プロローグですらないメランコリー4
「もう少しの辛抱……」
ふと、そんな声が耳元をくすぐった。
と同時に右手にひんやりとした感触。
どうやら僕は眠っていたらしい。
巻き戻した時計仕掛けは気がつくと元に戻っていて、気がついた僕はぼんやりと彼女の手を眺めていた。
「わかっているわ」
隣人の眼鏡っ子は優しく微笑む。それから軽く当てている僕の手に少しだけ圧力を加える。もう片方の手は口元に停滞したまま、白い人差し指を唇に当てて、何も喋るなのジェスチャー。「私は、わかっているから。だからもう震えないで」
彼女の真摯な瞳に、なんだか僕は笑えてきた。
どうやら彼女は僕のことを心配していたらしい。
でも、それはとんだ勘違いだ。
「いや、違うんだ。これは……」
「この人差し指が、親指姫に見えて?」鋭い視線と声調で、彼女は弁解しようとする僕を制する。いや、親指姫って意味がわからないんですけど。「だから、恩田くんは黙って待つ。それで全てが十全になる」
「そうですか」
そんな僕の相槌すらも彼女は無視して、僕の手にその柔らかい手を当てたまま大人しくしていた。それからおもむろに数字を諳んじ始める。視線は僕に向けられていない。壁に掛けられている時計仕掛けを見つめたまま、
「ごー、よーん、さーん」
何故かカウントダウンをしていた。
「にぃ……」唇を結び、彼女はにやりと不適な笑みを見せる。
そしてそれは訪れた。
だけど、それは彼女の掛ける魔法の合図ではもちろんなく、ましてや終末を予感させる不吉なラッパの音色でもなく、四限目の終了を知らせる極々平凡で単調なチャイムの音だった。
「ほらね」彼女は手を離して、にっこりと微笑む。「恩田くんが待ちに待ったお昼の時間よ。震えるほど待ち焦がれていたなんて、とんだ腹ペコキャラさんね」
「桜庭はとんだ勘違いキャラだけどな」
「酷い言い草。あーあ、心配して損しちゃった。ねえ、恩田くん。さっき君にあげた私の優しい気持ち返してくれる? その鞄の隣りに引っ掛かっている美味しそうなお弁当と一緒に」
「腹ペコなのは桜庭じゃないか」
「そう私は腹ペコ。そして今はお昼休み。腹ペコな私はありすと一緒にお弁当を突っつくことにするわ。だって今はお昼やすみだもの」そう言って桜庭はおもむろに立ち上がる。それから僕を一瞥して制服のポケットから手帳を取り出した。「そして私はありすのメッセンジャー。楽しい楽しいお昼休みは、楽しい楽しい定時報告の時間、メモメモっと。じゃあね恩田くん、良いシエスタを」
「いや待て! 何だその定時報告ってのは!? それに何だその手帳は! メモメモって、一体それに何を書いていたんだ!?」
「ありすに君の動向を報告するためだよ。そしてこれは、君の動向を書き綴った真実のメモリー」
あの幼なじみ、最近めっぽう昼に姿を現さないと思っていたら影に隠れてこんなことを……。
いや、それよりも、そんなことよりも。
僕が今、気に病んでるのは、僕が今、気に病むべきものは……。
「お前が真実と言って憚らない、その怪しげな手帳だー!!」
そう僕が叫ぶや否や、桜庭は身を翻し僕の追撃から逃れようとする。が、しかしそこは桜庭、持ち前の読書家スキルを発揮してその運動神経のなさを露呈、あっさりと僕に捕まる。
「にゃん」桜庭は借りてきた猫よろしく、大人しくなり僕を見上げる。「許して欲しいにゃん」
「キャラ変わりすぎだってーの、可愛く懇願しても僕は騙されません」嘆息したあと、僕は桜庭から手帳を取り上げた。「まったく油断も隙もあったもんじゃねー。悪いけど桜庭、中身は見せてもらうぞ」
きょうおんだくんがいやらしげなてつきでわたしのてをまさぐりました。
わたしがないてやめるようにいっても、おんだくんは、しんぱいいらないよ、といみがわからないことをいってわたしのてをまさぐりつづけています。それはおひるやすみまでえんえんとつづきそうです。わたしはもうどうしていいかわからなくて、ずっとなきつづけるばかりです。わたしがなきつづいているいまでも、おんだくんはひつようにわたしのてをまさぐりつづけています。めつきなんかもうすごいです。とてもじゃないけれどせいしにたえられるものではありません。はないきなんてもうけものそのもので、おもわずみみをふさぎたくなります。ああ、ありすさん。ありすさん。わたしはずっとこのままおんだくんのなぐさみものになるのでしょうか?
「………」
「………」
「………」
「にゃうん?」
これのどこが真実!?
そして、何故全てが平仮名!?
「僕は今日ほど桜庭の存在を恐ろしく思ったことはないぜ」
「誉めてるのに、握られている手に力が込められているのはこれ如何に?」
「いやいや誉めてなんかいないから」やれやれと、僕は桜庭をいなして握っている彼女の襟首から手を離した。「まあ、最もこんな荒唐無稽なこと信じる奴はいないけれどさ……」
「ふっ……、わかっていない」そんな僕を桜庭は嘲るようにせせら笑いながら言葉を続ける。「恩田君は何もわかっていない。世界は女の子にとてもとても優しくできていてよ?」
「どういう意味だ?」
「決まっている」唇を持ち上げたまま、桜庭は僕が持っている手帳を一瞥する。「恩田くんがそれを白だ白だと否定しようが、私がそれを黒と肯定してしまえば、それで全てが十全になる。何故なら私は女の子だから。ねえ、恩田くん。君になら、私が言っている意味がわかるはず」
「黒い……、どうしようもなく黒いぜ桜庭っ! 桜庭を通して世間の抱えるジェンダーの憂いがまたひとつ露見してしまった……」
「そう。男女平等だなんてただの飾りですよ」
くぅ、確かにそうだが。
確かにそれっぽいふうだと僕も思うのだが。
例えそうだとしても。
例えそれっぽいふうだとしても。
まだ主導権は僕の手に握られている。
「しかし、その真実とやらも、僕の手に握られていてはどうすることもできまい?」
僕はニヒルに笑って、桜庭から取り上げたその手帳を頭上に掲げる。
だけど、桜庭はそんな僕の行動にさして興味を示したわけではなく、軽く手帳を一瞥してから僕を見据える。
その瞳は、諦観ならぬ明らかな達観。
その唇は、侮蔑ならぬ明らかな愉悦。
彼女はそんな表情を、主導権を握って尚も僕を不安にさせるそんな表情を、まるでトーストに載せられているバターみたいに、その顔にしっとりと塗りたくっていたのだった。まるでそうするのが当たり前のように。
そして……、
そして彼女はこう呟くのだ、
「ニーソ」
と、ただ一言。
「………」
「………」
「は?」当然、僕は眉を顰める。そして必然的に口から漏れ出てくるのは、疑問符でアレンジされたこんな反芻。「ニーソ?」
「いや、ごめん間違えた。訂正、訂正」どうやら桜庭さんそういうことらしい。珍しく彼女は頬を赤らめてから、ニヤソ、ニヤソだった、と訂正した。
「ああ、含蓄のあることを表現したかったわけか」僕は短く鼻息を漏らす。「しかし、桜庭。お前って肝心なところでしまらない奴だよな」
「ほっといて」唇を尖らせて桜庭は僕を睨む。
「いやあ、僕はてっきり桜庭がニーソフェチで、好きで好きでたまらなくて思わず口にした言葉だと思ったよ」
「そういう恩田くんはどう?」反論するかと思いきや、桜庭は僕の思いつきの台詞に乗ってきた。
「まあ、眺めるくらいなら」
って……、何で僕も彼女に乗っているんだ。
「なるほど。恩田くんはフェチを自負するくらいのニーソ好き。毎日ハアハア悶えながらニーソっ子をねめつけている、メモメモ」
「いやいやいや、だからそうしてありもしないことを書くなって……」
えっ……?
今、僕は何て言った?
桜庭のツールは僕が封じているのに、どうしてそんなことを言ったんだ?
「浅はか」僕のそんな動揺を、桜庭はシニカルに一蹴する。「真実は一つとは限らない」
思わず僕は桜庭から視線を外して、手にしている手帳を確認する。でも、やはりそれはそこに確かにあって、気づかない内に彼女の手に渡ったというわけではなかった。が、しかし彼女の言った通り真実は僕が手にしているのが唯一ではなく、また彼女が手にしているそれも僕が手にしているそれと同義、いや、それ以上の脅威を持つ危なっかしいツールには違いない。
僕は恐る恐る、桜庭がちらりと見せたそれを、彼女が持っているそれを確認する。
ちくしょう……。僕はまんまと彼女に踊らされていたというわけだ。
「提案があります」僕の視線を目で追ったあと、彼女は満足げに言った。
「で、その提案とは?」
「それよりもまず、受けるか受けないかの返答が重要」
「はいはい、わかりましたよ。最も僕にそんな決定権はないと思うけれど……」
「わかれば良し」僕の返答を聞いた桜庭はことさら満足げに頷き、それから手にしている携帯を厳かに閉じた。「恩田くんに、良いシエスタを……」
つーか、桜庭さん。
ついさっき、僕は起きたばかりなんですけれど……。