11:人工の水なれど
五月、ゴールデンウィークの頭に行ったコンビニで、鵜飼くんが働いていた。相変わらずの天パっぽい長い髪、青い清潔なイメージの制服にミスマッチだ。そもそもその制服が。
「なんて似合わないんだ……」
「久しぶりに話しかけてきてそれかよ」
「元気?」
「元気じゃないやつは短期のバイトなんかしてないでしょ」
「短期なんだ。っていうか、またしてるんだね、労働。三年なのに? 進学するんだよね。大丈夫?」
「大丈夫だよ、高望みしないし。チキンいかがですか? さっき揚げたて」
「ください」
「部長、買い食い? あんまりそういうイメージないけど」
「もう部長じゃないよ」
「あだ名だよ。深く考えるなよ――ヒマなの? 俺、あと三十分くらいで上がるんだけど」
「じゃあ待ってる」
イートインスペースで、揚げたてのチキンを食べて、買ったばかりのアイスコーヒーを飲んだ。カップ入りの、鵜飼くんがカウンターで淹れてくれたやつだから、手料理感のある軽食だなと思った。
三十分後、私服に着替えた鵜飼くんが同じコーヒーのカップをふたつ持って来た。レジの店員は大学生くらいのヤンキー風の人になっている。
「ありがとう、ここ店員のチョイスがいかついね」
「チョイスするほど人材いないよ。他で落ちるようなやつが来るんだろ」
隣の椅子に座った鵜飼くんは、相変わらずひょろっとしていて、相変わらず横顔が整っている。
「何? 見すぎだろ、気持ち悪」
「俺そんなにキモい? 鵜飼くん、最近は」
「お前おじさん? 元気だよ。つまんないこと聞くな」
「モテてる?」
「違うタイプのおじさんだったわ。何? またキャラ変した?」
そんな味変みたいに言うものなんだ。
鵜飼くんはコーヒーにミルクを入れて飲んだ。
「ねえ、モテてるの?」
「しつこっ。知らないよ、自分の評判。なんなのよ」
「俺、鳳凰院さんと付き合いたいんだ」
「ふうん」
「鵜飼くんはこういうこと興味ないよね」
「ないよ。何その報告? もしかして一丁前に俺を牽制してんの?」
「そんなことしないよ。鵜飼くん、もう鳳凰院さんと会うこともあんまりないだろ」
言ってから、これはエイケンのことを思い出させてしまうかなと思った。
鵜飼くんは普通に、そうだねと言った。
「池井は彼女できたよ。まあ知ってるか」
「うそ!!!!!!!! 知らない」
「そんなでかい声出す? ヘンじゃないだろ別に。あいつフツーにいいやつだし、モテなくないでしょ」
「そうだね、時雨も池井くんならアリって言ってたことあるし」
「それは何? それは聞きたい。引きが強いよ」
こんな風にしゃべるのは久しぶりだ。クラスが同じだったころも、あんまり二人で話したことはない。あの、労働したくないと言っていた、あの時くらいのような気がする。
「労働してるんだね」
「何回も言うなよ。ニートになりたいみたいなこと言ったの覚えてんの? しつこいね部長。人間、生きてりゃ考えが変わることもあるよ。労働はしなくて済むならしたくないけどね」
「前、ジュリアさんとかにも言っちゃったよ、鵜飼くんはニートを目指してるって」
「言うなし……」
あれ、どうでもいいよとか言うかと思ってたけど、嫌そうだ。ダメージを受けている。
「ごめん、公表してることなのかと思ってた」
「女子にそういうさ」
「あれ、主旨替えした?」
「なんだあこらあ、立派なこと言うようになったなあ、部長先生よお」
鵜飼くんは怒らせるとヤンキーになるのだ。久しぶりに思い出した。なつかしいな。そんなに前のことじゃないはずなのに、そんなことを思う。
「池井くんの彼女ってどういう人? クラスは? 何部? かわいいの?」
「まとめサイト? クラスは池井と同じ、部活は知らない、かわいいかどうかは俺の決めることじゃない。井浦っていうらしいから、席が隣だったんじゃない? あ、いや、思い出した。卓球部って言ってたな」
「俺には紹介してくれてない」
「お前に紹介する義務ないだろ。俺にできても紹介しないよ」
「なんで鵜飼くんはわざわざ意地悪を言うの? かまってちゃん? 鵜飼くんの彼女は紹介してくれなくてもいいよ」
「えらくなったなあー」
頬を片手でむにゅっとされた。そのままうりうりとされる。じゃれているとかではない、本当に軽度のヤンキーがやるやつだ。元ヤンか? そういえば鵜飼くんの中学の頃の話をほとんど聞いたことがない。
「そうだよ。俺はキモいし、変な弁当を食ってるけど、えらくなったんだよ。人間になってきたから。もう赤ちゃんじゃない」
手を放して、鵜飼くんはその手をパンパンとはたいた。ひどい、汚いものみたいに。
「部長、あの弁当まだ食ってんの? 自分で作ったりはできないの?」
「え?」
自分で? え、俺が?
どうだろう、余計な食費がかかったら文句を言われるだろうけど、冷蔵庫の中身を使うくらいなら大丈夫かもしれない。なにより、あの人の手間がかからなくなるし。手間って、弁当箱に白米と凍ったままのコロッケを入れているだけだけど。
「鵜飼くんは料理したことあるの?」
「言うほど立派なもんじゃないけど、ちょいちょいは。どっちかっていうとクッキーとかケーキ焼くほうが楽しくて、ちょっとはまった。カルピスバター使いたいから労働してんの」
「なんてモテそうなんだ……」
「しょうもない定規で計んなって。お前はモテたいの? 鳳凰院に好かれたいの?」
「それって究極の選択じゃない?」
「拮抗してるのかよ。ま、確かにフツーの人間になってきたな。一年の頃は、一択しか見えてないようなヤツだったから、よかったんじゃん。視野が広がってさ」
最低でも三択はあったよ、当時から。
そう思ったけど、言うほど三択でもなかったんだ。それって実質一択だろ、ということもよくあった。
「ちなみに俺、ジュリアさんのことも好きだったよ。もうフラれたみたいなものだけど」
「へえ」
「あれ? 動揺しないんだ。鵜飼くん、ジュリアさんのこと好きなのかと思ってた」
だからさっきもダメージを受けたのかと。
鵜飼くんは動揺せずに答えた。
「好きだよ、強いし。でも俺、バージンじゃない子とは付き合えないから」
鵜飼くん!!!!!!!!!!!!!!!
ヤンキー風の店員と何人かの客がいるから大声を出さなかったようなもので、俺はほんとうにびっくりしていた。どうしたんだ、鵜飼くん。中の人が変わっちゃったのか!?
自分の発言を恥じるように、鵜飼くんはコーヒーの氷をストローでカラコロ鳴らした。
「言っとくけど、相手を責める気まったくナシ。そうじゃなくて俺がみみっちくて、相手の過去とか気にしちゃうから、気にしないで済むヒトがいいってだけ。俺、薄っぺらくて弱いんだよ。これ誰にも言うなよ。絶対」
時雨は男を見る目もすごい。確かにこいつは薄暗いヒョロ男で、ネチネチしたタイプだ。
なんか、嫌なやつだけど、立派なやつなんだろうとも思っていたんだ。でもぜんぜん立派じゃない。なんだこいつ。気持ち悪いやつだ!
「ものすごくキモいね、鵜飼くん」
「そうだよ。知らなかった?」
知らなかった。人間って計り知れないんだなと、俺はなぜかマクロな視点になってしまった。
さすがに、誰にも言うなよ。絶対。と倒置法で言われたことは守って、その他のことをゴールデンウィーク明けの時雨に話した。
堤さんと直江さんと鳳凰院さんは、堤さんの席に集まって楽しそうに弁当を食べている。
「井浦? あー、いるいる。ふうん、池井と付き合ってんだ」
時雨はクールだ。それで話を終わらせようとしていたから、俺は食いついた。
「井浦さんってどういう子? かわいい?」
「どういうって、まあ真面目な子? 女子部とはあんまり話すこともないし、そんなによくは知らないよ。かわいいってか、フツーなんじゃないの。やめろよ、人の彼女のこと品評しようとすんの」
「知りたいよー」
「素直なやつだなお前。池井に直接紹介してもらえよ。こそこそ聞き回ってないでさ」
そうしたい。でも、池井くんが突然ドヤ顔とかになっていたらイヤだ。なっていそうだ、なにしろ裏表のないやつだから。
「悔しいよー」
「モテない男って大変だな。喜んでやれよ、友達の幸せだろ」
そう言われるまで1ミリたりともそういう考えに至らなかった。くやしい、いいな、どんな子なんだろう。そんなことしか考えていなくて、おめでとうとかいう気持ちはついぞ出てこなかった。ついぞ。バイトも辞めて帰宅部になって、志望大学も合格圏内の俺は、ときどき図書室で本を読んでいる。語彙が少しだけ増えたと思う。
「鳳凰院とはどう? 進展してんのか」
「してないの知ってるだろ」
「知らないよ、全部僕に報告してるわけでもないだろ。でも、お前らってスマホで連絡取れないんだっけ。それで向こうは休みの日も自由に外出できない? じゃあ校内で進めるしかないな、なるほど」
一人で全部しゃべって納得している。そう、だからお前から見て進展がないなら、実際に何も進展していないんだよ。校内以外では進めようがないんだから。
次の大きな行事といえば、来月の体育祭か。でも俺は運動神経もパッとしないからな。どうしよう。その次は――
「文化祭って、うちのクラスは何す」「学校行事を待つなよ!」
何するんだろうな、にかぶせてきた。
「しかも文化祭って、半年先だろ! 低いわアプローチの頻度が。七夕かお前は?」
「いや、体育祭のことも考えたし、七夕は年に一度だから」
「変わんねえよ! なんだっけ、鳳凰院ってグループなら休みの日も出てこられるんだっけ? 堤と直江にも来てもらって、みんなで遊び行くか?」
「時雨!」
「僕の主義に反するよ本当は。自分がそういうこと仕掛けられたら嫌だから。でもお前、ほっといたら半年何もしないんだろ。半年経ってもあやしいよ、文化祭だからって何する気なんだよ? 目の前にしょーもない童貞いると、こっちまで気分が湿りそうなんだよ」
なんていいやつなんだろう。同じくらいモテそうな外見でも、鵜飼くんとはぜんぜん違う。あいつは自分自身がしっとりしているし。
「来週か再来週な。どこ行く?」
「ユニクロ……?」
「こういう時の目的地じゃねえんだ! くそ、なんで僕が怒ってるんだよ。あと別に今のは怒るとこじゃなかったわ、わり。買い物行くんでもいいけどさ、服屋に行くなんて鳳凰院の家が許さないんじゃないのか」
確かに、家庭の方針に変わりがないならそうだ。なにもそんな、親に正直にすべて言うことはないと思うけど、ウソをつかせるのも嫌だな。
「ダメだ……俺、あとは公園でバドミントンしか思いつかないよ」
「出典があきらかで悲しいんだよ、お前の発想の狭さ。ダーツはダメかな、直江は目悪いみたいだし。ボウリングもそうか」
「博物館とか?」
「遠足を出典としてんじゃねーか。モテなさすぎる。あいつら絶対行きたくないだろ」
「水族館」
「おっ、いいじゃん。それはけっこうアリ。親ウケもよさそうだし」
博物館はダメで水族館はアリ。俺はどっちも小学校の遠足で行ったぼんやりとした記憶しかないけど、いま覚えた。
時雨はおーいと三人の女子を呼んだ。呼んでから、呼びつけるのは失礼だと思ったようで席を立つ。俺も立った。
「なによ?」
堤さんの爪はオレンジ色で、俺はそれを見てジュリアさんのことを思い出した。
「来週か再来週か、土日、まあつまりいつでもいいんだけど、水族館に行きませんかって。僕と佐藤が二人で行っても寒いから」
堤さんが直江さんをチラッと見た。直江さんがノーというように手のひらを出す。
「うち三年になったら、休みいっさいナシって決めてたから。気使わないで、みんなで行ってきて」
休みナシというのは、受験生だから出かけないということだろう。堤さんは直江さんに甘えるように腕を組んだ。
「ちょっとくらいよくね? 最後の思い出!」
「堤、やめとけよ。そういうの邪魔するのよくないって。ちょっとでも気緩めたくないってことだろ」
「まさにそうー。だからほんと、みんなで行ってきてよ」
そうすると四人か。これは、前に冗談で話していたダブルデートっぽい。
鳳凰院さんはちょっともじもじしている。
「水族館って、入場料いくらくらいなの……?」
う、気持ちのわかる俺は悲しくなってしまう。やっぱりきみも、自由になるこづかいをあんまり持っていないタイプなのか。堤さんは不思議そうにしている。
「高くても千円ちょいじゃね? チョー金持ちなのに、ヘンなこと気にすんね」
チョー金持ちを大金持ちの発音で言っている。
「私自身がお金持ちなわけじゃないから……」
「俺が!」
バイト代の貯金が少しある俺は手を挙げて滑舌よく言った。
「女子の分は出す! ます。なぜなら水族館に行ってみたいからです。そのとき、男二人では少し恥ずかしいからです」
構文っぽくなってしまった。堤さんと直江さんが笑う。
「ウケる、そんなに水族館行きたいヤツいる? 女子と出かけてーだけじゃん!」
「いいじゃん、行ってあげなよ、サキ。必死でかわいそうじゃん」
直江さんありがとう、きみには今度ジュースか何かをおごるよ。受験も応援しているよ。
鳳凰院さんはまだもじもじしていた。
「でも、悪いし」
「悪くないよ。だって俺たち、女子と出かけてーだけなんだ。そういうのあんまりしたことないから」
堤さんに看破されたことを改めて言った。でも時雨を巻き込んでちょっと改ざんした。
直江さんは自分は行かないのに、堤さんの次は鳳凰院さんにもうながしてくれた。
「行ってあげたら? 香織と水族館行けるなら、オトコはフツーおごるって。そんなの気にしなくていいんだよ。メシとか服もおごらせたらいいよ」
時雨がかかとを床にトントンしはじめた。やばい、こいつ若干飽きている。焦って俺は両手を合わせた。
「ダメかな、鳳凰院さん」
「いいの……? 本当に」
「いいよ! 来週? 土曜でいい?」
俺の必死さに女子が笑う。来週の土曜ということに決まって、必死になった甲斐があったと思った。
次の週の土曜。
大きな水族館のあるその駅の南口広場に、堤さんと鳳凰院さんはちゃんと来てくれていた。
二人とも制服だ。え、前に学習したやつと違う。俺と同じ電車で来た時雨がさらっと聞いた。
「なんで制服なの」
「うち制服で出かけんの好きだから、オーインにもそうしよって言っといたの。いいっしょ、今しか着らんないし」
なるほど、言われてみれば、土日に制服姿の女の子というのはけっこう見かける気がする。今も周りを見渡すとちょっといる。
すぐ近くの水族館に到着するまでの間、話していたのはだいたい時雨と堤さんだった。
「堤と鳳凰院が制服で立ってたらナンパされるでしょうよ」
「されたけど、マシだよ。ヤバいスカウトは制服には声かけてこないもん。あいつら、未成年は狙えないから」
「ああ、そういうライフハックがあるわけか。私服どんなのか見てみたかったけどね」
「ウソ! 言ってよ! えーっ、篠田ってそういうこと言うヒト!? なんだよ、かわいいじゃん」
堤さんは時雨に照れないタイプだから、時雨もやりやすいんだろうなと考えながら、隣を歩く鳳凰院さんをつい見てしまう。
かわいい。今日もスカートと靴下を折っている。お母さんというのは、土曜に制服で出かけることを許してくれたんだろうか。水族館に行くと伝えたなら、普通の親はそのとき入場料をくれるんじゃないか? スクールカウンセラーから児童相談所の話は聞いた?
どれも聞けない。人ごみをかき分けながら、一生懸命話題を探す。
「俺、去年までバイトしてたんだ」
「ビジネスホテルだっけ」
「そう!」
覚えてくれていたことがうれしくて、でも、部にバイトを報告した時のことを思い出すとつらくなってしまいそうで、大きな声を出した。
「だからぜんぜん、入館料のことは気にしないで! こういうときのために貯めたから。女子と遊びに行けるなんてうれしい! きみのことが好きだ!」
誰よりも時雨がでかいリアクションを示した。「今!?」を全身で表現している。堤さんはどちらかというと、その時雨にびっくりしていた。
鳳凰院さんはくすくす笑った。これは?
「ありがとう、大げさだね」
冗談だと判断されていた。
そう思ってもらえて、俺はめちゃくちゃ安心した。口から勝手に言葉が飛び出したのだ。自分でも驚いたし、いま心臓がドクドク言い始めている。
水族館というのは、俺がぼんやり記憶していたよりもずっと大きくてきれいで、そしてバカっぽい感想だけど、大人っぽい場所だった。
通路は薄暗くて、足元の通路を青いライトが照らしている。大きな窓のようなガラスの水槽には、さまざまな銀色の魚が泳いでいて、水はゆっくりと光を反射してきらめく。
館内にそれほど人は多くなくて、そのせいか空気が涼しく感じる。
「うそっ、超きれくない? うちここは来るの初めてだけど、すご。やば、ムードある……」
堤さんは感動の表現も率直だ。時雨もへえーと言っている。
「いいじゃん。改装したんだっけ? こんなにキレイだったっけな」
このエリアはとても広いから、俺たちがしゃべっていてもうるさいということはないだろう。
鳳凰院さんは円柱の水槽の前に立って、ヒレの長い人魚のような魚を見上げている。白い顔にうっすらとブルーの光がかかっていて、現実の人間じゃないみたいに見えた。
きれいな子だなと思いながら、俺はなぜかジュリアさんのことを思い出している。
あの子にはオレンジ色の光のイメージがある。文化祭の夕日の中の横顔。透明感のある映像を好んでいた彼女は、水族館もきっと好きだろうと思った。この水族館がこんなに綺麗なところだと知っているのかな。知らないのなら教えてあげたい。俺はもう誘ったりすることなんてできないけど、この人魚のような魚を見てほしいと思った。きみと同じくらいきれいなんだ。あんなにひどいことを言って、本当にごめんなさい。
「すごいね」
鳳凰院さんはささやいた。俺にというより、魚に話しかけているようにも見える。
「本当はちょっと迷ってたの。兄が、動物愛護の活動をしている人なのね。動物園とか水族館にも、たしか反対していたから――私もどうなのかなって思うことがあった。そういうことを言って、みんなの空気を台無しにしちゃうかもっていうのも怖かったし」
自分がやらかすタイプだということをわかっているんだ。俺と同じで。
「でも、気持ちよさそうに泳いでるように――私には見える。たぶん、経営の背景にはいろんなことがあるんだよね。見せ物になるストレスとか、同じ水槽の魚に捕食されるとかで、死んでしまう魚もいるんだろうし。いいことばかりじゃないのはわかってるけど、この魚はとてもきれい」
俺はきみが好きだ。ジュリアさんと比べることはできない、きみだけが泳いでいる水槽が俺の中にある。今きみが言ったことを、俺は一生忘れないだろう。俺は水族館を経営する人間になりたい。それか、魚の健康状態を気づかう飼育員だ。魚にストレスのかからない環境を作って、人が安心して訪れることのできる水族館にしたい。それはきっと、この水族館や、他の水族館もそうしているんだと思う。そういうことを調べてみようと思った。
「とりあえず順路あっちだから、行こうぜ。鳳凰院はサメ好きなんだっけ? 何種類かいるらしいよ。そんな大型のやつかはわからないけど」
時雨が涙が出ちゃうほど上手なエスコートをしている。
そうか、鳳凰院さんはサメが見たいのか! 俺の中で、サメ映画と水族館のサメはイコールで結ばれなかった。資質が違うというやつだろう。モテるやつとモテないやつは、そういう回路が違うのだ。俺の回路はとても通りが悪い。
順路をゆっくりと歩き出しながら、鳳凰院さんは少し不思議そうだ。
「サメのことなんて、篠田くんに話したことあったかな――」
「そいつからの又聞きだよ。人間関係ってのはそういうもんで、話はいろいろ伝わるもんなの。鳳凰院はあんまり噂話とかしないよね。それはいいとこだと思うけどさ」
ちょっとちょっと、ちょっとさあ。俺は鳳凰院さんが見ていないタイミングで時雨の肩をつっつく。お前、鳳凰院さんを落とそうとしてないか?
蚊みたいに振り払われた。そうして時雨は先頭を歩いている堤さんに声をかける。
「足元気をつけろよ。あと、もうちょっとゆっくり歩いてくんないか? チビだから歩幅が狭いんだよ。足長いね、堤」
「ウソ、短いって佐藤に言われたし」
言ってない、それは言っていないぞ。時雨は笑っている。
「堤はスタイルいいじゃんか。センスもいいし。そのレザーのブレス、学校にはしてきたことないよな。辛口のやつも似合うね」
「篠田やばすぎ、見すぎでキモい! うちちょっと調べたのね? 水族館のマナーみたいなやつ。したら、キラキラ光るアクセはやめとけみたいなの出てきたから、そんだけ」
そんだけって。俺はものすごくびっくりした。このギャル寄りの女の子は、なんかめちゃくちゃ繊細なんじゃないか? 俺もアクセスや館内施設については下調べをしたけど、服装のマナーなんか考えもしなかった。あと、時雨をキモいって言ったのか?
見ると鳳凰院さんもあきらかに「そんなこと考えもしなかった」の顔をしている。
「こういうとこがさ」
時雨は誰に向かってか、全員が平等に聞き取れるくらいの声で言った。
「俺、堤けっこう好きなんだよね。ときどきツボに入る」
堤さん本人は「また言ってる」みたいにニヤニヤしてるけど、俺はこいつすごいこと言うなと思って何も言えない。それはこの場で言っていいやつなのか、あとでこっそり言うやつじゃなくて? 鳳凰院さんはなぜかとても照れて、「えーっ」と言いながら頬に手をあてている。自分が言われたかのようだ。
「篠田くん、ええっ、サキのことそうなの? そうだったの?」
「そうだね、頭まっピンクじゃないし。鳳凰院の悪口じゃないよ、僕の周りの女子比でね。僕どうも、僕のことを好きじゃない子が好きなんだよね」
「篠田やばい。マゾじゃん。ウケる!」
きみはどういう子なんだ、堤さん。今こいつ、このイケメンの男が、きみのことを好きだって言ったぞ。聞いていたのか? ウケてる場合じゃないだろ。
鳳凰院さんもびっくりして、でもそれから何かに納得したように「そっか」とつぶやいた。
「友達としてってことだね。びっくりしちゃった、大きい声出してごめんね」
「そうかなあ」
俺はそれに納得できなくてつい口をはさんでしまった。
「そういうふうには聞こえなかったけどなあ、俺には」
堤さんが歩きながら、いらいらしたように少し大きい声を出した。
「うぜー、佐藤キモいよ。しつこい! こんな超きれいなとこで、いつまでもつまんねー話すんなし! てか、オーインってサメ好きなん? なんで?」
「なんで? うーん、強くてかっこいいから。人間なんてちっぽけで、大きな力の前では無力っていう感じがするから、それが好き」
「イミわかんねー。でも好きなのはわかったわ。よかったじゃん、サメいて。楽しみだね」
「うん!」
鳳凰院さんは短い距離を駆けて、堤さんの隣に並んだ。女の子たちは二人で話しはじめる。
時雨はアナゴを興味深そうに見ながら歩いている。細長いその生き物は確かに俺もおもしろいと思ったけど、つまんない話だってちょっとしたい。
「時雨、お前さ、堤さんのことさ」
「堤、弟と妹いるんだって。だから話しやすいのかもな」
「因果関係がわからないよ」
「わかんなくていいよ。兄貴とか弟いる女って、男を特別な生き物だと思ってないからラクなんだよね。フツーにしゃべってて変な空気出してこないの、けっこううれしい」
変な空気というのは、恋愛とかそういう雰囲気のいうことだろう。俺はそういう空気を出してほしい。モテる男の考えることというのは本当にわからないけど、時雨にとってはそうなんだろう。
「それより、どうよ水族館は。お前は遠足ぶりとかなんだろ」
「うん、きれいだね。俺、水族館に就職したい。帰ったら調べてみる」
「早いな感銘を受けるのが。でも、いいじゃん。女の機嫌取ろうとしてるやつより、そういうこと考えてるやつのほうが、水族館だって歩かれ甲斐があるだろうよ」
「何言ってんだかわかんないよ。女の機嫌も取りたいし。ここのレストランで昼食べて、それは当然おごるだろ。おみやげとかも何か買ってあげたほうがいいかな? どう思う?」
「そこまでしたらキモいんじゃないか。エンコーのおっさんじゃん」
「俺もちょっとそう思ってた! 聞いといてよかった、じゃあおみやげはナシで」
「いやなんか、思い出的に、小物みたいなの買ってあげるくらいはいいと思うけどな。鳳凰院、自由になる金あんまり持ってないっぽいし。僕も同じくらいの値段のやつを堤に買ってやるからさ、まあ千円くらいで」
「いいよ! 時雨バイトしてないだろ。堤さんのチケットも買ってくれたのに。昼とおみやげは、俺が堤さんの分も出す」
「僕は少ないけどこづかいをもらってんだよ。お前のバイト代はなるべく貯めとけ。受験が終わるまではもうバイトできないだろ」
そうなんだ、それは不安だった。ちょっとは貯めてあるけど、今日みたいなことが何度もあったら、すぐになくなってしまうだろう。そうしたらまたドトールにも行けない生活になる。
・時雨の好意を断る。
・時雨の好意に甘える。
・時雨の好意に甘える。
友達の好意に甘えることにした。この甘ったれた選択肢を、俺は成長のあかしだと思う。
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