私と死
生きるとはどういうことか?そして、死ぬとはどういうことか?
定義は文脈に依存すると思っているし、また恣意的なものだと思ってはいるが、私は、生きるとは、系(system)の恒常性が維持されている状態と定義づけている。そして死とは、その破綻である、崩壊である。系の崩壊が死である。
この定義によれば、死とはなにも生物に限ったことではないということになる。生態系や太陽系や銀河系も一つの恒常性を有する系をなしているのであり、すなわち死を可能的に有している。
ところで、そもそも系というのは客観的に存在するものではなく、あくまでも主観によってそこに存在するとされるものであって、実体として、確固としてあるものではないと思う。よって、生も死も確固として存在するのではない。今の私にはそう思える。
私はこれまで身近な人の死を3度経験した。正確には4回となるか、いや、もっと多いか・・・。
私は幼い頃、死が怖かった。7、8歳の頃、死が怖くて怖くて怖くて泣きに泣いたことがある。当時の私にとって、死は、非常な恐怖の対象であった。永遠の闇を連想させるとてつもない迫力の恐怖であった。(今はまだこの年齢だけど、必ず年をとって、そして必ず死ぬ)という事実が、何よりも恐ろしく、また、どんなことにも増して重大なことであった。私が泣いていたとき、どうしたのかと、そのとき家にいた大伯父に尋ねられ、「死が怖い」と言ったら、真顔で馬鹿じゃないかというふうにあしらわれた記憶がある。
当時の私にとって死は、実体として存在する恐れるべき事態であった。その頃の私は、そのような永遠の闇を恐れ、そして死後の世界の存在を切望していた。この頃の私は、自宅に一台あったパソコンで、“死んだらどこ行く”などと検索していた。当時の私にとって、死後の世界の実在は、何にも代えがたい希望だったのである。
さて、それから数年後、私が10歳ごろ、祖父が死んだ。これが私にとって初めての、明確な、身近な人の死の体験である。私のこの頃の家族構成は、私、弟、父、父の父母(すなわち父方の祖父母)の5人であった。母は離婚により既にいなかった。
祖父は既に80歳近く、病気により痴呆も進行しており、元々家で一緒に暮らしていたのだが、その頃は家ではなく病院で暮らすようになっていた。そんな祖父が、私の住む町の大きな祭りの折、家に帰って来た。この祭りは山車を曳いて回る祭りで、町の人にとって特別なもので、家々ではとても豪勢な料理を振る舞うのである。3日間の祭りで3か月分の稼ぎがつぎ込まれると言われるほどである。祖父はその祭りのさなか家に帰ってきて、そしてその豪勢な料理を食べているときにそれを喉に詰まらせて、そして死んだ。私は祭りの山車曳きに参加しており、祖父の死を知ったのは祭りが終わった後だった。祭りの期間中、祖父の体調が悪いということは聞いていたが、まさか死んでいるとは思っていなかった。私に祖父の死を知らせたのは、先に出た大伯父であった。私が、「じいちゃんはどうなった?」と聞くと、死んだという返事が来た。私はとてつもない衝撃を受けた。物心ついて初めての身近な人の死だったからである。人間いつか死ぬということはわかっていても、私の心は、死をどこか無関係なものとして扱っていた、或いはそう思い込みたかったのであろう。故にこの出来事は自分にとって非常に大きな出来事であった。私は衝撃のあまり恐怖に包み込まれ、なんとかその恐怖を抑えようと試みたが、恐怖はどうしようもなかった。私は家に集まっていた親戚たちの前で、恐怖から思わず涙が出そうになり、なんとかそれが恐怖からの涙であることを誤魔化そうと、「ああ、涙が出て来た」とつぶやき、涙を流した(正確には、涙を流したかどうか、記憶が定かでない)。つまり、恐怖からの涙ではなく、おじいちゃんの死を悲しむ涙であると思わせたかったのである。
以上が私の初めての身近な死の体験である。
次は祖母である。祖母は、祖父が死ぬ前に癌が発覚していた。すい臓がんであった。入退院を繰り返し、徐々に衰弱していく祖母を見ていた。最後のほうは、もうすぐ死ぬんだなということが私にもはっきりとわかった。そして死んだ。病院での死だった。死の前日だったと記憶しているが、病院のベッドの上で祖母は一人手を組み一心不乱に何かを唱えていた。祖母の死は、私に、驚くほどすんなりと受容された。これには恐らく、祖父の死で身近な人の死を経験していたこと、徐々に死に向かっていったことが挙げられるだろう。だから、祖母が死んだとき、感じたのは僅かの悲しみで、恐怖は全く生起しなかった。
さて、その後、中学、高校時代ともなると、私の死の受け止め方は徐々に変わっていった。はっきりと記憶しているわけではないが、小学校のころのように死を恐れることはなくなっていった。
中学校1年の頃に、優等生に、「死んだらどうなるの?」と聞いて笑いながら知らないと返されたことくらいを覚えている。
私は高校を1年足らずで中退しており、その後は何年もの間、仕事にも就かずただ毎日を好きに暮らしていた。そのさなか、私の世界観を、精神を、あらゆるものの見方を一変させる出来事が立て続けにあった。それは以下のような考えが私の中に立て続けに沸き起こった出来事である。私はそれを大仰にも「精神革命」と呼んでいる。
―定義や根拠と言うが、ではその定義や根拠の定義や根拠は何か?こう考えていくと定義や根拠を基礎付けることは不可能ではないか?―
これはその後、ネットで検索し、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」というものと合致することを知った。
これを第一弾の革命とすると、第二弾は以下のようなものである。
―そもそも事物は明確に独立して存在するのか?いや、そんなことはない。世界は水溜りのようなもので、事物に明確な境界なんてないんだ!―・・・これを当時の私は「すべてがすべて」と言い表していた。これはその後、ネットで検索し、「無分別」「空」というものと合致することを知った。
と、このような、当時の私にとってはまさに革命的なものの見方の大転換があった。これにより私の死生観も大いに変わった。
まずは、生も死も実在ではなくなり、明確ではなくなった。なぜなら、定義はもはや存在せず、また生と死の境界もないから。しかしなにも死という事態を全く存在しないなどということを考えたわけではなく、あくまでも明確でないと考えたにすぎない。
そして、当時の私は唯物論に目覚めていた。よって、死後は恐らく存在しないということを信じていた。しかしもはやこの頃の私にとっては、それは悪いことではなく、むしろ当然のこととして受け入れられていたのであった。さらに、幼い頃は死を永遠の闇の如く感じて恐れていたが、この頃の私にとって死は、無であり、なんら恐怖するべきこともない境地となった。
今の私にとって、直近の身近な人の死は、母の死である。母は私が小学2年生の頃に家を出て行き、父と離婚していた。しかし私は、不定期に母と会う機会はあった。私が15歳頃のこと、母に癌が見つかった。すい臓がんであった。手術を受けたが病状は改善せず悪化し、どうしようもなくなり、私の家に帰ってきた。痩せ衰えていた。私はそんな母の姿をカエルのようだとか、また、遮光器土偶のようだと心の中で形容した。母は約1年間、私に死にゆく人の姿を見せてくれた。私はその母がいた期間、学校にも行かず仕事にも就かずに好きに暮らしていたので、必然的に母といる時間が多かった。
母は死を覚悟していた。少なくとも死を覚悟した言動であった。死んだら海に散骨にしてと何度も頼まれた。また、尊厳死をどう思うかについても私に質問していた。
ある日、母は泣いた。生産性のない自分に生きている価値なんてないなどといったことを言いながら泣いていた。私はそんな母をとても可哀想な人だと思った。
しかし、母は生きていた。私の家に帰ってきて、入退院、介護施設への入退所を繰り返していたが、生きていた。母はその1年間何をしていたか?生きていた。
母はその期間、般若心経の写経をしていた。しかしその件で、私は母と衝突した。母は恐らく内容を理解せず、ただ書いていたようであるが(少なくとも当時の私は確かにそう感じた)、その頃の私はちょうど般若心経の説くような空の思想に傾倒しており、その意味も分からずただ書き写しているだけの母に対して私は腹を立てていたし、また同時に軽侮の念も生起していた。今から考えるととても愚かな事である。当時の私に問うと、「腹を立ててもいいし、立てるということもない、また無分別だ、空だ、そんなものはない、あるけどないんだよ、でもあるよね、これもまた無分別。」とかなんとかそんな風な答えが返ってくるのかもしれない。
母は、やはり日を追うごとにますます痩せ衰えていった。そして冬の寒いある日、父が母に呼びかけても応答がなかった。しかし呼吸は明確にあり、これはどうしたことかと父と私で話し合ったが、ひょっとすると睡眠薬で眠っているだけかもしれないということで、放っておくことにした。しかし父はそれでも心配だったらしく、一応、と介護の方に来てもらうように電話で頼んでいた。父は仕事に出て行き、私一人と母の二人だけが家にいることになった。母はその頃1階で生活しており、私は2階で生活していた。私が2階の自室にいると、しばらくして介護の方が来たらしく、母の名前を大きな声で呼んでいた。それからすぐ、介護の方は慌てたように救急車を呼んでいた。どうやら睡眠薬で眠っているのではなかったらしい。それからしばらくして救急車が到着し、母は運ばれていった。私が母の顔を見たのはその日が最後となった。その後病院で意識は回復したらしいが、私は見舞いには行かなかった。行く機会はあったのだが、なぜというでもなく、なんとなく行かなかった。
先の件から1か月後、母は死んだ。
恐怖も悲しみも、私にはなかった。