プロローグですらないメランコリー14
今の僕の挙動を敢えて挑戦的に例えるならば――隣りのおねいさんの胸部の膨らみにときめきを覚え始めた極々一般的で健康的な少年――といったところか。
もちろんこれは、主観的な思考に反映された現実逃避である。もし仮にこの僕の挙動を客観的に評価し得るならば、僕はすぐさま自己の妄想に意義を唱えて、真っ向から先生のたおやかでゆんゆんとした胸の膨らみをガン見するのは間違いないと思う。しかし、忸怩たる思いを抱えながら尚、僕は主観的な思考に身を委ねることしかできなかった。僕の視線が現実に漂うのを拒否っていたからだ。拒否っている上が故に、僕は図らずともキョドっている。つまり初心な少年を計らずとも演じている道化がこの僕なのだった。甚だ滑稽なことこの上ない。それもこれもあの変態外科医の先生が全ての起因だ。とりあえず呪ってやろう――ドクロマーク。
「どうした? 少年」
「いや、ちょっと思考で指恋を嗜んでいました。というか毒電波発信中です」
いささか常軌を逸脱した僕の言動にも関わらず、対面する先生は怜悧を彷彿とさせる無表情でお茶を啜っていた。苦笑を浮かべて、彼女が入れてくれた緑茶を僕も啜る。
「ときに少年よ」
「はい何でしょう?」
「先ほどから僕の胸が気になっている様子だが」
「――ぶっ!?」先生からのクリティカルな指摘に、顔の穴という穴から緑色の汁が吹き出る。
「そんなに可笑しいのか? 僕の胸は――」表情を崩さないまま先生はこともあろうか,、細身のシャツに拘束されても存在を強調して憚らない、たおやかでゆんゆんとしているその部位に右手を躍らせた。「そうか――僕もこの胸にはコンプレックスを抱えていてな」
ありすが聞いたら発狂してしまうぞそれ。などと、冷静な評価をしている場合ではない。明らかに勘違いしているのは明白だ。まあ先生の指摘はあながち的外れではないのだけれど、だからって捨て置くわけにもいかないだろう。このままだと、緑色の汁に赤い汁が化学反応して僕のほうが発狂してしましそうだ。だって今、鷲が舞い降りてるんだぜ? 先生のたおやかでゆんゆんなあれにさ。
「いや、あの……、僕が気にしていたのは、そのネームプレートなんですけど」
そんなに可笑しいのか、僕の胸は――と、呪詛を呟きならがら五指をわしわしと唸らせていた先生は、その動きを止めておもむろに僕のほうへと顔を上げる。疑問符を織り交ぜた先生の視線が皮膚に投射され、心臓は収縮と膨張を繰り返す。血液の流れは劇的に加速し、鬱血していた電気信号が体内を蠕動する。
「これがどうかしたのか?」眉根を少しだけ寄せて、先生はプラスティック製のそれを摘み上げる。
そして――思考の片隅で何かが爆ぜた。
両目が、文字列の認識を開始する。
夢野かのん。
と。そのネームプレートには記されていた。
ああ、とうとう見ちゃったよ僕――どうしよう。
これじゃあ、思わず関連づけずにはいられないじゃないか。
脳内をリフレインする『おはいよー』の挨拶と一緒に某外科医の影に対面した先生を照らし合わせる。そして、僕は疼痛を覚えながら親近の物思いを彼女に重ねた。
「いや、素敵な名前だと思いまして」などど、宇宙船射出装置の気まぐれに身を任せたくなる言葉を、僕はのうのうと諳んじる。
僕の心無い物言いにも、彼女は表情を崩すことがなかった。少しだけ変化があるとすれば、唇にマグカップを運ぶ回数が上昇したくらいだ。きっと、咽が渇いているか、あるいは彼女の勘違いはまだ継続中でそのことを気にしているかのどちらかだろう。
――しかし、あのときの気視感は、やっぱり偽者じゃなかったのか。
そう僕は一人得心し、この場はお茶を濁す旨を密かに心へ宣言する。
「そ、それで少年。き、君が抱えている懊悩は、い、一体何なのだ?」
「懊悩ですか?」僕は二つの疑問に首を傾げる。「それよりも先生、なにやらどもっているみたいですけど……、具合が悪いのでは?」
「ぼ、僕は。ど、どもってなどいない。ば、馬鹿者……。ぐ、具合は、そ、その……、良好だ」
否定された上に馬鹿者扱いされた。しかし、具合は悪くないみたいなので良しとする。良いのか?
「で、懊悩って?」
「君が訊いてどうする? まるで立場が違うぞ。君は懊悩を抱えて、僕の元へそれを吐露しに来たのではないのか?」
「いや、僕は桜庭に頼まれて先生にプリントを提出しに来たんですけど」
「桜庭?」先生は顎に指を当てて、逡巡するような物思いに耽る。「少年。君が言っているのは桜庭灰霧のことか?」
「ええ、その桜庭です」
今までのやり取りで、何というか先生の性格の片鱗を垣間見たような気がする。実直というか、寧ろ天然と評したほうがしっぽり当てはまるな。まあ、先に用件を話さなかった僕にも問題はあるのだけれど。自分の胸を異性の目の前で鷲づかみにする人間はそうそういないし――いや、たおやかでゆんゆんとした先生の胸は、おいておいて。
僕はテーブルを眇め見ながら、資料の隣にあるB5用紙に手を伸ばした。
それを反転させたあと、忸怩たる思いで先生の元へスライドさせる。
「先生に渡せば全ては十全に――桜庭はそう言ってました」
セラミックスのボールでなぞった憂鬱をトレースしているであろう先生に、僕がここを訪れる際、桜庭に吹き込まれた希望的観測を空気に伝播させた。
僕たちを取り巻く空間は沈黙に綺麗にパックされていて、その沈黙に耐えかね僕が焦燥を覚え出すまで、ゆるゆるとそれは維持されていた。