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佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない  作者: 終焉エンドレス
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3:ミッション→オタサーの姫からの脱却




 ゴールデンウィークは家にいた。時雨からも誘われなかったし、映画研究会の活動もカレンダー通りに休みと言われたから。


 前は休みの日が好きだった。学校に行かなくても叱られないし、部屋でずっとゲームができる。


 だけど、今はなんだか不安だった。何日も会わないと、時雨と友達ではなくなってしまうんじゃないか? 友達って、休みの日も会うものなんじゃないか。映画研究会の人たちも、俺の平凡な名前や顔を忘れてしまうんじゃないか。


 勉強をして過ごした。時雨は頭の悪いやつが嫌いだと思う。鳳凰院さんだってそうだろう。野田先輩なんか絶対そうだろうな。

 いろんな教科をていねいに勉強すると、ゴールデンウィークはいつの間にか終わっていた。




 休み明けは金曜で、小雨が降っていた。

 教室に入ると、池井くんと目が合った。坊主頭の髪の毛がちょっとだけ伸びている気がする。


「おう、佐藤。休みどっか行った?」


 ああ、忘れられていなくてよかった。


「おはよう。どこにも行ってないよ」

「そこは俺にも聞いてよ」

「え? うん、池井くん、どっか行ったの?」

「行ってねえよー。家で寝て、映画見て、寝てた。じゃあなんで聞かせたんだよ! って突っ込んでよ」


 突っ込むよりも先に、俺は気になったことを聞いた。


「家でも映画見てたの? SF?」

「いろんなジャンル。つまんねー古いやつとかも見たよ。野田先輩にあんまりバカにされたくねーなとか思っちまってよ」


 ・気にしてたのか。

 ・野田先輩のこと嫌いなのか?

 ・それって何ていう映画?


 久しぶりの三択だ。家では出ないから。あと、やっぱり男女に関係なく出るんだな。


「野田先輩のこと嫌いなのか?」

「や、そんなマジな顔する話でもねえよ。誰にでもああいう人なんだろうし」


 俺はどんな顔をしてるんだろう。


「でもま、他に二年がいないのって、あの人のせいなんだろうな。あの人が部長になったら、めんどくせーとは思うわ」

「でも、なるんだよね? 他に二年生がいないから」

「だからめんどくせえなってこと。三年が引退したら辞めるかなって鵜飼とも話してたけど、それもボイコットみたいで感じわりいじゃん。あの人、繊細そーだしさ」


 三年生が引退して、池井くんと鵜飼くんが辞めたら、野田先輩と鳳凰院さん、それに俺の三人だけになってしまう。確かにそれは面倒くさいというか、なんだか気が重い。何を話したらいいのかわからない。


「だからそんな顔すんなって。辞めねーと思うし、辞めるにしてもお前にも声かけるよ。それにさあ」


 池井くんは教室の中を見回してから、早口で言った。


「辞めたら鳳凰院さんと喋れるチャンスなんてなくなるじゃん。ってか、みんな鳳凰院さんがエイケンにいるって知らねえんだろうな。知ったら入ってくるヤツとかいそう」


 それは嫌だなと思った。


 肩を軽く叩かれた。時雨かと思ったけど、鵜飼くんだ。俺より少し背が高くて、痩せているというわけでもないわどひょろっとしている。天然パーマっぽい髪は長めで、坊主頭の池井くんと並ぶと雰囲気の違いが目立つ。


「おはよう、鵜飼くん」

「いちいち青春っぽいね、佐藤クン」


 鵜飼くんとはあまり話したことがないけど、皮肉っぽい喋り方をするから、少しだけ時雨に似ているような気がする。顔も時雨ほどじゃないけどイケメンだ。女子が「鵜飼は髪切ったらアリでしょ」と言ってるのを聞いたこともある。


「野田の悪口言ってたでしょ? アイツいなきゃ楽しい部活だと思うけどね。三年と一緒に辞めてくんないかな。ぶっちゃけ部長とかもそう思ってんじゃないか?」


 なんで俺が悪口を言われたような気分になったんだろう。池井くんは「それな」と言って笑っている。

 俺だって野田先輩のことは好きじゃないけど、それなとは思わなかった。

 池井くんが鵜飼くんのことを肘でつつく。


「青春くんの前でそういうこと言うなよ。ショック受けちゃってんじゃん」

「えー、佐藤クン、そこまでいい子ちゃんタイプ? じゃあなんかゴメンね? って、なんで俺謝ってんだろ」


 …………。


 俺はショックを受けてるのか? なんで? よくわからなくて、でも鵜飼くんが俺を邪魔だと思っているような気がして、二人から離れて自分の席に座った。そうしたって教室の中なんだから、二人の話し声は聞こえてくる。


「お前、佐藤いじるのやめとけよ。かわいそうじゃん。篠田が何か言ってくるかもしんねえしさ」

「青春相手の篠田クンね。アイツも謎だよな。高校デビューったって、もっと上のヤツとつるんでもいいだろ。やっぱ低身長コンプレックス的な? せっかくあの顔なのにカワイソー」


 胃がしくしくする。久しぶりの感覚だ。中学の頃、悪口を言われるたびに痛くなった。

 あの時に比べれば全然たいしたことを言われていないのに、なんだろう。むかむかする。鵜飼くんの声を聞きたくない。ガラスをひっかくようなBGMが聞こえた。


 ・やめろよ。

 ・野田先輩よりも、お前が辞めればいいのに。

 ・コンプレックスを持ってるのはお前なんじゃないか?


「やめろよ」


 出た声はとても小さかった。誰にも聞こえない。


「聞こえてんだよ」


 ――え?


 後ろからあいつの声がした。

 教室の、後ろのほうの入り口から時雨が入ってきて、鵜飼くんに軽くタックルをしていた。背の高い鵜飼くんはよろけもせずに、「おはよ」と言った。時雨は「おう」と答えている。


「鵜飼さあ、悪口はもっと小さい声で言えよ。お前は僕と違ってでかいから、スピーカー性能高いんだよ」

「悪口のつもりじゃなかったから」


 しれっとそんなことを言っている。池井くんは気まずそうだけど、時雨は鵜飼くんのように普通の顔をしていた。怒ったりはしていない。


「あいつぜってー低身長コンプあるわよねー、を悪口と思ってないならやべーよ」

「そこまで言ってない。あるのかしら、くらいだ。どっちかってと褒めてたし」

「お前の褒め言葉のセンスやべーな。あ、その顔、マジで悪口のつもりなかったのかよ。凶悪なやつだなー。池井、こいつとつるむのやめたら? 僕たちと青春トリオ組まない?」

「組もーかな」

「裏切りの池井殺人事件」


 「殺すなよ」と「殺した」がハモッて、池井くんと時雨は笑った。鵜飼くんも少し笑っている。


 笑いを残しながら時雨はこっちに来た。


「よう、青春の片割れ。連休どっか行った?」

「い――行ってない。時雨はどっか行った?」

「じいちゃんち行って、すげえ蚊にさされた。なんかめちゃくちゃキュウリ食わされて、息が青臭い気がするんだよな。臭くない?」

「臭くないよ」


 あの嫌なBGMはいつの間にか止まっていた。

 時雨は首をかしげた。


「なに変な顔してんの? 久しぶりだから僕の顔忘れちゃった?」

「青春クンだから」


 隣の席の女子――名前が思い出せない、ショートカットの子が、笑いながら話に入ってきた。


「鵜飼が毒舌吐くから、青春クンはビビッちゃったんだよ」

「あいつの毒舌なんていつものことじゃん。連休明けで久しぶりに聞いたから?」

「久しぶり久しぶりって、王子っぽくなーい。ウケる」

「そのあだ名もまあまあ毒舌っぽいから! 僕じゃなけりゃいじめだよ。石黒先生も言ってただろ」


 時雨と女子のやり取りを、俺はぽかんと口を開けて眺めていた。


 さっき出た俺の三択。どれも大きな声で言えば、きっと鵜飼くんを怒らせただろう。池井くんも困ったはずだ。時雨だって。たぶんこのショートカットの女の子も。


 俺は――本当に何もわかってないんだ。そんなことわかっていたけど、もっとずっと、わかっていなかったんだな。




 四月と五月に、俺の衝撃的だった思い出は集中している。


 このあとは梅雨に入って明けるくらいまで、さほど大きな事件は起こらなかった。細かい驚きや反省を挟みながら、時雨や池井くん、鵜飼くんとしゃべって、放課後は映画を見て、けっこう、いや、かなり楽しく過ごしていた。鵜飼くんのことはやっぱり苦手だったけど、胃が痛むほどじゃなかった。


 鳳凰院さんとの進展はなかった。同じ部活だからもちろん話すことくらいはあったけど、たいした内容じゃない。ピロリンは一度も鳴らなかった。

 エイケンの先輩たちとも、何か聞かれたら簡単に答える、という以上の会話はできなかったけど、それでも楽しかった。


 裏庭には行かなかったし、行きたいと思ったこともなかった。


 確か七月――そう、期末テストが始まる直前だったから、七月の頭だ。

 その日、それは起きた。


 ――捕まったって。見たんだって。

 ――二年の。知ってる?

 ――なんかオタクの人だって。


 朝からなんとなく、嫌な感じの空気が流れていた。途切れ途切れに聞こえてくる単語も、禍々しい(映画を見ていたら色んな言葉を知った)雰囲気のものだった。


「ヤバい」


 昼休み、教室に戻ってきた鵜飼くんが、俺の横の席に座りながらそう言った。

 俺と池井くんの机を寄せて、時雨と鵜飼くんが椅子を持ってきて、四人で弁当を食うようになっていた。五月からか、六月からか、いつの間にかだ。時雨はあんまり食堂に行かなくなり、弁当をみんなに見られても気にしなくなった。


 鵜飼くんは今日、昼休みに入ってすぐ、ここに椅子だけ持ってきて教室を出て行った。十五分くらい前。


 俺たちはだいたい弁当を食べ終わっていて、鵜飼くんのパンは机に置かれたままだ。それを手に取る様子はまだない。

 池井くんは箸を置いた。俺もそうする。時雨はカマボコを食べていた。こいつはエイケンじゃないから。


 鵜飼くんは珍しく、小さな声で言った。周りに聞こえないように。


「野田先輩なんだって。二年が言ってた」

「マジ? マジ? マジ? え、うちの野田先輩?」


 早口で池田くんが聞いた。興奮しているようだ。時雨が顔をしかめた。


「野田なんて名前、何人もいるんじゃないの? あんま先走るなよ。人の名誉のことだぞ」

「二年のやつに確認したんだよ。二年一組の野田正臣が警察行ったって」

「マジかよ。マジかよ」


 池田くんは何度も鵜飼くんに確認した。鵜飼くんは「だからそうだって」と早口で言う。


「一年の――何組かは知らないけど、女子、襲ったんだって。未遂らしいけど、捕まったって」


 しんとした。四人とも。

 時雨も弁当を食べるのをやめて、頭の位置を低くした。


「それさ、補導くらいの話が大きくなってんじゃないの? 本当に逮捕?」

「わからないけど、今日は学校に来てない。補導されるタイプの人じゃないし」

「でも逮捕はされるタイプの人なのか? 落ち着けよ。噂の中でも、いちばん、ほんと、名誉を棄損するタイプの話じゃん。確実じゃないことを言うなよ」


 時雨のゆっくりとした言い方に、毒舌キャラの鵜飼くんも、何も言わずにうつむいた。

 池井くんは落ち着きなく足をガタガタさせている。貧乏ゆすりみたいな。


 俺は弁当の中のコロッケを見ていた。野田先輩が逮捕? 一年の女子を襲った? 襲ったって、どういう意味で? もしかしてナイフとか、それとも。


 ――レイプってこと!?


 男子の大きい声。廊下から聞こえた。教室のみんながざわざわとする。


 ――うそ、この学校のやつ?

 ――やられちゃったの?

 ――誰? どのクラス? かわいい子? 


 鵜飼くんはのろのろとパンを手に取って袋を破った。野田先輩のことを嫌っている鵜飼くん。パンを食べようとして、また机に戻した。


「食う気にならない」

「俺も、もういいわ」


 そう言って池井くんが食べかけの弁当にフタをした。顔が真っ青だ。

 時雨は卵焼きを食べている。俺は、コロッケを箸で持ち上げようとしたけど、うまくいかなくて床に落とした。拾わなきゃ。でも動くのが面倒くさいな。

 時雨がさっと拾って、ゴミ箱へ投げてくれた。


「お前ら、その野田って人と仲よかったの?」


 鵜飼くんが首を横に振る。池井くんも同じ。俺は首を動かすのも面倒くさくて、「そこまでじゃ」と答えた。でも、エイケンの先輩たちの中でいちばん多く話したよ。野田先輩はどんな映画にも必ず感想を述べたから。過去形? 死んだわけでもないのに。


「人が死んだとかじゃ――ないんだろ」


 時雨もそう言った。

 鵜飼くんが「そのほうがマシくね?」と言って、池井くんがぎょっとした顔をした。


「マシって? マシって何? 何言ってんだよ、鵜飼」

「だって、バケモンじゃん。女襲うとか。ケダモノ。意味不明。人の言葉とか喋る権利なし」


 時雨もびっくりしたようで、意外そうに鵜飼くんを見ている。


「鵜飼、フェミニストだったっけ? 知らなかった」

「好きな女がそうされてんの考えたら、気狂いそうじゃん」


 池井くんも時雨も、もちろん俺も充分驚いていたけど、さらに衝撃を感じた。鵜飼くんがこんなことを言うなんて。


「お前、好きな女いたの……」


 池井くんがおそるおそるというように聞いた。鵜飼くんが女子の話をしているのは聞いたことがない。モテそうに見えるけど、時雨みたいに興味がないんだと思ってた。


 俺は鳳凰院さんのことを考えた。あの子が野田先輩にのしかかられて、地面に倒される。それで、悲鳴をあげようとして口を手でふさがれる。映画でそういうシーンを見た。画面の中の女の人は泣いていた。鳳凰院さんがそんな顔をするとしたら。


 え? 襲われたのは一年の女子って。


 俺が見たそこ、窓際の席に鳳凰院さんは座っていた。高畑さんと二人で何か話している。表情は少し暗いけど、でもそこにいた。


「またいろいろ言われるな。鳳凰院チャン」


 鵜飼くんが俺の視線を追ったみたいに彼女を見る。


「野田がエイケンなのはすぐわかるだろうし、エイケンに一年の女子は一人しかいない。あのコ、もともと有名だし」


 池井くんはつばを飲んで、「で、でもさ」とかすれた声で言った。


「違うだろ? 襲われたの、鳳凰院さんじゃないだろ。フツーに来てるし、ほら」

「噂なんて適当に作られるんだよ。本当のことを気にするやつばっかじゃない。雰囲気で物を判断するやつもたくさんいる」


 どこかで聞いたような言葉だ。


「鵜飼くん、それって」

「そうじゃないトコは嫌いじゃなかったのに。理性的な人だと思ってた。死ね!」

「鵜飼」


 パンの袋をがさがさといじっている鵜飼くんに、時雨が声をかけた。


「お前も今、たいがい雰囲気で判断してると思うよ。その人のこと、僕は顔も知らないけどさ。お前がそんなふうに言う人なら、事情とかあるんじゃないのか? もし噂が本当だとしても」

「女を襲うどんな事情だよ」

「だから、本当かどうかもわからないだろ。お前ならエコーチェンバーとか知ってるだろ」

「ネット用語。こういう時には使わない」

「でも言いたいことはわかるだろ。つまんない揚げ足取るくらい動揺してるんだな。ちょっと頭冷やせよ。廊下行こう」


 時雨が立ってうながすと、鵜飼くんも立ち上がった。二人で教室を出ていく。俺もあんなふうにしてもらったことがあるな。そのことを思い出した。


 池井くんは机に突っ伏した。


「あー、つら。知ってる人がこんなんになるの初めてだわ。なんかさ、顔見知りの話じゃなければ、俺も面白がる側にいただろうなって思うのも嫌」


 俺は顔見知りの話じゃなかったとしても、面白くは感じないと思う。

 野田先輩のことはショックだ。でも今、もっと別のことにショックを受けていて、そのことにまたショックを受けている。なんだこれ? 何重の気持ちなんだ。


 四人で弁当を食べるようになっても、鵜飼くんのことは苦手だった。あの毒舌が、池井くんや時雨はあまり気にならないようだったけど、二人だってたまに嫌そうにすることはあった。


 でも、時雨は鵜飼くんを気遣って出て行った。俺と池井くんは残された。

 そんな場合じゃないのに、そんなことが気になる自分のことを、ゴミっぽいなと思った。




 月曜、水曜、金曜がエイケンの活動日だ。今日は金曜。テスト前だから本当は部活も休止期間なんだけど、「顧問も来ない部だし、まじめ君以外は来てよ」と春日井部長が言っていたから、だいたいみんな集まることになっていた。来ないと言った「まじめ君」は矢内先輩と、一ノ瀬先輩と、――野田先輩。


 鵜飼くんはまじめ君ではないけど今日は帰った。池井くんと俺が来た時、視聴覚室には、まじめ君と鵜飼くん以外の四人がみんな揃っていた。


 春日井部長も、戸丸先輩も、柴村先輩も、鳳凰院さんも、誰もしゃべっていなかった。

 俺と池井くんが適当な席につくと、春日井部長が立とうとしたけど、それを手で制して戸丸先輩が代わりのように立った。そして言った。


「連絡網、やっぱり作ろうな。こういう時のためにもさ。中止って言いに行くのも目立つだろうと思って」


 エイケンは特に連絡を取り合うような用事もないから、それぞれの連絡先を知らない。個人的に交換したりはしているんだろうけど、部全体の連絡網というのはなかった。

 みんな何も言わない。戸丸先輩は俺と池井くんを順番に見た。鳳凰院さんのこともちらっと。


「鵜飼は?」

「帰りました。体調悪いって」


 池井くんの返事に、戸丸先輩は何も言わなかった。


「俺だって帰りたかったけどさ?」


 メガネを人差し指で持ち上げる、いつもの癖をやりながら、柴村先輩が言う。ニキビの目立つ顔に汗をかいていた。


「どうなの? 実際? 野田の話って本当なの?」

「何も言えない」


 戸丸先輩は体格に似合った、しっかりとした声で言った。


「俺たちだって何も知らないから。きみたちも噂に流されないでほしい。聞いている噂もそれぞれ違うかもしれない」

「あいつ乱暴したって? 女子にさ?」


 柴村先輩の怒ったような声に、春日井部長がぎゅっと目をつぶった。鳳凰院さんが下唇を噛む。


「柴村!」


 戸丸先輩の怒鳴り声を初めて聞いた。柴村先輩もびびったようだったが、怒鳴り返した。


「みんな知ってる! お前んとこの二年だろって言われたよ! にやにやしながらさ!? スケベな映画とか見てんのかよって!?」

「ひどい」


 春日井部長の目から涙がこぼれた。柴村先輩はしぼむように下を向いた。

 池井くんも下を向いていた。俺は春日井部長がぽろぽろと涙を流す姿を見ている。いつも明るい、運動部みたいなポニーテールの春日井部長。高畑さんの泣き顔を思い出した。女の子はみんな目の下を赤くして泣くんだな。


「私は」


 澄んだきれいな声。鳳凰院さんは泣いていなかった。戸丸先輩を見ている。


「野田先輩がそんなことをする人だと思えません。野田先輩の映画の見方って、とても優しいでしょう。描かれない子供のことを考えて怒る人なんですよ。いい加減な噂なんて、信じられません」


 この子はここに来ると、教室にいるときとは話し方が変わる。上級生がいるからじゃなくて、たぶん、今この話し方のほうが自然なんだろう。教室にいるときは、普通っぽい喋り方をするようにしているんじゃないか。なるべく浮かないように。どうしても浮いてしまうけれど。


「あたしも――あたしもそう思うけど」


 泣きながら春日井部長が言う。


「でも、もし本当だったら。被害者の女の子がいるとしたら。何も知らないあたしたちが野田を庇うのって、すごく――すごくさ、悪いことでしょう。すごく嫌だよ。あたしだったら」

「ごめんなさい」


 鳳凰院さんの長いまつ毛が下を向く。ハムスターのような目の下がやっぱり赤くなっていて、涙は出ていないけど、鳳凰院さん、そんな顔をしないでくれ。春日井部長も。


 戸丸先輩がゆっくりと言った。


「この集まりは倫理的じゃない。帰ろう。みんな、来週はテストに集中してください。テスト休みのあいだも活動を休止する。休みが明けたら、また集まろう。池井、佐藤」


 名前を呼ばれて、池井くんも俺も顔を上げた。


「鵜飼をケアしてやってくれないか。俺は連絡先も知らないから」

「はい」


 池井くんの目の下も赤くなっている。

 俺の目の下は赤くないんだろう。それを知られたくなくて、俺はうなずくふりをして下を向いた。




 テストには集中できた。他のことをあまり考えたくなかったから。

 鵜飼くんもちゃんとテストを受けていて、話すことは思いつかなかったけど、あいさつだけはした。おうと答えた鵜飼くんはクールな雰囲気に戻っていた。


 全教科のテストが終わった金曜日の放課後、校門を出たあたりで池井くんが声をかけてきた。


「佐藤、セブン通るだろ? アイス食って帰んねえ?」


 途中まで一緒に帰ろうと誘ってくれているんだ。話をしたいということだろう。

 財布の中にいくら入ってたかな。アイスくらいは買えると思うけど、もし足りなかったら恥ずかしい。


「ごめん」

「え、あ、そっか。うん」

「違う。アイスは食べないけど行くよ。俺、虫歯あるから」

「そうなの? わかった」


 三分ほど歩いたコンビニの駐車場で立ち止まって、池井くんは話しはじめた。


「佐藤さ、鵜飼と話した? 聞いた?」

「何を?」

「鵜飼、エイケンやめるって。次どこ入るとかは決めてないみたいだけど、やめたいんだって」


 そうなんだろうなという気はしていた。だから、そうなんだと言った。


「まあ、そうだろうなって感じだよな。野田先輩がホントはやってないとしてもさ。俺、なんか妙につらくてさ。野田先輩と別に仲良くもなかったのに。なんでかって考えてたんだけど、鵜飼がすげえショック受けてたじゃん。俺、あれがショーゲキだったんだよね。お前みたいなやつがそんなにダメージ受けるのかよみたいな。わかる?」


 俺だけじゃなかったんだ。俺が変なんじゃなくて、池井くんも同じことを考えていたんだ。


「わかるよ。俺もそう思った」

「マジ? マジで? だって、そうだよな。あんなドライな感じのやつなのに、顔青くして怒ってさ。俺なんて噂聞いたとき、一瞬だけど、面白いとか思っちゃったから、あ、これナイショにしてな?」

「うん」

「なんつうかさあ」


 池井くんの坊主頭に汗がたくさん流れている。


「オトナって感じじゃん。鵜飼とか篠田とか、戸丸先輩とかさ。同じ学校なんだからアタマのできはあんま変わんないはずなのに、俺だけすげーガキみてえ」


 ・俺も同じこと思ってた。

 ・アイス買わなくていいの?

 ・鵜飼くんと時雨、これからは二人でつるむのかな。


「アイス買わなくていいの?」

「食いてえ! けどいいや。あーあ。鵜飼と篠田だけでつるむようになったら、俺たちすげえダサくね? どう見ても余りもんじゃん」

「ダサいね。イケてるペアとイケてないペア」

「マジそうな。お前、ちょっと篠田っぽくなってきた? 四月はあんな大青春してたのに、クールじゃんか」


 もし時雨が離れて行ったらさみしいだろうけど、四月のあの日、背中を向けられた時のような気持ちにはならない気がする。

 それに池井くん、俺はきみと帰り道に話せて嬉しいよ。余りもの同士で、あいつらほどイケてなくても。きみは知らないだろうけど、俺の最初の友達は、時雨ではなくてきみなんだ。


「池井くん、夏休みはどっか行くの?」

「行かねーと思う。夏休みの間とか、エイケンの活動ってどうなんのかな? 野田先輩のこと置いといてもさ、部員めっちゃ少なくなるし、部がなくなったりすんのかなあ?」


 そうならないといいと思う。だけど。


「そうなったら、池井くんちに映画見に行ってもいい?」

「いいよ! え、いいじゃん。てか、今日これから来る? 部屋きたねーけど」


 知ってる。きみの部屋は物がごちゃごちゃしていて、DVDのケースと中身が違うんだ。あのSF映画のディスクは、エッチなパッケージのケースに入っているんだよ。


「行きたい!」

「行こうぜ!」


 坊主頭にきらきら光る汗も、なんだか青春っぽいと思った。




 テスト休みが明けた水曜日、野田先輩は普通に視聴覚室に来ていた。


 いや、普通ではなかった。神経質そうな白いおでこに青筋が浮いている。隣には戸丸先輩が座っていて、チョコかアメみたいなお菓子の袋を持っていた。「まあ食べろよ」と野田先輩に勧めている。視聴覚室は飲食禁止だと言っていたのは戸丸先輩なのに。

 その逆隣には柴村先輩が座っていて、やっぱり野田先輩にいっしょうけんめい話しかけていた。


「俺たちは信じてたし? 最初からさ? 噂なんてバカが流してただけで、ホントな」


 野田先輩は答えずにお菓子をもりもり食べている。包装の小袋は戸丸先輩が回収していた。

 ドアが開いて、入ってきたのは一ノ瀬先輩だった。テスト前には来なかったまじめ君。野田先輩を見て「おっす」とまじめ君っぽくない声をかけた。


「お疲れちゃん。無実だったんだって? 疑ってめーんご」

「信じてなかったやつがいるじゃないですか! しかも反省してない!」


 野田先輩の叫びに、部員たちはみんなで頭を下げた。一ノ瀬先輩も下げた。

 俺も下げる。みんなに合わせたわけじゃなくて、心から。


 代表して春日井部長が言った。


「一ミリでも疑って申し訳ありませんでした。お許しください」


 上級生、しかも部長がていねいに謝っているのに、野田先輩は高圧的に怒鳴った。


「弁護してくれた人は!?」


 戸丸先輩がまあまあと肩を叩く。


「映画研究部は中立を心がけるのが旨で」

「ゼロなんですか!?」

「鳳凰院さんが」


 小柄な矢内先輩が小さな声で言ったのを、野田先輩は聞き逃さなかった。


「鳳凰院さんが弁護してくれたんですか?」


 きょろきょろと見回しているが、鳳凰院さんはまだ来ていない。あと、鵜飼くんも。それ以外は全員が揃っていた。

 鵜飼くんはこのまま辞めてしまうんだろうか。本当のことがわかったのに。


 野田先輩は、休んだ日に警察署に行っていたのは本当だった。女子が襲われたという事件に関わっていたのも。でも被害者の女子は他校の生徒だったし、襲った男子もその学校の生徒だった。


 野田先輩はその現場に通りがかって、女子を助けたんだそうだ。


 夏休み中に警察から表彰状をもらうということで、今日は臨時の全校集会が開かれて、校長先生がそのことをとても褒めていた。


 柴村先輩がメガネを人差し指で持ち上げながら、みんなの顔をそろそろとうかがって言った。


「胴上げ……する?」

「優勝してません! それに、こんなモヤシばっかりの文化部で、そんな危ないことやめてくださいよ!」

「ノダっち、今日ツッコミのキレすげくね?」


 すげくさせている一員の一ノ瀬先輩に、「すげくさせているのはあんたたちですよ!」 やっぱり。


「クラスのバカどもには呆れたけど、先輩たちは信じてくれてると思ったのに!」

「信じてなかったわけじゃないんだ野田。ほら、チョコを食え。もっと食え。甘いぞお」

「失望しましたよ僕は! けっこう、けっこういい部だと思ってたのに。このチョコ甘すぎますよ! そんなに食えません! こんなもん食ってるから戸丸先輩は太るんですよ!」


 池井くんがそっと俺の隣に来た。野田先輩の暴れん坊将軍ぶりを見ながらつぶやいている。


「野田先輩には悪いけど、マジ、ホント、よかったよな」


 ・疑って悪かったよな。

 ・胴上げしようぜ!

 ・本当によかった。本当によかったよ。


「胴上げしようぜ!」

「マジ? お前、したことあんの?」

「みんなで持ち上げるんだろ? 野田先輩は痩せてるし、できるんじゃないの?」

「バカ一年んん!」


 暴れん坊将軍が俺たちに刃を向けてきた。


「胴上げっていうのは、絶対に素人がやっちゃいけないんだよ! 受けきれなくて落として、頸椎損傷みたいな深刻な事故が起きるんだ。絶対、絶対やるんじゃない」


 もはや呪いの般若みたいな顔でそう言って、般若のままキョロキョロとまた室内を見回した。


「シュッとした一年ペアはどうした?」

「イモい一年ペアしか来てなくてすんません。鳳凰院さんは先生から呼び出しあって、ちょっと遅れるって言ってました。鵜飼は、体調悪そうだったから帰った、かも」


 ここに来る前、池井くんは鵜飼くんと廊下で何かしゃべっていた。帰ってしまったんだろうか。池井くんが何も言わなかったから、俺も聞かなかった。

 鵜飼くんが辞めたらもっと楽しい部になるかも、なんて思ったこともあるけど、今はそうは思わない。背が高くて口の悪い鵜飼くんは威圧感があって、やっぱり俺は苦手だなと感じるけど、彼がいないと池井くんは元気のない感じになる。


 春日井部長が両手を合わせて池井くんを拝むようにした。


「鵜飼くんの連絡先、教えてくれない? 個人情報なのわかってるけどさ、今のうちに話したいんだ。夏休み終わったら、あたしたちすぐ引退じゃない。夏休みは予備校のコマ増やしちゃったから、時間取れなくなると思うし」


 池井くんはどうしようかと考えているようだったけど、野田先輩が切りつけるように入ってきた。


「はあ? 鵜飼がヘソ曲げてるんですか? それ、僕の噂を信じてってことですか? はあ? あんな賢ぶっといて、意外にバカだったんですね。くだらない! いいでしょ、そんなやつ。ほっときましょうよ」

「や、野田先輩、あいつ、そうなんすけど。それは謝らせたいんですけど」

「はっ。やっぱり信じたんだ。くだらないね。謝っていただかなくてけっこう。どうせもともと、こんなオタク部が嫌だとか思ってたんじゃないの? 自分がそれっぽく見えないことにプライド持ってそうだし。単に辞める口実だろ」


 池井くんは野田先輩の怒りに火を注ぐみたいになってしまった。

 それに、野田先輩の言っていることは正しいのかもしれない。鵜飼くんは噂を信じて野田先輩の悪口を言っていたし、こんなオタク部は嫌だったのかもしれない。


 視聴覚室は静かになって、BGMも聞こえない。テロップもない。選択肢も出なかった。

 でも俺は言った。


「あいつは先輩のことを信じてたから、すごくショック受けたんだと思います」


 嘘を言っていると自分で思う。鵜飼くんは信じていなかった。でも、そうかな。嘘だとは言いきれないんじゃないか。


 池井くんも春日井部長も一ノ瀬先輩も、みんなが俺を見た。戸丸先輩だけは野田先輩を見ている。

 みんな、俺の言った内容というよりも、俺が口出しをしたこと自体に驚いているような気がする。俺も変だなと思う。それに、鵜飼くんは嫌がるだろうなと思った。青春クンの勘違い。本人のいないところで勝手に青春劇場。


 野田先輩は俺を睨んだけど、胴上げをするなと言った時ほど怖い顔じゃなかった。


「矛盾してない? ショックとか受けたとしても、それは僕のことを信じてなかったからだろ。だいたい、一年と僕に、信用を得る得られるの関係なんてなかったろ。何カ月も付き合ってないのに。そもそも、ショックって何? なんで何も関係ないやつが被害者ヅラしてんの?」

「あいつフェミッ気あったから……」


 矢内先輩が聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で言った。


「だから身近でそういう話が出て、ガーンって感じだったんじゃない? 女がそういう目に遭う映画だと、ちょいシーンでもすごい嫌そうにしてたじゃん。野田を疑ってたとかってより、そういうあれなのかも」

「ええ? あいつもフェミだったんですか?」

「野田、言い方。それは略すと蔑称になる言葉だ」


 戸丸先輩が厳しく言うと、野田先輩は素直に「すみません」と謝った。


 フェミ。フェミニストのことだろう。時雨も言っていたから調べたんだ。鵜飼くんがそういう人だとは、俺もまったく気がつかなかった。でも矢内先輩はそうだと思っていたんだ。


 なぜか野田先輩は急にけろっとしたような様子になって、甘すぎると言っていたチョコの包装を剥いている。


「へえ、へーえ。なんだ、そうだったの? でも言われてみれば納得かも。線細い感じだし。あ、線は関係ないか。戸丸先輩は細くないしね」

「野田あ、同性でもセクハラだよ! 異性からセクハラしてやろうか?」


 春日井部長が野田先輩をくすぐる真似をしている。


 俺は、四月よりは赤ちゃんじゃなくなったと思うけど、まだまだ人の心の動きみたいなのはわからない。なんで野田先輩は急に普通になったんだろう。あ、BGMが流れた。エイケンに来るといつも聞こえるような気がしていた、地味だけどゆっくりとした気持ちのいい曲だ。


 一ノ瀬先輩と矢内先輩が新作映画を見に行くという話をしている。柴村先輩はチョコを食べていた。春日井部長と戸丸先輩は野田先輩を囲んで、小さな声で何か話しあっている。

 池井くんはスマホを操作していた。画面が見えそうになったから、悪いなと思って横を向くと、これ見てよと逆に呼ばれた。水着の女の子の写真が映っている。


「昨日CMで見たコなんだけどさ、鳳凰院さんに似てね? 知ってるコに似てる女の水着って、よけいエロいっていうか、へへ」


 鵜飼くんに連絡を取っているのかと思ったのに。

 結局、どういうことになったんだろう? 鵜飼くんは辞めるんだろうか。俺だけがわかってないみたいだ。


「鵜飼くん、戻ってこないの?」

「わかんねえ。何日かじゅうには決めるだろ。結局あいつが決めることだし、どうせクラスは同じなんだし、いいんじゃね。俺たちがそこまでつつくことじゃねえよ」


 きのう池井くんは自分をガキだと言っていたけど、よちよち歩きの俺なんかよりはずっと大人だ。


「そういえば鳳凰院さん遅くね? あのコでも先生に怒られたりすんのかな。それかトイレでも長引いてんのかな? 生理とか?」


 生理って。


「池井くん、そういうのモテないと思うよ」

「青春先生でもモテたいと思ってんの?」


 いつの間にか教職に就いている。

 俺はなんとなく、自分のことを恋愛ゲームの主人公だと思っていたけど、それにしては女子とのイベントが全然起きない。知り合いと言えるのなんて、鳳凰院さんと春日井部長くらいだ。男子が相手でも三択が出るし、そのわりに好感度が上がったり下がったりする頻度は低い。


 それはきっと、人の心がどう動いているのか、俺にはまだわからないからだ。もっと人の心がわかるようになったら、今上がったなとか下がったなとか、感じられるようになるんだろう。俺の判断が鳴らす妄想なんだから。


 今は具体的に考えることなんてできないけど、いつかそうなったら。


「モテたい。女子と付き合ってみたい」

「うえーい!」


 エイケンらしくない掛け声をあげながら池井くんは肩を組んできた。ちょっと汗くさい。こんなに人と密着したのは初めてかもしれない。


「なんだよ、フツーじゃんか! いやけっこうさあ、篠田とベッタリだから、そういうやつなのかもと思ったりしてて。うち来たいって言われたのもちょびっとだけビビッたりして。なんだ! よかったわ!」


 たぶんそれは大きい声で言わないほうがいいんじゃないか? フェミニスト、じゃなくて、ポリティカル、なんだっけ。最近知った言葉。


「池井くん、ホント、そういうのはモテないらしいよ。だから俺たち、シュッとしてないほうの一年なんだよ」

「好きなコっていんの? やっぱ鳳凰院さん?」


 それって言っていいのかな。池井くんも鳳凰院さんのことを好きだと思う。ライバルになってしまうんじゃないか。


 迷っていたら、池井くんはイエスと受け取ったらしい。


「わっかるけどさあ、あのコは実際ムリじゃん。アイドルみたいなもん? 俺たちとは釣り合わなさすぎ。見た目もそうだし、映画の感想とかも大人っぽいし、俺たちのことなんて見えてもねえ気がしねえ? 言っててへこむけどさ」


 わかるけど、俺はへこみはしない。あの子と釣り合わないし、見られてもいないなんて当たり前のことだから。


「かわいい女子から売れてくじゃん? 番場さんも高梨さんも売れちゃってさ、鳳凰院さんもどうせそのうちだろ」

「やめなってば」


 彼氏ができた女子のことを、売れたと言ってる。こういうのが女子から好かれないことは俺にもわかる。


「いい子ちゃんなのは変わんねえのな。なあ、なあ、篠田って童貞なの? それとも済み?」

「それは俺も気になってたんだけど、わかんない」

「鵜飼はぜってー済みだと思ってたんだけどさあ、フェミ? そういうヤツなら、童貞ってことだよな?」


 声がでかいんだよと思っていたが、やっぱり他の人にも聞こえていたようで、戸丸先輩がのっしのっしとこっちに来た。笑顔なのがかえって怖い。


「池井よ、きみの認識には偏りがあるな。もっと社会派の映画を見せるべきだったかな? これからいろんな作品を見て、見識を深めていきたまえ」


 笑顔のまま人差し指であごのヒゲを撫でた。


「ちなみに俺はフェミニストだけど童貞ではないよ」


 ぎゃーっと、池井くんと一ノ瀬先輩が叫んだ。矢内先輩と野田先輩は驚いたような様子はない。柴村先輩はズレたメガネを人差し指であげながら、ちらちらと春日井部長を気にしていた。


 春日井部長は聞こえないふりをしていた。でも目をぎゅっとつぶっている。この先輩の癖だ。うれしい時にも悲しい時にもそうする。だから柴村先輩はメガネの奥から観察してるんだなと思った。今はどっちなのかと気にして。


「なんで急にデリカシーないんですか。唐突ですよ」


 野田先輩がめんどくさそうな口調のわりに、責めるようなことを言った。戸丸先輩は穏やかな顔のまま、またあごヒゲをさする。


「間接的に偏見を受けたから、正した方がいいかなと思ったんだが」


 そういうことじゃないよなあと俺は思った。俺のようなガキでもわかることを、この大人みたいな先輩がわからないはずないと思うんだけど。


「戸丸さあ――」


 柴村先輩が何か言いかけたところで、ドアが開いたから、みんながそっちを見た。


 鳳凰院さん。すらりとした長身の女の子。遅れてすみませんと言いながら、茶色の髪を揺らして入ってくる。夏服だから胸がけっこう大きいのが目立つ。

 この子の前で、童貞とか、そういう話をしたいやつはいなかったんだろう。みんなそれぞれのグループに戻って、どうでもいい話なんかを始めた。


 鳳凰院さんは俺と池井くんのほうへ来て、にこっと笑った。本当にアイドルみたいな顔。さっきの写真の女の子よりもかわいい。


「ヒーローインタビューは終わっちゃったの?」


 池井くんはどうも照れている。目の前の子を、水着の女の子と重ねてるんじゃないだろうな。だから俺が答えた。


「野田先輩、すごかったよ。暴れん坊将軍だった」

「かっこよかったってこと?」


 この子は暴れん坊将軍が好きみたいだ。俺はテレビで何回か見たことがあるけど、内容はよく覚えてない。


「夏休みのこととか決まった? 文化部はだいたい休みなんだよね。集まったりはするの?」

「部長が予備校で忙しいみたいだから、たぶんないんじゃないかな」


 そっかと言いながら、鳳凰院さんは近くの席に座った。


「部長がいなくなったら、部員はみんな男の子だね。ちょっとさみしいな。女の子が入ってくれたらいいのに」


 映画だと、男ばかりの中に女子がひとりというのは、なにか楽しい長編が始まるような気がする。それこそ青春っぽい話が。

 でも実際は、さみしいだろうな。鳳凰院さんはいい子だし、絶対この部にいてほしいけど、でも正直なところ、この子がいるとみんながぎくしゃくするときもある。ちょうど今さっきみたいに。

 春日井部長は女子だけど、周りに気を使わせる人じゃない。大きな声で笑うし、冗談を言う。うれしい時と悲しい時に目をぎゅっとつぶる。柴村先輩はきっと彼女のそういうところが好きなんだろう。


 ・鳳凰院さん、夏休みはどっか行くの?

 ・春日井部長と戸丸先輩って付き合ってるのかな。

 ・きみは時雨のどういうところが好きなの?


「鳳凰院さん、夏休みはどっか行くの?」


 俺の世間話はまだ「どっか行った?」と「どっか行くの?」しかバリエーションがない。


「行くに決まってんだろ」


 なぜか池井くんが代わりに答えてきた。


「軽井沢とか、それか海外? わかんねーけどスイスとか? 別荘あるんでしょ。リゾートってやつ」

「たしかに別荘はあるけど――私、そんなこと話したことある?」


 あ、今、俺が言ってたとしたらデデドンが鳴ったと思う。池井くんの坊主頭に汗が浮いた。


「ごめん、なんとなくイメージで。お嬢様っていうとそういうもんだと思ってさ。優雅でステキっつうか」

「いつまでもお嬢様なんだね、私」


 苦笑い。大人っぽいやつの表情。でもこの子は顔がかわいらしいから、子供がすねたようにも見える。


「私ってそんなにキャラ弱いかな? あのね、私――高校デビューなんだけど」


 え。池井くんも俺も、どういうことなのかわからなくて顔を見合わせた。


「中学の頃は髪が黒くて、三つ編みにしてて、それがいかにもお嬢様っぽいとか言われてたの。だから茶色く染めて、このピアスも。映画は中学の頃から見てたのね。父が、そんなのは不良の見るものだからやめなさいって言うから、かえって見たくなっちゃって。学校もエスカレーターじゃないところに来てみたくて、でも浮いてるよね? ここでも気を使わせてるよね」


 そんなことないよとは言えなかった。俺も池井くんもバキバキの童貞だから。スッと優しいウソを言うなんてムリだ。鳳凰院香織さんはエイケンのみんなに気を使わせているし、学校でも浮いている。お昼を一緒に食べているのは高畑奈々絵さんだけだ。


「喋り方もときどき変になってると思うし、マクドナルドの注文のしかたも知らないの。いろんなことをきっと人よりもぜんぜん知らないのね。映画の世界しか知らなくて、つまらない人間なんだと思う」


 鳳凰院さん。鳳凰院香織さん。


 すごい苗字で、別荘を持っているようなお金持ちで、美人で、映画の感想をきっちりと言えて、人の感想を解説することまでできる。

 俺なんかとはレベルが百も二百も違う。別の世界の人だけれど。

 でも、この子は俺と同じことで悩んでいるんじゃないのか?


「い、行こうよ! マック。簡単だよ、すぐわかるよ。教えるし!」


 ああ、池井くんにセリフを取られた。しかも俺はマックには行けないんだ。注文のしかた、俺も知らないし。


「ありがとう」


 鳳凰院さんは微笑んだけど、首を横に振った。


「ごめんね。男の子と校外にいるところを見られると――」

「あ、お父さん? やっぱ厳しいんだな」

「ううん、学校の子が、あの、ううん」


 困ったようにうつむいてしまった。そうすると春よりも長くなった茶色の髪が顔に影を作る。

 いつの間にか、春日井部長が近くに来ていた。ポニーテールの女部長は、鳳凰院さんの隣に座ると、こつんと肩を当てた。


「どうせ、オタサーの姫とか言われてるんでしょ。あたしも言われてたよ。鳳凰院さんは美人だから、あたしなんかよりもキツイこと言われてるのかもしれないね」


 鳳凰院さんはゆっくりとまばたきをした。美人だと言われたからうなずきたくなくて、でも他の部分はイエスという返事。映画ならそういう意図のしぐさだと思う。矢内先輩がこういうのを読み取るのが得意で、感想会でみんなに説明してくれる。

 その矢内先輩もこっちに来て、椅子には座らなかったけど池井くんの隣に立った。


「たしかに映画研究部なんてオタサーだし、鳳凰院さんは姫っぽいけど、それが誰かに迷惑かけたのって感じだよね……」


 感想会でもそうでないときも、矢内先輩はいつも声が小さい。でも聞き取れなかったことはない。中学までは演劇部だったから、滑舌ちょっと自信ありと言っていた。鵜飼くんがフェミニストなのかもしれないと察していた、この学校で唯一かもしれない人。


「弟が一年だから、エイケンに入ってくれる女の子いないか聞いてもらってたけど……ごめん」

「ありがとう、矢内」


 そう言った春日井部長はぎゅっと目をつぶって、すぐ開いて、鳳凰院さんを見た。


「もしかして、秋にはやめようって考えてた? 女子がひとりになっちゃうから」


 鳳凰院さんは小さな声で、「はい」と答えた。


 そうだったのか。

 前に池井くんたちもそんなことを言っていたことがあるけど、鳳凰院さんもそうだったら、エイケンは実質もう終了だ。残るのは野田先輩と俺だけ。そんなの部活じゃない。野田先輩のことは、そりゃ前よりも苦手じゃなくなったけど。


 春日井部長はその野田先輩を呼んだ。


「野田! 二年の女子、頑張れない? 無茶ぶりなのわかってるんだけど!」

「僕にそれを頼むんですか」


 野田先輩がむずかしい顔をしながらこっちに来た。戸丸先輩も、柴村先輩も、一ノ瀬先輩もぞろぞろと来る。


 エイケンの――鵜飼くんを除く――全員が、ぐるっと輪みたいに鳳凰院さんを囲んだ。


「ノダっち、期間限定でヒーローだからいけんじゃね? ボーナスタイム入るっしょ」

「適当なこと言わないでくださいよ。女子っていうのがそもそも難易度高いし、二年の夏からわざわざ入部したい人なんていなくないですか? 男子ならギリギリ、鳳凰院さん目当てのヤツとかいるかもしれませんけど」

「それだとオタサーが加速するだけだろ……」

「わかってますよ矢内先輩。だから難しいと言ってるんです。こんなバキバキの童貞オタクつかまえて、女子を勧誘しろなんて、本当に無茶ぶりですよ」


 この神経質そうな先輩でも、童貞とか言うんだな。


 池井くんがそろそろと挙手した。


「野田先輩はバキバキじゃないっすよ。コキコキくらい。ワンチャン、もう違うって言われてもあんまり驚きません」

「あ、本当?」


 小さくガッツポーズをしている。俺は本当に、次の部長になるこの先輩のことが、もうそんなに苦手じゃないなと思った。


 ・鳳凰院さん、辞めないでくれ。

 ・野田先輩、みんながいなくなっても俺は来ます。

 ・俺も勧誘に協力します。


「俺も勧誘に協力します!」

「グッド! 佐藤孝太郎! 心意気やよし!」


 春日井部長が両手で机を叩いて褒めてくれた。


「そう、一年の女子が入ってくれるに越したことはないんだよ! 最初は賑やかしでも冷やかしでもなんでもいいからさ、誰かいない? 本人いないから言っちゃうけど、鵜飼くんのファンみたいな子とかさ」


 池井くんが困ったように俺を見る。俺も困った。鵜飼くんのファン? 「髪切ったらアリ」と言っていたあの子とか? あれはどっちかというと悪口のような気もする。

 無理でしょと矢内先輩が言った。


「そういうの入ってきたら鵜飼が辞めるだろうし、鵜飼が辞めたらそういうのも辞めるし、焼け野原でしょ……」

「そもそも鵜飼自身が残るかどうかわかんない状態だろ? アテにできないって」


 矢内先輩と柴村先輩の言うことは正しいと思う。鵜飼くん周りからどうこうというのはムリだ。

 少し作戦会議みたいなことが続いたけど、結局、「みんな頑張ってみる」ということしか決まらなかった。




 上映会はなしということになったから、早めの解散になって、廊下には他の部が終わった生徒がたくさんいた。映画を見て感想を言い合う日の部活終わりは、ほとんどの生徒がもう帰っている。


 下駄箱のところに時雨がいたから、声をかけようとしたけど、武田くんと話している。しばらく待ってたら終わるかな。


 隠れたりするのはダサいと思って、わざとゆっくり上履きから靴に履き替えていると、「佐藤じゃん」と武田くんの方が声をかけてきた。


「お疲れい。佐藤って何部なん?」

「え、映画研究部」


 もしかして野田先輩のことを聞きたいのかな、どういう風に答えようと考えたけど、武田くんはあんまり興味なさそうだった。


「映画かー。マンケンとかよりはオタク臭くない感じ? どういう系のやつ多いん?」


 マンケンは漫画研究部。それと比べて、うーん。柴村先輩と矢内先輩は、正直、見た目も性格もオタクっぽいと思う。春日井部長と戸丸先輩は違う。一ノ瀬先輩はどうかな、ノリは軽いけど陽キャって感じでもない。野田先輩はオタクっぽいしクセもあるけどヒーローだ。


「エイケンもオタク部だよ。俺とか池井くんみたいなのが多いかな」


 先輩たちの紹介を聞きたいわけじゃないだろうから、そんな感じで答えた。俺は少しずつ、相手が何を言いたいのか、聞きたいのかとかが、前よりもなんとなくわかるようになってきた――気がする。


「へえ、池井もオタクなんだ。あんま見えねえな。野球部っぽいし」

「坊主だから?」

「そう。はは、安直すぎな。ちなみに映画部って、女もオタクちゃんなの?」


 どうやら鳳凰院さんが所属していることを知らないな。春日井部長もオタクちゃんという感じじゃない。


「あー、怒った?」


 武田くんは眉毛を上げておどけるような顔をした。別に怒ってはいないけど、楽しい話じゃないなとは思っていたから、空気が読めるというのは本当みたいだ。


 時雨は、つまんなそうにかかとを床でトントンしているけど、まだそこにいる。そういえば、武田くんは女のハナシが多いからめんどくさいと言っていたっけ。


「バンビーがカレシできただろー」


 さっきの池井くんと同じことを武田くんが言った。バンビー、番場ばんばジュリアさん。イケてるグループの女子で、ギャルっぽいけどクラスで一番頭がいい。


「だから俺も合コンとか行くかと思ったんだけど、他の学校のやつと付き合ってもどうせ破局するべ。やっぱ同じ学校だろ」


 どうして番場さんに彼氏ができたら武田くんが合コンに行くのか、俺はもうわかる。三カ月前はたぶんわからなかった。

 しばらく黙っていた時雨が、ぼそっと言った。


「その恋愛観ちょっと意外だわ。武田はいろんな子と遊びたいタイプと思ってた。校内で付き合ったり別れたりすると、周りとかうるせえし、ダルくない?」

「俺のイメージそんなん? 純愛派よ? 一緒に帰ったり弁当作ってもらったり、最高だろ。あー、早くそうなりてえ!」

「お弁当は女子が作るものとは限らないんじゃない」


 戸丸先輩ならそう言うだろうと思ったら、俺も言っていた。時雨が口笛を吹くようなまねをした。武田くんはまあねと言った。


「すげえ好きな女ができたら、俺もそいつのために弁当とか作るようになるかもしんねえし。恋は人を変えるからな」

「今日はお前のほうが青春度が高いな」


 かかとをトントンするのをやめて、時雨はそんなふうに武田くんをいじった。


「そりゃ高一だもん、俺だって青春真っただ中だわ。あ、で、卓球部の女ってどうなん? かわいい子! あんま高望みはしねえから!」

「お前と似合うっぽい子はいねーよ。ヒゲ生やしてるウェイ系のやつが、卓球部の女子狙うなよ」

「武田くんは何部なの?」


 話の流れに合ってないことを言ってしまったみたいで、え、とこっちを見たけど笑ってくれた。


「サッカー部だよ。女ゼロ部。マネージャーも男」


 へえ。ゲームだと、運動部のマネージャーはみんな女子だ。男子もマネージャーになれるんだな。


 時雨はダルそうに言った。


「大学生でいいんなら、姉貴の友達集められるかもしんないけど。彼氏欲しがってる子多いとかよく言ってるし」

「おお! 王子、姉貴いたんだ。大学生って何年? つうか何歳?」

「ハタチとか」

「おおい、そんなん無理だろ。こっち十五だぞ。相手にされねえだろ」


 明るくなったり暗くなったりして、武田くんは大きい身体をそわそわさせている。時雨は逆に小さいけど余裕がある。


「武田ならお姉さんに可愛がってもらえると思うけど? それはビビっちゃうんだ」

「ビビるっしょ。いっこ上でもムリかも。同クラでしか付き合ったことねえわ」


 武田くんはきっと童貞じゃないんだろうな。ハタチのお姉さんにはビビると言いながらも、そんなことをフツーに言えてしまうあたりが、逆に大人っぽい。


「つまんねえなあ。モテそうな部活ってどこなんだろうな?」

「サッカー部のやつがそれ言うのかよ。でも意外に文化部とか、帰宅部のやつのほうが出会いは多いかもね。あいつらバイトできるし、番場のカレシもバイト先のやつなんだろ?」


 へえ、運動部はバイトできないのか。言われてみれば確かに、朝練があって夕方まで残っていて、勉強もしなくちゃいけないし、忙しそうだ。

 エイケンも上映会のある日は帰りが遅くなるけど、活動日は週の半分だけだ。もしかしてバイトをしている部員もいるのかもしれない。


 今、なにか思い浮かんだような気がした。ぼんやりとだから、三択にもならないほどのこと。声に出してみる。


「番場さんって何部なの?」

「帰宅部」


 武田くんがすぐそう答えた。


「うちのクラスの高ラン女子って帰宅部多くねえ? バンビー以外のやつも、バイト先とかの男とくっつくんかね。焦るわあ」

「高梨さんも帰宅部なの?」

「高梨? さあ、知らね。なんで?」


 彼氏がいるという番場さんと高梨さん。高梨さんの彼氏もバイト先の人なのかな? そうだとしたら、運動部には入っていないんだ。文化部には入っているかもしれないけど、うちのクラスの――その――かわいい女子は、帰宅部が多いらしい。


 来週には夏休みが始まる。夏休みが終わったらすぐ三年生は引退で、そのときに鳳凰院さんも辞めてしまうと言う。女子が一人になってしまうから。だから、せめて二人にできないか? みんながそれに向けて頑張ると言ったんだ。夏休みの間もできることはやろうねと。でも、学校に来ている間もできていないことを、夏休みにできるなんてことがあるのかな。


 ぐわーんとBGMが鳴る。オーケストラみたいな、いやクラシックって言うんだっけ。緊張感のある、少し怖くて、大きなことが始まりますよという合図のような曲。


 ・番場さんは映画に興味ってないかな。

 ・高梨さんは映画研究部に入ってくれるかな。

 ・帰宅部の女子って何人くらいいるの?


「帰宅部の女子って何人くらいいるの?」


 武田くんも時雨も、デデドンが鳴りそうな顔になった。違う、そうじゃなくて。帰宅部のかわいい女子を知りたいわけじゃない。いや、知りたいのは知りたいんだけど、そういう意味じゃない。


「え、映画研究部に、女子の部員が増えてほしいんだ。今は女子が二人しかいなくて、三年生が引退したら、ひとりだけになっちゃうから」

「ああ、鳳凰院ね」


 なるほどというふうに時雨が言うと、武田くんはえっという顔をした。


「鳳凰院もオタク部なん? お前さっき、女もパッとしないって言ってただろ」

「言ってないよ」

「そうだっけか。ふーん、鳳凰院が? 意外とそういうのも似合ってんのかもな。運動部も集団行動も似合わなさそうだし。優雅に映画鑑賞ってヤツか」


 俺や池井くんはオタク野郎で、鳳凰院さんだと優雅な映画鑑賞。まあ、その通りだと俺も思うけど。

 武田くんはちょっと目を細めた。俺を疑っているみたいな顔。


「言うてつまり、女の部員がほしいんだろ?」

「うん、そうだ」

「ははっ、正直なやつな」


 武田くんは笑っているけど、デデドンが鳴ったような気がする。なんでだろう。

 時雨がふーっとため息をついて、「違うだろ」と言った。違う? 別に違わないけど。俺じゃなくて武田くんに言っているみたいだった。


「こいつみたいなやつが、急にガツガツしねーだろ。映画研究会って、三年が引退したら四人か五人か、そのくらいしか残らないんだってよ。そんで女子が鳳凰院ひとりって、フツーにかわいそうだろ。オタク連中もやりにくいだろうしさ」

「それが楽しかったりするんじゃねえの。囲まれてチヤホヤされんのとかよ」


 武田くんの言い方は意地悪で、これは悪口だ。だけど、あの子のことを知らないから言っているだけだ。なんとかの姫と呼ばれるんだと悲しそうにしていた、あの顔を知らないから。


「鳳凰院さんはそういう子じゃないよ。三年生の女子が辞めたら、自分も辞めるって言ってた。だから、だからさ俺、女子とぜんぜん仲良くないけど、誰かに入ってほしいから。急に女子に話しかけたらキモいかな? 運動部の子は文化部には絶対来ないのかな? 文化部の子は別の文化部に移ることってよくあるの?」


 うまく言えなかった。キモいと思われたと思う。時雨は俺のキモさに慣れているだろうから、普通にしていたけど。

 武田くんはやっぱりキモがるような顔をしていた。


「やっぱオタクってこういう感じなんだな」


 そうじゃないよ。俺がキモいだけだ。エイケンの先輩たちはこんなにキモくない。


「武田」

「いや引いたけど、まあわかった。こういうやつぶっ叩くクラスになったら嫌だし。王子さ、お前も意外と委員長系だよな。だからずっとフォローしてやってんだろ」

「悪ぶんなよ、ガキっぽいぜ。どうせ来年くらいには受験でピリピリするようになるんだから、それまではなるべく楽しくやりたいじゃん。小学校の頃とか、こういうやついじめなかった? そんで、今それ後悔してない?」


 俺は、今いろんなことにびっくりしたけれど、そうか、と思う気持ちもあった。時雨が俺なんかと仲良くしてくれている理由。全部わかったわけじゃないけど。

 武田くんはなぜか怖がるように俺の顔を見た。


「――佐藤って、本当にそうなん?」

「そういうことじゃねえって。期末も僕たちより上だったろ。こういうちょっとトロくて悪気ないタイプのやつを、いい子ぶってるとか言っていじめて、周りも調子に乗ってさあ。しょうもないじゃん。ダルいよ。別にフォローでつるんでるわけでもないし。こいつときどきツボに入ること言わない? ダサいけどさ、ダサいやつ吊るし上げる流れとかできたら、マジでダルいだろ。僕だっていつそうなるかわかんないし」


 時雨は本当にダルそうにそう言った。


 廊下にいる生徒はだいぶ少なくなっていて、昇降口から入ってくる外の光がオレンジ色だ。

 武田くんはその光を見ていた。戸丸先輩より縦に大きくて百八十センチ近い、少しヒゲを生やしたサッカー部の、イケてるグループのリーダーが、俺と同じものを見ている。


「もしかして、王子ってあだ名、マジで嫌なん? 俺がつけたかもしんねえ」

「気にしいだなお前! そんなもん別にいいよ。お前がちょいちょいクラスのムードに気い使ってんのもわかってるよ。あのさ」


 時雨は俺のことを軽くこづいた。


「佐藤さ、反省してるんだろ。高畑に悪口言ったこと」


 さっき、こいつは、俺のことを「トロくて悪気ないタイプ」と言った。でも悪気がないやつは、女の子にあんなひどいことを言わないだろう。うん、と俺はうなずいた。反省している。あの不気味な石の力で、なかったことにしたいと思ったほど、すぐに後悔したんだ。今でもブスという言葉を聞くと心がちくちくする。俺が八つ当たりで言って、女の子を泣かせた最低の言葉。ゲームにはよく出てくるけど、俺はもう二度と言わない。


 武田くんはそっぽを向いた。


「なんかすげえ見てんじゃん。王子、コワ」

「別にフツーだろ。四月からいきなり女子泣かせて、男同士で青春劇場やって、そんなやつは遠巻きにするしかないよ。でも女子のことはマジで反省してると思うから、そこはそろそろフラットにしてやってくんない?」

「わかった」


 そっぽを見たまま武田くんは言った。


「バンビーに映画部のこと聞いとくわ。高梨にも聞いてもらう。他の帰宅部の女にも」


 時雨もそっぽを向いた。俺も同じようにしてみる。どこを見たらいいかわからないと、三人とも思っているんだと思った。


「ありがとう」


 校門を少し過ぎたあたりまで、三人で一緒に帰った。



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