4:その女、番場ジュリア
番場ジュリアさんはクラスで一番髪の色が明るい。金色のウェーブがかったロングヘア。化粧もしていてギャルっぽいけど、意外とゆっくりとした喋り方をする子だ。
でも直接喋ったのは初めてだった。こんなに近くで顔を見るのも。俺より先に登校していた番場さんは、俺が教室に来て自分の席につくと、近くの席から椅子を引っ張ってきて俺の正面に座った。フルーツの飴みたいな匂いがする。
「映画部って、毎日行かなきゃいけないの?」
早めに登校してきた何人かがこっちを見ている。イケている女子が、イケてない男子の机に両肘をついて、ゆっくりと喋っている姿を。その中には池井くんもいた。
でも俺は番場さんのグレーっぽい目を見ていたから、池井くんがどんな顔をしているのかまではわからなかった。番場ジュリアさん、珍しい名前だと思っていたけど、もしかしてハーフとかなんだろうか。金髪も地毛?
鳳凰院香織さんがいなければ、このクラスで一番目立つ女子はこの子だったと思う。番場さんもピアスをあけていた。鳳凰院さんのやつほどはキラキラしていない、ガラスっぽい青い石。
「あたし週に二日、たまに三日ね、バイトしてるから、毎日行かなきゃいけない部活には入れないんだ。――聞いてるう?」
正面にいるんだから、聞いてるに決まってる。こんな派手な女子と話したことがないから、固まってしまっただけだ。
うなずく。いや、会話を、勧誘をしないと。
「活動日は、月曜と、水曜と金曜。休む時は部員の誰かに言うんだ。だけど連絡網ができると思うから、電話でもいいかも」
「いまどき電話? 連絡網って、トークグループじゃないの?」
先輩たちはそういうのを作るか、もう作ったと言っていた気がする。でも俺がスマホを持っていないから、電話でも連絡網を作るということになった。俺が家の電話しか使えないから、迷惑をかけてしまっている。
「そのグループのやつも、たぶんできる、と思う」
「あたし映画そんなたくさん見てないけど、そんなんでも大丈夫? あと、うちのクラスだと誰が入ってんの?」
「俺も映画はちょっとしか見たことない。うちのクラスだと、池井くんと鵜飼くんと、鳳凰院さんが部員だよ」
鵜飼くんは辞めるかもしれないけど、まだ部員だ。
「へえ、鳳凰院もそんなん入ってたんだあ。あと池井と、鵜飼? やば、意識高い系の部?」
「わかんない。でも俺は意識高くないよ」
「えーっ、難しいこと議論するみたいなトコなら嫌なんですけど。あたし絶対ついてけないよお」
「期末、クラスで一位だったのに?」
「言わないでよお! ガリガリ勉強ばっかりしたくないから、進学校にしなかったんだから」
鳳凰院さんがいなかったら、春の校内新聞に載っていたのもこの子だったのかもしれない。近くにいた男子、田辺くんが嫌な顔をした。
番場さんは金色の長い髪をくるくると指に巻いている。その爪は青く塗られていて、きれいな色だなと思った。でもマニキュアとかは校則違反じゃなかったっけ? クラスで一位を取るような子だから先生も許しているのかも。
「番場さんは映画が好きなの?」
「ホント言うと本のほうが好きなんだよね。ちょっとだけ文芸部にも行ってみたけど、なんかカンジ合わなくてえ。でも映画も好きだよ。深いコト言うのはムリ。ボキャ貧だし」
「一位なのに?」
「しつこいなあ。勉強できるのと、芸術的な感性があるのは別でしょ。言葉にされてないこととか汲み取るのも苦手だし。映画部みたいな人って、あたしみたいなのバカにしそう」
わからないけど、もしかして、野田先輩は校則違反をする女の子のことはバカにするかもしれない。でも、しないかもしれない。本人に聞いてみたほうがいいのかな。
まず池井くんに聞いてみようかと思ったけど、池井くんは教室からいなくなっていた。かわりに鵜飼くんと目が合った。机でノートを開いていたけど、俺たちの話を聞いていたんだと思う。だからそのタイミングで席を立って、こっちに歩いてきたんだろう。
「俺も意識高くないよ」
背の高い鵜飼くんは立っていて、俺と番場さんは座っているから、すごく高いところから声が降ってくるような感じだ。
「番場、どういうの好きなの。本でも映画でも」
「クリスティとか言ったらカッコイイんだろうけど、角田光代。映画だと風景がキレイなのが好き。落下の王国とか」
「ザ・セルの監督か。じゃあ映像美重視?」
「三谷幸喜も好きって言ったらバカにする?」
「しない。ウチの部でもときどき見る。な」
な? 正直、何の話かわかっていなかったけど、うなずいた。
鵜飼くんと映画のことをしゃべるのは久しぶりのような気がする。番場さんはさっきよりも乗り気っぽくなって、椅子から腰を浮かせた。
「そうなんだ? みんなで映画見たりもするの?」
「ってか、それがメイン。そのあと感想言ったり。考察とか議論もしなくはないけど、そんな深くない。しょせんコーコーセーの趣味クラブだし」
「楽しい?」
鵜飼くんは言葉に詰まった感じになった。すごく珍しい。それから小さい声で答えた。
「まあね」
「なんか興味出たかも。今日は活動日じゃないんだよね。次は明日か、行ってもいい? 入るかどうかはわかんないけど、フンイキ見てみたい」
さっき俺が話した活動日をちゃんと覚えている。やっぱり記憶力がいいんだ。
「聞いとく」
鵜飼くんがそう答えた。
女子部員が増えるかもということより、鵜飼くんが辞めないみたいだということのほうに、俺はうきうきした気持ちになっていた。
おい、番場ジュリアじゃん。翌日の視聴覚室で、後ろの席から一ノ瀬先輩がささやいてきた。
番場さんは、春日井部長と戸丸先輩から、部の活動について説明を受けている。他の部員はいつものように適当な席に座っていた。鵜飼くんと鳳凰院さんが何か話している。
一ノ瀬先輩は身を乗り出して、番場ジュリアかよ、とまた言った。
「ソッコーで女子連れてきたのがすげーのに、番場ジュリアて。お前らすげくね?」
「クラスのやつが声かけてくれたので」
武田くんは、番場さんの他にも何人かの女子に声をかけてくれたらしい。でも高梨さんは美術部に入っていて、帰宅部の女子たちもいまさら部活には入りたくないみたいだ、と教えてくれた。
一ノ瀬先輩は俺のリアクションに納得いかないらしく、番場ジュリアだぜ、と言った。何回言うんだ。
「考え方によっちゃ、鳳凰院より名前の総合力高いじゃん。番場でジュリアって」
「総合力って」
「入んの? すげ、そしたらもう別の部じゃん。エイケンじゃなくて、鳳凰院番場部じゃん。俺の一ノ瀬もまあまあカッケーと思ってたけど、鳳凰院番場には勝てねー」
この先輩の言うことはいつもよくわからないのだ。一ノ瀬は感覚でしゃべってるから深く考えるなと柴村先輩が言っていた。
――仮入部っていうことでいい?
春日井部長がそう言う声が聞こえて、一ノ瀬先輩はもっと身を乗り出した。
「みんな、ちょっと寄って!」
春日井部長と戸丸先輩、そして番場さんが立っているスクリーンの近くの席に、みんなが集まってきて座り直した。
春日井部長は浮かれているっぽくて、じゃん! と言いながら両手で番場さんを指した。
「今ちょっと説明してね、いろんな都合も考えて、仮入部で様子を見てくれることになりました。一年生はみんな同じクラスなんだね? 番場さんです!」
番場さんはぺこっと小さく頭を下げた。前に鳳凰院さんが自己紹介のときにしたお辞儀とは違って、うす、みたいな。
「番場です。名前の総合力が高い、番場ジュリアでえす。苗字強いから、できればジュリアって呼んでください。ちなみにハーフとかじゃないです。単なるキラキラネームで、カタカナでえす」
一ノ瀬先輩は知らんぷりをしている。
独特な自己紹介は、総合力のところ以外は言い慣れている感じがした。
「私も!」
珍しく大きめの声で鳳凰院さんが言った。
「苗字が強い鳳凰院です! でも、知ってるよね」
「そりゃ同じクラスだもん、鳳凰院香織さあん。あと鵜飼、池井、佐藤ね。それと春日井部長と戸丸先輩」
「紹介の手間を省いてくれてありがとう、ジュリアさん。シャイボーイ多いから、他は部長のあたしが説明するね。柴村、矢内、一ノ瀬が三年。こっちの野間君だけ二年で、自動的に次の部長です」
シャイボーイと紹介された四人は、みんな無言でぺこっとした。
番場さん、ジュリアさん――俺もそう呼んでいいのかな――が、四人目のシャイボーイをじっと見た。
「野田先輩って、あの表彰の。映画部だったんですねえ。そんな先輩がいる部なら安心でえす!」
「え、う、映画部じゃなくて、映画研究部です。よろしく」
野田先輩の答え方は、いかにもコキコキの童貞だった。
番場さんはアルバイトがあるということで、すぐに帰った。
あきらかに緊張していた部員たちが、ゆるっとしたモードになる。
「ギャルじゃん……」
矢内先輩が文句を言うようにつぶやいたのを、池井くんがむっとしたように反論する。
「あのコ、期末で学年二位っすよ。カンジもいいじゃないですか」
「え、あれで頭もいいんだ? 悪いけど、喋り方アレだし、ちょっとバカの子なのかと思った。え、じゃあ超人じゃん? なんでエイケンに来たの?」
そう言った柴村先輩に、戸丸先輩がにこにこする。
「映画が好きだからだろ。あんまり詳しくはないと言ってたけど、文学も好きみたいだね。正式に入部してくれるかどうかはわからないけど、すばらしい一歩じゃないか。誘ってくれたのは鳳凰院さんなのかな。ありがとう」
「いいえ、私じゃないんですけど、役に立てなくてごめんなさい。でもうれしいです」
鳳凰院さんは本当にうれしそうで、それを見ていると俺もうれしくなる。鳳凰院さんとジュリアさんは、あんまり話が合いそうには見えないけど、美少女同士でお似合いかもしれない。いや、鳳凰院さんと高畑さんがお似合いじゃないということじゃなくて。こういうことを考えるのもよくないのかな。
もっとうれしそうなのは春日井部長だった。鼻歌なんか歌っている。
「あたしたちは九月で引退だけど、都合が合いそうなら夏休みに集まらない? 映画館行こうよ、見たいのいくつかあるんだ。ジュリアさんともいろいろ話してみたいしね」
――映画館。
夏休みに部活のみんなと集まるなんて、すごく楽しそうだけど、映画館に行くなら入館料がかかる。何か食べたりするかもしれないし、そのお金だって。
みんなはそういうお金を持っているのかな、と考えた。鳳凰院さんはお金持ちだから考えるまでもない。池井くんや鵜飼くんは購買でパンを買ったりしているから、普通におこづかいを持っているんだろう。先輩たちだってそうなんだろうな。
ジュリアさんはアルバイトに行った。俺もしてみたい。働くなんて怖いけど、自由になるお金があったらどんなにいいだろう。
アルバイトなんかするなと言われているけど、部費のかからない部活動はいいらしい。友達の家に寄ったり、土曜日に公園に行くのも何も言われなかった。
たとえば、エイケンの活動日は週に三日だけど、四日になったんだと言えば? そうすれば、自由な放課後が一日できる。そのときにアルバイトをすれば、ばれることはないんじゃないか?
心の中で、何かがむくむくと大きくなるのを感じる。やりたい。絶対に、アルバイトをやってみたい。それでお金を稼いで、みんなと映画館に行きたい。食堂のカレーだって食べられる。マクドナルドだって!
こういう気持ちを決意と言うんだろうか。そうだとすれば、俺だってちょっと大人みたいだ、と思った。
時雨に相談したいと思ったけれど、エイケンがかなり早く解散になったから、運動部はまだ活動が終わっていなかった。
前に、卓球部を見に行ってもいいかと聞いたら、用がねえなら絶対来んなと言われた。下駄箱で待っていたらキモいかな?
今日は金曜だから、次に教室で会うのは月曜になってしまう。できれば今すぐ行動したかった。そんなふうに思ったことって、今まであっただろうか。
昇降口までの廊下で、俺は前を歩いていた池井くんと鵜飼くんに声をかけた。
「アルバイトってしてる?」
二人は立ち止まって、池井くんは首を横に振った。鵜飼くんは「今はしてない」と言った。
「ゴールデンウィークだけ短期のバイトしたけど」
「え、マジかあ。なんだよ、自分だけずるいじゃんか。なんのバイトだよ?」
「なんでお前に報告しないと怒られんの? 映画館の清掃。ホントはフロントがよかったけど、短期だと清掃しか雇えないって言われたから。ポップコーンのキャラメルのにおい、軽くトラウマ。好きなトコでバイトするのも考えもんだね」
映画館の清掃のバイト。そういうものがあることも知らなかった。コンビニでレジに立ったり、ガソリンスタンドでオーライと言ったり、バイトというとその二つしか思い浮かばなかった。
「バイトすんの? 佐藤クン」
そう言って鵜飼くんは壁にもたれかかった。
「したいけど、どうやって探したらいいかな」
「検索すりゃ一発でしょ。スマホ持ってないんだっけ。タブレットとかパソコンは?」
「パソコンは家にあるけど、あんまり長く使えない。あと、家にバレないでバイトってできる?」
「いちいち親にバイトを報告してるヤツのほうが珍しいんじゃない? 俺も言わなかったし。厳しいの? 親」
うなずく。池井くんが言った。
「求人誌みたいなのあるじゃん! コンビニとか本屋に置いてるやつ」
求人誌? もっと詳しく聞きたかったけど、鵜飼くんはフッと笑った。
「親にバレたくないのに、よりによって一番言い逃れできない物的証拠を持ち帰んの? ま、途中でファミレスとか寄って見りゃいいかもしれないけど」
「それでいいじゃん! あ、俺、付き合おうか? それか、俺んちで見たら? 俺もバイトってしてみてえし。夏休みヒマだし!」
池井くんの家でいっしょにバイトのことを考える? いいのか。そんなことができるのか。
「求人誌って、値段――いくらくらいなの?」
「フリーペーパーもあると思うけど、いや、視野せま」
鵜飼くんの皮肉っぽい口調はもう慣れたし、今はとても大事なことを教えてくれている。
「イケが付き合ってやるなら、そもそも求人誌じゃなくていいだろ。イケがスマホで一緒に見てやれば? 条件合いそうなとこピックして、電話かフォームでアポ取って、面接行くだけだよ。ネットのほうが情報新しいんだから」
「鵜飼、賢けえ」
「フツー。お前たちがバカなの」
池井くんとスマホで、条件が合うところを探して、アポを取って面接に行くだけ。
それくらいのことなら、できるんじゃないか。俺でもアルバイトを探せるんじゃないか。
「池井くんち、いつ行っていい!?」
「今日でもいいよ。鵜飼も来る?」
「行かねー。お前の部屋きたねーもん。ってか佐藤、親厳しいのに、帰り遅くなるのはいいの?」
そうか、今から池井くんの家に行って、そういうことをするんなら、帰りは夜になってしまう。それは駄目だろうな。
「明日は? 明日、昼過ぎとか行ってもいい?」
「いいよ。部屋片づけとくわ。あとスマホで下見もしとく!」
「下見のその使い方、俺が現国の教師なら三角つける」
鵜飼くんが皮肉を言って、池井くんが笑う。俺は笑っていいのか迷ったけど、自然と笑っていた。
次の日の昼、池井くんの部屋には鵜飼くんもいた。部屋はちょっとだけ片付いていて、二人ともペットボトルのジュースを飲んでいる。
水筒を持ってきてよかった。池井くんはいつも何か飲むかと聞いてくれるから、飲むと言うのも断るのも気まずくて、水筒を思いついたことは正解だという気がした。池井くんの両親は共働きで、お家の人に気を使わなくていいのは助かる。土曜日も仕事なんだな。それか自分の部屋とかにいるのかも。
池井くんは張り切ってスマホを見ていて、鵜飼くんはカバーのかかった文庫本を読んでいた。
「佐藤、何系の仕事がいい? 時給高いのはパチンコ屋なんだけど、高校生はダメっぽいんだよなあ。友達同士でOKってやつはまあまあ多いんだよ。初バイトだしさ、よさそうじゃね?」
「俺はあんまオススメしないけどね。友達が叱られてるのとか、見るのも見られるのもキツいでしょ」
「うげ、マジでそうだわ! あぶねー。経験者は違うわ」
「俺だって四日しか働いたことないって。でも考えりゃわかるでしょ。片方だけ受かって片方だけ落ちるのも気まずいし、とりあえず別々のとこにしといたら」
「そうしようぜ佐藤。俺さあ、まかないつきのとこで働いてみたいんだよね。佐藤も夏休みの間だけ? 長期のやつもアリ? 出てくる件数、それで全然違うんだよ」
バイトって、俺なんかでもできるのかな。すごく叱られたらどうしよう。まかないって食事が出ることだよな。楽しそうだけど、家の夕飯が食べられなくなるとまずい。
「最初は夏休みだけ、がいいな。食べ物系じゃなくて、週に一日だけで、八時には帰れるやつがいい」
「ふんふん、けっこう具体的だな。それで出てくるやつだと、えーっとコンビニと、ホテルのスタッフ、ピッキングって何?」
「検品とか品出し。ホテルのスタッフって、ラブホの清掃? それだと高校生は受からないよ」
「ビジネスホテルって書いてあるし! 鵜飼、やらしいな」
「俺がバイト探してた時に出てきたんだよ。佐藤はピッキングとか清掃系、合ってるんじゃないの? 接客とかよりは」
俺に接客が向いてないことは自分でもわかる。ピッキングというのはイメージできないけど、清掃ならできるかもしれない。
池井くんはファミレスに絞って探すことにしたようだ。通える範囲で、いくつか募集があるらしい。探しながら言った。
「そういや番場さん、じゃね、ジュリアさんって何のバイトしてんだろ? 知ってる?」
俺は知らない。鵜飼くんも知らないと言った。
「ピザ屋かなあ?」
「何よ、その決め打ち」
「金髪だからアメリカっぽいイメージで? って、自分で言っててバカすぎるな。ウェイトレスの服とかめっちゃ似合いそう。で、鳳凰院さんはバイトとか一生しねえんだろうなあ。別荘にリゾートだもんな」
「お嬢様って、自分の家の系列の店で働いたりすることあるらしいよ。ドラマの世界のハナシだと思ってたけど、本当にそういうのあるらしい」
鵜飼くんはいろんなことを知っている。池井くんも感心していた。
「鳳凰院さんの家ってなんか店やってんの?」
「元財閥なんだから、店とかのレベルじゃないだろ。チェーンたくさん持ってるよ。てか、真面目に探せば? 夏休みにバイトしたい高校生ってお前たちだけじゃないんだから、競争率高いと思うよ。条件のいいとこから埋まるし」
「マジか! 佐藤、今日アポ取るの目標にしようぜ。ちょっとマジ、真剣に探そ」
鳳凰院さんの家のことはもう少し聞きたい気もしたけど、確かにバイトのほうが大事だ。
その日、池井くんはファミレスのホールの、俺はビジネスホテルの清掃のバイトに、求人サイトの応募フォームから申し込んだ。すぐに返事が来て、二人とも、面接は火曜日の放課後ということに決まった。
翌々日の月曜日。昼はいつもの四人で弁当を食べた。もしかして鳳凰院さんやジュリアさんも来るのかもしれない、と俺が思ってたのがわかったようで、鵜飼くんは「ランチ合コン期待した?」と言いながらパンの袋を開けている。
「鳳凰院チャンも番場チャンも自分のグループで食ってるし、あの二人がこっち来たら、謎すぎる集団じゃん。意味不明で怖いでしょ」
「ああ、僕が邪魔? 武田んとこでも行ってくるか」
時雨が弁当を持って立ち上がろうとして、「違うよ」と鵜飼くんとハモッてしまった。
「お前だけ部活が違うとかじゃなくて、もっと根本的に。あのコたちは別の世界にいるタイプで、たまたまクラスと部活が同じだけ。それ以上のことを期待するのはやめときな。イケも。お前たち、見すぎ」
そんなにじろじろ見ていたつもりはないけど、確かに今朝から、鳳凰院さんとジュリアさんが近くに来るたびに、もしかしたら話しかけられるかも、と緊張していた。
三カ月以上、鳳凰院さんと特にそういうこともなかったのに、ジュリアさんが来たことで、何かがパアッと変わるような気がしたのだ。
「てか、お前ら意外と自己評価高いのね。あのコたち相手にチャンスあると思ってる?」
聞き流されることも多い鵜飼くんの毒舌に、今日は池井くんが反論した。
「そこまでは思ってねえよお。ムリなのはわかってるけど、昼飯くらいもしかして一緒に食うこととかさ、部活の打ち合わせみたいな感じであるかなーとかさあ」
そうそうそうと俺も言った。彼女たちと友達になれるとまでは思ってない。まして、それ以上なんてとても。
だけどこれからは同じ部活で、同じ映画を見て、関わることがあるんだ。今日は暑いねとか、休みはどっか行ったのとか、教室で話すようになることだってあるかもしれないじゃないか。この考えは、そこまでキモくないんじゃないかと思うけど。
時雨はどうでもよさそうに聞いていたけど、なにか思い出したように、少し声を小さくして言った。
「聞いていい? 鵜飼の好きな子って、番場なの?」
えっ?
池井くんの持っていたパンが机に落ちた。でも床に転がらないようにキャッチしたので、俺より反射神経がいい。
鵜飼くんは落とさずにパンを食べ続けている。
「なに急に。別に誰も好きじゃないけど。って、こんな中二病っぽいセリフ言わせないでくれる? 恥ずかし」
「でも前にさ、いや、野暮しちまったな。わり」
「なに? なに? なんかあったの? え、鵜飼さあ、それなら俺も協力してやろうか? 俺と佐藤と鳳凰院さんで部室行くようにするから、お前とジュリアさんは二人でさ――」
野暮の極みだ、池井くん。声もやや大きいよ。
鵜飼くんにはひょっとして好きな女の子がいるのかな、と野田先輩の事件のときに俺も思った。でも一般論というやつかもしれないし、鵜飼くんは大人っぽいから、年上の女の人なんかとお似合いだろうな、なんて考えていた。
ジュリアさんは教室の前のほうの席にイケてる女子と集まって、サンドイッチを食べている。そのイケ女子グループは四人で、お昼時は全員集まっているか、全員いないかのどちらかだ。お弁当の日と食堂の日を、グループみんなで合わせているみたいだった。
みんな化粧をしていて声が大きめで、スカートが短い。ほんと彼氏ほしいし、みたいな会話がよく聞こえてくる。イケてる男子グループの武田くんたちと絡んでることが多いし、もしかしてもう付き合ってる同士がいたり――あれっ、そうだ。
「ジュリアさんって、彼氏いるんじゃなかったっけ
右のすねと左腕が同時に痛くなった。池井くんが足で、時雨が手で小さく攻撃してきたからだ。
「え? みんな知ってると思って」
「だからってわざわざ言うなよ。わかんなくても覚えろ。みんなが知ってることを、みんなが言わないときは、みんなが言わない理由があるんだよ。わかった?」
時雨が俺の腕をぐいぐいと引っ張りながら、俺がやらかしたときの言い方でまた教えてくれた。
「今は佐藤クンが怒られる理由ないよ」
たぶん初めて鵜飼くんが庇ってくれたけど、俺を佐藤クンと呼ぶときは、だいたい皮肉がくっつく。
「篠田も大変ね。もはやトレーナーみたいになってんじゃん。やっぱり体育会系のヤツってのは面倒見いいんだね。卓球部でも」
・鵜飼くん、今日はあの本を読まないの?
・なんだっけ、ジュリアさんの好きな作家。
・時雨、俺たちバイトするんだ。
「時雨、俺たちバイトするんだ」
「へー、そうなんだ。みんなで? 佐藤も?」
時雨は俺の家がバイト禁止だと覚えていたようだけど、禁止じゃなかったっけとは言わずに、そういう聞き方をした。きっとこういうところなんだな、俺との違いは。
「まだ決まってねえけど、明日面接! 俺はファミレスで、佐藤はなんだっけ? ホテルの掃除だっけ。受かるかなー。面接ってどういうことすんの? 緊張するわ。履歴書もまだできてねえんだよ、志望動機とか。鵜飼はなんて書いた?」
「別にフツーのこと。映画が好きだから働いてみたいですって。向こうも高一だってわかってるんだから、履歴書のデキとかたいして期待してないよ。明るくてやる気があるかとか見るんだろうから、お前なら大丈夫でしょ。佐藤はどう、もう履歴書書いた?」
「書いたけど、自信ない」
アルバイト用と書かれている履歴書は池井くんが買っていて、二枚分けてくれたんだ。昨日張り切って書いたけど、志望動機の欄は俺も悩んだ。家計のため、家から近いため、と書いたけど、的外れだったのかな。掃除が好きだからって書いた方がよかったのかな。もう一枚使って、書き直そうかな。
「セーブしてえ!」
池井くんが突然そう言ったから、俺はまたコロッケを落としそうになった。
「入試の時も思ったけどさ。こういうときセーブして、ダメだったらロードしてえー。現実って一発勝負で怖すぎ。やり直しアリにしてほしいわ」
「うわあ。ゲーム脳のやつって結構いんのかな」
「篠田、誤用。ゲーム脳って、ゲームっぽい考え方するやつのことじゃない」
頭の中で何かがじーんと響くような感じがあった。
池井くんも、そんなふうに考えることがあるんだ。セーブしたいとかロードしたいとか、現実世界でもそういうことを考えるのって、俺だけじゃないんだ。俺だけじゃなかったんだ!
裏庭の、あの変な石は、俺の妄想だけど、つまり俺の根っこはあの石を望んでいるんだろう。失敗したり、気に入らないことがあれば、ゲームみたいにやり直したいって。そういう装置がほしいって。
でも、そういう装置が自分にだけは使えると思った結果、俺は高畑さんにひどいことを言った。しかも装置は思ったように動かなくて――あのときのことを思い出すと頭がじんじんする。セーブデータがあるとリセットできない。セーブデータを消すには、その方法は、一晩それを考えて――
あの石に触るのはもう嫌だ。俺はゲームの、妄想の世界から抜け出したい。
現実の人間になって、現実のアルバイトをして、現実のマクドナルドに行きたかった。
「明日の面接に落ちても、また別のとこに応募しようよ」
「うわ、落ちる前提で言うなよー。前向きに行こうぜ。やべ、面接のイメトレしとこっかな」
俺はとても前向きなことを言ったつもりだけど。
なんとなく、俺をちらっと見た時雨には伝わっているんだろうなと思えた。
黒人の親子が出てくる映画が終わって、視聴覚室が明るくなったとき、一番後ろの列に座っていたジュリアさんはあくびをしていた。
みんなが彼女を見たから、やべ、というように手を口にあてている。春日井部長は一番前の列から、よく通る声で話しかけた。
「ジュリアさん、おもしろかった? あんまり好みじゃなかったかな?」
「えー? おもしろかったですう。子供がかわいかった」
沈黙。
しーんとしていたから、柴村先輩の「それが学年二位の感想かね」というつぶやきが聞こえてしまった。ジュリアさん本人にも。
「感想がヘタだとダメなんですかあ? 映画部じゃなくて映画研究部だから、研究できないヒトはいちゃいけないんですかあ?」
その言い方はいつも通りゆっくりしていて、怒っているとかいうよりは、自分がこの部には合わないのかも、と本当に思っているような感じだった。
柴村先輩がメガネの位置を直す。
「ダメじゃないけど、もう少し? ストーリーについて感じたこととか、ないの?」
「甘ったれんなよって思いました」
柴村先輩も、ほとんどの部員たちも、え? という様子になる。この映画の感想とは思えない。もしかして、柴村先輩への悪口か?
でも、映画の感想だったらしい。ジュリアさんはちょっと胸をそらして、不良っぽい姿勢と話し方になった。
「一緒にいたいとか言ってないでさあ、まず子供の保護でしょ。できれば離れたくないっていうのは、どんな親子だってそうでしょ。子供のメンタルケアをないがしろにできないのはわかります。でも、まず物理でしょ? 救済のシステムがあるのに拒否して、それが自分だけならいいですよ。でも子供を道連れにしてるじゃないですかあ。離したくないっていう名前の道連れですよ。運がよくて一緒に天国に行けたけど、運が悪かったら一緒に地獄に落ちてたってことでしょ」
この子は先輩たちから嫌われてしまう――。
春、鳳凰院さんに対しても、俺はそう思ったんだ。人の顔色をうかがわず、一気に喋ること。話し言葉にしては難しい単語。かわいい顔で言うからとてもギャップが強い。ハッピーエンドの映画だったじゃないか。そんなに厳しい見方をわざわざするなんて、意地悪な女の子なのかなーー。
怖くなって、みんなの様子をうかがってしまう。一ノ瀬先輩はたぶん、俺と同じようなことを思っている。引いている顔だ。鳳凰院さんもびっくりした顔。
柴村先輩と矢内先輩は肩を近付けて、ぼそぼそと何か言っている。野田先輩は壁のほうを向いていた。池井くんも顔を隠すように机に突っ伏している。
鵜飼くんは前髪が長いから、離れているといつも表情がよくわからない。戸丸先輩は穏やかな顔で、でも笑っていなかった。
春日井部長は、あきらかにおろおろしていた。
「ごめんね、あんまり好きじゃないタイプの作品だったかな。ジュリアさんはどういう映画が好き?」
「ほらね。あたし感想ヘタでしょお」
不良っぽい、だらしない座り方をしたまま、ジュリアさんはつまらなそうな顔で言った。
「だから文芸部でもすぐ嫌われたんでえす。こんなのが本入部したらイヤですよね? だけど、映画は本当におもしろかったです。ありがとうございました」
とんでもない子を連れてきてしまった。結局、女子部員は増えなくて、みんなが気まずくなっただけ。あんなにうれしそうにしていた春日井部長さえ、あんなに困っているじゃないか。
「そうなんだ……」
消え入りそうな声で言って、春日井部長は指をこすり合わせている。
鳳凰院さんははっきり物を言う子だけど、きれいな言葉使いで、それに悪意のあることは言ったことがない。この映画は好きじゃなかったんだろうなというときも、良いところを探して褒めていた。
柴村先輩や野田先輩は、作品について厳しいことを言うことがある。びくっとするような悪口も。だけど、道連れとか、地獄とか言ったことはないはずだ。
黙ってしまった春日井部長の代わりのように、戸丸先輩がゆったりと言った。
「初回くらい当たり障りのない感想を言えばいいのに、なんて言わないよ。それにきみは実際、そうしようとしたんだよね」
ジュリアさんはちょっと間を置いてから、こくんとうなずいた。それは不良っぽい意地悪な女の子らしくない、素直なしぐさだった。
「柴村先輩が言わせたんですよ」
野田先輩に突然名指しされて、柴村先輩のメガネがずれた。
「俺? 今の、俺のせいなの?」
「柴村は関係ないよ」
戸丸先輩はそう言って、離れた席にいる野田先輩を空中でデコピンした。
「実に映画研究部向きじゃないか。映画を見て強い感想を持ち、少し水を向けられると黙っていられない。オタクっていうのは、単なるインドア趣味のことじゃなくて、こういう気質の持ち主を指す言葉だと思う。なあ、野田」
「悪かったですね、典型的なそういうオタクで。持った感想を黙ってられないから、すぐブログ炎上するし」
野田先輩、ブログなんかやってたんだ。
鳳凰院さんが顔に両手を当てながら、恥ずかしそうに言った。
「それじゃあ私、オタクじゃないかも」
「きみはきみで、自分の言葉をこらえることのできる、社会性を持った映画見だよ。一ノ瀬みたいに、なんかこれおもしろい、なんかこれつまんねー、とシンプルに言えるのも才能だ。どういう感想を持ったって、映画というものを好きであってくれたらいい」
戸丸先輩は、とてもオタクには見えないその女の子を見上げた。
「番場ジュリアさん、きみは確かに、部員の多いところで和気あいあいとやっていくのは難しいタイプなのかもしれない。でも、たったの六人ならどうだろう? 秋からの部長は誰よりも典型的なオタクだ。映画の見方も、きみに一番近い気がする」
神経質なキツネ目に青白い肌の、典型的なオタクっぽい野田先輩が、金髪の美少女に一番近い?
でも、そうだとしたら。
ジュリアさんは意地悪な子なんかじゃないのかもしれない。不良かどうかはわからないけど、期末で名前が張り出される不良なんかいるのかな。
テストの成績がクラスで一番、学年で二番のその子は、下を向きながら、指にくるくると髪を巻いていた。青い爪。くるくるくる。
・ジュリアさん、本入部してくれる?
・秀才でオタクなんて、かっこいい。
・野田先輩のブログってどうやったら見られるんですか?
「野田先輩のブログってどうやったら見られるんですか?」
「見なくていいよ! 番――ジュ、ジュリアさん。僕以外は、その、みんなきみと同じクラスのヒトみたいだし。もしきみが入ってくれるんなら、次の部長としては助かるんですけど」
野田先輩が頑張って勧誘トークをしようとしているけど、ジュリアさんは彼を見ていなかった。
鳳凰院香織さんが立ち上がったから。いつもみんなと少し離れた席に座る、たったひとりの一年の女子。その子がきれいなお辞儀をした。
「お願いします。映画がきらいじゃなかったら。夏休み、この部活のみんなで映画館に行くの。だけど同級生はみんな男の子だから、私は親に許してもらえないかもしれません。でも同じクラスの女の子もいるなら、行ってもいいって言ってくれる気がするんです。行ってみたいの。映画館。あの大きいポップコーンも食べてみたいの」
ジュリアさんは「お嬢――」と小さい声で言った。きっと陰ではそういうあだ名で呼んでいるんだな、それは嫌な感じだなと思ったけど、
「わかった。あたし社会性ないけど、こんなこと言われて断るほどヒールじゃない」
鳳凰院さんが見たことのない、目がなくなるような笑顔になった。先輩たちは、まだ戸惑っている人もいたけど、野田先輩は小さなガッツポーズをしていた。
池井くんは鳳凰院さんとジュリアさんを交互に見ている。鵜飼くんは前髪が長いから、どこを見ているかわからない。
BGMが流れた。明るくて、甘い感じの音楽。
ヒロインっぽい曲だな、なんて思ってしまった。