと、絶対にナメられるんだよ。勉強できても運動できても、顔がよくても、でもチビじゃんって言われる。たぶん、女子にとってのブスだね。なんでか他の全部が帳消しになるコトバ」
そんな言葉を、俺は女子に言ってしまったんだ。
安全圏と言われた池井くんは全然うれしそうじゃなくて、こういうところが安全圏なんだろうなと俺も思った。
「でも、佐藤も身長低くないじゃんか」
「スマホ持ってないのは身長マイナス十センチくらいの査定されると思うよ」
「でもさ、でもさ、うちのクラスって結局、いじめってないじゃんか。みんないいヤツとは言わねえけど、けっこうラッキーだよな?」
そう、俺もそう思う。ラッキーどころか、中学の頃と比べれば、天国といっても言い過ぎじゃない。毎日すごく楽しい。信じられないくらい。
そう思うんだけど。
・女子にもいじめはないのかな。
・鳳凰院さんはあだ名をつけられてるみたいだよ。
・ジュリアさんは文芸部で嫌われたんだよね。
「鳳凰院さんはあだ名をつけられてるみたいだよ」
池井くんの坊主頭にうっすらと汗が浮いた。
「マジ? 知らねえ。え、鳳凰院さん、なんて呼ばれてんの?」
「お嬢、とか」
「え、なんだ。ビビらせんなよ。なんか、ヘンなあだ名かと思ったわ」
池井くんはほっとしたようだけど、時雨は難しい顔になった。
「微妙だな。いじめの序章っちゃ序章の気もする。あの子、いつまでも浮いてるし、オタク部だし、高畑もあきらかに引け目感じてるしな」
そうだ。気が付かないふりをしていたけど、俺も同じことを感じていた。
鳳凰院さんは一学期、まったくクラスに馴染んでいなかった。オタク部なんかに入ってしまったのも原因じゃないかと思っている。高畑さんのことは、俺は考えたくない。
それと、さらに違うあだ名もあるみたいだ。パソコンで調べたあの言葉。
「オタサーの姫とか、そういうふうにも言われてるんだって」
「言われるわな」
そんなさらっと納得するようなことなのか。俺は、けっこうひどい呼び方だと思う。いい意味で使われる言葉じゃないことが、少し調べただけでもわかった。
池井くんはオタサーのことは知っていたはずだけど、それ以外のことにショックを受けているようだった。池井くんはきっとあの子のことが好きだから。
「いい子じゃんか……」
「悪い子だからいじめられるわけじゃないんだって。あと、いい子かどうかを知る機会がないんだよね。部活ではどうか知らないけど、クラスでは浮かないように浮かないように気をつけてて、ずっとおとなしいじゃん。そういうの痛々しいし」
痛々しい。あのきれいな女の子に、なんとなく感じるもやみたいなものには、そういう名前がついているのか。
浮かないように。おとなしく。彼女はエイケンでも、なるべくそう振る舞っているような気がする。感想はちゃんと言うし、詳しいんだということもあまり隠さない。でも、ジュリアさんみたいなきついことを言ったことは一度もない。
中学の頃は黒い髪を三つ編みにしていたという女の子。想像してみる。ぴったりだった。おとなしくて周りに気を使う、そういう性格に似合っている。
でもそれって、「そういう性格」なんだろうか? 「いい子かどうかを知る機会がない」、時雨はすごいことを言った気がする。おとなしくて周りに気を使うからって、いい子だとは思われていない。
それは、わかるような気がした。
おとなしい子、その評価にサメ映画の要素はない。映画館のポップコーンを食べたことがなくて、食べてみたいと言った声。レースのついたハンカチを持っていることも、俺と高畑さん以外のやつは知らないのかもしれない。あの子の「性格」、そんなの俺も知らないけど、みんなはもっと知らないんじゃないだろうか。
「だから佐藤には少し感謝してるよ、僕は」
・?
・??
・???
「???」
池井くんも同じ顔をしていた。
時雨はアイスコーヒーをひと口飲んでから言った。
「要はエピソードだから。四月からいきなり青春劇場やらされて、まあ迷惑だったけどさ、僕が顔のわりに腹黒キャラじゃないとか、そういうアピールにはなったからね。わりとラクになったとこはあるよ」
俺だけじゃなくて、池井くんもぽかーんとしている。
現実の人間関係というのは複雑すぎる。ゲームのストーリーでは、優しいから好きとか、意地悪だから嫌いとか、理由と結果がはっきりしていた。
でもどうやら、時雨が俺なんかと仲良くしてくれた理由は、ひとつとかふたつじゃないらしい。たくさんあるというよりは、こういうの何て言うんだっけ、複合的に。そういう意味で。
俺はそんなにたくさんのことは考えられない。池井くんもたぶんそうだ。
時雨はちょっと笑った。
「お前らに話すことでもなかったわ。間違えた」
「あ、バカにしたろ! お前とか鵜飼って、そんなことばっかしゃべってんの? キャラとかアピールとか、芸能人?」
「お前もいま僕たちのことバカにしたろ。僕とか鵜飼は見た目がちょっと目立つから、キャラ作っておかないと、別のキャラ押し付けられたりするんだよ。そういうのダルいだけ。鵜飼の頭っておしゃれパーマ失敗したのかと思ってたけど、あれ、わざと天パ風にしてるだろ。ダサくしようとしてるヤツって初めて見た。女関係でなんかあったクチなのかな?」
そういえば鳳凰院さんも自分のキャラを気にしていた。見た目がいい人には、独特の苦労があるみたいだ。ダサくしようってどういう目標なんだ。それはイケメンの中でもかなり変わっている人のような気がする。
それにしても、パーマか。その単語が気になった。バイト代が入ったら、俺もおしゃれな美容院とかに行けるのか。いや、家にばれるからダメか? でもあの人たち、俺の髪型なんか見てるのかな。俺の髪が伸びるということを知っているのか? 洗面台で自分で切っていることをわかってるのか。だから俺の髪型はダサいと思う。鵜飼くんの髪も切ってあげようかな。
「佐藤、悪い顔になってるぞ」
時雨の言うことがわからなくて池井くんを見ると、今回は時雨に同意していた。
「確かに、佐藤ってたまにヤバい顔するよな。今のは何? イケメンに嫉妬したん?」
「うん、そう」
「認めんのかよ! ウケるわ。あーあ。あ、そうだ、エイケンの夏休みの打ち合わせとかって、だいたい固まったら家電にかけたらいいんだよな? 勉強会ですみたいなこと言うからさ」
「うん、ごめんね。助かる」
「人んちに電話したことねーから緊張するわ。出るとしたら母ちゃん?」
「――うん、たぶん」
「佐藤くん、じゃねえ、孝太郎くんと同じクラスの池井です、とか言わなきゃだよな? そんで、俺の番号わかるよな。なんかあったら俺が中継ってことで」
「ほんと、ありがとう」
「いいよ全然。うちホーニンだから、そんな厳しい家がマジであるんだって感じ。篠田もたまには遊ばね? 卓球部って夏休みもぎっちり練習なん?」
「いや別に、お前たちが思ってるほど忙しくないよ。普段ももっと誘ってくれよ。僕だけ部活違うから寂しいじゃん」
「マジか! 言ってくれよー。どっか行っちゃう? てさ佐藤さ、バイトって何曜なの? 俺も受かるかわかんないけどさ、できたら同じ曜日に入れね? そしたら休みの日も同じになるじゃん! したら遊びやすいっしょ」
アルバイト、友達と遊びに行く夏休み。初めて飲んだお店のアイスコーヒー。家でもコーヒーなんか飲んだことないけど、こんなにおいしいものだったんだ。
あした、三時にビジネスホテルへ行く。緊張するけれど、でも楽しみだと思った。ここからいろんなことが始まるような気がする。ドトールの中にはおしゃれなピアノの曲が流れていて、だからか、他のBGMは重ならなかった。
ホテルの清掃というのは、思っていたよりもずっとハードな仕事だった。
用意されていた制服に着替えて、去年から働いているという先輩バイトさんにくっついて、仕事を教わることになった。ベッドのシーツを替えて、カーペットに掃除機をかける。最初はその二つだけをしてねと言われた。その間に先輩バイトさんは、洗面所やトイレを掃除したり、消耗品を交換したりする。
想像していたより簡単な仕事なんだなと思ったけど、やってみるとすごく大変だった。ベッドのマットレスは重くて、しわができないようにシーツをかけるなんて無理だと思った。業務用の大きな掃除機のかけ方も難しくて、きちんと隅までかけなさいと注意された。先輩バイトさん、赤木さんという四十代くらいのおばさんは、信じられないくらい速くきれいにシーツを替えてみせた。おばさんでもできるんだから、キミならすぐできるよ、と言ってくれた。
三部屋回って、何度も失敗しながらシーツをかけ直して、それでもう七時になってしまった。
「そんなに回転の速いホテルじゃないから、一時間に二部屋できたら充分だよ。あたしは他のホテルでも働いてたけど、ここはわりと楽な職場だよ」
四時間で三部屋もできなかったのに、本当は八部屋するということだ。しかも、他のバイトさんとペアなのは最初のうちだけ。だからひとりで八部屋。そんなの無理だ、俺には向いてないんだろうと思ったけど、帰り際、更衣室から出たところで、面接をしてくれたあのおじさんが話しかけてきた。
「佐藤くん、赤木さんが褒めてたよ。とても一生懸命にやってくれるって。手際は、若いんだからすぐによくなるよ。がんばってね」
がんばりますと言った。帰り道で、帰ってからもイメージトレーニングをしようと思った。自分の部屋のシーツも変えてみよう。何年も洗濯してないからシワだらけで、やりにくいだろうけど。
毎週、火曜と木曜、午後三時から七時まで。それが俺の基本シフトということになった。池井くんに電話で伝えよう。でもファミレスからの連絡を待っているだろうから、日曜日以降がいいかもしれないな。
七時半には家に着いた。Tシャツの脇に汗じみができるほど緊張したけど、何も言われなかった。
やっぱり俺に何の興味もないんだな。風呂に入りながら、もっとシフトを増やしてもいいのかもしれない、と考えた。
日曜日の昼、家に誰もいなくなったすきに池井くんの携帯に電話をすると、うちにみんな集まるから来いよと誘われた。
水筒を持って池井くんの家に行くと、みんなと言っていたわりに鵜飼くんしかいなかった。というか池井くんもいなくて、玄関のインターフォンを押したら鵜飼くんがドアを開けたから驚いた。
「篠田が近くで迷ってるらしいから、イケは迎えに行ってんだよ」
二人で池井くんの部屋に行って、適当に座った。今日もそこそこ片付いている。
「佐藤、さっそくバイト決まったんだって? よかったね」
「うん。いろいろありがとう」
「お前のセリフって、セリフなんだよね。慣れたけど」
「いかにも用意してて、わざとらしい感じってこと?」
わかってんじゃんと鵜飼くんは笑った。
「オタクってそういうしゃべり方のやつ多いけど、佐藤ってそこまで濃くなくね? 映画もそこまで見てないし、アニメとかも好きそうには見えないけど」
「ゲームばっかりやってたから」
どういうゲームか聞かれたら嫌だなと思ったけど、「そっち系か」と言われただけだった。
・どっち系?
・鵜飼くんもオタクには見えないよね。
・鵜飼くんはフェミニストなの?
「鵜飼くんはフェミニストなの?」
「前はそういうの聞かれたら否定してたけど」
近くにあった文庫本を開きながら鵜飼くんは答えた。
「否定するのも別の主張になっちゃうからね。だから、まあ、そうかな。語れるような理念があるわけじゃないけど」
「髪は天然パーマじゃないの?」
「なに今日は? 一気に十歩来るじゃん。そういや、そういうヤツだったっけ。ルックスのことをずけずけ聞くのはやめなさいよ」
「ごめん……」
男子が相手でもいけないことだったみたいだ。鵜飼くんは男女の区別をしない主義の人だから? いや、鵜飼くんが相手じゃなくても、よくないことなんだろう。
でも、これはかなり難しいなと思った。貶してはいけないのはわかった。すごく反省してる。だけど、褒めるのもいけないんだと鵜飼くんは言いたい気がする。
不思議だ。そんなことを言ってはいないのに、言いたいんじゃないかと感じる。この予想は合っているのかな。合っているんだとしたら、俺にも少しは人の心がわかるようになったのかな。いろんな映画を見たからかもしれない。それともちろん、友達ができたから。
「鵜飼くんは夏休みにバイトしないの?」
「しない。ゴールデンウィークでよくわかったけど、労働向いてない。高等遊民になりたい」
「何それ?」
「ニート。大学は行くけど就職はしたくない。就職活動なんてぞっとするよ。この俺様が、御社を志望した動機を述べさせていただくなんて、ゲボだね」
ゲボなのか。俺は大学に行くんだと思う。就職もするんだろう。それは今までと同じように、自動的なコースだと思っていた。家から通えて受かるところ。高校もバイトもそうした。
「すごいね」
「未曽有のすごくないこと言ったよ?」
「就職活動のことなんて考えたことなかった。志望動機って、家計のためって言ったら違うのかな?」
「あまりにも本質を突いてるけどダメだろうね。なんで本質なのにダメなんだろ? 俺が経営者なら、経営理念に感銘を受けたヤツよりも、金ほしがってるヤツを雇いたい。経営理念に沿わせるのは後からでもできるから、ハングリーなヤツを雇って教育したいね。ハングリーってかなりレアな資質じゃない? この国は貧乏人も慣らされてて、痩せたまま生きるもんね。俺もそうだし」
鵜飼くんは普段あまりたくさんは喋らない。映画の感想会でも、短いことをぽつぽつ言う人だ。今のはかなり長かった。
「クールなんだ」
「逆。ホットになりたい。なれないから思ってるんだけど」
「貧乏なの?」
「もののたとえ。むしろアッパーミドル。そういうこと聞くのもやめなさい」
「ごめん、話したいのかもと思って」
「あ、何も考えてないわけでもないんだ? じゃあゴメンね? イケとか篠田と違って、お前ってわかりにくいんだよね。ぼんやりしてんだか洞察してんだかもわかんないし、根暗そうなわりにはおどおどしてないし」
「実際そんなに考えてないんだ。ねえ、聞いていい?」
「聞かれないとわかんないよ」
「フェミニストって、男の身長のことは言ってもいいの? 本人が気にしてても?」
何も答えなかった。こいつ、ずるいところがある。エイケンにも謝ったり説明したりすることはなく、なんとなくしれっと戻ってきたし。
思っていたほど、大人っぽいやつでもないのかもしれない。しかも、池井くんのように裏表がないわけでも、時雨のように気遣いができるわけでもない、なんか、あまりいいところがないやつかもしれない。イケメンだけど、それを自分で長所だとは思っていないみたいだし。
俺と同じだ。あまりいいところがなくて、人を傷つけることを言ってしまう。でも周りに無関心なわけじゃない。
鵜飼くんのことは好きじゃない。でも嫌いというわけでもなかった。前からお互い、そう思っていたのかもしれない。
「俺はずっと、ホントに何も考えてなかったんだと思う。まだいろんなことがわからなくて、直したいと思ってるよ」
「ガンバレー」
むかつくやつだ。デデドンを鳴らしてやりたい。
玄関のドアが開く音がして、どやどやと気配が近付いてきた。俺たちの友達だ。
部屋の扉が開くと、夏の熱い空気が流れてきた。