プロローグですらないメランコリー15
海馬のクエリーへ、『宮部現実』というキーワードを戯れに打鍵してみた。
今まで蓄積されてきた映像やら会話やらがノイズに変換され、それはやがて寂寥感漂うシーク音へと還元される。
シーク音は悪戯に長い。
まあ宮部に関する記憶があやふやなので致し方ないことだけれど、何分稀有にしてインパクトあるのが宮部の姓だ。僕の海馬が例えぽんこつ仕様だったとしても、よもやレスポンスがないとは思えないが。
ずるずる。
ずるずる。
と。
対面する先生、夢野かのんの様子を窺いながら、僕は緑茶を音に乗せ嚥下する。先生は恐竜の尻尾みたいな極太の三つ編みに顎を埋めて、件のしょんぼり文書を見下ろしていた。
マグカップのお茶はこれで三杯目だけれど、彼女からの応答は未だにない。さすがに焦燥を禁じ得ない僕なのだが、臨界に来ているのは尿意ではないのか? と緩やかに蠕動する下腹部がそれを暗に示唆しているような気がしないでもない。結局、どちらとも判断がつかない僕は、何かを急かすように小刻みに運動を繰り返している両脚を弛緩させるべく、こうして思い出に耽る心算に至ったのである。
しかし、こうして泥濘とした記憶に浮かんでいると、僕の海馬が溜め込んでいる思い出は、その殆どがありすと揃姉に占めらているのがわかる。何というか、蜂蜜に漬かっている檸檬にでもなった気分だ。だだ甘なのに抜け出せない、そんな酸っぱい僕の生き恥。
皮膚の体温が上昇するのを察知したので、海馬のレスポンスの遅さに業を煮やした僕は、大人しく自ら過去へ遡行することに決めた。しばらくすると、ようやく海馬から『もしかして:ベリアル――』と、まるでフライパンの底を眺めているみたいな、どす黒な暗黒情報が送信された。いや待て。僕には悪魔の知人はいないぞ――悪魔な友達は少なからずいるけどな。そう益体もない突っ込みとフォーローを交え、海馬からの送信を拒否。引き続き泥濘の深淵へと意識を埋没させる。
砂嵐がふんだんに塗された映像と音声が色彩を失った鱗へと変じ、時系列を無視した連結する集合体となって意識に纏わりつく。意外なくらいの情報量の多さに辟易としながらも、僕は懇切丁寧にその一枚一枚を剥ぎ取っていく。
その中に、宮部現実の面影があった。
僕はその一枚を注視する。
首にヘッドフォンをぶら下げた目つきの鋭い女の子。
間違いない――彼女が宮部だ。
そう僕は確信し。
まるでありすがつけ爪を装着するみたいな気軽さで、僕は当たり前に宮部が描かれている鱗をジャックする。
脳と視界が淡い白色に包まれる。
瞬間、白が黒へと反転。
それから、全身が嘘みたいに粟立ち。
そして、全身が感電したみたいに震えた。
暗闇が不気味に明滅する様は、僕が思い出に耽るのを明らかに拒絶している。
ここでようやく、海馬からのレスポンス。
呼吸をするみたいに、嘘をつく――
それが彼女を証明する個性らしい。
思わず軽く舌打ち。
だけど、それがぽんこつな海馬に対するものなのか、宮部自身に対するものなのかは、良くわからない。
「これは僕が担当の先生に提出しておこう」
気がつくと夢野先生が僕を見据えていた。ようやく返ってきた先生の思ってもみないリプライに、僕はうっかり人間へと還ってしまう。
先生は既にことを終えて、マグカップ片手にすっかり優雅に寛いでいた。