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佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない  作者: 終焉エンドレス
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1:佐藤という名字は鳳凰院に釣り合わない



 鳳凰院(ほうおういん)香織(かおり)さんは学校一の美人だ。もちろん金持ち。この名字の貧乏人は存在しない。


 なのにどうして偏差値六十手前の公立高校に通っているのか、とわりと失礼なことを聞いたやつが何人かいて、「家が近いから」という回答が校内新聞に載せられた。うちの新聞部は終わっている。なんらかを多重に侵害しているだろう。


 新聞部のジャーナリズムのあり方は置いておいて、まあわかりやすいお嬢様、わかりやすい高嶺の花、それでいて気さくな人柄、それが鳳凰院さんだ。


 平凡なクラスメイトである俺、佐藤(さとう)孝太郎(こうたろう)は、なんやかんや三年間努力して、卒業式の日にみごと鳳凰院さんから告白された。しかも鳳凰院家はお兄さんが継ぐから、俺は婿養子に入ったりしなくていいんだそうだ。やったぜ。

 高校生の恋愛でいきなり「婿養子」という言葉が出てくるのが重いなーとは思ったが、俺はおおむねハッピーだった。ピアノ調のメロディが流れるほどだ。ポロンポロン、ララ~ン。


 流れ終わったときに、「エンドB」という小さめの文字が現れた。視界の右下、定位置。

 そうか、今のピアノ曲はエンドロールだったんだな。


 そう。俺にはどうやら恋愛ゲームの主人公の才能がある。少しだけ。


 三年の努力は成功するし、たまにBGMらしき曲も聞こえる。だけどボーッとしているだけでは何も成せないだろうし、スタッフロールの文字までは見えない。そんなもんが流れていたのかどうかは定かじゃないが、曲の長さからしてまあ流れたのだろう。


 喜ばしいこと、びっくりすること、悲しいこと。大きな出来事があると、そのムードに合った曲が聞こえる。


 しかし、文字系はほとんど現れない。高校生活の三年間で、この「エンドB」が五回目? だったかな。たしか「希望きらきら入学式」と「うきうき勉強会」「思い出のハンカチ」「悲しみを乗り越えて」とかだった。


 体育祭や文化祭では表示されなかった。たぶん俺が特に活躍しなかったからだろう。イベントではなく、スチル―――特別なイラスト――に合わせて出るのだと睨んでいる。三年で五枚しか出ないというのは低予算が過ぎるが、いろいろ事情もあるのだろうし。


 いや、俺は「この世はゲームで、俺は主人公」と思い込んでいるパラノイアではない。親友の時雨(しぐれ)は俺のために用意されたキャラクターなんかじゃなく、ひとりの人間だし、もちろん鳳凰院さんだってそうだ。


 そのへんがわかっているタイプのパラノイアなのだ。


 BGMや文字は思い込みだろうし、女子を前にするとなんとなく三種類の話題が思い浮かぶのも、別に変なことじゃない。そんなもんだろう。

 女子が微笑むとピロリンと明るい音が鳴るのも、うつむくとデデドンになるのも、俺がゲームをやり過ぎてきたからそういう気がするというだけだ。誤用のほうのゲーム脳。


 そう思っていた。一年の秋までは。

 曲や効果音が聞こえるようになったのは高校の入学式からだったし、俺ったら高校生活でテンション上がってらあ、単純にそう思っていた。


 あの秋の日、そう、スチルも出なかった冴えない文化祭で、俺は教室の後片付けを手伝っていた。内容も覚えていないようなクラスの出し物。つまんない展示。帰宅部だから仕方なく、女子に言われたとおりダンボールを切ったり、当日は「受付やってね」と言われてぼんやり座っていたりした。


 ぼんやりしたまま日が暮れて、ゴミ出しをおおせつかった。いじめられているというほどじゃないが、軽く扱われている、そういうランクの男子たちが。まあ適切な人事だと思いながら、両手にゴミ袋を持って、指定されている裏庭へ。それまで行ったことがなかったから、他の男子について行った。体育館の裏側。教師や来客が使う駐車場に隣接している、砂利の敷かれたわりと広い場所。


 そこにめちゃでかい宝石みたいなものが浮いていた。


 緑色で半透明の、キレイな――ボウリングの玉をもうちょっとでかくした感じのやつ。それが俺の目線くらいの高さに浮いていたのだ。

 台座のようなものはなく、上は空。吊る余地はない。なんか、すごい磁力のようなものだと思った。それか風力? とにかく、理系の部活の出し物かなと。


「あの緑のやつ、すごいね。キレイだけど捨てちゃうのかな?」


 同じゴミ袋を持っているクラスメイトに話しかけた。名もないモブではなく、池井弘道くん。池井くんは俺の目線を追って不思議そうに言った。


「ウリセンのカローラ? 捨てんの? 買ったばっかだから、ぜってー傷とかつけんなよって言ってたじゃん」


 生物の瓜川先生の新車? ああ、確かに停まっている。浮いている石のだいぶ向こう側。


「そうじゃなくて、あの浮いてるやつ」


 俺がそう言うと、池井くんは顔の半分をくしゃっとする笑い方をした。脈絡がなくてつまんねーから返事するのもめんどくせ、の顔。すぐに背中を向けて行ってしまった。


 もうひとりのクラスメイトに声をかけた。確か太田――下の名前は思い出せないな、太田くんに、


「あの浮いてるやつすごくね?」


 と話しかけると、太田くんは目を細めて、俺の指した先をじっと見た。すごく目が悪いのか? 緑の浮く石があるのはほんの五メートルくらい先、俺の感覚では目の前だ。


「なんか虫?」


 すごい虫が浮いてるなら嫌だ、の顔をして、太田くんは急いで行ってしまった。


 いま思うと俺は同ランクの男子からさえ人望がない。しかしその時は、そんなことより、あのすごい装置? が気にならないなんて、みんなクールなのねと思っていた。それか、興味ないぜというポーズを取りたいお年頃なのかしらと。


 俺もそういうお年頃ではあったが、それよりも好奇心が勝った。右手のゴミ袋をちょっと地面に置いて、石のほうに近付いた。もちろん触った。

 表面はそれこそボウリングの玉のようにつるっとしていて――


 目の前が真っ白になった。


 やべえ、すごい磁力が身体に悪影響を及ぼしている! 完全にそう思った。こんなもん放置すんなよ! 知らなきゃ触っちゃうだろ! と。


 けっこう長め、何十秒かして、白かった視界がじわじわと暗くなってきた。周りが見える、よかった――


 周りにたくさんの人が座っている。俺も座っていた。屋内。体育館。響き渡る誰かの、何かを読み上げるような声。

 回復した視界の右下に、「希望きらきら入学式」の小さな文字。テンション上がった俺の妄想だと思っていた、あのテロップ。


 細かいことを言ってもしょうがないから省く。

 つまり俺は、一年の入学式の日に戻ったのだ。あの浮いていた石は、セーブとかロードとかリセットとか、そういうシステムを扱うオブジェクトだったということだ。

 俺のパラノイアレベルが一気に上がったが、そのへんもこれ以上言ったってしょうがないだろう。以下、俺の妄想として聞いてくれ。


 その石を、便宜上、セーブ石と呼ぶ。

 俺はセーブ石を、そのとき初めて見たのだから、その時点でセーブデータはない。セーブ石だと知らないのだから、セーブの仕方ももちろんわかっていない。


 ロードするデータがなく、セーブもしなかった。だからリセットというのも作りが雑だと思うが、それも低予算だからしょうがないのだろう。


 もちろん混乱した。

 超磁力の後遺症で俺の記憶が飛んで、後夜祭の式典みたいなのが体育館で行われている最中なのかな、そう思ったが、壇上には「入学式」の垂れ幕があった。声は校長による歓迎の挨拶。

 ドッキリだとは思わなかった。どう見ても学年全員が揃っていたからだ。カースト低めで人望もない俺に、そんな規模のイタズラを仕掛ける価値はない。


 これは時間が巻き戻ってんなと、わりと早めに飲み込んだと思う。なにしろ俺はゲームをよくやっていたから。小説でもそういう話を読んだことがある。BGMらしき曲、効果音らしきサウンド、そしてついさっき出て消えたテロップらしき文字。

 シミュレーションゲームとライトSFの教養がある俺は、なるほどねと思った。もちろん呆然としてはいたが、まあそういう夢だろうと。


 何日か過ごして、夢にしても長いやつだな、じゃあ2度目の現実だと思っとくか、と気持ちを切り替えた。


 世界を救うことになるかも、と怯えたこともある。すごいでかい恐竜が学校をガシャーンとしに来るかも。空からたくさん隕石が降ってくるかも。人がみんな氷漬けになっちゃうのかも。

 そういうことは何も起きず、五月になった。授業は退屈で、テストは若干いい点数を取れた。二度目だから。


 セーブ石のある裏庭には、どうしても怖くて行く気になれなかった。そのときはリセット石だと思っていたし。


 どうしたもんかなと思いながら、俺は池井くんとちょっと仲良くなっていた。一度目はこの時期につまづいてしまって、友達らしい友達を作れず、かなりさみしい思いをしたのだ。


 池井くんはいいやつだった。授業つまんないよね、とか俺が話しかけると、「お前の話もつまんねーよ」と顔をくしゃっとしながら笑って、好きだという動画をスマホで見せてくれた。意外にも古典のSF映画を紹介するという内容で、その喋り方が面白くて興味をひかれた。紹介されていた映画を、その日の放課後、池井くんといっしょに見た。


 映画が終わって、これまじ面白いねとつぶやいた俺も、だよなと言った池井くんも、ちょっと涙目になっていた。配信サービスじゃなくて、池井くんはDVDを持っていたから、池井くんの家で見たのだ。あの動画というよりも、この映画が好きで、誰かに見せたかったんだなと思った。


 池井くんは映画、俺はゲームと小説、ジャンルは違うけど、軽めのオタクということで話が合った。学校生活は楽しくなった。授業を真剣に受けて、成績をすごく上げるというのも面白いかなと思った。もし何十回も同じことを繰り返すなら苦痛だろうけど、あの石に触らなければきっとそうはならないんだろう。たまに聞こえるBGMも別に嫌じゃない。


 二度目だからといって、そこまで要領よくやれたわけじゃなかった。仲良くなれたクラスメイトも池井くんだけ。でも、それで充分だった。まあもちろん、女子と付き合ったりできたらもっとステキだろうなと思ってはいたけど、高一の秋から春に戻っただけのニューゲームじゃ、たいして強くもない。所持ゴールドが数%増しになったとか、ゲームで言えばそんな程度のことだろう。消費税くらいの差だ。


 ──それに女子は怖いし。


 バキバキの童貞だからじゃない。いやバキバキの童貞だけど、別の理由で、女子には憧れるけど、近付くのは怖いとも思っていたのだ。


 ──思い浮かぶ三択の話題。その結果のピロピロ音。


 オタク友達と楽しくやりながら、勉強も少しできるようになった。そんな現在が、ほんのりとした幸運な夢や妄想ではなくて、『ゲーム』なのだと強く思わされる気がして、それが怖かったのだ。セーブ石を見にも行く気にならなかったのと同じ理由。


 BGMは俺の心象風景の一部みたいなもんだからいい。でも、ピロリンとデデドンは、女子の心の中のことじゃないか。


 ぜんぶ妄想だ。妄想の音だ。だから、BGMもピロデデも変わらないはず。「俺が想像する女子の心の中」によって、俺の脳が効果音を鳴らし分けているだけ。

 そう思うようにはしていたが、それでも怖かった。テストの点はやっぱり高め。だって二度目だから。あれ、二度目なんていうのは俺の妄想だったんじゃ? 夢だから! 二度目という夢! でも長い夢だ。夢が長くて何が悪い?


 池井くんは映画研究部に入ったから、だいたい放課後はひとりだった。俺は部活には入れない――いや、文化系の部活ならお金もかからないだろうし――でも――池井くんは誘ってくれたけど、映画には詳しくないし――配信サービスの料金って月にいくらくらいなのかな――。


 いい匂いがした。花? 果物? よくわからないけど、とてもいい匂い。


 目の前に白いものがあった。白い手。白い四角いもの。折り畳まれたハンカチだった。夕日でうっすらオレンジがかる直前の、ほんの一瞬の色。


 自分の机でボーッとしているうちに、日が暮れかかっていたらしい。


 白い手は、女子の手だった。女子がハンカチを差し出している。俺に?

 落とし物? 俺はハンカチなんて持ってないけど、近くに落ちていたのかな。鳳凰院香織さん。すごい苗字。家が近いからこの学校に通っている、そんな個人的なことを校内新聞に書かれて、受験で入った生徒から悪口を言われている。美人でお金持ちなのに、あるいはだからか、クラスで浮いている女の子。


 肩より少し長いさらさらの髪。夕焼けの中でなくても明るい茶色で、お母さんがハーフだとかいう噂がある。鳳凰院といえば元財閥だし、お父さんの肩書きとかもネットで調べれば出てくるのかもしれない。この子のプライバシーは軽んじられている。


 お嬢様なのに垂れ目で――ゲームに出てくるお嬢様は吊り目が多いから――黒目が大きく見えて、ハムスターっぽい顔だなと思う。なのに身長が高くてすらりとしていて、耳にピアスなんかを光らせているから、男子もちらちら見ながら近寄れずにいる。茶髪もピアスも高い身長も、一年の女子には珍しい。


「あのね、手が疲れるんだけど……」


 わかっていた。鳳凰院さんは、俺が、くそ、泣いているからハンカチを差し出してくれているのだ。


 ひったくるようにその白いハンカチを取ってしまった。ぐいっと目元を拭く。

 それから、どうしていいかわからなくなってしまった。このまま返したら不潔だろう。でも、持って帰っていいんだろうか? あの人は絶対にこういうものを見逃さない。公園で洗うか、でもどこに干せば?

 考えているうちに、息が荒くなってきてしまった。ハアハア言いながら女子のハンカチを握りしめる男。キモすぎる。周りを見回した。


「みんな帰ったよ」


 呆れたように鳳凰院さんは言った。目の前のダサい男子が、ダサい姿を見られていないかとダサいことを考えて、ダサくキョロキョロしている。そんな姿に呆れているのだ。


「佐藤くんさ」


 きれいな眉毛。俺のぼさぼさの眉毛とぜんぜん違う。それが八の字になっている。


「ありがとうとはいわなくても、こんなのいらねえよとか、フンとかヘンとか、せめてなんとか言ってよ。無言は気まずいよ」


 このお嬢様は、しゃべると普通の女の子っぽいのだ。よく知っている。俺もこの子のことをちらちら見ていたから。一度目も、今だって。


 三択は出ていた。


 ・ありがとう

 ・うるせえ

 ・何も言わない


 こんなの三択じゃない、一択だ。俺の三択はこういうことがよくある。役立たずの、ちょっと気味が悪いだけの能力。地味な妄想。そりゃ俺の妄想なんだから、俺の思いつくことしか出せないよな。

 鳳凰院さんは、俺の妄想なんかでは作り出せない可愛い顔立ちの女の子は、ピンク色の唇をきゅっと軽く噛んだ。なんて言ってハンカチを返してもらおうかな、そんな顔。


「ごめん、洗って返す」

「けっこう洗い方複雑だよ」

「洗い方?」

「レースついてるから、手洗いで、アイロンも直接かけないで、布をあてるの。お母さんにそんな細かいこと頼める? 男の子って、お母さんとあんまり喋りたくないんでしょ?」


 俺はこの流れのすべてにびっくりしていたが、また新しくびっくりした。女の子って、みんなそんなに細かいところに気が付くんだろうか。男の子って、お母さんとあんまり喋りたくないんでしょ。こんなの、おばさんの先生が言うような言葉じゃないだろうか。


「ごめん、できない。うち、お母さんいないし」


 さっと鳳凰院さんの顔が青ざめた。今は三択さえ出なかった。気が利かない俺の、どうしようもない反射。ハンカチを差し出してくれた女の子を一番困らせる言葉。最低だ。

 握っているハンカチを――机に置くことも、もちろん鳳凰院さんの手に返すこともできなくて、握ったままに俺は椅子を蹴って駆け出した。


 裏庭へ。本当にどうしようもない理由だとわかってる。恐竜も出ていないし石も降っていない。でも無理だ。もう鳳凰院さんの顔を見られない。やり直したい。なかったことに。自分の醜態が耐えられない。


 走る。裏庭に、ずっと来ることもできなかったそこに、緑色の石は浮いていた。セーブされたら最悪だということは、そのときは考えていなかった。リセット石だと思っていたから。前回と同じように触れば、同じことが起きると、それだけを信じて願っていた。


 そして、その通りになった。



 三度目は、池井くんとはあまり仲良くなれなかった。最初のうちは二度目と同じように話しかけたけど、池井くんが知っていることばかり言うのが気持ち悪くなって、もう話したくなくなってしまった。


 テストの点数はかなりよくなった。担任にみんなの前で褒められて、それをきっかけに篠田時雨が話しかけてきた。鳳凰院香織さんほどではないが、芸能人みたいでかっこいい名前。顔も女の子っぽい美形で、背は低いけど女子から人気がある男子。こいつのほうがよっぽど主人公っぽいと、当時の俺は思っていた。


「佐藤くんって、一年の全クラスにひとりずついるらしいよ。きっと振り分けたんだね。もしかして六人目以降の佐藤くんは入試で落としたのかな?」


 休み時間に、けっこう突飛かつブラックなことを言いながら、後ろの席のそいつは俺のテスト用紙を覗き込んできた。


「勝手に見ないでよ」

「見せびらかしてるのかと思った。普通すぐしまうでしょ」


 皮肉っぽい言い方だが、顔はにこにこしていて、こういうキャラなんです、悪気はないんだよとアピールしているように思えた。不思議と、そんなに嫌な感じはしない。


「僕って高校デビューなの。中学が同じやつ、他のクラスにしかいないから助かった」

「整形?」


 そのくらいきれいな顔をしているのと、会話のノリ的に、そんなことを言ってしまった。進学を期に整形手術というのはニュースで見たことがある。きれいな顔でにやっと笑った。


「まあ褒めてくれたんだと思っとくよ。顔は天然。でもかすってるかな? コンタクトにしたの。チビでメガネだから、超ナメられてダルかったんだよねー。ガリ勉って言われるのが嫌で、勉強もあんまりしなくなってさあ」

「それで志望校のランク落としたって言いたいの?」

「落としてません。鳳凰院さんと同じで、歩いて通える範囲で選んだんだもん」


 少し感心した。周りの女子がこっそり注目していることに気付いていたようで、後半はとても小さい声で言ったからだ。毒舌キャラかと思ったけど、女子には気を使えるやつらしい。

 この学校を選んだ理由は嘘ではないにしても、本当はもっと勉強ができるということは言いたいのかもしれない。テストをきっかけに絡んできたくらいだし。


「篠田くんって、自分は周りと違うとか思ってる? イケメンだし」

「下の名前で呼んでほしいとは思ってるよ。時雨って、イケメンっぽくて気に入ってるから」

「時雨くん、ちょっとキモいな」

「やっぱチビだから? 今みたいなのって、身長の高いヤツが言ったらかっこよくない? 少女漫画の切れ者イケメンキャラみたいで」

「少女漫画は知らない。時雨くんはそういうの読むの?」

「くん付けってオタクかヤンキーの文化じゃない? ウチの中学だけか? 呼び捨てにしてよ。僕も少女漫画なんて知らないけど、イメージで言ってみただけ」


 どうしてかわからないけど、俺は時雨を少しだけ好きになった。池井くんのように話が合ったというわけじゃないのに、話していてなんとなく楽しい。向こうもそう思ったようだ。


 時雨は何人かの――わりとイケている男子と仲良くしていて、そっちと喋っていることも多いけど、週の半分くらいは俺と弁当を食うようになった。


「佐藤の弁当いつもうまそうだよね。あ、いいよ分けてくれなくて。僕、人んちの料理って苦手でさあ」

「それでもうまそうとは思うんだ?」

「美人だと思うのと、付き合いたいのと思うのは別じゃん? ねえ」


 卵焼きを食いながら時雨がちらっと見たのは、鳳凰院さんだ。四人の女子で集まって机を寄せて、おしゃべりしながら弁当を広げている。

 俺の顔を見て、時雨はにやっとした。こいつのお馴染みの表情だ。


「ニコニコしちゃって。佐藤は美人と付き合いたいと思ってるクチ?」

「や、そういうんじゃなくて! あのヒトって先週まで一人で飯食ってただろ。友達できたんだなって」

「うわ、何目線? そういうのすげーダルいと思うよ。佐藤だって僕と食わないときは一人じゃん。さみしいと思いながら食ってんの?」


 ちょっとな、と答えたら本気で軽蔑されそうな言い方だった。時雨は一人の食事や、それを周りに見られることが、特に嫌ではないのかもしれない。そういえば俺と弁当を食わない日は食堂に行っているらしいけど、その姿を見たことはない。イケているグループと一緒なのかと思っていたけど、意外と一人でうどんをすすっているんだろうか。


「女子ってグループ作らないと教師からも目つけられるじゃん。もう五月になるし。ハジかれてる鳳凰院さん入れてやれば評価上がるし、あのコたち優等生グループだしね。偶数のほうがいろいろ都合いいんだろうし」


 そう言って時雨はパックの牛乳をストローで吸った。身長を伸ばしたいというベタな理由ではなく、味が好きなのだそうだ。


 俺には女子の人間関係なんてよくわからない。そんなことより、もう五月、という言葉が頭の中でぐるぐるしていた。


 ――あの白いハンカチ。あれは五月のことだった。何日だったかは覚えていない。


 入学式の日から、鳳凰院さんと話してはいない。前回も、その前もそうだったように。

 俺はどうしたいんだろうか? 五月に入ったら、毎日夕方になるまで席に座って、目薬でもさすつもりか。目薬っていくらくらいなんだろう。


「佐藤さあ」


 自分のことは下の名前で呼んでくれと主張したくせに、せっかくクラスに一人なんだから、とか言って時雨は俺のことを苗字で呼ぶ。篠田だって鳳凰院だって一人だろ。


「部活もさあ、五月になると入りにくくなるぞ」


 時雨は卓球部に入っている。イケメンの卓球部員っているんだな、と褒め半分イジり半分で言ったら、まあ僕がレギュラー狙える運動部って限られるしね、と苦笑いしていた。あのとき謝り損ねたことを俺は今でも後悔している。


 時雨はイケメンだし、強めのグループに属しているし、勉強もできる。こんなやつには悩みなんてないと思っていた。友達になれるとも思ってなかったな。


「おーい。聞いてんのかって」

「え? 何?」

「部活。遅れるほど入りにくくなるぞ。ポジション決める部とかさ、もう固め始めてるだろうし」


 俺はとろい。今まで友達が少なかったからだろうか。女子のグループの仕組みも知らないし、時雨が心配してくれていることにも今やっと気がついた。


 そもそも、同年代の人間に、心配なんていう機能がついていることも最近知ったばかりだ。鳳凰院さんが女神なのかと思ったが、時雨も俺が泣いていたらハンカチを貸してくれそうな気がする。でも男子はハンカチなんて持っていないか。


 泣いているクラスメイトがいたら心配する、それが普通なのだとしたら、俺はたぶん薄情だ。びっくりして、見ないふりとかをすると思う。たとえ泣いているのが鳳凰院さんだとしても、俺の三択に「ハンカチを貸す」は出てこないだろう。持っていないし。


 役立たずの三択。インプットを増やせば、アウトプットも増えるんだろうか。


「映画研究部って……」


 インプット、で思いついた部活がそれしかなかったから、口から出た。俺は部活案内みたいなプリントを見ずに捨てたから。

 時雨の表情がなぜかぱっと明るくなった。


「佐藤、映画好きなの? いいじゃん! へえ、そんなのがあるんだ。今日見に行けば? あ、そういうトコって映画流してたりすんのかな。アポ取ってから行った方がいいかもね。あのさーあ!」


 時雨が急に大声を出したので、俺はコロッケを床に落とした。急いで拾う。三秒ルールならセーフだったけど、教室にいる全員が注目しているので、弁当箱のフタに置いてあとで食うことにした。


「映画研究会に入ってる人っているう?」


 しんとした。別に変な沈黙じゃなく、いる? と確かめあっている感じ。


 少し間を置いて、「研究部だよ」と言いながら池井くんが小さく手をあげた。

 あげるんだ。池井くんが教室にいるのはわかっていたが、ここで返事をするとは思っていなかった。俺なら。俺が池井くんの立場なら、知らんぷりをしてしまう。

 時雨が微笑んだ。にやり顔じゃない、外向きの感じのいい笑い方。


「今日って活動してる? 見学しに行っていい?」

「え、篠田、映画好きなの……」

「トラックめっちゃ走らせるやつしか見たことない。俺じゃないんだけど、今日ダメ?」

「いいよ! 全然来てほしい。部員少ないし、見学だけでも助かる」


 池井くんは両手を交互に振る、女子みたいなポーズをして喜んだ。そんなに部員がほしかったのか。それとも、時雨のようなイケてるやつに頼みごとをされたのが嬉しいのかもしれない。見学に行くのが俺でもそんなに喜んでくれるのか?


 そこでまた時雨の気遣いに気がついた。たぶん――たぶん、注目を浴びている中で、俺の名前を出さないようにしてくれたのだ。そういうやつだとわかってきている。


 みんなが食事や会話に戻る。池井くんも友達と向き合ってパンを食べている。そういえばなんとなく気恥ずかしくて、前回、池井くんに一緒に食べようと声をかけたことはなかった。あのときは池井くんも一人で食べていたと思う。俺がいなければ別の友達を作るんだ。一瞬さみしいような気がしたが、そんな風に思うのは変か。


 前々回の池井くんはどうだっただろう、とふと気になった。今と同じ友達と昼飯を食べていたのだろうか。思い出せない、というよりも見た記憶がない。前回の時雨のことを見ていなかったように。

 鳳凰院さんは――

 本人と目が合った。ハムスターのようなくりっとした目。こっちのほうを見ていたのだ。でも俺を見ていたわけじゃない。


 鳳凰院さんは時雨を見ていた。




 放課後、池井くんに声をかけた。見学したいのは俺なんだ、でも今日は用事ができちゃって、ごめん。

 そうなんだ、全然いいよ、じゃあ明日来てよと池井くんはにこにこしていた。佐藤って映画好きなんだ。どんなのが好き?


 あの映画のタイトルを答えれば、また池井くんと仲良くなれるんだろう。だけど俺は、あんまり詳しくないんだけど、いろいろ見てみたくて、とあいまいなことを言った。卓球部に向かう時雨に聞かれたくなくて、小さな声で。


 教室には、何人かの生徒が残っている。池井くんも時雨もいない。鳳凰院さんも。

 時雨がアポまで取ってくれたのに、池井くんも嬉しそうだったのに、映画研究部にだって行ってみたかったのに。俺は自分の席から立てなかった。用事があるって池井くんに言ったのに。


 たいしたことじゃない。裏庭に行って、あの不気味な石を触るほどじゃない。何も悪いことは起きていない。むしろすごく良い流れじゃないか。明日さ、映画研究部に行って、池井くんとも仲良くなって、時雨と三人でつるんだら楽しそうだ。あ、池井くんの友達もいるんだ。ええと、彼は何くんだっけ? 鵜飼(うかい)くん? 俺は本当に自分のことしか見えてないな――。


 くすくす笑いが聞こえてきた。


 ――佐藤、ずっと何してんの? キモ。

 ――篠田くんと仲いいの謎じゃない? なに話してんだろ。

 ――別に佐藤もブサイクじゃないけどさ、カンジ違うよね。


 少し胸がギュッとしたけど、そこまでショックじゃなかった。

 確かに俺は何をしてるんだろう。時雨が仲よくしてくれるの、謎だよな。俺とはカンジ違うしさ。


 夕暮れが近付いてきた。帰りたいと思う。帰りたくないとも思った。弁当のコロッケを、結局残してしまった。あれを帰り道の公園で捨てないと。面倒くさいな。クラスの誰かに見られたら、またあだ名をつけられる。ゴミ弁。同じ中学から来たやつってこのクラスにいたっけ? そしたらもう呼ばれてるんだろうな。


「佐藤くんさあ?」


 かん高い女子の声で呼ばれた。つい今、俺の悪口を言っていた声。

 だるい首を動かして振り向くと、ええと、タカバタさん? タカハタさんだったかも。少しぽっちゃりした女子。俺を睨むようにしている。いっしょに悪口を言っていた子たちはいなくなっていた。帰ったのかな。


「ねえ、聞いていい? あのさ、えーっとさ」


・体調が悪くて座ってるんだよ。

・さよなら。

・なんだよ、うるせえなブス。


「さよなら」


 いちばん無難な選択肢にしたつもりだったけど、高幡さんは不審そうな顔をした。


「え、話しかけんなってこと?」


 普通の挨拶をしただけなのに。

 ――そうか、今の流れで急に挨拶は変なのか。話しかけてきたんだから。

 また一択を出してきた俺の頭。役立たずのシステム。今はBGMも鳴らない。


「ごめん。ぼっとしてた。何?」

「あ、あのね」


 高幡さんはセーラー服のリボンをいじっている。


「佐藤くんって映画好きなの? ゴメン、昼ちょっと聞こえちゃって」

「うん。少ししか見たことないけど」

「そうなんだ。あのさ、あのお、トラック走らせる映画って、何ていうやつかわかる? アクションかな?」


 その必死そうな顔を見ていたら、すっと心が静かになった。そっか、俺になんて興味ないんだ。緊張するほどのことじゃなかったな。


「うるせえな、ブス」


 高幡さんは目を少しだけ見開いて、何も言わなかった。そういうタイトルだと思ったのかも。ははは。

 どうでもいいや。帰ろう。コロッケを捨てないと。

 席を立つ。教室の後ろのロッカーにリュックが。振り向いて、その出口に。


「本当にゴミ」


 その女の子が言った。ハムスターのような目。垂れ目なのに目じりが吊り上がって見える。


「本当にゴミなのね。アミに、そんな呼び方やめなよって言ったけど」


 アミ。知らない。この子をグループに入れた子か? 優等生グループと言ってなかったか。関係ないか。俺と同じ中学だったかどうかだけが関係あるんだ。


 自分の腕が細かく震えているのがわかる。ゆっくりと高幡さんを見た。頬に涙のすじ。目が真っ赤になっている。


 ゆっくりともう一人の女の子を見る。その子はスカートのすそをひるがえして、俺のことはもう見もせずに、高幡さんに近付いた。自分の腰のあたりをごそごそしてから、その手を差し出した。


 白い手に白いハンカチ。折り畳まれた。レースがついているらしい。手洗いの。高幡さんに。


「トイレ行こ、高畑さん。あいらいなあ貸してあげる」


 タカバタさんだったのか。あいらいなあとはなんだ? 俺は何もわかってない。本当にゴミだ。公園に捨てた方がいい。


 あそこへ行こう。リュックもコロッケもどうでもいい。タカハタ、いや、高畑さんには謝りたいと思った。女の子を泣かせてしまったのは初めてだ。胸のあたりの内臓をぎゅうっと握られたような気分になった。さっきの比じゃない。息苦しい。謝りたいけれど、あの子が俺と高畑さんの間に立っている。高畑さんを守っていた。俺というゴミから。


 高畑さんがしゃくりあげたのを聞いて、俺は教室の外へと駆け出した。




 緑色の石の前に俺は立っている。急いで手をかざしかけて、引っ込める。

 俺はゴミだ。この期におよんで卑しいことを考えている。

 入学式に戻して、それから――


 時雨とまた仲良くなりたい。池井くんとも。鳳凰院さんはもういい。俺にハンカチを差し出してくれたのは、誰にでもそうする優しい子だったというだけだ。手の届かない女の子なんだ。


 高畑さんには謝りたい。でも、謝ったってまたあの不審な顔をされるだけだ。変な挨拶と同じ。


 ええと、時雨と仲良くなるには、そう、テストでいい点を取ることだ。たしか、九十四点。それより高すぎてもいけないのかな? それは試したらいいか。なにしろ何度も戻れるんだから。

 そう考えたら、本当にどうでもいい気分になった。石に手をかざす。


 ・―――

 ・―――

 ・―――


 なんだ、この三択は? 周りに人はいない。鳳凰院さんや高畑さんのことを考えていたからだろうか。


 なんでもいい。どうせ俺の妄想だ。夢だ。より都合のいい夢へ行きたい。


 周りに誰もいないのだから何も言わなかった。ただ、なんとなく、いちばん上を意識したかもしれない。女の子が目の前にいても、選択肢は出ることもあるし、出ないこともある。いい加減な妄想なんだ。内容もはっきりしていたりぼんやりしていたり、あとからじわじわ言葉になったり――


・セーブ

・ロード

・リセット(セーブデータがある場合は使用できません)



 ごちゃごちゃ俺の泣き言を聞くのは嫌だろう。


 そう、俺はよりによって、ここでセーブをした。なんで今まではリセットだったのか、当時は何日かかけて考えたけど、たぶん――どれを選択するつもりもないと、三番目が自動的に選ばれるんじゃないか? 高畑さんにあんなことを言ってしまったように。いや、あれは二番を選んだんだっけ。でもバグっぽい回答だったから、選択場面が回帰したのかもな。


 セーブデータがある場合はリセットできない? どういうことだ。そんなシステムは見たことがない。いや、あったかもしれない。クリアするまで新規のデータを作れない、低予算のゲームならそういうことが。セーブデータを削除しなければいけないタイプ。削除のしかたは? 教えてくれ。



 白い光は訪れなかった。俺は途方に暮れてそのまま家に帰って、弁当ごとリュックを学校に置いてきたことをものすごく叱られた。


 風呂にも入らずに寝て起きた。そのまま家でぼんやりしていたかったが、もちろん許されなかった。見てわかるほどの高熱でも出ていない限り、俺は学校を休んではいけないのだ。

 足を引きずるようにして登校した。カバンも持っていないのに弁当箱だけ持っているのがとてもみじめで、捨てていきたいと本当に思ったが、そんなことをしたら。


「佐藤? 佐藤!」


 わき腹を殴られたのかと思ったが、その笑顔を見て思い出す。軽いタックルだ。小柄なこいつの、親しみを込めたふざけ方。


「カバンどうしたんだよ? それ何? え、え――弁当? だけ?」


 笑いの混じっていた声が、だんだん硬くなり、顔もそうなった。

 時雨のこんなにこわばった顔は初めて見る。


「なに、え、家の人になんかされたの?」


 ゆうべから頭の中がしびれているようで、しっかりしたことなんて何も考えられなかったのに、その言葉で突然、我に返ったようになった。


 BGMが流れる。暗い、薄気味の悪い曲。ゲームなら死体を発見したときのような音楽。


 俺が高畑さんを泣かせたことを時雨は知らないらしい。中学の頃と違って、俺のうわさ話を流すメッセージグループはないんだろうか? 俺と仲がいいから時雨は外されているのかも。そうだとしたら申し訳ないな。


「なあって! ちょっと、こっち来い」


 このあたりは通学路だから人目がある。腕を引っ張られて、小さな空き地のようなところへ連れて行かれた。


 時雨は俺の頭から足までを確認するように見て、最終的に顔を見た。おそろしいものを見るような、でも少し違うかも。小学校の頃の、保健室の先生と同じ顔だ。その顔で言った。


「親父さん?」


 どうして?

 違う。俺のこのみじめな姿に、親父はまったく関係ない。だけど時雨、どうしてそう聞こうと思ったんだ。俺はお前に、学校の誰にも、親父のことなんて何も。

 さっきまでは頭がビリビリしてた。今はグラグラする。目が回っているんだろうか。


 ――佐藤の弁当いつもうまそうだよね。


 ちょっと、ちょっとだけ違和感があった。そのときだけじゃない。時雨としゃべっているとき、たまに。

 こいつはけっこう皮肉っぽい感じなのに、ときどき、なんというか、ふわっとした物の言い方をすることがあったのだ。


 ――佐藤の弁当いつもうまそうだよね。


 たとえば、池井くんとは弁当を食ったことがなかったけど、彼ならこう付け足したんじゃないか?


 ――佐藤の母ちゃん、料理うまいんだな。


 時雨は知っていたんだろうか。俺に母ちゃんがいないことを。

 鳳凰院さんは青くなったけれど、別にそんなに珍しいことじゃない。普通の公立校だ。親が離婚しているやつなんかそこそこいるだろう。

 だけど時雨は、もっと何かを察しているんじゃないか? 人の顔色が読めるやつだ。


 そんなことどうだっていい。今は高畑さんのことを考えないと。高畑さんに言ってしまったことをうまくごまかして、時雨や池井くんに嫌われないように。違う! 高畑さんに謝らないと。俺は本当にゴミだ!


「た、高畑さんに」


 泣き声のほうがまだマシというくらい、俺の声はみっともなく震えていた。


「高畑? 高畑って?」

「う、うちのクラスの、高畑さん」

「高畑奈々絵?」


 そんな名前だったのか。俺は苗字もよく覚えていなかったのに、やっぱり時雨はちゃんと周りのことを見ている。


「高畑がどうしたんだよ。なんか――その――いじめか? 高畑にされたのか?」

「違う! 俺がひどいことを言った! あの子、お前のこと好きなんだよ! それで! 俺、あんなこと言うつもりじゃなかったのに、俺の中の! 選択肢が回帰して!」

「そうか」


 時雨はぎゅっと眉間にしわを寄せて、短くそれだけを言った。

 俺の頭がおかしいと思ったんだろう。それは正しい。俺はセーブとかリセットとか、BGMとか選択肢とか、変な妄想に取りつかれているし、その妄想を悪用はしていないと思うけど、でも、自分がしたひどいことを無かったことにしようとした。俺は頭がおかしい上に、悪い人間なんだ。でも、時雨にそう思われるのは少しつらい。


 しばらく黙ってから、時雨は小さな声で言った。


「佐藤さ、高畑のことが好きだったの?」

「え? え、え。ううん。違う。俺は、鳳凰院さん――鳳凰院さんが来て、あ、俺が高畑さんを泣かせて、鳳凰院さん、違うんだけど、俺が。俺がパニックみたいになっちゃって」

「ああ」


 自分でも支離滅裂だと思ったのに、時雨は「全部わかった」とつぶやいてため息をついた。


「いや、全部じゃないけど。八割がたわかった。けっこうな割合で僕のせいだね」

「え、え、なんで? なんで時雨のせいになるの?」

「僕も僕が悪いとは思わないけどさ。原因としては、僕の占める割合が大きすぎるよね。でも、こんなに速く、こんな悪い形で炸裂するとは思わなかったんだ。正直、つまんないことだと思ってて」


 時雨は自分の頭をぐちゃぐちゃと掻き回した。それなのに顔が良いから、かっこいい無造作ヘアみたいになった。


「時雨。篠田!」

「きついわ、そういう距離の取られ方」


 時雨は下唇をぐっと噛むようにした。どこかで見たような表情だ。どこだっけ。時雨のこんな顔は見たことないはずだけど。


「よく知らないけどさ、高畑も鳳凰院もフツーにいい子そうじゃん。佐藤だって。なんでこうなんの? 僕チビだし、ガリ勉だしさあ、そんな良くもなくない? わかんないよ。知り合って一カ月も経ってないのに、たいして築いてもないのに、こんな全壊する?」

「え、え。あっ」


 時雨のように、全部も八割もわからない。でも、時雨がどういう気持ちなのかは、わかった気がした。


「違うよ、しの、時雨。俺の頭がおかしいのと、高畑さんにひどいこと言ったのは、関係ないんだ。関係なくはなくて――でも関係ない。お前のせいじゃないよ」

「別に佐藤の頭がおかしいとは思ってないよ。気になる、てか、好きな女の子にマズイところ見られて、わーっとなっちゃったんだろ。佐藤がそこまで本気だと思ってなかったから、僕もイジッちゃったことあるかも。ごめん」

「違うよ」


 そう、俺の頭がおかしいことは関係ない。

 俺はただ、気になる女の子がお前を見ていて、モヤモヤしただけだ。

 それで他の女の子も、同じ時間に同じことをしていたとわかって、その子に八つ当たりしてしまっただけだ。最低な八つ当たりを。それを鳳凰院さんに見られた。


 本当にこれだけの話だ。俺がひどいことを言ったから、女の子を泣かせただけ。もう一人の女の子に嫌われただけ。俺はそれから逃げたいゴミなだけ。


 頭の中が静かになってきた。あの嫌なBGMもいつの間にか消えている。

 通学路のほうも――本当に静かになっていた。ほとんど人の姿はない。とっくに始業時間を過ぎていると思う。


「時雨、ごめん。えっと、遅刻させたのと、話がヘタだったのと、それでお前のせいみたいな気分にさせたのと、あと、ヤバいところ見せて。ごめん」

「最初と最後のはホントそうだわ。こういう青春大爆発みたいなのって、もうちょっと後でやるもんじゃないの? 一年の四月に起きるイベントじゃないだろ」

「時雨もゲームとかやるの? なんか、世界がそういう風に見えたりする?」

「ゲームは人並みにやるよ。世界ってか、フツーに比喩でしょ。え? お前は世界をゲームと思ってるから、カッとなるとメチャクチャにしたくなるの?」

「違う……くないかも。そうかもしれない。ホントにそうかも」

「マジかー。じゃあ気をつけろよ」


 うつむいて続きを待ったけど、時雨は何も言わなかった。

 そろそろとうかがい見ると、髪を気にしたりしている。さっき自分でかき回したから。


「え? 終わり?」

「終わりって? あー、そういうのだろ。ゲームじゃないんだから、終わりとかないって」

「そうじゃなくて、話の区切りっていうか」

「だって、気をつけるしかなくない? 別によく聞く話じゃん。ゲーム感覚で犯罪とかさ。犯罪まではやらかしてないんだろ? いやさ、さっきお前があんまり取り乱すから、マジで犯罪まで行ったかとは一瞬思ったよ。でもそれなら学校に行こうとしないだろ。そんな恰好でさ」


 確かに犯罪と呼ばれるほどのことはしてない。タイムパトロールという言葉が思い浮かんだけど、今は妄想を伝えてはいけないタイミングだろう。


「いや時雨、俺が取り乱したのはさ――」

「それはホント、ごめん」


 時雨が頭を下げてきた。


 ・?

 ・??

 ・???


 三択は女の子の前でしか浮かばない――はずだけど、実際のところあんまりわかっていない。でも、選択肢として出ようが出まいが、俺の頭の中で生まれていることは変わらない。だからハテナしか出せないんだな。


「???」


 やっぱり、どれも選ばないと三番目が優先して採用されるのかも。

 時雨は頭を上げて、ちょっと目を逸らした。


「家の人、ぜんぜん関係なかったんだな。お前の弁当とかさ、話とかさ、そういうのでなんとなく……複雑な家なんだろうとは思ってた。だからそういうことなのかと思っちまって、立ち入ったこと言った。ごめん」

「そっか」


 今は気持ちが落ち着いている。そっか。その程度ならよかった。心がスッと軽くなった。

 それなら、少しくらい話してもいいかもしれない。


「親父が再婚してさ、新しい……人、厳しくてさ。フツー、カバン忘れたっつってんのに、弁当だけ持っていけって言わなくない? 道でジロジロ見られて恥ずかしくてさ」

「それは別のカバンに入れりゃよかったんじゃないの? 弁当だけ裸で持ってけって言われたの?」

「え」


 俺の顔を見て、時雨はまた目を逸らした。そして謝る。


「ごめん」

「え、なんで。お、俺、またやらかした?」

「ちょっとな。でも、気がつかなかっただけだろ。次から気をつけりゃいいじゃん」

「お、俺がおかしいのかな? あの人の方がフツー?」

「いや、お前の弁当は、これ言ったら悪いけどさ、おかしいよ。だから、お前はどう思ってんのかなと思ってた」


 そっか。

 あの人はおかしいのか。

 おかしい人におかしいと言われている俺は、もっとおかしいんだろうな。




 時雨は「今日はもうサボッちゃわね?」と言ってくれたけど、俺は高畑さんに謝りたいと思ってたから、行きたいと伝えた。学校をサボる、しかも友達と。それはちょっとしてみたかったけど。


 二時間目の途中で登校して、高畑さんには顔をそむけられた。鳳凰院さんは睨んできた。高畑さんが学校を休んでいなくてよかった。休み時間になると、高畑さんは友達と教室を出て行ったから、近付くことはできなかった。その次の休み時間も。


 昼休み、高畑さんは教室でお弁当を食べていた。鳳凰院さんと二人でだ。

 鳳凰院さんの四人グループに、高畑さんはいたんだっけ? それとも、別のグループだったのかな? 例によって俺は覚えていなかった。


 だけど、とにかく、俺は二人が寄せている机に近付いた。食べ終わるまで待ったら、また出て行ってしまうと思ったから。


 目の前に立った俺の姿を見て、高畑さんは横を向いた。鳳凰院さんはお弁当を食べる手を止めないまま、


「何?」


 と冷たい声で言った。

 頭を下げたいけど、注目を浴びたら嫌だろう。つい昨日、俺は時雨からそれを学んだ。

 だから小さな声で高畑さんに伝える。


「昨日は本当にごめんなさい。あ、」


 頭が軽く揺れるような感覚。三択が強く思い浮かぶときの予兆。


 ・あのときはイライラしてて、八つ当たりしちゃったんだ。

 ・友達だけがモテてるのって、悔しくて。

 ・俺の好きな子も、君と同じやつのことが好きみたいだ。


「あのときはイライラしてて八つ当たりしちゃったんだ!!!」


 大きな声を出さないつもりだったのに、急がないと三番目になってしまう、と焦って普通に大声になってしまった。望みなんてないとはいえ、鳳凰院さんの前でそんなことは言えない。


「本当に、本当にごめん。あんなこと思ってない。ごめんなさい」


 高畑さんはちょっと迷うようにしてから、まっすぐ俺のことを見上げた。目が少し赤い。


「そういうふうに謝られると、いいよって言うしかないよね」

「ごめん」

「うん、ま、ブスってことはわかってるし。いいよ。わかった。謝ってくれてありがと」

「そんなこと思ってないんだ。ホントに、関係ないことでイライラしてて、思ってもないこと言っちゃって」

「必死じゃん」


 からかうように高畑さんは言ったけど、そんなに悪い言い方じゃなかった。しょうがないなという感じ。

 そして時雨が窓の外を向いているのをチラッと確認してから、「あたしも」と少しだけ笑って言った。


「佐藤くんのことダシにしてたよね。それでイラつかせちゃったのもある? 確かに気分よくないよね。ごめん」


 あんなことを言われたのに、俺のことを気遣ってくれるなんて。

 高畑さんが特別優しい女の子なのか、それとも――それともやっぱり、俺の価値観がおかしすぎるのか。


 何を言ったらいいのかと困っていると、それまで聞こえないかのようにお弁当を食べていた鳳凰院さんが、お箸を置いた。お弁当はまだ少し残っている。やっぱり女の子のお弁当箱は小さいんだな、焼いた鶏肉みたいなのがおいしそう――。


 鳳凰院さんは両手を膝の上に置いて、すっと背筋を伸ばして俺を見た。なんてきれいな姿勢、なんてきらきらした黒い目。もう睨んではいなかった。


 そして座ったままだったけど、頭を下げた。俺に向かって。さらさらと流れる茶色の髪。

 ゆっくりと顔を上げて、その美しい女の子は静かな声で言った。


「私も本当にごめんなさい。佐藤くんに、言っちゃいけないこと言ったね。私は関係ないのに。ナナエに謝ってくれてありがとう」


 もうすっかり教室中の注目を浴びているのに、鳳凰院さんはもう一度、「ごめんなさい」と頭を下げた。


 俺はもう身動きもできなくなってしまった。高畑さんも優しい子だ。でも、BGMは流れなかった。

 鳳凰院さんから、いや、俺の頭の中からなんだけど、でも鳳凰院さんの周りに音楽が流れているように感じた。クラシックって言うのかな? 楽器はバイオリン? わからないけど、すごく優しい曲。


 ・友達思いなんだね。

 ・そのおかず、おいしそうだね。

 ・キミのことが好きだ。


「と、友達思いなんだね!」


 鳳凰院さんと高畑さんは目を合わせて、いっしょにふふっと笑った。


「別に、昨日まではカオリと友達じゃなかったけど、だからよけい嬉しかったな」

「友達じゃなかったの? ひどい」


 可愛らしい笑い声。話が丸くおさまったことがわかったのか、教室全体がなごんだ空気になった。

 ロボットのようにギシギシと手足をまっすぐ動かして、窓枠にもたれかかっている時雨の隣に行った。小声で話しかける。


「お弁当のおかずおいしそうだね、とか言いそうになっちゃった。緊張しすぎて」

「ウケる。言えばよかったじゃん。鳳凰院と仲良くなりたいんだろ」

「不謹慎だろ」


 俺の持っているボキャブラリーの中でいちばん難しい言葉だ。でもそう思った。

 時雨は空になったらしい牛乳パックをたたんでいる。


 ・お前、女みたいな時あるよな。

 ・お前、本当は女の子だったりしない?

 ・お前、女の子だったら鳳凰院さんといい勝負かも。


 またほぼ一択じゃないか。


「お前、本当は女の子だったりしない?」

「はあ? 牛乳たたんでるから? ゴミ捨てる係の身になってみろよ。かさばるゴミを小さくする努力しないやつ、殺したいだろ」

「そこまでかさばるゴミを憎んでるのか」

「あとさあ、悪気ないのわかってるけど、僕みたいなヤツにそういうこと言うのってシャレになってないよね。高畑にもさ――言っちゃったって言ってただろ。たとえば鳳凰院に同じこと言うのとワケが違うの、わかる? 女子全員に言っちゃいけないけどさ」

「わ、わかる。ごめんな」

「お前って、友達いなかったの?」


 ガーン、という効果音が鳴った気がした。これは本当に気がしただけ。いつもそうか。ややこしいな。


「そっか、本当によくわかった……。そういうことなのか」

「いやまあ、意趣返しの意味もあったけどさ。なんかお前、人に慣れてなくない? 思ったこと言っちゃう瞬間があるっていうか。もしかしてあれなの? 発達に問題ある人?」

「えっと、人に慣れ……てはいないかも。思ったことを言っちゃう時はある。焦っちゃうのも。発達? が悪いのかな」

「ん、ごめん。診断出てないなら忘れて。あと、今のは悪口じゃないからね。お前が悪いわけじゃないのかも、と思っただけ」


 目の前の美少年は「忘れて」ともう一度言った。

 それにしても、改めて見ると本当に美少年だ。そして、俺よりもいろんなことを知っている。何よりいいやつだ。どうしてこんなやつが俺とつるんで、あ、


「時雨、もしかして、俺の係やってくれてんの? 先生とかに言われて」


 美少年は一瞬ぽかんとした顔をしたが、慌てるように腕を引っ張ってきた。今までも小声だったが、さらに小さい声で言った。


「本当に係とかついてたの? 中学の時も? 小学校からずっとってこと?」

「中学の頃はない。友達いなかったし。小四? 小五? のときは、佐藤くんと友達になってあげてね、とか先生から言われたやつが近付いてきた。友達だと思ってたから、そういう係だったんだよって言われたときはショックだったな」

「あ、ああ、そうだよな。僕より勉強できるんだし。あれ、勉強できるかどうかって関係なかったんだっけ?」


 よくわからないけど、ぶつぶつと言っているから独り言っぽい。

 でも、その顔からなんとなく感じるものがあった。あ、BGMが流れた。悲しい感じの。今朝も流れていたし、俺の頭はこいつを女の子と判定してるのか? それとも男にも普通に対応してるのかな。でもそうだとしたら、今のはデデドンが鳴るところだと思う。


「時雨さ、俺とつるんで後悔してる?」

「してねえよ! あーっ、今のセリフだったな! そうじゃなくて、ちょい戸惑っただけ」

「セリフって?」

「聞くなよー。あ、聞かないとわかんない、のか? んっと、たとえばさ、鳳凰院に『アタシってブス?』って聞かれたとするじゃん。うわっ、今これ出てくんの、僕、最悪。別のにしよ」

「続き教えてよ」

「あー、僕にしよ。僕が『僕ってブサイク?』って聞いたとするじゃん。このときフツーの答えはさ、『ブサイクじゃないよ』じゃないんだよ」

「どういうこと? 時雨がブサイクなわけないじゃんか」

「だから。そうだから、答えは『えっ、何言ってんの?』なんだよ。マトモじゃない質問に、マトモに答えると失礼っていうかさ。わかる?」

「なんとなく」


 本当になんとなくだけど、言っていることはわかるような気がした。俺が「フツー」の答えを出せるのか、それはわからないけど。

 でも、それよりも。


「セリフって何? 教えてよ」

「だからそれはさ、いかにも用意したような言葉っていうか。マトモすぎて、本音じゃなく聞こえるみたいなさ」

「時雨も用意した言葉を言っちゃうことあるの?」

「誰でも多少はあるだろ。あ、そうか、お前は特にそういうタイプってこと? 用意した言葉をしゃべっちゃう、だから自分の世界をゲームっぽく感じるみたいな?」

「うん、それはある」


 ときどき浮かぶ三択。浮かんでしまうと、選ばないということはできない。自動的に選ばれる三番目。

 時雨は窓を開いた。風が強く吹き込んできて、「篠田、開けすぎー」という声が飛んでくる。

 半分くらい閉めて、時雨はまた小さな声で言った。


「僕さ、正直誰でもよかったんだよね、つるむの。武田とかは軽いし空気読めるしラクだけど、女のハナシ多くてめんどくさいし。でもうちのクラス、内気なメンズはオタクっぽいじゃん? 僕、中身浅いから。熱くなれるもんとかないし」


 誰でもよかった、のショックで続きはうまく飲み込めなかった。でも、こんなにいちいち喉に詰まるやつ、時雨はがっかりするだろう。武田というのはイケてるグループのリーダー的なやつだったと思う。


「わかる。女の話ってめんどくさいよな。俺もオタクじゃないし」

「テキトーに返事してるだろ」

「ごめん……」

「怒ってないよ別に。要するに、僕は周りに無関心なほうだから、佐藤みたいのと話してるのはラクだよ。あー、あと言っとくけど、男が好きなわけでもないから。お前はそういうダルい噂とか流さないと思うけど」

「俺も周りに無関心だから、同類でラクってことか?」

「そうだろ? 鳳凰院のこと気にしてるだけで、あとはどうでもよさそうじゃん。男でも女でも、基本あんまり興味ないんだろ」


 ・それは違う。

 ・池井くんとかとも仲良くなりたいよ。

 ・お前に、誰でもよかったと言われたこともショックだよ。


「それは違う」

「そう? あ、これも悪口のつもりじゃないからね。ピーチクパーチク、関係ないことに首突っ込んでくるやつ、超ダルいと思ってるし」


 ・それって鳳凰院さんのこと?

 ・友達でもない女の子のために、俺を睨んだあの子はきれいだったよ。

 ・俺はお前のことが嫌いになったかもしれないよ。


「それって鳳凰院さんのこと?」

「あー、さっきのやつねえ」


 時雨の整った顔が、ちょっと変になった。今だけはブサイクかも。


「ああいう子だとは思ってなかったな。自分と関係ないことでヒステリー起こしたんだろ? あんなお嬢様でかわいくても、フツーの女の子なんだな」

「友達でもない女の子のために、俺を睨んだあの子はきれいだったよ」

「そりゃ顔はかわいいと思うよ。でも、もっと孤高っぽいっていうか、俗っぽくない子だと思ってた。ちょっと幻滅したな」

「俺はお前のことが嫌いになったかもしれないよ」

「そうか」


 そう言いながら、時雨はびっくりした顔をした。


「ごめん、調子に乗ってペラペラ喋っちゃった。お前の好きな子の悪口言うのは、確かにマナー違反だったな。あ、うんと」


 びっくりした顔のまま俺を見上げている。少しそのまま固まっていたが、やがて、苦笑いになった。デデドンは鳴らない。やっぱり男だからか。


「顔からして、修復ムリっぽいな。ごめんっした」


 ひらひらと手を振って、時雨は窓を閉めた。そのまま小さな背を向けて、廊下に近い場所で溜まっていた男子グループに混ざった。すごく自然に。あれが武田というやつのグループなんだろうか。


 俺は、たぶんさっきまでの時雨よりもびっくりした顔をしていると思う。


 ・え。

 ・ムリって?

 ・ごめんって何?


「ごめんって何?」


 時雨にはもう聞こえない。なにか喋っている。女の子の話かな。遠いから内容まではわからない。興味のないことを、ダルいと思いながら喋っているんだろうか。


 俺にはよくわからない。修復はムリ? 明日からは弁当をいっしょに食べないのかな? 週の半分だけじゃなく全部。時雨は周りに興味がないから、俺のこともどうでもよかった。俺が無関心な同類だからラクだっただけ。面倒くさくなったから離れたのかな。


 知り合って一カ月も経ってない。前の周や、その前の周では、きっと話したこともない。俺は無関心なやつだから、話したとしても忘れているのかも。あんなかっこいい名前の、かっこいいクラスメイトを。


 ――うちのクラス、内気なメンズはオタクっぽいじゃん? 僕、中身浅いから。熱くなれるもんとかないし。


 女の話もダルいし、オタクとも話が合わない。じゃあ時雨は、なんの話をするのが楽しいんだろう。誰と。俺とは何を話してたっけ?


 ――佐藤、映画好きなの? いいじゃん!

 ――あのさーあ! 映画研究会に入ってる人っているう?


 大声と小声を使い分けるやつだ。たぶん、自分のためではなく。


 何にも興味のないやつが運動部に入るか? ましてレギュラーを狙うだろうか? 俺の弁当を気にしていた。こわばった顔。家族のことを今まで聞かなかったのに、今日は聞いた。遅刻するのに空き地で。高畑さんの下の名前まで知っていたじゃないか。


 たいして築いてもいないものが全壊するのが嫌だと言っていたじゃないか。今朝の、ついさっきのことだ!


 ・時雨!

 ・一度嫌いになったら戻れないのか? 嫌いだなんて言っちゃいけなかったのか!

 ・…………。


「…………」


 俺はみっともない妄想野郎だし、中学の頃は友達がいなかったし、人の気持ちもわからない。


 でも、無関心なわけじゃない。池井くんと映画の話をするのは楽しかった。鳳凰院さんのハンカチはやわらかくて気持ちがよかった。高畑さんを泣かせた自分が嫌になった。時雨の固まったびっくり顔。


 裏庭のあの石、セーブしてしまった石。たぶん使い方はわかった。だから今駆け出して、あれに触れば、昨日の夕方まで戻れるはずだ。高畑さんのことは泣かせてしまったあとだけど、また謝ったらいい。それで、今度は時雨に余計なことを言わない。


 ――また謝ったらいい?


 胸がちくりとした。何か今、俺は変なことを思った気がする。


 ――それに、余計なことってどれだ?


 これははっきりとそう考えた。俺は人の心がわからないらしい。今、時雨が隣にいない理由だってよくわかっていない。そんな俺に、どれが余計なことかなんてわかるもんか。それで、失敗するたびに、俺は教室を走って出ていくのか! また間違ってセーブしてしまったら? 


 昨日、鳳凰院さんから完全に嫌われたと思った。実際にそうなのかもしれない。お嬢様だから礼儀正しくて、乱暴な言葉を使ったことを謝りたかっただけかも。きっとそうなんだろう。


 でも、それはそんなに絶望的なことなのか。俺は鳳凰院さんをきれいだと思っていて、そして白くてやわらかいハンカチを貸してくれたから、それを同性にもしてあげる子だとわかったから、なんて優しい女の子だと感激しているだけだ。すごく素敵だと思っているだけだ。向こうが俺のことを好きになってくれることなんて、入学式を百回繰り返してもムリに決まってる。もうその入学式にも戻れない。


 手の届くはずのない女の子から嫌われたかもしれない。それがなんだ? 俺は馬鹿だけど、たぶん、たぶんそれは、たいしたことじゃない気がする。他のことに比べれば。


 今の俺にとって大事なことはなんだ。大事だと思うこと。


 周りに興味がないと言っていたわりに、周りをよく見ていた彼が、あの子は女子からハジかれていると言っていた。その子は泣いていたあの子と机を寄せて、笑い合っていた。


 目の端に池井くんがいる。さっきからずっと。友達と二人でパンをかじりながら、少しそわそわしている気がする。俺と時雨の様子を見ているのかな、とは思っていた。何か喋っている。ああ、もう噂話が始まっているのかな。


 ――エイケンに来たいのって、佐藤なんだよ。映画見たいんだって。

 ――まじか! 初心者かな? どれ見せたらハマッてくれるかなあ。お前に任せるとどうせSFだろ。

 ――男はみんなSF好きじゃね? 語れるやつ増えたらうれしいじゃん。部室にあるやつだとどれがいいかな。


 池井くん、俺もSF映画が好きだ。きみのおかげで好きになった。部室にあるやつというのは、きみの部屋で見たDVDとは違うのだろうけど、きっと面白いんだろう。


 時雨、卓球部は楽しいのか? お前はなんだか後ろ向きな理由でそこに入ったようだから、気になっていたんだ。でもお前は俺と違って、思っていることを言うわけじゃないから、本当は卓球が好きなのかもしれないな。わからない。俺はそんなこともお前に聞かなかったから。


 それから俺は、お前に謝ってない! 卓球部と聞いたそのとき、何も考えずからかってしまった。お前は苦笑いした。今だからわかることがある。お前の苦笑いは珍しい。あのとき、すごく嫌だったんじゃないのか。だから、人の心がわからない俺なんかの胸にも、小さなトゲのようにずっと刺さっているんじゃないのか!


「時雨!」


 何度呼んでもかっこいい名前。芸名みたいだ。子供の名前に雨の字を入れる親って、かなり珍しいんじゃないか? それも聞いてみようかな。いや、時雨は俺の親のことを聞かなかった。


 俺はお前の心がわからない。教えてもらうことはできないのか? 相手に何を聞いていいか、何を言ったらいけないか! 何もわからない俺だけど、それはきっと池井くんには教われない気がする。池井くんとはまた仲良くなりたいけど、時雨、お前はお前しか言わないことを言うやつだ。熱くなれるものがないと言った、それも本当じゃないのかもしれないけど、でも、お前の言うことには何かある。針金のような、細く通った銀色の線が。


 知り合ったばかりの同級生。たいした話もしていない。だけど友達だ! 朝、篠田と呼んだら、きついわと言った。あの顔。苦笑いさえ珍しいお前の、困ったような顔。


 下の名前で呼ぶのは友達だ。さっき呼び合っていたじゃないか。「カオリ」「ナナエ」。鳳凰院さんと高畑さんは昨日まで友達じゃなかったらしい。でも今日はそうじゃないそうだ。

 だから、


「時雨! ごめん!」


 卓球が好きなのか? レギュラーになるなら、試合に出るんだよな。見に行ってもいいか? それって変か? いや、変かどうかじゃない。お前は嫌か?

 卓球が好きじゃないのなら、ちょっと映画研究部に付き合ってくれないか。初心者でもハマれるような映画を見せてくれるそうだから。お前はこむずかしいことを言うから、SFが好きなんじゃないか?


「時雨」


 時雨はちゃんと周りを気にすることができるから、大きな声で三回も名前を呼ばれて、無視したりはしない。みんなが見ているから。でも、みんなが見ていないところにも腕を引っ張っていってくれた。空き地で話を聞いてくれて、二人で遅刻して、サボろうかと言ってくれた。


 サボッてみたい。俺はあしたの授業の内容を知っているし、お前は頭がいいから、一日くらいいいだろう。


「なに、めっちゃ恥ずかしいんだけど」


 両手をポケットに突っ込みながら、不良みたいな歩き方でこっちに来る。そっちのグループにいるときはそんな歩き方になるんだな。


「お前ぜってーハンカチとかティッシュとか持ってねーじゃん。どうすんのその鼻水。僕も持ってねーよ! 男はフツー持ってねーし」


 両手を出して空中でグーパーとする。ハンカチかティッシュを探してポケットに手を入れていたのか? 自分が入れてないなら入ってるわけないだろ。でも、探してくれたのか?


「お、お前んち、お、お母さんが、ハンカチとかポケットに入れてくれんの?」

「いねーよお母さん! お前んちもいないだろあきらかに。聞く前からわかってたよ。なのになんで人にそれを言えるんだよ。佐藤、ホント、もうちょっと考えろよ」


 このイケメンの友達は本当にすごい。教室中の全員から見られているのに、俺にだけちょうど聞こえる声で喋ったのだ。顔をすごく近付けて。背が低いから、ちょっと背伸びまでしている。


 誰かがヒューという大きな声を出した。涙のキスかよ! 少しざわざわとして、それから笑い声が起きた。馬鹿にする感じのやつもいる。面白がっているやつも。でも、大声を出した本人、武田――武田くんは、大人っぽい苦笑いを浮かべていた。身長が高くてうっすらヒゲを生やしているから、クラスの誰よりも大人に見える。俺はそんなことにも今気づいた。それと、苦笑いという表情が、そもそも珍しいんじゃないかということ。それって大人の表情じゃないか? 空気読めるしラク、きみは友達からそんなすごい評価を受けている。知っているのかな。大人っぽいやつ同士で、どんな話をしているのか、俺はガキだけど聞いてみたい。


 顔に何かがぶつかった。何か投げつけられたのだ。また丸めた紙かな。でも、もっとフワッとした感触だった。床に落ちる前に時雨がキャッチした。


「ありがと! 小原みすずさん!」


 きゃあと、何人かの女の子の声がした。フルネームじゃん! よかったね、すず。


 どうやらこれはいじめじゃない。小原みすずという女の子が、それを――グレーのチェック模様のハンカチを投げてくれたのだ。そういえば、うっすら見えた軌道はゆるくカーブしていて、投げつけるという印象じゃなかった。パスという感じ。きっとこの子も時雨が好きで、時雨がハンカチを探していたから放ってくれたのだ。すごい。同い年なのに、こんなにモテるやつがいるんだな。


 モテる時雨はハンカチを握りしめて、俺を見上げて、それからたぶん、いや絶対、小原さんという子を振り向いた。


「これ、鼻水拭いてもいい?」

「いいですよ! っていうか、それあげる! 百均のやつだし」

「買って返すよ。かわいいやつ」


 きゃあっと大きな歓声。何もかも芸能人みたいなクラスメイトが、ぐっとハンカチを握った手を差し出してくる。


「自分で拭けよ。これマジ、一年の四月に起きるイベントじゃねーだろ。三年の三月だとしても自分で拭け!」

「あ」


 鼻水が詰まる。手の甲で軽く拭いてから言った。


「あ、ありがとう。小原さん、し」

「僕のことはもう呼ぶな! 何回呼ぶんだよ! 恥ずかしいよ」


 女の子のハンカチで鼻水なんて本当に拭いていいんだろうか。でも、かっこいいクラスメイトが買って返すと言っているんだから、小原さんはきっとうれしいと思う。たぶん。俺に人の心がわかるとすれば。だから涙も鼻水も、そのハンカチで拭いた。鳳凰院さんのハンカチのような厚みはなく、ちょっとシワシワだったけど、同じくらいやわらかいと思った。


「はい解散! 見世物じゃねえぞ! 俺これ初めて言ったわ、マンガか!」


 笑いながら武田くんが手を叩いて、みんなばらばらに散っていく。ほぼ全員、目をこっちに向けてはいたけど。大人みたいなクラスメイトが大きな声で言うと、先生が言うのと同じくらいの力があるみたいだ。それにしてもクラスのほぼ全員が揃っていないか? 俺が鼻水を垂らす前は、半分くらいのような気がしていたけど。


「解散じゃない! 集合! いや、着席!」


 武田くんよりも大きな声を出したのは、教室の入り口に立っている先生だった。英語の、この学校の中では若めの女の先生。肩をすくめるようなジェスチャーをよくやって、背が高いから本当に外国人みたいに見える。またそのしぐさをしながら言った。


「とっくに予鈴鳴ってるでしょうが! ものすごい青春が開催されてるから、止めるに止められなかったよ! これ一年の四月に起きるヤツじゃないでしょ? しかも両方男子じゃない」

「石黒先生、王子と同じこと言ってんじゃん!」

「英語の先生がそういうこと言うのってどうなんですか? 男子同士の青春だっていいよ! ポリティカル・コネクトレス!」

「うるせえな、ひとつずつ答えるよ? 王子って誰? 篠田かあ! 篠田ならギリいじめじゃないかな! 篠田以下の男子にそのアダ名つけたらいじめだからね!?」

「グロセン、問題発言多い!」

「ひとつずつ答えてるんだから聞けって! まず、英語の教師だから先進的と思ってるみたいだけど無関係! 男子同士の青春はおおいにけっこう。驚いただけ! ポリティカル・コネクトレスってちゃんとわかって使ってる? あとで説明するわ! あと、あたしのことグロセンって呼ぶのはいいけど、瓜川先生をウリセンって呼ぶのは本当にやめなさい!」


 大きな声で本当にひとつずつ答えて、石黒先生は俺をあごで席にしゃくるようにした。


「座りなさい、孝太郎。小原はハンカチ持っててえらいね。あそこで篠田にあげたのも百点満点。武田にも花丸あげる!」

「そういうの言うのって野暮でしょ。やっぱ英語のセンセーだから感性が大味なんスか?」

「武田あ、花丸取り消し! それ英訳して読めよ! それとさっきポリコレの野次飛ばしたヤツ、ここで言いな!」


 みんながどっと笑う。石黒先生は人気があって、俺も好きだ。学校には佐藤がたくさんいるからだけど、俺のことを名前で呼んでくれるのもちょっとうれしい。


 

 このものすごい青春が、一年の四月二十七日のことだった。




 男友達とのルートじゃねえか。そう思っただろう。鳳凰院さんは脇役だ、高畑さんのほうがまだ存在感がある、と。


 だって、俺は初心者だったから。一周目の頭から通算してカウントしても、この能力――妄想だと思っているけどいちいち注意書きしてもダルいだろう、基本的に能力として説明する――に気付いてから、一年も経っていない。


 セーブ石の使い方もおぼつかず、三択の選び方もその場しのぎで、カバンを学校に忘れたら翌日は弁当を裸で持ってしまう。人の心もわからない。俺はすべてにおいて初心者だった。


 中学まではサナギみたいなもんだったんだろう。しょうがないよと、のちに友達がそう言ってくれた。彼らによって俺はだんだん人間になっていく。一年の四月なんて、まだ赤ちゃんだ。だから泣いてしまった。


 女の子を攻略するなんていう、難易度の高すぎる考えは、もう少し育ってから芽生えることになる。



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