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プロローグですらないメランコリー3

 桜庭の揚げ足を取るつもりはないけれど、少しだけ懐かしんでみようと思う。懐かしむというからには、僕にとってその対象は過去であり、故郷やまして故人でもない。この街を故郷と呼ぶには僕はまだ若すぎたし、故人を思うほど僕はまだそれほど生きてはいない。でも過去として懐かしむにはそれは色褪せているわけでもなく、あえて言うならば、その過去はインスタントラーメンみたいなもので、お湯を注いでしばらく待っていれば美味しくいただけてしまうようなお手軽なものだ。

 教室での江戸川・フールフール・莉鈴との再会は、僕にちょっとしたサプライズを与えはしたものの、それはもちろん許容範囲内にある事象である。だから、こうして僕は平静を保っていられるわけなのだけれど、もし仮にその情報を事前に取得していなければ、僕はきっと江戸川・フールフール・莉鈴にたいしてとても冷静ではいられなかっただろう。

 まかりなりにも、殺し合った仲である。

 引き分けならぬ痛み分け。

 常勝の鬼椿。

 ガシャドクロの椿鬼姫。

 江戸川・フールフール・莉鈴。

 その彼女に、僕は勝利すらできなかったけれど、また敗北することもなかった。

 殺し合った故に僕たちはわかりあい和解したのだが、殺し合い和解したところで、ゆずれないものまで氷解することは難しいと思う。何せ僕が現れるまで彼女はこの街に君臨していたのだ。もちろん最強として。

 最強。彼女が常勝していたが故に、手に入れることのできた最高の称号。それを僕は、まるで素人同然、素人と同義のこの恩田崇が、彼女を、江戸川・フールフール・莉鈴を最強の座から引きずり降ろしてしまったのだ。

 彼女は勝利はしていないが、また敗北もしていない。

 痛み分けならぬ引き分け。

 それはもう常勝すらでないし、最強なんておこがましい。

 でも、彼女が再戦を望めば、全てがリセットされ十全になる。

 それを僕は心のどこかで恐れていた。と同時に彼女との再会を漠然とだけれど、僕は予感していた。いつかまた会う日があるんじゃないかって……。僕が奪った彼女のプライドを、いつか返してもらいに来るんじゃないかって……。

 時計仕掛けを三回半ほど逆に回す。

 三日前。

 恩田家。

 午前六時。

「おっはいよー」

 携帯から漏れ出てくる声に、僕は嘆息する。「何なんです? こんな朝っぱらから」

「おっはいよー」

「………」

「おっはいよー」

「いや、だから……」

「おっはいよー?」

「お、おっはいよー」

「何だ恩田くん、君はちゃんと挨拶できる子じゃないか。それならそうととっととお返事してくれたまえよ。私はとても忙しい身なんだ、元気な子たちがやんちゃしてくれるおかげでね。正直、君と私とを繋いでくれているこの携帯電話を今すぐにでも放り投げてメスを持ち直したい心持ちだよ。まあ、そうはいかないから今こうして君とお話ししているわけだけれど。あ、恩田くん、だったら左手があるじゃないかという野暮なツッコミはしないでくれたまえよ。携帯電話を左手に持ち替えるってのもなし。私は左手で物を持つという行為が大嫌いなんだ。もちろん茶碗だって一度も持ったことはない。ぶっちゃけ犬食いだ。あはははははははは、犬食いは冗談だとしても、本当に私は左手に物を持ったことがないんだ。これだけは本当さ。聡明な恩田くんなら信じてくれるよね? いや、返事はいらないよ。その無言が何よりの肯定だ。ああ、君と知り合えて私は幸せだよ。こんなに私に理解のある人間は恩田くんだけだ」

 いや、僕はあなたのことをまったく理解できていません。

「あの、それはそうと、夢野さん、僕に用件があるのでは?」

「そうだそうだ。私は君に用件があったんだ。だから、私は君とこうしてお話しをしているわけだな。なかなか鋭い洞察力ではないか、恩田くん。あの名探偵京極京子と肩を並べても遜色しない名推理ぶりだね。正直、私は君に感服している次第だよ。ああ、まったく、君の爪の垢でも煎じた青汁を露樹に飲ませたい心持ちになるなあ。いやはや、姿形は似ていても恩田くんと露樹とは対極の位置にあるね。ようするに、陰と陽だ。ん、そうするとこの場合、君が陰で露樹が陽ということになるな。うん、これは恩田くん大好きっ子のこの私には得心できかねるスタンスになるね。言いかえよう。君が陽で露樹が陰だ。陽と陰。陽と陰、陽と陰……、ああ! 恩田くん突然で悪いんだけれど、陽と陰ってよーいどん! とは似ていないかな?」

「あ? ああ、似ているなあ!」そう快活を取り繕って返事をする僕。だけど、ケータイを握っている手は夢野さんをその中に閉じ込めようとうにうに蠢いていた。「じゃあ、夢野さん。僕はこれで!」

「うん、そうだね。私も忙しいし、また掛けることにするよ」そこで夢野さんは軽く舌打ちをする。

「あ、ごめんなさい。別に切ろうとしたわけでは……」

「何を謝っているのかな? 私は、自分のおっちょこちょいさに軽く苛立ちを覚えたなんだけれど……」

「あ、そうですか」

「それよりもね恩田くん。私は君に大事なお話しがあるのだよ。それを忘れていた」

 僕は黙っていた。うっかり合の手を入れたら、またぞろ延々と喋り続けるかもしれないと思ったからだ。

「江戸川・フールフール・莉鈴が君に会いにくるそうだよ」

 だから……、

 だからこそ、僕の作り出したその沈黙が、夢野さんの発するセンテンスを吸収させるには充分すぎた。

 充分すぎるが故に、そして沈黙で綺麗にパックされてしまったが故に、彼女が届けたそれを受け取るのに、僕は思わず躊躇してしまう。

 だけど、そんな僕の間隙を夢野さんが見逃すわけでもなく、

「江戸川・フールフール・莉鈴が、恩田崇に会いにくるそうだ」

 そのパックされたセンテンスに、さらに言葉を押し込めてぎゅうぎゅうにして、僕の鼓膜に捻じ込んでくる。

 もちろん、思考は飽和状態。

「江戸川・フールフール・莉鈴が、僕に?」脳に充填した酸素を逃がすように、僕は思わず言葉を口にする。

「そうだ。君が血まみれになって運んできた、君が血まみれにして運んできた、あの江戸川・フールフール・莉鈴だよ」

「どうして?」

「愚問だね、恩田くん。そりゃあ決まっているさ……、彼女が君に会いたいからに決まっている」

「会いたい? この僕に?」

「そう君に、だよ。恩田崇くん」くすりと、夢野さんは笑い声を漏らす。「だけどね、恩田くん。恩田崇くん。君が考えてるほど、君が声を震わせるほど、事態は深刻でもないし事実は衝撃的でもない」

「いや、だって僕は彼女を傷つけてしまったわけだし」

「しかし、彼女もまた君を傷つけてしまったのだろう?」夢野さんはやんわりと、それでも反論を許さないくらいに微妙な圧力を持って僕を制する。

 それでも、僕は彼女の名前を口にせざるを得なかった。

 それは反論ではなく、確固たる事実。

「だって、江戸川・フールフール・莉鈴なんですよ?」

 その事実に夢野さんは嘆息して、

「そして、何よりも彼女は女の子なのだよ」

 嘆息しながらそう応える。

「恩田くん。君はいささか彼女のことを誤解している節があるね」

「誤解、ですか?」

「そうさ。恩田崇は江戸川・フールフール・莉鈴を誤解している」誤解しまくっているのさ、君はね。そう言葉を繰り返して、夢野さんは続ける。「私もこういう身分なんでね、彼女の名声は寡聞にして知るところさ、もちろん彼女のその武勇もね。まったく、露樹が言うところの千の通り名を持つ少女とやらには失笑を禁じえないけれども、いや、しかし彼女の個性を表すにはそれもまた得心できる。それくらい彼女は、江戸川・フールフール・莉鈴という名は、この街に畏怖を与えるには充分すぎる個性なんだ」

「だったら……」

 わかっているでしょう?

 もちろん、そんな言葉を僕はひりだすわけでもなく、口腔に溜まった唾液の中にそれを沈める。でも、夢野さんはそんなことはお構いなしに、まるで僕のことなんか知ったこっちゃないというふうに、まるで僕のことを知ったふうに、

「わかっていないね」

 そんなことを言う。

「わかっていない。君は全然わかっていないよ、恩田くん、恩田崇くん。君はまるっきりこれっぽちもわかっちゃいないさ」

 僕は黙っていた。

 黙る以外、どうしろと?

 夢野かのかは、一体僕にどうしろというんだ?

「簡単なことだよ、恩田くん。君はありのままの姿で、ありのままの彼女に接すれば良い」

「どういう意味ですか?」

「やれやれ、困ったちゃんだね君は。じゃあ逆に訊くけれど、君は一体、江戸川・フールフール・莉鈴となにをやっていたのかね?」

「殺し合い」

「そうだ殺し合いだ。お互いの中身を全部恥ずかしげもなく曝して晒してぶちまけて吐き出して、それをありったけの全力で、全身全霊を持って、持てるだけの力を、持て余した感情を、惜しげもなく勿体ぶるでもなく、ぶつけ合った二人。それが恩田崇と江戸川・フールフール・莉鈴ではないのかな? それでも尚、そんな勝負をしても尚、そんな殺し合いをしてでも尚、君は恩田くん恩田崇くん、君は江戸川・フールフール・莉鈴のことを、わからない、と言うのかな?」

「そんなこと!?」

 誰も言っていない。

 彼女のことを、わからない、だなんて僕は言っていない。

 彼女のことを、わからない、だなんて僕が言わせない。

 僕が知っている彼女は、

 僕が知ってしまった江戸川・フールフール・莉鈴は、

 ……、そんなものじゃない。

「何だわかっているじゃないか」携帯の向こう側で、ぱちぱちと空気が爆ぜる乾いた音。「そういうことだよ、恩田くん。君が彼女に見せた個性が偽りだったように、彼女もまた君に見せたその個性も作られたものなんだよ。だからこそ、君は、江戸川・フールフール・莉鈴と殺し合いわかりあった、君ならば。彼女を、わかっている、君だからこそ、ありのままの彼女を受け入れることができるんじゃないかな? そして彼女も然りだ。ありのままの君と再会することを、江戸川・フールフール・莉鈴は望んでいるんだよ」

 それは非日常ではなく、極々平凡な日常だ。

 夢野さんはくすりと笑って、そう締める。

「随分と彼女の肩を持つんですね」

「そりゃそうさ。私は恩田くんと同じくらい江戸川・フールフール・莉鈴のことが大好きだからね。いや、大好きになったと言うべきか……。くふふ、恩田くんの生徒手帳を眺める彼女の表情、君にも一度見せたかったな」

 は? 生徒手帳?

 そんな僕の疑問に彼女は入り込む余地は欠片もなく、

 そんな彼女の台詞に僕が入り込む余地は微塵もなく、

 まるで友達にでも秘密を打ち明けるような親密さで、

 夢野かのかは、

 こう繰り返すのだった。

「君の生徒手帳を眺めるあの表情……、あれは乙女の顔だったぜ?」

「乙女ですか……」

「そういうことさ」うんうんと、声を出して彼女は言う。「あとは言わずもがな、言わずが華だよね。まあ、そういうことでよろしくやってくれたまえよ」

「いや、よろしくって……」

「おっと、これ以上何も言わないでおくれよ。そうじゃないと、君の唇に遅からず針と糸が通ることになるぜ?」

「そいつは御免ですね。まったく、冗談じゃない」僕は夢野さんに笑い返す。「用件とやらはこれで終わりですか? だったら、僕は携帯を閉じますけど?」

「それは君の思うがままに。まあ、少しばかり寂しい心持ちではあるけれどね。しかし寂しくはあるが、同時に頼もしくもあるな。くふふ、恩田くん、やはり君の成長振りには目に見張るものがあるね。正直たまらないよ。今夜にでも君をおかずにしてもいいかね?」

「冗談じゃねーよ」

 どさくさに紛れて何を言ってるんだ、この人は。

 さすがは、恩田崇大好きっ子を自負する夢野かのか。

 その探究心(性欲)はあなどりがたし……。

 携帯を閉じた手がいまだに震えてたまらねーぜ。

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