プロローグですらないメランコリー5
鬢削ぎ。
平安後期から室町中期に亘って呼ばれていた髪型の一つ。
それは貴族の富と美貌の象徴であり、また庶民の羨望の対象でもある。
今となってはその意味ももはや形骸化し文字通り形だけになってしまったけれど、しかしそれは逆説的に言えば形だけとなりその意味が形骸化したからこそ、千数百年の時をえて尚も存在しえたのではないだろうか。その意味を失ったが故に庶民に波及し、その意味を失ったが故にそれは世間に流行したのだ。伝統という歴史的存在感として。
今、僕はその歴史的存在感をぼんやりと遠巻きに眺めている。
これほどあの髪型の似合う少女を、寡聞にして僕は知らない。
もちろん、その少女の名は、江戸川・フールフール・莉鈴。
顎の辺りまで流れる漆黒の髪、その狂おしいまでの悪魔的な美しさに包まれた均整の取れた小さな白い顔。そして、その均整の取れた顔にさらなる存在感を与える厚く切り揃えられた前髪。
「あれは良いものだわ」うっとりとした声で隣人の眼鏡っ子は言う。「良いものは決して無くなりはしない。幾千幾百の時を流れて、その名が変わることはあっても、その本質は決して無くなりはしない」
そして、薄く瞼を閉じた彼女はこう続けるのだった。
ビバ伝統、
ビバ姫カット、
と。
「いや、桜庭さん。見とれているところ悪いんですけれど、早くその提案とやらを仰っていただけないでしょうか?」
「興醒め」嘆息したあと、桜庭は僕に方へ振り返る。「モノローグでノリノリだった君は一体どこへ行ってしまったたの?」
まったく、僕のモノローグにまで介入するなよ。
まあ、ノリノリのだったは僕も認めるところだけど。
「いや、そんなことよりもだ」僕は咳払いをして、壁に掛けてあると時計仕掛けを見る。「桜庭とのやりとりで、昼休みが結構削られたみたいだけれど」
「恩田くんがエロリストだからよ。責任取りなさい」
「誰がエロリストだ!」
「じゃあ、エロエロリスト」
「………」
「じゃあ、エロエロエロリスト」
「悪魔が呼べそうだな」
「私は黒い奴よりも、白い奴と呼ばれる悪魔が好き」
「いや、桜庭さん。量産型には量産型の良さがあってですね……、いや、つーか、もうこれくらいで勘弁してください」
「そうね。エロリストの恩田くんと無為に時間を過ごすよりは、ありすと有意義に過ごしたほうがいいものね」
酷い言われようだ……。
しかし、ここは忍ぶ心でぐっと堪えて、僕は提案を示すよう桜庭を促した。
「彼女とお昼を過ごしなさいな」桜庭は言った。
彼女?
僕は首を傾げる。
僕と桜庭以外のクラスメイトは、皆思い思いにグループを作り弁当を広げていた。その場に立っているのは僕たち二人だけ。もちろん、僕にはもう彼女と呼べる特別な存在は既になく、桜庭が言う彼女が単なる三人称代名詞だと凡そ検討はつくけれども、しかしそれにしたて桜庭……。
「一体、僕は誰に声を掛ければ良いんだ?」
まさかオカルト好きが高じて、とうとう守護天使でも視えるようになったか?
彼方を見つめるような胡乱な眼差しを見ながら、僕はそんなことを訊ねる。
「そうだったら素敵ね」桜庭はくすりと笑う。「でも残念そうじゃない。私がしているのは索敵、そして捉えた姫カット」
「いや、相変わらず意味わかんねーよ」
って……まさか。
「そう。恩田くんは、江戸川・フールフール・莉鈴とお昼を過ごすの」
「えっ? それだけ?」
「そう、それだけ」桜庭は首肯する。「そして幸いにも彼女はまだ一人」
「うっ、何だその含蓄が見え隠れする言い回しは?」
「彼女、ずーとお昼まで女の子に囲まれていたよね? いつ恩田くんがその中に入って、朝に私がした提案をこなしてくれるかずーと観察していたんだけれど……、まったく、とんだチキン野郎だわ」
「悪かったな……、チキン野郎で。でも桜庭、別に今じゃなくても放課後に誘えば良いんじゃないか?」
「そうね。でも今じゃなければ、二番目にした私の提案は恩田くんには不可能と思うけれど?」
確かに。
「それに」と、桜庭は僕を一瞥して、それからおもむろに頷いた。「朝のやりとりだけじゃ色々と物足りないでしょうね、お互いに」
「何だよわかったふうに……」
「わからいでか」そう言って何故か桜庭は制服のポケットから携帯を取り出す。「ちなみにこれ、ボイスレコーダという素敵機能がオプション装備されています」
「素敵でも何でもない標準装備だそれ」
いや待て……、まさかこいつ!
「私はあのときに言った恩田くんの台詞が、伊達や酔狂じゃないってことは信じているけれどね」動揺しまくっている僕をよそに、桜庭は淡々と話しを続ける。「これは誰にも公表するつもりはないから、だから恩田くん彼女のことはお願いね」
「はいはい、わかりましたよ」
「あ、でも流出することはあるやも。しかもワールドワイドに」
「不肖、恩田崇、江戸川・フールフール・莉鈴に突貫したいと思いますっ!」
「良い返事」殊更満足げに頷いてから、桜庭は携帯を制服に仕舞い込む。「じゃあ、私はこれで。彼女と良いシエスタを……」
上機嫌の桜庭が廊下に消えるまで見送り(ちなみにこれ、桜庭がまた何かやらかさないかという監視を踏まえた上での見送りだ)、僕は机の横にぶら下げられた弁当を取る。と、そのとき聴き慣れた着信音が制服から漏れる。それは桜庭からのメールだった。
『きっと彼女、恩田くんのこと待ってると思う。これ女の感。天気予報と同じくらい信用しても良い』
「随分と当てにならない感だな」僕は笑って携帯を閉じる。
さてと、じゃあミッション開始と行きますか。
弁当を携えた僕は江戸川・フールフール・莉鈴、いや莉鈴の席へと歩いていく。そして、僕の気配に気づいた彼女は、いやもう気づいていたのだろう、桜庭と二人で見たときの彼女のその澄ました表情はそのときには既に消えていた。
「待っていたぞ、すけあくろー」子供みたいな邪気の無い笑顔で、莉鈴は僕を迎え入れる。
「何でずっと一人でいたんだ? それに莉鈴、お前弁当は?」
「莉鈴が一人でいたのも、弁当を食べないのも、お前を待っていたからに決まっているじゃないか」
ふと、桜庭のメールを思い出した。と、同時に微かに体温が上昇するのがわかった。
待っていたのかこの僕を、
君を血まみれにしたこの僕を、
君を血まみれにしても尚、
僕にそんな言葉を、
僕にそんな笑顔を、
君は僕に向けてくれるのか。
「本当に、待ち焦がれていたんだからな」
「ん、悪い」気がづくと鼻の頭を掻いていた。
「ずっとずっと、莉鈴は待っていたんだからな」
「ごめん」
「じゃあ、いただきまーす!」
「じゃあ、はい召し上がれ〜、って……」
え、莉鈴さん?
今、何と?
何と仰いましたか?
「おおっ、タコさんウインナーは弁当の定番だな! なあなあ、すけあくろー、厚焼き玉子の味付けは塩? それとも砂糖?」
莉鈴さん、僕の弁当にむしゃぶりついてました。
莉鈴さん、僕の弁当にむしゃぶりついてやがりました!




