感情複合バッドステータス5
「崇、バターを取ってくれ」
揃姉に促されるまま、チョコバーみたいに硬化している食用油脂に腕を伸ばす。アルミホイルから覗いている黄色味を帯びた固体を一瞥して、それから逡巡。
「僕が塗ってあげようか?」半ば常套句になっている提案を囀ってみた。
「馬鹿を言うな、それくらい私でもできる」僕を睨んだあと、揃姉は任意同行をバターに求める。しかし、のっけから黙秘権を行使していたので、あえなく強制連行と相成った。「まったく、私を何だと思っているんだ」
揃姉の不機嫌な言葉も場合によっては、こうも意味合いが異なるのか――自身の妄想に感心しながら、揃姉の一挙一動を大人しく見守る。舌を鳴らして、僕から目線を外す揃姉。どうやら僕の生暖かい視線に気づいたらしい。込み上げてくる笑いを殺すため、奥歯を噛み締めた。
息を殺した揃姉は、眼前の牛酪にバターナイフを刺し入れる。小刻みに揺れるナイフの振動が、緊張しているのがあけすけで滑稽なくらいだ。しかし、敢えて言及はしない。
バターナイフはその存在意義を全うするためスライドを開始する。滑らかとは評価しがたい、ぎこちないくらいの機械的な動作。
「あ――」ややあって、揃姉の小さな喘ぎ声。
その声に呼応するかのように動きは加速度を増し、そして勢い余って空気を引き裂いた。
眉根を寄せ、バターが剥離したステンレスの先端を揃姉はじっと見つめる。
で、件のバターはというと――見事な放物線を描きながら滑空していた。
揃姉の今の機嫌と同じくらいの角度で視界に入る軌跡を、しみじみと見守る。それから程なくして、重力に打ちひしがれた鈍い効果音。死角になっていて視認はできなかったけれど、フローリングが不要な栄養摂取をしたことはまず間違いない。
――恩田揃音が不器用を露呈した瞬間である。
我が姉ながら、完成度が高い故に……、萌えますな。
さて、揃姉が意地を反復する前に行動しましょうかね。
僕は椅子から腰を浮かせて、揃姉に拘束されているバターとナイフに手を伸ばした。明らかに指が抵抗の意思を示していたが、フローリングの清掃係を僕が命じると、渋々と揃姉はその抵抗を和らげた。
揃姉が席を外している間に、トーストに薄化粧を施した。ちなみに、この何てことのない一連の動作も、揃姉は壊滅的に下手くそだったりする。根本的に道具を使うのが苦手な人なのだ。携帯電話も通話以外の機能はまったく使えないし、車の免許を所持しているのが奇跡以外に表現する術がない。揃姉の後輩にあたる入間さんが語るまことしやかな語りでは、被疑者に手錠を掛けきれなかった挙句、同情した被疑者自らが手錠を掛けたという話もある。まあ直接見たわけではないし、眉唾な感は否めないけれど、否定できないのが微妙なところだ。
でも、化粧をこなせるのが不思議なんだよなあ。
自身を高めるアイテムは、身体の一部だと認識でもしているのかね――思考にそんなしこりを膿みながら、二枚目のトーストに化粧を施す。
――しこりといえば、気になることがもう一つ。
「揃姉、昨日の――」
「電話だ」言葉の続きを紡ごうとしたら、揃姉の周波数がそれに追随した。「まったく、かしましい。お前の鼓膜は揺らいでいないのか?」
気がつくとパンツのポケットの中で携帯電話が太ももをくすぐっていて、くぐもった電子音が空気を震わせていた。
「あ、先輩。事件のこと私なりに考察してみたんですよー。聞いてもらえます?」
入間依流さんからの電話だった。