運命の走り
彼は走ることが好きだった。
それを仕事とすることを夢見ていた。
ただ、無邪気に。
ただ、素直に。
いつもは楽しく走っているのだけれど、今日だけは、大切な大切なレースだから、負けられないレースだから、今日だけはいつもの笑顔はない。
緊張した面持ちで走り出せるそのときを待った。
握り締めた手は、気持ち悪く湿っている。
普段の汗ともまた違う、ぐっしょりとした気持ちの悪い湿り方だった。
これで全てが決まると言っても過言ではない。
まだ走り出す前だというのに、彼の額には、無数の汗の雫が浮かび上がっては流れ落ちていた。
スタートの音っ!!
反射的に飛び出した!
手応えは悪くない。感覚としては先頭を走っている。油断をしなければ、いけるっ!
無心で走りたい気持ちもあったけれど、確実に確実さを求めるならば、考えながら正確に走ることが求められることを彼は知っていた。
楽しみたい気持ちを堪えて、緊張感を抱えて走る。
ゴールの音はあるけれど、テープの感触はあるけれど、それが自分を安心させてくれるものであるのかはわからない。
わからない。
不安な時間が流れる。
たった数秒ともないほどの刹那のはずなのに、それは永遠にも感じられる時間だった。
彼の額から零れる汗は、気持ちを痛いほどに表しているひどく冷たいものである。
たらたらと汗が滴り続けるのが鬱陶しくて、目に入って沁みるのが辛くて、心をここで解放していた。
待つこと数秒。
告げられる勝利。
彼は叫んだ。
彼は手を挙げた。
彼は全身でその喜びをアピールした。
腕を上げることで見えた脇は、元の服にはなかった模様を、ゆらゆらと淡く描いていた。
太陽に照らされた下で、彼の額の汗は光を反射してきらきらと輝いていた。
敗北の悲しみを訴える雫よりも、もっと素早くもっと自然に、もっともっと美しく、額からツーッと零れ落ちる。
輝きを秘めて零れ落ちる。
緊張の色も不安の色も、いつの間にかもう落としていた。




