古樹の森①
(あたたかい)
柔らかい空気が彼を包む。
しかし、それももう終わりが近付いているのを直感する。
(あぁ……もう少し、もう少し眠っていたいのに)
そう思いながら、彼の意識は微睡みの水底から浮かび上がった。
「……ん…………んぅ……」
突然感じた眩さに白銀の眉が潜む。
(眠り……? 私は一体いつ……)
ぱちっ
小さな違和感に瞼が開いた。
すると、幻想的な光景がボヤけた視界に映り込む。
林立する巨木の数々、柔らかい新芽、香りの好い花、木洩れ日。全てが合わされ乗算し自然の美が作り上げられていた。
彼には──天上に住まっている筈である、ルグルス神の姿をした青年には覚えの無い場所だった。
大樹に背もたれたまま、彼は骨張った大きな掌で目元を覆い隠し思考に耽る。
(眠っていた? 私が?)
(意識が無くなっていた?)
(いつ)
(ダスクか)
一瞬で結論まで持っていけない思考回路に加え、並列思考も出来ない。
現在の自分では億劫であったが、一つ一つ解きほぐすことによって現状を把握するに至る。
まず、世界を汚し続ける千年に及ぶ人々の争いを止める為、元凶である人類の滅亡を企てる。
しかし、そこで陪神──配下の神、ルグルスが生み出した神──の叛逆により、阻止。
本来であれば、最高神であるルグルスに拘束を敷ける筈も無かったが、ダスク神だけではなく他の6神の協力もあって成功した。
その上で、彼らはダスク神へと融合し、統合サレタ七神へと変貌。
覆ることの無い位階がここでルグルス神と逆転。天上から追放することに成功したのであった。
──本来であれば融合されたとしても、ルグルス神の足元にも及ばないのだが。
あの妙な魔法陣がルグルス神を制限したと言えるだろう。
その場で看破しただけでも、数百の妨害魔術、拘束魔術、様々な魔術が多層魔法陣に組み込まれていた。
不可解な点は残る。
だが、ダスク神のあの言葉。
『テメェはもっとヒトを知る必要がある』
これが全てだったのだろう。
(私は選択を誤ったとは思わない)
特殊に変貌を遂げた統合サレタ七神の力を以てすればルグルス神を消滅するのも容易かった筈。
しかし、それをせず追放し、強制的にヒトの姿を模って受肉させ地上に堕とした。
(つまりは私をヒトとしてヒトと関わりを持たせて、私の行いを間違いだと認めさせたい)
そういうことなのだろう。
全く面倒なことをしてくれるものである。
(だが、私に代わって最高神の勅令だ。見上げた振る舞いに応じてやろう)
ここまで表情の無かった彼が薄らと笑んだ瞬間だった。
実の所、人類を手に掛けなくて安堵していたのであろうか。
神のみぞ知る。
(さて)
ルグルスはスッと立ち上がり、自分の格好を見遣った。
天上に居た時に纏っていたキトンとは変わって、千里鏡で見掛けた冒険者の魔術士風である。
特徴的なのは腰のサイドに装飾されている八面体の宝石の数々だろうか。
とはいえ、濡れ羽色の外套で余り主張は激しくない。
そして、隣に立て掛けてあった、ルグルスの身長──成人男性よりふた回り高い程度──より頭一つ分高い、純白の木で作られた長杖が立て掛けられていた。
こちらは一切の装飾、造形は無く、大樹の枝をそのままに葉を落として杖にしたような形だ。
そっと握ると、長年愛用していたかのようにしっくり手に馴染む。
きっとこの装備の数々はダスク神が前以て用意していたものなのだろう。
(随分と用意の良い)
いずれルグルスが人類を滅ぼすことを予見し、歳月を重ねて企てていたのだろう。
癪に障る気もしなくはなかったが、どうせ追放された身である。
仰せのままに人里にでも降りて人間観察でもたらしこもうと思考を切り替える。
(……)
瞳を閉じて、感覚を研ぎ澄ませると、右の方向のそう遠くない位置から人と魔物の気配を感じる。
結構な勢いでこちら側に向かってきてる様子だった。
人の方は追い掛けられているのだろう。かなり焦燥感が漂っている。
一先ずは助けに入り、信頼を得て人里を案内して貰うよう誘導すべく、ルグルスは右の方向へ外套を翻して向かっていったのだった。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「はぁ……ッ、はぁッ……!!」
大人が3,4人で手を繋いで輪を作っても抱えきれない太さの樹木が立ち並ぶ古樹の森。
その深奥、苔や原生植物も鬱蒼と茂る獣道を、齢にして6,7頃の少年がやや拙いながらも駆け抜けていた。
深紅の髪には泥や木の葉が引っ付き、零れそうなほど大きな緋色の瞳の尻には擦り傷が出来ていた。
汗を多量に含んだ麻の服も所々茶色く汚れており、彼がどれだけ必死にここまで走ってきていたかが難なく伺える。
それもそのはずだろう。
彼の後方には、彼と同じ背丈位で腹がボコっと出ている小鬼の魔物──ゴブリン数匹の姿があった。
涎を垂らして牙を剥き、白く濁った眼で自身を捉え、形振り構わず追い掛けて来る様は少年にとって恐怖以外の何物でも無い。
森の中を進むにつれて少年の体力はどんどんと蝕まれていく。
息も荒く、走る速度も目に見えて落ちていた。
このままではゴブリン達に追い付かれ、華奢な体躯を貪られることなど少年にとっても想像に難くない。
数拍、走りつつも息を整えた少年はゴブリンを尻目にかけて小さく呟き始める。
「“無音の衝裂”」
言葉は木霊し、周囲へ静かに響いた。
少年は人差し指を立てて、瞳を細めてその指先を見詰める。
「“空虚に落ちる”“爆ぜる渦”」
目に見えぬ、けれど存在は感じる不思議なチカラが少年の周囲を囲み始める。
それに気付いたゴブリン達は急停止し、怪訝な表情を醜い顔に浮かべた。
「“呑まれるな”“我が指に集え”! 『ヴォイドインパクト』ォッ!!」
「ギィッ!!? グギャァッ!!」
振り向きざまに腕を3度振るうと、それに応じて3つの淡く輝く灰色の球が顕現し、凄まじい勢いでゴブリンへと射出された。
ゴブリン達は驚き呆けるだけで、球の速度から避ける余裕は全く無く見事に着弾が成功する。
瞬間、灰色のそれは大きく破裂し、ゴブリン達を後方の樹木の幹へ吹き飛ばし意識を刈り取った。
肩で呼吸をする少年は、ピクリとも動かなくなった奴らを見据える。
「………………ふぅ、はぁーーーっ……」
数秒、全く動かなくなった事を確認した少年は大きく胸を撫で下ろし天を仰ぐ。
眩しい。
太陽は天高く赤く輝き、木々にその陽光は遮られているものの、少年の目を眩ませるのには充分だった。
「──えっ?」
不穏な影が上空より飛び出し彼に襲い掛かる。
「『ヴァーチュアスレイ』」
死んだ。
少年が直感した瞬間、玲瓏たる声が木霊すると。更に上空から夥しい数の光線が降り注ぎ、影の体躯を射抜いていく。
間も無く、ドスンッ……と影が隣に力無く落ちた。
息も絶え絶え。少年は瞠目したまま恐る恐るそちらに首を向けると、巨大な狼がその体に数々の風穴を空けて伏していた。
目は反転し、剥いた牙の間からは泡と血が混合して汚濁している。
「ひぃっ」
至近距離でそれを視認した少年は悲痛な声を漏らし、思わず後ずさりした。
まばたきが止むことなく、必死に息を整えようとすると、後方から先ほど耳にした声が聞こえてくる。
「汝、人里はこの近くにあるか? ……子供?」
「へ? あ……あぅ……」
(た、助かった。ありが……と……――)
なんて優しい声色なのだろうか。
助けてくれたのはこの人なのだと瞬時に判断した少年は、安堵の為かそこで意識を失ってしまう。
「……私は汝に眠りの魔術を使用した覚えは無いのだが」
そうして少年の側に、拳を顎に当てて的外れな思案をしているルグルスの姿があったのだった。