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佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない  作者: 終焉エンドレス
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2:オタサーと姫じゃない部長



 俺は映画研究部に入った。


 ものすごい青春を開催した翌日のことだ。当日はさすがに、興奮しただろうし明日にしたほうがいいよ、と池井くんが言ってくれたのだ。


 教室で大声で泣いてわめいて、女子のハンカチで鼻水を拭いたようなやつだから、遠回しに断られたのかな。少しそう思ったけど、次の日の朝、池井くんはちゃんと声をかけてくれた。


「おはよ! 根性あるじゃん」

「根性?」


 リュックの中から教科書を取り出していた俺は、池井くんが話しかけてくれたこと、でも内容がわからないことで戸惑った。三択は出ない。


 池井くんは周りを気にしているようだった。早めに登校した何人かが、みんな俺をチラチラ見てることはわかっていた。当たり前だろう、俺は高校生なのに泣いたやつだ。悪い意味で注目の的。その中で、池井くんが声をかけてくるなんて。目立つのは好きじゃないタイプだろうに。


「篠田と一緒じゃねえの?」

「うん、今日は会わなかったから。木曜だから朝練かも。でも、違うかも。朝練は金曜だっけ、あれ」


 自信はない。週に何日か朝練があると言っていたけど、それは何曜日だったっけ?

 池井くんは「ばーか」と言って肘で小突いてきた。友達にするように。


「篠田の朝練の曜日なんてどうでもいいんだよ。佐藤さ、今日休まなくてよかったよ。こういうのって今日が大事じゃん。ここで休むともっと来にくくなって、不登校みたいなのになったり、あ、鵜飼がそういうこと言っててさ。ちゃんと来るかなって俺も気になっちまってさ」

「不登校?」


 そんなこと考えたことなかった。許されないに決まっているから。今日学校を休むなんていう発想もなかった。

 それに、「気になっちまってさ」って。「休まなくてよかったよ」って。


 ――心配してくれたのか? 俺のことを?


 そう聞こうとして、それは野暮というやつかもしれないと思った。昨日たくさんのことを学んだ気がする。武田くんはまだ来ていないみたいだ。


「今日、エイケン来るだろ? 部長にも言ってあるしさ。一緒に行こうぜ」

「行く! あ、それと、しぐ――篠田も行きたいって行ったら、一緒に連れて行っていいかな?」

「え? 朝練行ってんだろ? 運動部って掛け持ちダメだったと思うけど」

「もしかして、映画のほうが好きかもしれないから」

「篠田も映画ほとんど見ないって言ったたじゃんか。あんま篠田に迷惑かけんなよ。女子はペア行動のやつとかいるけどさ、男でそれはちょっと、マジでさ」


 キモい、と言おうとしたんだろう。池井くんが言いたいことはわかってる。でも俺は時雨がいっしょに来てくれないと不安だとか、そういうわけじゃない。だけど、説明するのは難しいと思った。俺は喋るのがヘタだから。

 池井くんの顔が曇っている。俺が思ったよりもキモいことを言うから、話しかけたことを後悔しているんだと思う。どうやって会話をやめようか考えているんだ。


「ち、違うんだ。一人でも行きたい。一応、聞いてみただけ」

「そっか。こっちは何人来てくれてもいいけどさ」


 その笑い方はやっぱり困った感じだった。ああ、池井くんの中の俺は、泣くしわめくし友達にべったりのキモいやつになってしまった。


 そのとき、「佐藤くん」という声がした。女の子の、あの子の声。俺のすぐ後ろから。

 池井くんもびっくりした顔で、俺越しにその子を見て、すぐ下を向いた。女子の顔なんか恥ずかしくてじっと見ることはできない。その子の顔は特に。池井くんも、きっと他の男子だって。


「佐藤くん、もうちょっと落ち着いて話しなよ。篠田くんも同じ部活に入ったら楽しいかも、っていうだけのことでしょう。話がまとまってないから、なんか変な感じになるんだよ」


 俺は彼女の顔を見るどころか、振り向くことさえできない。

 鳳凰院香織さんは俺の後ろに立っているらしい。そこから言った。


「池井くん、私も映画好きなんだ。見学に行ってもいい? 映画の部活があること、知らなかった。もしかして自分たちで撮ったりするの?」


 池井くんの顔が少し白くなったような気がする。怖がっているようにも見える。池井くんは時雨と違って、女子と話すことに慣れていないんだ。それも学校で一番有名なあの子となんて。

 背中から小さなため息。自分がそう思われていることをよくわかっている、そういう諦めの雰囲気。


「ごめんね。迷惑だったかな」


 池井くんは慌てたように、ぶるぶると首を横に振った。


「ぜんぜん。鳳凰院さんも映画、好き、なんですね。うちのエイケン、映画研究部は、撮ったりはしないです! 見たり話したりするだけ。ほ、鳳凰院さんってどんな映画が好きなんですか?」

「ですますじゃなくていいよ」


 鳳凰院さんはほっとしたようにそう笑って、俺の背中から移動した。俺の隣へ! 今日は前髪をヘアバンドみたいなやつで上げて、つるんとしたおでこが出ていて――こんな可愛い女子が、俺たちの話の輪に入っている。俺だけじゃなくて、池井くんだってびびっている。


 鳳凰院さんもその空気をわかっていて、あえて気にしない風に、にこっと笑って首をかしげた。きらきらと光る耳のピアス。もしかしてダイヤ? 俺はダイヤしか宝石を知らない。


「好きな映画はいろいろあるんだけど、ジャンルはね――言ってもバカにしない?」


 池井くんはまたぶるぶると首を振る。


「しないよ! 恋愛映画とか? 俺はあんま見ないけど、好きな部員がいるかも」

「ううん、あのね、サメが出てくる映画」


 鳳凰院さんの頬がピンク色になっている。長いまつ毛を伏せて――照れている?

 俺もその映画を見たい。池井くんは知っているんだろうかと思って見ると、一重まぶたの細めの目をぐんと見開いていた。


「マジで? 鳳凰院さん、サメ映画好きなの? マジで?」

「バカにしないって言ったじゃない!」

「してないよ! うわ、え、すげえコアな映画好き? いるよ、サメ映画好きな人! 一人しかいないから、すげえ喜ぶと思う! すご! え、B級いけたりする?」

「大好き」


 ぽっと頬を染めた美少女からそんな言葉が出て、俺も池井くんもボーッとなってしまった。自分がそう言われたような気がしたんだ。


 BGMが流れた。甘い感じの、それでいて少しポップな曲だ。

 テロップは出ない。でも、出るとしたらきっと、「池井くんの恋」みたいなやつだろうなと思った。




 昼休み、時雨と弁当を食いながら朝のことを話すと、時雨も目を見開いた。こいつはもともと二重の大きな目をしているから、真ん丸に近くなる。


「鳳凰院、サメ映画見るんだ。そりゃすごいギャップだな」

「なんていう映画なの?」

「特定の映画じゃなくて、ジャンルの話なんじゃん? 僕もぜんぜん詳しくないけどさ、ジョーズ? とか。サメが出てくる映画って、なんかたくさんあるらしいよ」


 そうなのか。鳳凰院さんは魚が好きなのかな。あれ、サメって魚類だっけ?


「好きな映画聞かれてサメ映画って、たぶんホントに好きなんだろうな。お前を庇ってくれたってよりも」

「やっぱり、庇ってくれたとかじゃないよね」

「その場面を見てないから前後よくわかんないけど、それもあるかもしんないとして、映画研究会にはホントに入りたかったんじゃないの? しかし、罪な女だなー。お前と池井と二枚抜きで、たぶん映画研究会のやつとかもみんなコロッと行っちゃうだろ。あんな子が来たらさ」

「研究会じゃなくて、研究部だよ。鳳凰院さんを悪く言うなよ」


 鳳凰院さんは今日も高畑さんとお弁当を食べている。こっちの声は聞こえないと思うけど。

 時雨はミートボールを食べながら、「いま悪く言ったか?」と不思議そうにした。


「あ、罪な女って言ったから? 深く考えなかったわ。わり」

「勝手に好きになられたり、そういうの、お前も嫌なんじゃないのか?」

「ふっふふ。そうだな。お前がそれ言ってくれたから言うけどさ、鳳凰院が俺をちょびっと意識してるのはわかってるよ。でも、そんな程度のもんだから。勝手に失恋したような気になるなよ」


 俺が高畑さんにおかしなことを言ってしまった、本当の原因は、それなんだ。鳳凰院さんが時雨を見ていた。それだけで身体が重くなって、いろんなことがどうでもいいような気持ちになった。


 でも、たしかに「そんな程度のもん」だ。ただ見ていただけ。

 というか、鳳凰院さんが時雨のことを好きだったとしても、俺には関係ないじゃないか。失恋? それは、恋が成就する可能性のあるやつが使う言葉だろう。


「時雨って、ホントに女の子に興味ないのか? 付き合ったことないの?」

「両方ないよ。高校デビューって言ったろ。中学まではモテなかった」


 確かにそう言っていたけど、なんだか納得いかなかった。


 高校生になったのは先月だ。そこから高畑さん、小原さん、鳳凰院さんと、俺のような鈍いやつにわかるだけでも、三人の女の子が時雨を好きになっている。時雨自身もそれをわかっていた。

 これまでモテたことのない男は、そんな状態になったら舞い上がるんじゃないのか? 時雨はクールというか、慣れているような気がする。


「ああ、別になんとかセクシャルみたいなやつでもないと思うよ。そういう欲求はあるし。そのうち好きな女子ができるかもしれないけど、今までできたことがないってだけ。佐藤は鳳凰院が初恋なの?」

「わからない」


 この気持ちが初恋なのかどうか。今まで他の女の子にこういう気持ちになったことがあるか、と考えると、それはない。だから初恋なのかもしれない。

 そういえば、時雨は女の子の話をするのが面倒だと言っていた。もうやめよう。


「池井くんに聞いたら、見学に行くのは何人でもいいんだって。時雨も行かないか? 映画研究部に興味ないか?」

「はあ? 運動部は掛け持ち禁止だよ」


 卓球のラケットを持つしぐさをしている。


「そうなのか。知らなかった。じゃあいいんだ」

「佐藤って中学の時は何部だったの?」

「ボランティア部。帰宅部がなくて、どこかに入らなきゃいけなかったから、いちばん活動日の少ないとこにした」

「ふーん。ちなみにさあ、土日に遊びに誘ったとして、マックとか行ける?」


 誘ってくれるのか? 嬉しい気持ちと、それを上書きするような気持ちが順番にチカチカする。


「マックは行けない……」

「そっか。佐藤って運動神経そんな悪くないよね? 公園でバドとかすんのは? バドミントンな。ラケットもシャトルもうちにあるからさ」

「やりたい!」


 バドミントンはやったことがないけど、土日に友達と公園で遊ぶ、そんなのやりたいに決まってる。

 時雨は指でOKサインを作った。


「じゃあ土曜、晴れてたら行くか。すごい青春の第二幕になっちゃうけどな。昨日で一年分の恥かいたし、開き直って青春野郎やろうぜ」

「やろう!」


 わくわくする。それにしてもマックとバドミントンって、比較としてなんだか離れてるなという気はした。食事と運動だ。あれ、もしかして、マックってマクドナルドのことじゃなくて、スポーツ施設みたいなやつの名前だったのかな。でも、そうだとしても俺はきっと行けない。入館料とかかかるんだろうから。


 時雨はハンバーグを食べている。おいしそうだ。


「じろじろ見るなよ。僕、おかず交換とか嫌だからね」

「おいしそうだなと思っただけ」

「ミートボールとハンバーグを同時に入れるなって感じだよね。センスなさすぎだろ。味同じだし」


 え、豪華でうらやましいなと思ってた。俺の弁当には肉が入ってないし。

 文句をつけながらも全部食べて、パック牛乳を飲みながら、時雨は弁当箱にフタをした。


「姉ちゃんが作ってくれてんの。だから文句も言えないじゃん? 正直マズイし、見た目も悪いし、人に見られんの恥ずかしいから、食堂行ける日のほうが嬉しいけどね」


 そうだったのか。だから俺なんかと弁当を食ってくれていたのかもしれない。武田くんたちには弁当を見られたくないから。俺の弁当を見て、自分よりも変だと思ったから、安心したのかもしれないな。

 でも、それでもよかった。こいつは友達だ。土曜も遊んでくれる。


「姉ちゃんがいるから、時雨は女子に慣れてるの?」

「それはあるかもな。っていうか、だから女子は僕みたいなのがいいのかもよ。お前みたいなバキバキの童貞って、女の前だと緊張して挙動がキモくなるんだよね。そういうのが嫌なんじゃない? 女だってフツーに人間なわけだし、いちいち緊張されたらダルいだろ」


 女子と付き合ったことはないと言っていたけど、時雨は童貞じゃないのかも。すごく聞きたかったけど、少なくとも昼休みの教室でする話ではない気がする。


「姉ちゃんもこの学校に通ってんの? ――ごめん」

「そんな顔すんなよ。姉ちゃんのことは別に聞いたっていいよ、俺から話したんだし。姉ちゃんは大学生。俺と同じでチビだから中学生に間違えられることもあるけど、あ、ふふふ」


 なぜか急におもしろそうに笑った。


「姉ちゃん、ちょっと鳳凰院に似てるかも。だから僕は鳳凰院、絶対ナシ。安心しろよ」


 安心しろというのはよくわからなかったけど、時雨の姉ちゃんって、見てみたいなと思った。




 映画研究部は視聴覚室で活動をしていた。だからキレイに使ってくださいね、と部長だという三年生は言った。顧問の先生はバレー部との兼任だから、あんまりこっちには来ないんだそうだ。


 部員は八人。部員も来たり来なかったりするのかと思ったが、これで全員集まっているらしい。池井くんを入れた七人が男子で、女子は一人だけ。その一人が部長だった。春日井ですと俺たちに名乗って、池井くんを褒めた。


「やっと夢の二桁かも。しかも、女の子までさあ。池井、坊主のくせにやるじゃん!」

「はい、坊主ですけどやるヤツです!」


 池井くんが上級生の女子に冗談を言って、みんなを笑わせている。驚いた。こんな面もあるやつだったんだな。少しは仲良くしたこともあるのに知らなかった。


 広い部屋の、真ん中あたりにぽつぽつと部員が座っている。部長の春日井部長だけは最前列、スクリーンの下に立っていた。

 席が決まっているということはなくて、好きに座っていいと言われたので、俺と鳳凰院さんは中心寄りのちょっと後ろの列に座った。もちろん隣ではなく、三つくらい空席を挟んだけど。でも同じ列。


 他の部員は――失礼だけど――なんとなくイメージしていた通り、地味な感じの人たちだったけど、春日井部長は元気な人だった。髪をポニーテールにして腕まくりをしていて、運動部っぽく見える。


「今日は見学っていうことだけど、せっかくの機会なんだし、自己紹介しようよ! あたしはさっきも言ったけど、春日井朋美です。順番に――いや、シャイなヤツが多いから、あたしが名前呼ぶから、手挙げてね。まず三年、戸丸! 柴村! 一ノ瀬! 矢内!」 


 ぱっぱっと四人が順番に手を挙げる。完璧には覚えられないかもしれない。分からなくなったら池井くんに教えてもらおう。


「二年は一人だけ。野田! それで一年、ご存じの池井。あれ、鵜飼どうした? いっしょに来てたよね?」

「トイレ行ってます。鵜飼達也、好きな映画は『ゴースト』です!」


 池井くんがまたみんなを笑わせて、春日井部長は自分のおでこをぴしゃっと叩いた。


「タイミング悪かったなあ。でも同じクラスだから、鵜飼に紹介は必要ないか。えーと、まず男子! 何くんかな?」


 俺のことだ。みんなが俺を見る。恥ずかしい、緊張する。立ち上がった。みんなに聞こえるように、春日井部長のように大きな声で。


「佐藤です!」

「よろしく、佐藤くん。あたしのクラスにも佐藤がいるから、差し支えなかったら、下の名前もいいかな?」

「孝太郎です!」

「佐藤孝太郎くんね。ありがとう。拍手!」


 みんなが拍手してくれた。座っていいのかな? 春日井部長が手で「いいよ」みたいな仕草をしてくれたから、緊張したまま座った。


 それで、みんながその子を見る。さっきから見てはいたけど、いよいよいっせいに。


 姿勢よく座っている彼女。たぶん、みんな彼女の名前は知っているけれど。

 その子は俺と違って優雅に立ち上がって、はっきりとした声で言った。


「鳳凰院――香織です。よろしくお願いします」


 彼女が軽くお辞儀をすると、池井くんが大きな拍手をした。みんなもそれに続く。俺の時よりもでかい音。当たり前だ。


 春日井部長はうなずいて、鳳凰院さんに笑いかけた。


「男ばっかりの部で、居心地が悪かったらゴメンね。あたしが三人分くらいの女子力持ってるからさ!」


 誰かが「しご」と言った。四五? 死語。古い言葉みたいな意味だっけ。

 鳳凰院さんが座ると、春日井部長はスクリーンを指さした。


「今日は映画を一本見て、ちょっと感想でも言い合おうかと思うんだけど、二人は聞いてる? 時間とか大丈夫?」


 教室からここまで来るときに、池井くんと鵜飼くんからそう聞いていた。鳳凰院さんもうなずいて、春日井部長に言った。


「どんな映画なんですか? スラッシャーとかだと、帰り道が怖いかも」

「あれっ? 鳳凰院さん、映画かなり見る人? そのかわいい顔で、スラッシャーて」

「そういうのセクハラだって」


 さっき「死語」と言った人、たしか戸丸先輩、が注意して、春日井部長は「ごめん」と鳳凰院さんに手を合わせた。笑って首を振る鳳凰院さん。

 春日井部長は合わせた手を開いて、また合わせてパンと慣らした。


「女の子が来てくれるっていうから、『天使にラブ・ソングを…』のつもりだったんだけど、鳳凰院さんはもう見たことあるかな? 佐藤くんは?」


 俺は知らない映画だ。鳳凰院さんは「ちゃんと見たことはないかもしれません」と言った。

 誰かが、やめようよーと言う。春日井部長は何かを言おうとして、だけど、「うん」と笑った。


「やめようか? あはは、何がいいかな、じゃあねえ――」

「いいじゃん」


 戸丸先輩だ。座っていても身体が大きいことがわかる、武田くんのような大人っぽい人。ヒゲを少し生やしているのも同じだ。でも、武田くんと違っておっとりとした雰囲気がある。


「俺もその映画、好きだよ。文句を言ってるやつはちゃんと見たことがあるのか? 見ようぜ。春日井、準備してくれたんだろ」


 春日井部長はぎゅっと目を閉じた。すぐに開いて、「うん!」と大きな声で言った。


「十分後に上映開始! トイレ行く人、行ってきて! スマホはマナーモードにしてね!」


 そうか、映画ってけっこう長いから、トイレに行っておかないといけないんだな。

 席を立とうとして、同じようにしていた鳳凰院さんと目が合った。

 恥ずかしくてすぐ目を逸らしたけど、鳳凰院さんはささやいてきた。


「いい部じゃない? 私、入りたいな」


 ・俺もそう思ってた。

 ・映画、楽しみだね。

 ・きみが入るなら、俺も絶対入るよ。


「映画、楽しみだね」


 そうだね、と鳳凰院さんは微笑んだ。

 ピロリン、という明るい音が聞こえた。




「青春かよ!」


 カラッと晴れた土曜日、バドミントンラケットでシャトルを打ち上げながら、時雨は叫んだ。


 学校から少し歩いたところにある大きな公園で、俺は初めて来た。ボールを蹴っている子供たちや、犬を散歩させている人、ダンスをしている中学生っぽいグループもいる。

 芝生は広くて、俺たちがシャトルを遠くに飛ばしてしまっても、人に迷惑をかけることはなかった。


「エイケンよさそうじゃん。その天使の映画、面白かったの?」

「天使は出てこないよ。教会のシスターが歌う映画でさ、その歌がすごくよくてさ――」

「それ、金ローとかで見たことあるかも。またやってたら見てみようかな」

「見たほうがいいよ!」


 きわどい位置に来たシャトルを打ちながらだったから、大きい声が出てしまった。俺はけっこうバドミントンが上手いのかも? 時雨が手加減してくれているのかな。


 普通にスマッシュを打ってきて、俺は点を取られた。

 バドミントンって何点先取なんだっけ? いいか、試合じゃないし。シャトルを拾って打つ。


「月曜も上映会なんだ。そのうち、俺のおすすめの映画もみんなで見ようって。おすすめの映画なんてさ、わかんないけどさ」

「友達できそうか?」

「わからない」


 でも、できたらいいな。池井くんや、それに鵜飼くんともちょっと話すようになった。先輩たちの話を聞くのもおもしろい。

 それに鳳凰院さん。あの子は映画に詳しいらしくて、先輩たちも感心している。俺は彼女と喋れるようなネタがないから、あいさつしたり、そのくらいだけど。


 ラリーしながらそんなことを話すと、時雨は俺がまったく予想していなかったことを言った。


「鳳凰院、エイケンでちょっと煙たがられてないか?」


 え? 煙たがるって、いい意味の言葉じゃないよな。

 あの子が嫌われている、ということか? 誰に?


「そんなことないと思うけど、どうして? 確かに、話しかけやすい子じゃないけど。男子ばっかりの部だし」

「お前の話でしか知らないから、僕の勘違いかもしれないけどさ。――鳳凰院、先輩相手に知識ひけらかしてない? いきなり専門用語みたいなの使ったりさ」


 ひけらかす? 専門用語?


 一瞬、あれかなと思うことがあった。スラッシャー。帰ってからパソコンで調べて、その意味に驚いた。残酷な映画を指す言葉。あの子がそういう言葉を口にしたんだ、とびっくりしたから、時雨にもその話をしたんだった。


 先輩たちが、ああいうのを嫌がっている? そんなこと、考えたこともなかった。

 そうだとしたら――う。ラケットを空振りしてしまった。シャトルが俺の額にコツンと落ちてくる。


「その動揺のしかた、心当たりあるんだろ」

「ない。今、初めてそんなこと考えた。えっ、そうなのかな? 鳳凰院さん、エイケンで嫌われてるのか?」

「知らないって。なんとなくお前の話とさ、あと地味なメンズの特性っていうかな。巣窟にキラキラした女が来たら居心地悪いだろうし、そいつが自分たちよりも詳しかったら、面白くはないかもと思ってさ」

「そんなの、鳳凰院さんは悪くないだろ!」

「悪くないよ。でも、悪くなければ嫌われないってもんじゃないだろ」


 時雨は前にもそんなことを言っていた気がする。

 俺がボーッと立ち尽くしてしまうと、時雨もラケットを持ったままこっちへ来た。芝生に座っている。


「お前も座れよ。人間関係の噂なんてダルいけど、お前の高校生活もかかってそうだし。エイケンって、女は他に一人だけなんだっけ?」


 隣に座りながら、うんと答える。


「部長が女子なんだ。三年で、春日井部長。鳳凰院さんにも話しかけてるよ」

「そりゃ二人きりの女子なんだから話しかけるだろうよ。その部長、いい人なの?」

「そうだと思うよ。ちょっと英語の石黒先生に似てるかも」

「そうなの? じゃあけっこう美人なのか」

「いや、顔じゃなくて、喋り方? なんかイメージ的に。元気でさ、みんなに優しい――優しいっていうのも違うのかな。明るくて、話しかけてくれて」

「なんとなくわかったわ。サバけてて分けへだてないみたいな感じか」


 その通りだ。時雨は俺よりも国語ができるんだろう。


「そういう女部長ならしばらくは大丈夫な気がするけど、三年って夏休み明けには引退するだろ。そしたら鳳凰院、かなりやりにくいんじゃないかな」


 そうか。そしたら女子は鳳凰院さんひとりになってしまう。確かにそれは、周りもどうしたらいいかわからなくなるかも。


 え? どうしたらいいんだ。


「どうしたらいいの?」

「僕が知るかよ。鳳凰院がその部長みたいなキャラになるのもムリだろ。あ、二年って一人だけなんだっけ? じゃあ、お前と池井と鵜飼が仲良くしてやりゃ済む話か」


 あれ? 本当だ。なんだか深刻な話のような気がしたけど、それだけのことか。


 ――でも。何か。


 ・鳳凰院さんって嫌われてるのか?

 ・女子と仲良くするにはどうしたらいいんだ?

 ・人間関係ってダルいな。


「鳳凰院さんって嫌われてるのか?」

「目立つから、いろんなヤツがいろんなことを思いはするだろうな。お前だって好きなんだろ。どういう子なのかたいして知りもしないのに」

「うん、そうだ」


 俺が知っているのはあのハンカチの感触だけ。あとはかわいい顔、光るピアス。スカートから伸びるすらっとした足。サメの映画が好きらしい。俺はそんなの見たことがない。


「お前さ」


 時雨はラケットを持ったり、置いたりしながら言った。


「世界がゲームみたいに見えてるって、どういう感じ? たとえば、あの犬さ」


 指さした先に、女の人がリードを持った、黒いふさふさの犬が走り回っている。かわいいな。


「ゲームに出てくるキャラだから、あの犬を殺すとアイテム出てくるとか、そういう風に思うの?」

「お、思わない!」


 毛玉みたいでかわいいと思っていたのに、殺すなんて。そんな言葉が突然出てくるなんて。スラッシャーなやつだ。


「わり。でも、それならよかったよ。気になっててさ」

「ゲームって、そういうやつじゃないんだ。お前はキモいと思うだろうけど、女の子と付き合うゲームがあって。付き合うっていうか、デートして告白するみたいな。女の子に好かれるために行動するやつ」

「なんだ!」


 ばしんと強く背中を叩いてきた。


「めっちゃ無害じゃん! なんだよ! うわ、マジよかった。あーあ」


 こいつは僕が犬を殺してアイテムを取るようなやつだと思ったのか。

 それなのにバドミントンに誘ってくれたのか。


 頭がぐるぐるする。悲しいんだかうれしいんだか。


「ははは」


 笑ってしまった。時雨も笑った。


「でも、そういうゲームの主人公にしちゃ、鳳凰院の前でフツーにガチガチじゃん。他の女子の前でもさ」


 うまく説明できない。音楽や効果音が聞こえる――ような気がするだけ。三択が思い浮かぶ――ような気がするだけ。


 いや、あの石。


 セーブ石だけは、俺の妄想とは一線を画する。いや、時間が巻き戻っているなんていうのも妄想なんだろうけど、本当の俺は病院のベッドで宙を眺めているのかもしれないけど、

 見るのも怖いあの石。またセーブしてしまうのも、ロードも、不可思議な条件つきのリセットも。自分が妄想狂だと思うことも。


 もう裏庭には行きたくない。行かないと決めた。

 だから時雨にも説明しない。俺はこいつに、俺は妄想狂なんだと言いたくない。少しは言ってしまったけど、そのせいで心配をかけてしまったようだし。


 時雨は気持ちよさそうに伸びをした。


「あーあ、腹減ったな。なんか食いに、あ」


 伸びをやめて、時雨は気まずそうに口を閉じた。

 やっぱりわかっていたんだな。待ち合わせを昼の二時、つまり昼飯を食ったあとにしてくれたのも、そういうことだったんだろう。


 俺はこづかいをほとんどもらっていない。今も財布は一応持っているけど、なんと二百円も入っていないんだ。きっと小学生でももっと持っている。


「うん、俺は何も食いに行けないんだ。あ、待ってるから、なんか食って来たら? それとももう帰ろうか」

「馬鹿かよ。いや、僕も馬鹿だったけどさ。そこノータッチで付き合うのってムリな気がする。佐藤さ、金、ぜんぜん使えないんだな?」

「使えない。持ってないし」

「バイトは?」

「ダメだって。子供は金なんか持たなくていいって」

「お前んちさ――いや」


 時雨は芝生の草をぶちぶちとむしっている。もう少しむしってから言った。


「エイケンって部費かかるの? 僕が池井に言ったせいで、お前、断れなかったんじゃないか?」

「部費はかからないんだって」


 だから入ることに決めたんだ。

 時雨はため息を吐いた。どうやらすごくいろんなことを心配してくれているやつ。親切というのも少し違うのかもしれない。責任感とか、そういうものが強いのか。


「だから食堂でお前と会ったことがないんだな」

「うん。注文しないやつは、食堂の席に座ったらいけないんだろ」


 時雨はラケットを持って立ち上がった。


「関係ねー!」


 そう叫んでたたっと少し走って行った。止まってラケットを振る。


「ラリーしようぜ。目標、三十回な。達成したらさ、今度、お前に食堂でカレーおごる。そのかわり、その日は僕の弁当も食ってくれ。まずいけど! サンドイッチと餃子がいっしょに入ってるけど!」


 何を言ったらいいんだろう? こいつは変なことを言っている。俺なんかに。

 シャトルは俺の手元にある。打った。


「お前、変だよ! 俺、その日、カレーと弁当ふたつ食うことになるだろ! 合わせて三食だ!」


 打ち返して時雨が言う。


「本当だ! 僕、めちゃ変なこと言ってるな! でも食えるだろ? お前でかいし!」

「普通だよ!」

「悪かったな、普通のお前よりも小さくて! 僕が牛乳飲んでるのは、普通になりたいからだよ! 弁当にぜんぜん合わねえし、まずいよ! ベタな理由で飲んでるんだよ!」


 打ち返す。セットにする言葉は思いつかなかった。三択も出ない。

 でも、いいんだと思った。今は何も言わなくてもいいはずだ。ラリーを三十回続けること、そのことだけを考える。


 結局、十九回しか続けられなかったけど、残念だとは思わなかった。食堂のカレーは食べてみたかったな、とは思ったけど。




 月曜日の放課後、エンドロールが終わって視聴覚室が明るくなった時に、俺は鳳凰院さんをそっと見た。


 ばらばらの席に座っていた部員たちが、感想を言い合うために真ん中あたりの席に集まってくる。春日井部長がその中心だ。


「この映画、初見だった人?」


 その質問に、ほとんどの部員が手を挙げた。もちろん俺も。

 挙げていないのは、戸丸先輩と――鳳凰院さん。


 心が少しざわざわした。こういうことか? 時雨が言っていたのは。一年生なのに、女子なのに、みんなが知らなかった映画を見たことがある。だから嫌だと思うやつがいるんだろうか?


 一人きりの二年、野田先輩が「おもしろかったですけど」と男にしては少し高い声で言った。痩せていてちょっと意地悪そうな外見で、言うこともそんな感じの人だ。シスターが歌う映画にも文句を言っていた。


「ご都合主義が強すぎません? まあ、マッチョ映画ってそういうもんですけど。臓器移植を待ってる人ってたくさんいるわけでしょう? その順番ぶっ飛ばして、犯罪行為を犯したもん勝ちって、真面目な人間が馬鹿を見てるじゃないですか。僕はすごく不快ですね」


 不快というのは、俺の感覚ではかなり強い言葉だ。でもみんな、うんうんと頷いたり、「でもさ」と言い返したりしている。野田先輩のことを嫌だと思った人はいない、ように俺には見える。


「愛というエゴが倫理を超える、そういう作品だろ?」

「エゴの自覚が描かれていなさすぎるでしょう。お利口に待ってるお前らの子供はどうでもいい、俺の子供だけを助けたいんだって、そこを強く言ってたらピカレスクだと思いますよ。その描写が足りないから不満なんです」

「野田先輩、深けえ」

「ふん、僕の言ってることなんかたいして深くないよ。この程度の深度も描いてくれないってことに文句を言ってるんだ」


 俺はおもしろい映画だったと思った。でも少しモヤモヤするところもあって、それは野田先輩が指摘していることに近い気もする。不快だとまでは思わなかったけれど。ピカレスクという言葉も知らなかった。調べてみよう。


「野田は、描かれてない子供たちのことも考えられるんだね。とても正しいと思う」


 春日井部長にそう言われて、野田先輩は、たいしたことじゃないです、とか下を向いてごにょごにょ言った。照れているんだと思う。二年生だって、女の先輩に褒められたらうれしいし、こそばゆいはずだ。


「佐藤くんはこの映画、面白かった?」

「はい。でも、野田先輩の言うことも合ってると思いました」


 もっと何か言った方がいいんだろうけど、思いつかなかった。

 春日井部長はうなずいて、今度は鳳凰院さんを見た。


「鳳凰院さんは見たことがあるんだね。この映画は好き?」

「最小単位を――」


 はいともいいえとも言わず、鳳凰院さんは話し出した。


「最小単位を守るというテーマの作品ですよね。客観描写の不足は、野田先輩のおっしゃる通りだと思います。でも、すべての子供を守ることはできない。自分の子供を守る、それが親というものなんですよね。それが美しいことがどうかは、私にはわからないですが」


 俺はぞっとした。時雨の言ったことが頭に貼り付いているからだ。鳳凰院さんは煙たがられている。ひけらかすから。確かにそうかもしれないと思ったのだ。


 でも、野田先輩は顔を上げて、「そうなんだよ!」と言った。


「そう、否定したいんじゃないんだ! 美しいことだよと無批判にパッケージされている感じ、それが嫌なんだよ。それが本当に美しいことなのかどうか、それを問うてほしいんだ」

「そんなさあ? 正しいとか美しいとか、そればっかり大事じゃないだろ」


 そう言ったのは、ええと柴村先輩。分厚いメガネをかけた人。


 野田先輩より先に、鳳凰院さんがそれに答えた。


「野田先輩は、正しさや美しさを求めてらっしゃるわけじゃないと思います。無批判でなければ、むしろ反していてもいいというお考えなのでは?」

「そうだよ! その通りなんだ」


 この部でいちばん気むずかしそうな先輩が目を輝かせている。言い返された柴村先輩も、おもしろそうというわけではないけど、そうかみたいにうなずいていた。

 池井くんや鵜飼くんは何も言わないけれど、それは俺と同じように、難しい話だなと思っているだけの気がする。


 ふっふっふと笑ったのは、おっとりとした大きな戸丸先輩だった。


「実りがあっていいねえ。意見会の醍醐味ってのはこういうことだよな。でも鳳凰院さん、野田なんかにそんなきれいな敬語を使わなくていいんだぜ」

「僕なんかって、戸丸先輩」

「いやいや、野田はきついこと言うように見えるけど、そんな厳しい先輩じゃないぞって意味。鳳凰院さんが察してるように、視野の狭いヤツってわけでもないからね」


 鳳凰院さんはなぜか両手で頬をおさえていた。顔が赤くなっている。


「ごめんなさい。変ですよね、私の喋り方」

「はあ!? 変じゃないよ! 全然! なあに言ってんの!?」


 そう言った野田先輩の声は裏返っていて、顔も怒っているように見える。池井くんもそう思ったみたいで、そっと手を挙げた。


「野田先輩、そのへんで。女子ッスよ」

「はあ? はあ? お前、文脈わかってる? 僕が鳳凰院さん責めてるように見えるの?」


 見える。いや、見えないけど、見える。あまりにも野田先輩の声が高いからか、春日井部長も怯えるような顔をしていた。

 入ったのはまた戸丸先輩だった。


「だから野田、でかい声を出すなってことだよ。どうでもいいことで誤解が起きる。雰囲気で物事を判断する人間もたくさんいるんだから。お前みたいに文脈がわかるやつばっかりじゃない」

「あー、悲しい曲が流れると泣いちゃうヒトね。アッタマ悪いヒト」


 野田先輩が吐き捨てるように言うと、戸丸先輩は――あれ、少し怖い顔になった。


「野田さ。今のは間接的に池井をそういうやつだと言ってるよ。池井はさ、お前が一年にでかい声を出したから、同級生を庇ったんだよ。それの善悪、わかるだろ。お前はアタマいいんだから」


 みんなの空気がビリッとした。野田先輩が驚いたように戸丸先輩を見て、そのあと池田くんを見た。池井くんが慌てて手を振る。


「や、俺はぜんぜん。すんません」

「あ――」


 野田先輩は気まずそうに眉をしかめて、目線を落とした。


「気をつける」


 ぼそっとそう言った。

 戸丸先輩が春日井部長を見る。ぱっと春日井部長は笑顔を浮かべて声をあげた。


「こういうね! アツい議論もあるけど、みんな悪気はないんだってこと。映画系の部活って、こういうことよくあるんだよ。議論と批判、悪口の区別がつかないこととか。映画好きって不器用なヤツも多いしね」

「うん」


 戸丸先輩が大きな身体を揺らした。


「仲良しクラブでやろうってわけじゃない。鋭い議論、大いにけっこう。でも人格攻撃はやめようや。そういうの調停する部長の心労とかも考えてやってな」


 高校って――


 高校って、みんなが一気に大人になる場所なんだろうか。大人っぽいクラスメイトたち。この戸丸先輩なんか、外見も言うことも、完全に大人じゃないか。俺のこの感想そのものが、すごく子供っぽいと自分で思う。


 中学の頃、こんなに大人びた人はいなかった。いや、いたのかもしれない。俺には何も見えていなかっただけで。


 そもそも一周目は、一年の秋まで行ったのに、こんな人たちがいることに気付いていなかった。みんなが急に現れたわけじゃない。俺が見ていなかったんだ。じゃあ俺って、いったい何を見ていたんだろう。手元の教科書しか見ていなかったのかも。それと、古いゲームと子供向けの小説。


 今日の映画みたいな、難しくて深刻な話が、この世にあるということも俺は知らなかった。


「来週の上映会はさ、ライトな感じのやつにする? 逆に思いっきり社会派のやつ行っちゃう? がっつり批判入ってるやつ」


 春日井部長が振った話題に、時雨と同じくらい小柄な先輩、矢内先輩が「十二人のやつは?」と言った。春日井部長が笑う。


「今の流れにハマりすぎ! いいね、それ採用! うちにたぶんディスクあるし」


 柴村先輩が人差し指で眼鏡を持ち上げた。


「いい作品だけどさ、ハイカロリーじゃない? パロのほうから入るのもありじゃない?」

「それもいいかも。柴村、ディスク持ってるの?」

「持ってるよ」


 来週も映画を見られるらしい。お金を払ってないのにいいんだろうか。もしかして中学にも、こういう楽しいことをする部活があったのかな。


 池井くんは鵜飼くんと何か小声でしゃべって笑っている。鳳凰院さんは先輩たちの話を聞いて微笑んでいた。


 この時間が続いたらいいのにと思っていたら、セーブという言葉が思い浮かんだ。

 でも裏庭には行かないと決めたんだ。それに。


 ――それが美しいことなのかどうか。


 野田先輩の言ったことが、頭の奥のほうで何度も響いているような気がした。


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