一番星にはもうなれない
大晦日。特番をボーッと見ていたら途中で酒がなくなり、もっと酔いたい私は重い腰を上げて仕方なくコンビニへと向かう。
冷たい風が吹き荒れている外。雪もちらついているし、年が明けるまで後数十分という今、酒のために出歩いているなんてしょうもない女だという自覚はあった。
だが、仕事も恋愛も上手くいかない私には酒に酔って全てを忘れるしか生きる方法が思い浮かばない。死にたいと思っていても、それを行動に移せる勇気はなかった。
「あぁあ……」
誰もいないのをいい事に呻き声を漏らす。風に当たって多少酔いは醒めたものの、今度は頭が痛くなってきた。酒のせいか冷たい風のせいか、もうそれすらもよくわからない。
身体もフラフラするし、少し休もうかと近くにあったバス停の柱に手をついた。
俯いたまま溜息をつく。そんな私の目に映ったのは、爪先が少し上がった高級そうな革靴。
どうやら大晦日の夜中に、バス停のベンチで座っている人がいるらしい。
バスに乗り遅れてしまったのか、なんて能天気な事を考えたがきっと違う。何なら、私と同じ類の人なのかもしれない。
目線を少しずつ上へ向ける。
黒いズボンに包まれているスラッとした足、膝丈までありそうな毛皮の黒コート、黒いワイシャツと細めなワインレッド色のネクタイ、首には鎖がついたチョーカーをしていた。
どれも全体的に汚れているところがあるものの、高級品だというのは一目でわかる。
顔はというと、一言で言うならイケメンの部類。サラサラした黒髪、綺麗な白い肌は寒さのためか少し赤くなっていた。そして、大きな黒目。どこから見ても整った顔をしているが、物凄く切なそうな表情を浮かべていて……目は少しばかり潤んでいる。
この人の身には、何かがあった。色々な意味でそう思わせられる顔をしていて……、目が離せない。
「あの……っ」
気づいた時には、勝手に口が動いていた。ゆっくりとこちらを振り向く男。一気に表情が無に変わり、私はゴクリと唾を飲み込む。この人には、人を石にする力でもあるのだろうか。鋭い目で見つめられた瞬間、どこもかしこも動かせなくなった。
「……何」
彼から出てきた言葉はポツリと呟くような声量で、なおかつ短い。まるで、俺の時間を邪魔するなどでも言いたいかのようだ。
それでも、私の中になぜかこの人を放っておけない気持ちが現れる。だからこそ、口をこじ開けた。
「こんなところで、何してるんですか」
「……別に」
「風邪、引きますよ」
「……どうでもいい」
「っ……」
感情の籠もっていない声で返事をするこの男に対して、だんだん心配というよりも苛つきが高まってくる。
もう完全に酔いなんて醒めたとこの時は思ったが、よくよく考えたらまだ醒めていなかったのかもしれない。
私は男の胸ぐらを掴み、男の尻を半分ほどベンチから浮き上がらせていたのだから。
「あーもう、めんどくさい!! 人が心配してやってんだから、素直に受け止めたら!?」
私はそう吐き捨てた後、男の胸ぐらからパッと手を離す。そして、今度は男の右手を掴んだ。後ろから男の戸惑ったような声が聞こえたが、無視して家へと向かう。
横暴と言われたらその通りでしかないが、身体は勝手に動いていた。まるで、捨てられた子犬を放っておけず衝動的に拾って帰る子どものように。
数分後。家に着いたと同時に私は男を部屋の中に押し込み、風呂場へと連れていく。
「とりあえず、身体あっためて。着替えは用意しとくから」
男の返事は聞かず、私は勢いよく扉を閉めた。そこで、漸く冷静になる私。
「えっ……私、何、してんだろ」
24歳の女が、名前も年齢も知らない男を無理矢理部屋へ連れ込んだも同然の行動。
一気に足から力が抜け、扉に背中を預けながらスルスルと床にしゃがみ込む。これは、犯罪になるのだろうか。男の年齢がもし未成年だったら? よくよく思い出してみれば、男はまだ可愛らしい顔をしていた。服装は大人っぽいというか、まるで舞台にでも立っていたかのように煌びやかだったが、未成年という可能性は大いにある。
「どっ、どうしよ……」
無理矢理引っ張ってきたくせに、風呂から出たらすぐ出てけなんて事は勿論言えない。
自分の失態に頭を抱えつつ、ゆっくりと立ち上がる。まずは着替えを用意しなければ。こういう時、たまに泊まりにくる鬱陶しい兄が服を置いていってくれて良かった。
後は、お腹が空いているかもしれないから何か食べるものを用意しておいてあげたいところだが、私は料理がまるでできない。
とりあえず常備しているカップ麺をすぐ作れるよう、お湯だけ沸かす。着替えはさっさと風呂場の前へ置き、私はこれからどうしようか真剣に悩み始めた。
しかし、足りない頭で考えても良い答えなんて出てこない。そうこうしているうちに、男が風呂から上がってきた。
「……風呂、ありがと。ちょっと、落ち着いた……」
「あっ……、そっそう。それは良かった……って」
まだ濡れている男の髪から覗く黒い目は、先ほどまでのように鋭くなくて。狼のように人を寄せつけなさそうだった瞳は、また切なそうなものへと戻っていた。
「ねぇ。髪、ちゃんと乾かさないと。折角あったまったのに」
「……ドライヤー、嫌いなの」
『なの』。何だその可愛い語尾は。一気に小動物感が増してきたが、私はすぐにドライヤーを持ってきて構える。
「乾かしてあげるから! ジッと座ってなさい!!」
「やだっ!!」
「やだじゃない!!」
駄々をこねる男を追いかけ回す私。どれくらい騒いでいたのだろうか。それすらもわからなかったが、隣の部屋からドンドンと壁を思い切り叩かれた事で、お互いの肩がビクッと跳ねる。
沈黙が続き、男はジッと私の事を見つめていたが大人しくその場に座る。私も、一息ついてから男の背後に回った。これ以上抵抗されたら流石に壁ドンでは済まなかったかもしれない。
これまで壁ドンをされた事はなかったし、相当うるさくしてしまったのだろう。おまけにもう年は明けているし、新年早々騒ぎ過ぎだという注意でもありそうだが。
やってしまった事に対する反省をしながら、ドライヤーの電源を入れる。人の髪を乾かすといった経験はないが、適当に乾かしたら後が怖い。こんな艶があって綺麗な黒髪は、確実に手入れを怠っていないはず。
緊張しながら乾かしていると、男の首が前にカクンと動いた。
「えっ……?」
まさか、この男……耳の近くで大きい音が鳴っているのに寝始めたのだろうか。それからというものコクコクと頭が上下に動く回数が増え……、数十分後。
ドライヤーを切って男の前に移動すると、その目は完全に閉じられていた。規則的な寝息を立てていたため、私はつい「ばっちり寝てる……」と呟いてしまう。
結局この男が何者なのか、いくつなのか、なぜバス停にいたのかなど聞きたい事を何も聞けなかった。
「……まぁ、起きてから聞けばいっか」
私は枕を丁度男の頭が来そうなところに置き、男の肩を掴んでゆっくりと横たわらせる。そして、毛布と羽毛布団を被せた。
まるで手の掛かる弟ができたかのように思いながら、私もすぐに寝る支度をする。
まさかこの出会いが、私の平凡でつまらない人生を大きく変える事になるなどこの時は少しも思わなかった。
年が明けて、十時間後。カチャカチャという音が聞こえて、私はゆっくりと目を開ける。
「んぁ〜……、あったま痛い……」
起き上がった途端にズキズキと痛む頭を押さえながら、昨日の自分が何をしていたのか思い返そうとした。
昨日は特番を見ていた途中で酒が切れて、コンビニに出掛けた……その帰り道。何かがあったはずだが、何があったか思い出せない。頭を悩ませていると、頭上から声が聞こえた。
「何だ。起きてたのか」
「へっ」
一人暮らしのこの家に聞こえるはずがない男の声に、私は間抜けた声を漏らす。バッと振り向くと、黒髪のイケメンが両手に花……ではなく皿を持って立っていた。
「あっ!!」
「っ、うっせぇな。いきなりでけぇ声出すんじゃねぇよ」
露骨に不機嫌そうな表情を浮かべる、私が昨日拾った男。昨日よりもよく喋るようにはなっているが、態度が悪過ぎやしないか。口もめちゃくちゃ悪いし。
そんな男だが、昨日私が散らかした机を片付けてくれたらしい。机に置きっぱなしにしていたはずの空き缶やカップ麺の残骸が消え、代わりにトーストやベーコンエッグが乗った皿が置かれる。
「えっ……、これって」
「ったく。女なのに冷蔵庫ン中見てもまともなモン全然入ってねぇってどういう事だよ。おかげで正月からこんな洋風料理しか作れなかったわ」
「なっ何かすみませんでしたね!?」
ズバズバと容赦なく文句を言われた事に対して、私はカチンと来た。普段全くもって料理をしない女の冷蔵庫に卵とかベーコンがある方が珍しいくらいだろうに、とやかく言われるのは腹が立つ。
だが、目の前に置かれた料理は美味しそうだ。皿は二人分ある……、つまり私も食べて良いのだろうか。
チラリと男の方を見ると、「何だよ、食えって」とぶっきらぼうに言ってくる。
「じゃあ、遠慮なく……いただきます」
手を合わせ、まずはフォークでベーコンエッグをトーストに乗せる……が、その瞬間男が「はっ……?」と声を漏らした。
「何か……?」
「いや、何でベーコンエッグをトーストに乗せてんだよ。普通は別々に食べるだろ! お前アレだな、カレーのルーとライスぐちゃぐちゃに混ぜたり、サラダにドレッシングかけたりする派だろ……マジ相容れねぇ」
「いやあの、偏見がひどい。大体カレーはそんな風にして食べないし、サラダにドレッシングかけて何が悪いのよ!」
「素材の味がドレッシングにかき消されるだろうが!」
「素材の味云々言うなら、ベーコンエッグじゃなくてゆで卵とベーコンにすれば良かったじゃない!」
私がそう言い放つと、男は目を見開いて顎に手を当てる。暫く考え込んでから、「確かに、アンタの言う通りかもな」なんて言い出した。新年早々、くだらない事で言い争って馬鹿みたいだと思った私は、小さく溜息をつく。
「世の中にこんな細かい男がいるなんて思わなかった」
「ハッ、俺からしたら世の中にこんなガサツな女がいるなんて思わなかったけど」
「っ、あーいやこーいう……。で? 君は昨日バス停なんかで何してたの?」
さりげなく情報を聞き出そうとして質問を入れると、男はジロッと私を睨みつけた。
「アンタには関係ないだろ」
「……まぁ関係ないけど。じゃあ、名前と歳は?」
男の言葉にカチンときた私は、もう直球で質問する。しかし、男は先ほどの饒舌さとは大きく異なり口を閉ざしたまま。
相当ワケありな感じしかしない。ベーコンエッグトーストを口に入れて咀嚼する事数十秒。これはいくら待っても答えなど出てこないだろう。
「……もしかして、未成年?」
「んなわけねぇだろ」
一番気になっていた疑問を即答してくれた上に、恐れていた回答ではなかった事に対してホッとした。即答するという事は本当に未成年ではないはず……と思いたい。
「そっ。まぁ、それだけ聞ければいいや」
「……何だそれ」
男は、歳なんか気にしてどうするんだとでも言いたげな表情をしつつ、トーストにかじりつく。こんなイケメンが、トーストなんて素朴なものを食べている姿を朝から目の前で見られる日が来るとは……眼福とはこの事を言うのだろうか。
口一杯にトーストを頬張る姿は、リスっぽい。だが、昨日の射抜くような鋭い目は狼っぽくて。可愛いとかっこいいの二面性を兼ね備えたこの男、名前を教えてくれないのなら何と呼ぶか。
半分ほど欠けた月に照らされ、バスが来るはずもないバス停のベンチに座って虚空を見つめていたあの姿が脳裏に焼きついている。
「っ……、ツキヤ」
「……あ?」
私がボソリと呟いた時、ベーコンを口に入れようとしていた男は口を開けたままこちらを見た。そんな、やる人が違えば間抜けにも見える表情でもかっこいい罪な男に、私は戸惑いながらも言葉を続ける。
「なっ、名前! 教えてくれないなら、勝手につけたっていいでしょ!?」
「ハッ、……くだらね。……あ? つまり、俺もアンタの名前勝手につけていいって事か?」
「へっ」
そこで思い出した。男、ツキヤの事を知りたいばかりで、私自身がツキヤに提示した情報は何一つなかった事に。
ツキヤからしたら興味がないから聞く事もなかったのだろうが、不公平である事に変わりはない。
「いっいいとも」
変な名前をつけられたらどうしようかと不安になりながらも、そう返す。ツキヤは少し迷った末に、口を開いた。
「……マドカ」
「マドカ?」
ぶっ飛んだキラキラネームか下ネタ的な名前をつけてくるかと思いきや、普通の名前を口にされて思わず聞き返す。由来が気になって聞いてみたが、「何となく」と言われてしまった。
思い出の人の名前だろうか。元カノとか……? もしかしたら、一人でバス停にいたのは彼女と別れたからかもしれない。
そうだとしたら複雑な気持ちだ。それでも、ツキヤがツキヤという名前を拒否してこない以上、私が文句を言えるはずはない。
ツキヤとマドカ。お互いの名前は決まったが、結局ツキヤがこれからどうする気でいるのかがまだわからない分、私はツキヤをじっと見つめる。
しかし、当の本人はベーコンエッグに夢中だ。お腹を満たしてからまた話をしようと決め、私も再びベーコンエッグトーストを口に入れる。
こんなに美味しい朝食は久しぶりだと改めて思った。
朝食を食べ終わり、空になった食器類を流しに持っていく。手早く洗って戻ると、ツキヤの手にはテレビのリモコンと私のスマートフォンが握られていた。
「ちょっ! リモコンはいいけど、スマホは返してよ!!」
「やだ」
ロックは掛けてあるものの、まだ出会って数時間しか経っていない男に個人情報の塊とも言えるスマートフォンを取られるわけにはいかない。取り返そうと手を伸ばすが、私より15センチほど背が高いツキヤにはどうやっても届かなかった。
「ねぇっ! いい加減にして!」
上がった息を整えつつ、そう吐き捨てる。攻防はかれこれ五分以上続いたため、あっという間に私の体力は底を尽いてイライラし、つい声を荒げてしまった。
その瞬間、ツキヤはまた会った時のような切ない表情を浮かべる。そして、私の手に勢いよくリモコンとスマートフォンを押しつけ部屋から出ていこうとした。
「えっ? どこ行くの!?」
「……ここじゃねぇところ」
「はっ!? 何で!」
そう聞いても、ツキヤはもう何も言わない。靴を履き、ドアノブに手を掛けた。このままでは、本当にツキヤは行ってしまう。なぜかそれが何よりも嫌で――、離れていってしまう背中を、私は無意識のうちに抱き締めていた。
「……離せ」
ツキヤのイラついた声で、自分が何をしているのか漸く気づく。そんなにもテレビやスマートフォンから私を遠ざけたい理由はわからない。しかし、テレビやスマートフォンよりもツキヤが出て行ってしまう事の方が嫌だった。
「……行かないで。テレビもスマホも見ないから、だから――お願い」
「……自分勝手な女」
「いや、アンタに言われたくない」
聞き捨てならない言葉がツキヤの口から聞こえ、すぐさまツッコミを入れる。すると、ツキヤは私の手を掴んで下させ、部屋の中へと戻っていった。
思いとどまってくれた事に安堵したが、いつの間にか私の背後まで戻ってきたツキヤは両手を出している。
「……はいはい」
ツキヤを引き止めたのは、他の誰でもない――私だ。大人しくその手にリモコンとスマートフォンを置くと、ツキヤは微かに微笑む。その微笑みに、不覚にも胸がときめいたのは内緒だ。
ツキヤとの生活が始まり、早一週間。テレビもスマートフォンも見ず、読書をしたりツキヤと他愛もない話をしたり。元々仕事も年末で辞めたし、のんびりと休めている。
ただ、問題はお金だ。遊んで暮らせるほどの貯金はないし、この生活を続けていたらいずれ底を尽くのは誰でもわかる事である。
それをツキヤに相談したら、「金なら俺が払うから心配すんな」と。確かに食材もネットスーパーで買ってくれるし、食べたいものを言えば配達サービスアプリを使って頼んでくれる。
今でも、ツキヤに関する詳しい事は聞けていない。だからこそ、金持ちのおぼっちゃま説や裏社会の人間説を勝手に想像しているが――、実際はどうなのだろう。
金持ちのおぼっちゃん説は、有り得なくはない。手入れの行き届いた髪や肌、爪。その上、高そうなコートを着ていたし、爪先が上がった革靴はドラマでお金持ちの人が履いている定番品だ。
しかし、狼のような鋭い目と曲がりくねった性格の悪さは裏社会の人間らしさを感じる。毎日のようにスマートフォンを見ているし、裏で怪しげな品を売買している可能性や何かしらの情報を売買している可能性も捨てきれない。
色々と気になるが、聞いてツキヤを怒らせる事は避けたいところだ。最近のツキヤは、私にも気を許してきている感じはあるし、下手に詮索すればツキヤが作る美味しいご飯が食べられなくなる。
「……何だよ」
「……へっ?」
「人の顔ジッと見てただろ。……何か食いたいのか」
「あのね、さっきお昼ご飯食べたから」
そんなに食べてばかりでは、デブまっしぐらだ。ただでさえ、ツキヤが「外には出るな」というから運動は筋トレぐらいしかできていない。
思えば、こんな自粛生活のような事をしなければならない理由とは何だろう。別に、この世界は未知のウイルスが蔓延しているわけではない。疑問に思ったが、急にツキヤが目の前までやってきたせいで頭の中が空っぽになった。
「っ、なっ何……!」
「……」
無言のまま、ツキヤは顔を近づけてくる。近くで見ると、本当に綺麗な顔をしていた。長いまつ毛に縁取られた大きな瞳から、目が離せない。それでもあまりの至近距離に戸惑い、目を閉じる。
「……ごめんな」
ツキヤの顔が離れる気配がし、ゆっくりと目を開けた。するとツキヤは既に隣の部屋に向かっており、私は呆然とせざるを得ない。
今の感じは、確実に……唇が、重ねられると思っていた。若干期待してしまった自分もいたからこそ、恥ずかしくなり両手で頬を覆う。
「……っ、バカじゃん」
たったの一週間。おまけに、私たちの関係性は、家主と居候だ。いや、他の人から見たら私たちの関係性はそんな単純なものではないだろう。たとえるなら、犯人と人質が近いかもしれない。この状況も家に軟禁しているようなものだし、同棲なんて言えるものでもない――、そこまで思考が行きついた時怖くなった。
もしかして現状を警察が見たら、犯人は私なのだろうか。最初にツキヤを連れ込んだのは私だし、ツキヤが本当に未成年でないかもわかっていないのだ。ツキヤが親に探されていたら? 私の両手首は、手錠に繋がれる事に――?
「……それは嫌だ」
それに、未成年にここまで心を揺さぶられているとするなら、情けない事この上ない。何とかしてツキヤの生年月日だけでも確認したいところだが、荷物らしい荷物は持っていなかったし、貴重品は厳重に管理しているはず。
「こうなったら……っ」
是が非でも何とかしてやると心に決め、先ほどまで読んでいた雑誌を片づけてから作戦を立て始めた。
夕方。私がいる部屋に戻ってきたツキヤは、「夕飯、どうする」とスマートフォンを見ながら聞いてくる。それに対し、「お肉系なら何でもー」と返して、何気なさそうに雑誌をめくる。めくったページに載っているのは、星占い。まずはツキヤの星座を聞いて、だんだんと干支を聞き出すのが作戦の一つ目だ。
「じゃあ、フライドチキンにするか」
そう言いながら、スマートフォンの画面上に指を滑らせるツキヤ。注文に意識を向けている今なら、私との会話が適当になるはず――、今がチャンスだ。
「うわっ! 私今月の星占い、12位じゃん。なくしものを沢山しそうです……、大切なものは肌身離さず持っておきましょう……かぁ」
「そいつぁ災難だな」
「まぁでも、ちゃんと持ってれば大丈夫って事でしょ! ラッキーアイテムは、星型のアクセサリー……そんなのないや」
「星? なら、後で俺のピアスやるよ」
「えっ! いいの!? やったぁ!!」
ついつい本気で喜んでしまったが今は作戦中――、ツキヤの星座も聞き出さねば。
「……ところで。アンタは何座なの?」
「あ? ……獅子座」
かかった。まさか本当に星座を教えてくれるとは思わなかったが、怪しまれないためにきちんと獅子座を探す。
「獅子座ね〜……あっ! 良かったね、1位だよ!!」
「……マジか」
「うん! えっとね、喧嘩した友達と仲直りできるかもだって!! ラッキーアイテムは、円形のもの……それならピンキーリング持ってるからあげるよ! 買ったはいいけど、サイズミスってガバガバだったから全然つけてないし!」
この提案は、喜んでくれるだろうか。ツキヤが私のために何かをくれるというのなら、私もツキヤの幸福のために何かしたい。しかし、ツキヤの方を見ると喜びとは正反対の顔をしていた。
「えっ……、ツッ、ツキヤ……?」
「……肉、頼んどいたから。来たら受け取れよ」
それだけ言って、ツキヤはまた隣の部屋に戻っていく。
会った時以上に悲しそうで、今にも泣きそうな目をしていた。私からの提案がそんなにも気持ち悪かったのだろうか。やはり、私は夢を見過ぎているのだろうか。
作戦も失敗した。明日から、ツキヤとどう顔を合わせたらいいのかもわからない。もう既に、星占いは当たっているような気がして心が痛くなった。
翌日。昼過ぎになってもツキヤは部屋から出てこず、空腹に負けた私は昨日残したフライドチキンをかじる。一緒に暮らし始めてから、ツキヤが昼まで部屋から出てこない事は一度もなかった。必ず、昼食の事を聞いてくれたからこそ。
昨日の事を、まだ怒っているのだろうか。ツキヤの事を知りたくても、知ろうとするたびに拗れる。
また、ツキヤが出て行くと言い出したらどうしよう――、否その方が良いと頭ではわかっている。ツキヤがいるべき場所は、ここではないはずだ。あの時も、出て行くツキヤを引き止めなければ今こんな気持ちになっていない。
ツキヤだけでなく自分をも苦しめているのは、私。しかし、ツキヤにはどこにも行って欲しくない。傍にいて欲しい……そんなわがままな自分自身に、嫌気がさした。
「……っ」
気がついたら、足が勝手に動いていて――。私は公園のベンチに座る。一週間ぶりの外は冬らしい冷たい風が吹いていて寒いが、そんな事は気にならない。寒空の下、ボーッと景色を見つめる。
これで、良かったのかもしれない。ツキヤが出て行くのではなく私が出て行けば――、ツキヤと離れるのは辛いがツキヤの居場所は保証される。流れる時間とともにツキヤへの気持ちにも、折り合いをつけられるはずだ。
ただ問題があるとすれば、今の私は適当に出てきたせいで一文なし。当然、スマートフォンも持っていない。
「一回戻るってのも、ダサいよなぁ……」
自分の計画性のなさに溜息をつき、立ち上がる。ダサくても、お金くらいは持ってこなければ。
その時、一際強い風が吹く。先ほどまではどうって事なかったが、とてつもなく寒く感じる。お金と一緒に、厚手の上着も持ってこようと決めた――が。
「んぶっ!」
今度は顔面に新聞紙が当たった。驚きのあまり慌てて剥がし、下へと落とす。何故こんな不運なのだろうかと自分の運命を呪い、俯いた。視界に先ほどの新聞紙が入り、まるで今の私のようなボロボロの新聞紙から、目を離せなくなる。
しかし、新聞紙は再び吹いた風に乗って飛んでいった。
「あっ!!」
勝手に動き出す足。手は新聞紙へと伸びる。後もう少し――、限界まで手を伸ばしたが、私の身体は何故か後ろに引っ張られ、新聞紙はもう手の届かないところへと飛んでいった。
「嘘……」
「バカ! 何やってんだよ!!」
呆然と新聞紙を見つめる私の耳に、怒った声が聞こえる。その声にハッとして振り向くと、サングラスを掛けたツキヤが立っていた。
「……ツキ、ヤ……?」
目の前にツキヤがいる事が信じられなくて、瞬きを繰り返す。そんな私をツキヤは着ていた毛皮のコートで包み込みながら抱き締めてくれた。
「勝手に出て行きやがって……帰るぞ」
「……ごめん」
「ったく……」
まだ怒りが収まらないらしいツキヤは、私の手を無理矢理掴んで歩き出す。ツキヤの手は、大きくて温かくて――、震えが止まらない私の手を温めてくれた。
家に戻り、ツキヤに「座ってろ」と言われたため大人しくその通りにする。そんな私とは正反対に、ツキヤはキッチンの方へ向うと、慌ただしく動き始めた。
今日は、ツキヤの手料理が食べられるらしい。嬉しいが、食欲はあまりなかった。
結局家を出る事は叶わず、状況は振り出しに戻ったと言える。だが、ツキヤが迎えに来てくれた事は純粋に嬉しかった。ツキヤにとって、私は必要な存在だと思っても良いのだろうか。
一緒にいると楽しくて、外に出なくても時間はあっという間に過ぎ去っていく。
気づいてしまったこの気持ちに、蓋をするなどできやしない――私は、ツキヤの事が好きだ。
この恋が叶わない事はわかっている。私がツキヤの心に刻まれた、大きな傷を癒せない事も……いずれ、離れなければならない日が来る事も。
それでも――、たった少し、一分一秒でも傍にいられたら。それだけで、諦めがつく。
「……できたぞ」
目の前に置かれた皿には、美味しそうな酢豚が盛られていた。おまけに、カットされたパイナップルまで乗っている。私にとって、酢豚にパイナップルは邪道ではないが――、ツキヤにとっては有り得ないはず。
それを口に出そうとした瞬間、唇の前にツキヤの人差し指が置かれる。
「好きなら食え。……どうせ好きだろ、こういうの」
「……うん、大好き。ありがと、ツキヤ」
「フン。……やっぱ、相容れねぇ」
私の言葉にそう返したツキヤは、言葉とは裏腹に笑っていた。
それ以降、ツキヤと喧嘩をする事はほとんどなくなり、いつの間にかツキヤと出会ってから一ヶ月が経っていて。
二週間経ったくらいの頃、私の兄が家にやって来た時は「嫁入り前の女が男と同棲なんて狂ってる!! 今すぐやめろ!」などと言い出して大変だったが――、それ以外は平和そのものだ。何もないかどうかの確認だとかで、頻繁に兄が家に出入りし始めたのは鬱陶しい事この上なかったが。
今日は、ツキヤと初めてのデート。少しでも可愛いと思ってもらえるよう、服も昨日のうちから悩みに悩んで選んだし、髪もメイクも練習に練習を重ねた。
「……悪くねぇじゃん」
見せて一番最初にそう言ってもらえたのが嬉しくて、自然と笑顔になる。ツキヤも兄に買ってこさせた新しい服に身を包んでおり、今日はいつも以上にかっこよかった。
そんなかっこよすぎるオーラを少しでも隠すためのサングラスを掛けたツキヤと、手を繋いで家を出る。
このデートは、お互いに行きたいところへ一か所ずつ行こうと決めていた。
まずは、私の行きたいところから。ベタだが、私は水族館を選んだ。水族館ならツキヤと静かに過ごせるし、穏やかな気持ちになれるだろう。
「あっ、見て!! イルカだよ!!」
「でけぇな。……三十分後にショーをやるって書いてあるぞ」
「えっ! なら、急いで席取らなきゃ! 行こっ!!」
「っ、おっおい!」
コートのポケットに入っていたツキヤの手を引っ張り、無理矢理手を握って走り出した。デートなんだから、これくらい許されるだろう。もう、こんな幸せな時間を過ごせる事はきっとない。後悔だけはしたくないからこそ、普段の自分ではないくらいに積極的になる。
「こけんなよ」
呆れたような、でも温かさを感じるツキヤの声。そんな声を聞いて、頬が熱くなった。
楽しい。この楽しい時間がずっと続けばいいのに――。
そう思っていても、イルカショーで水飛沫を浴びて笑い合い、一緒にハンバーガーを食べて、ショップでお土産を買っていたら、あっという間に時間は過ぎていく。
「っ、ねぇ! これ、お揃いで買おうよ!!」
「あ? 何だそれ」
お土産の会計待ちをして並んでいた列の横にある棚。そこにあったのは、イルカ型のキーホルダーだった。しかも、イルカの頭の部分が蓋になっており、小さいものなら入れられる仕様になっている。
「ふーん、お前にしては悪くない趣味だな」
「へへっ、そうでしょ? 私、黄色がいいーっ! ツキヤは?」
「……じゃあ、俺はピンク」
「えっ、ツキヤのくせに可愛い」
「うるせぇよ」
前なら確実に怒られていたが、今のツキヤは軽く笑って許してくれるようになった。それが、本当の彼氏と彼女のやり取りに思えて、口角が上がる。
お土産も買い終わり、次はツキヤの行きたいところへ行く番だ。その前にお手洗いに行かせてもらい、手を洗ってから先ほどのイルカのキーホルダーを取り出す。
ツキヤにはお揃いでと言ったが、私がこのイルカを持っておくつもりは最初からなかった。このイルカには、ツキヤに渡せずにいたピンキーリングを入れる役割を果たしてもらおうと、見つけた瞬間に思ったのである。
「……イルカさん、ツキヤに幸せを導いてね」
イルカの中にピンキーリングを入れてから、そう囁いた。
水族館から出て、ツキヤの足は街の方へと向かっている。ツキヤは、どこへ連れて行ってくれるのだろうか。わからないからこそドキドキしたが、レストランもブティックも通り過ぎた。ゲームセンターやカラオケの可能性もある、そう思ったがそれらも通り過ぎていく。
この先にある主要な建物を、私は一つしか知らない。一歩、また一歩と踏み出すごとに、カウントダウンがゼロへと近づいていくのを感じた。
「……っ」
カウントダウンを、止めてはならない。ツキヤが決めた事を止めたくはない――、けれどその前にどうしてもツキヤの顔を見たかった。
コートを掴むと、ツキヤは止まって振り返る。ツキヤの顔を見れて嬉しかったが、ツキヤは驚いた顔をして私の頬にゆっくりと触れた。
「……泣くなよ」
「えっ……?」
ツキヤの言葉に、間抜けた声を漏らす。確かに目から溢れた涙が、顎を伝って下に落ちたのを感じた。慌てて拭おうとしたが、その前にツキヤの親指が優しく拭ってくれる。
「……頼むから、笑ってくれ。お前のアホみたいな笑顔が見たいんだよ」
「っ、何それ……っ。超失礼じゃん……っ」
涙が止まらず、くしゃくしゃになった顔でツキヤを睨みつけたが、ツキヤは微笑んで私を抱き締めた。
ツキヤの温もりが、鼓動が、伝わってくる。離れたくない、離したくない……こんな風に思ってしまうのは、相手がツキヤだからこそ。そんなツキヤからの頼みなら――。
ツキヤを突き飛ばし、後ろに数歩下がってから無理矢理笑顔を作ってみせる。これまでの人生で、一番ひどい笑顔だろうが、それでもツキヤは笑ってくれた。
「……今までありがとな、――」
ツキヤはそれだけ言って、季節外れの桜が咲く建物へ歩き出す。私はその背中を最後まで見送れず、恥ずかしさもかなぐり捨てて泣きながら反対方向へと駆け出した。
コートのポケットの中で、星を秘めたピンクのイルカが泳いでいるとも知らずに。
『速報です。大晦日に行われた十二人組のダンス&ボーカルグループ・LES CHEVALIERのライブ中にドームを爆破し、約三万人を殺害した容疑で指名手配されていた同グループのボーカル、永重一星さんが先ほど出頭し、逮捕されました――』