Case.2
はぁ…と一つ、無事に帰宅できたことへ安堵の意味を込めて息をつく。僕のため息を自分への呆れと捉えたのか、目に涙を溜めながら夏樹の肩がビクッと震える。
「ははは、気にする必要はありませんよ夏樹さん。」 と爺ちゃんが落ち着いた声で夏樹へ言う。
「そうよぉ、なつちゃん。先生もなつちゃんの脳天割りは関係ないって言ってたしねぇ」
婆ちゃんが料理を机に配置しながら爺ちゃんへ同調する。今夜は唐揚げらしい。
「まぁ最後のは確実になっちゃんのせ…」
まで言いかけたところで爺ちゃんの咳払いにかき消された。
「ふぐぅぅ」
という夏樹のしおらしい声も聞けたので大泣きする前に慰める。いや慰めて欲しいのは僕の方なのだけれど。僕の唐揚げを一つあげてもまだ落ち込んでいる様子だったけど、涙は乾いたようだった。
「そうだ、あとでレンタルビデオ屋さんでDVD借りに行こうよ。」
まぁ、僕の部屋でスプラッター映画まがいのものを観られるのは良い気はしないけど、落ち込んでる、いつもの元気な姿とはかけ離れた魂の抜けた夏樹を見てるのは僕も辛いし。
「う、うん。ハルくんがええなら…」
「そういえば、晴!」
急に婆ちゃんが思い出したように目を見開く。
「病院の先生が、不眠症が原因だって言ってたわよ!何か悩み事でもあるの!?」
夏樹と僕は顔を見合わせる。夏樹も同じことを考えていたのか、怪訝そうな表情をしている。
そんな。そんはずは。
「あんまり面白そうな映画、なかったね」
…冷房の効きすぎた極寒のレンタルビデオ屋から、夢が覚めたかのように蒸し暑い帰路へつく僕らのあいだには、違和感と重苦しい空気が漂っていた。
「レンタルビデオ屋ってのは、なかなかどうして刺激的というか興味深いものが多いよね。」
余談も余談。大余談ではあるけれど、レンタルビデオ屋というのはインドア趣味の自分としては宝庫のようなところで、本もあればテレビゲームもある。無論、思春期の男子高生にとって興味深いロマンもある。まぁ、あの凱旋門のような暖簾をくぐる勇気はないけれど。
とまぁ重苦しい空気を打開しようと言ってみたものの夏樹の表情から曇りは無くならない。
珍しくレンタルビデオ屋帰りにもかかわらず手ぶらな夏樹は思いつめた顔でうつむきながら自分のシャツを両手で握りしめている。
「やっぱり…私が悪いんじゃ…」
そう夏樹は呟く
「いやいや、もう10年以上の付き合いだぜ?あんなチョップ一つで…」
事実、チョップといっても小突くいや、たかだか手を額に乗せたくらいのもんで僕が過剰に見せただけでダメージなんて、ましてや気絶するようなものではなかった。
「そうじゃのうて…その…ウチがハルくんが寝とる時にビデオ見とったけぇ…眠れてなかったんじゃろ…?」
おそらく自分が夜遅くまでビデオを回していたことで僕がおかしくなったと思ったらしい。
だからこそ今夜はDVDを借りなかったんだろう。けどそれだって。
「いやいや、僕は眠りの晴明だぜ?まさかその程度の騒音で」
僕が眠れずに、ましてや不眠症になんかなるわけはない。寝つきが悪くなるくらいだ。自慢というわけではないけれど、僕はどれだけ周囲が騒がしかろうがおよそ3分で眠れる。運動会だって行進しながら居眠りをしていたくらいに。
夏樹は考えすぎだ。突然気絶するなんて、よくあることだろ?あの時は跪いていたし、立ち上がろうとした節に貧血で気絶なんてこともよくある話だ。
それなのに、こんなに思いつめているのは……
何か隠している?
「はっはーん?なっちゃん、僕が寝てる間に何かイタズラしてるぅー?」
無論、僕が発したこの「イタズラ」というのは、額にマジックで肉と書いてみたり、鼻をつまんでみたり、熱湯の入った湯のみを頬に当ててみたり。全て僕が夏樹にやられたことなのだけれど、そういった意味の「イタズラ」だったのだけれど。夏樹の顔は今にも火を噴きそうなほどの真っ赤だ。街灯の少ない夜道ですらわかるほどの赤だった。それはそれは秋の紅葉のように。
ジョークのつもりが時に相手の図星を突いてしまうこともある。それはまさにイタズラなんていう広義的な、思春期の人間にとってはなおさらな言葉を使ってしまった僕のように。
僕の貞操の安否はともかく、同じ過ちを繰り返さぬよう僕は深く胸の前で十字を切りながら心に刻んだのだった。
夏樹は僕の家へ戻ることなく、そのまま自宅へ帰ってしまった。僕にとって今日は災難な日だったけれど、それは彼女もまた僕と同様に災難だったろう。
もし僕の目の前で夏樹が倒れたりしたらどうしようなんて考えるとやっぱりショックだし、心配で頭がどうにかなりそうだ。
玄関を開けてリビングの振り子時計を見ると、ちょうど22時の鐘が鳴っていた。
いつもはもう少ししてから眠りにつくのだが、いかんせん今日は疲れた。祖父母を起こさないよう階段の軋みを最小限に抑えながら自室へ戻る。
明日の準備をして今日は眠ろう。そう思って、夏樹が大丈夫だと言ってるのに病院から自宅まで運んできてくれた学生カバンを開く。
結局、今日一日病院にいたもので使うことのなかった筆箱やら教科書やらが恨めしそうに僕を見つめている。悪かったよ、なんて思いながら中身を引っ張り出したところ、教科書の間から白くて無機質な厚紙が床に落ちた。
ひっくり返すと、真っ白な厚紙に相反するように、真っ黒な文字でただ、
「那須野医院
院長 那須野 火憐」
というのと、その住所が書かれた紙を拾い上げる。
「名刺……?」
いつの間にこんなものが僕のカバンへ紛れ込んだのだろう?
と不思議に思っていた時。
ズキッ……
また、またあの頭痛だ。
この時、僕の身体に起こる何かの異変に気づくべきだった。
なんとしてでもあの歌声の主を思い出しておくべきだったんだ。