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プロローグですらないメランコリー13

 この学校にあるどの空間よりも、ここはその(おもむき)を異にしていた。

 有り体に言えばプライベートな空間といったところか。もしかしたら校長室がそれに近いかもしれない。いや、校長室なんか僕は入ったことはないけれど。まあとりあえず寛げるようにはデザインされているように思う。もっとも、その対称がこの部屋の主だけに限られている気がしないでもないが。

 主の性格が昇華され具現化された空間を、僕は再び眺めてみる。

 部屋の中央には黒い革張りのソファが二つ相対しており、ソファに挟まれる形で木製のテーブルが配置されている。テーブルの上には先ほどまで閲覧していたのであろう、数枚の資料が無造作に載せられていた。宮部現実(みやべりある)――とルビが振られている文字列を視認。恐らく、というかきっと東ノ園(ここ)の生徒の名前に間違いない。そこから先はそれこそプライベートなものなので、意味の無い文字列として呼吸と一緒に空気に昇華させた。

 板チョコみたいに整然と並んだ書架に近づく。ざっと見た限りカウンセリング室に相応しい書籍がそこには押し込まれている。ジークなんたら・フロイトやらカール・なんちゃら・ユングやらだ。その数ある書架の中に『ライ麦畑でつかまえて』のハードカバーが紛れ込んでいたのは、僕たちに少しでも近づこうと試みたここの主の名残だろうか。とにかくきちんと分類しなさい――とりえず背表紙を奥に向けて突っ込んでやった。

 やはり留守にしているみたいだ。主が不在の机を眺めて、もしかしたら、というそんな僕の妄想は嘆息とともにどこかへ掻き消えた。

 さて、これからどうしようか。職員室かそれとも実習棟か――と僕が黙考しているとき、スライドするドアの無機質な摩擦音が鼓膜に伝播する。それからしばらくして、「煉獄に仔羊が一匹」と、いがらっぽいハスキーな女性の声が背中に這い寄ってきた。

 肩に手を掛けられたような錯覚を覚えた僕は、そこに左手を当ておずおずと振り返る。白衣を羽織った黒いスーツ姿の女性と視線がかち合う。彼女は閉まりかけのドアを後ろ手で引いてこの部屋を完全な密室にする。そして、まるでそうすることが当たり前みたいに、ゆっくりと彼女は人差し指を僕に向けた。

「煉獄に仔羊が一匹だ――」唇に当てた缶コーヒーの中身を音もなく嚥下(えんか)して、その女性はプラスティックみたいな硬質な瞳で僕を見据える。「しかし少年よ、何も悲観することはないぞ。君が思っているほど地上はそんなに遠くはないからな」

 明らかに笑顔とは程遠い表情だった。これらなら、ありすが持っているビスクドールのほうがまだ愛嬌があるってもんだ。つまり僕は歓迎されていないってことだよな。さっきの彼女のジェスチャーから察するに、僕の第一印象は『最悪』と烙印を押されたようなものだし。もちろん、彼女の台詞に至っては、『この部屋から出て、とっととお家に帰りなさい』的なニュアンスを含めた迂遠な言い回しだろうと思う。ふむ、彼女も中々に尖ったセンスを持っていらっしゃる――嫌いかどうかはまだ評価し辛いけれど。

「すいません。鍵が掛かっていなかったので……、つい」

「迷った」(こうべ)を垂れようとした僕を、やんわりと右手で諌め彼女は言う。「羊飼いの不在が、君にちょっとした懊悩を抱かせたわけか。悪かった少年。しかし僕もまた休息を必要とする身だ。とりあえず、ソファにでも腰を下ろして寛いでくれたまえよ」

「いや、あの……、勝手にこの部屋に入ったのを咎めていたのでは?」

「咎める? 僕が君をか?」女性は小さく顎を引いて、眉根を寄せて瞬きを数回繰り返す。それから何やら得心したように彼女は頷き、口の端を僅かに持ち上げた。「僕の心とこの部屋は、同じ定義で繋がっているのだよ。部屋に施錠がされていないという状況は、すなわち僕の心が少年に対して開かれている状態であるということだ。だから少年、君が気に病む必要は一切ない」

「はあ、そうですか」少なくとも僕を苛む言葉ではなかった事実に、僕は安堵の呼吸を漏らす。

「座りたまえ」胸元で腕を組んだ女性は、僕をソファに座るよう顎で促した。「お茶でも淹れてあげよう。だが生憎コーヒーは切らしている。緑茶で良いか?」

「いや、お構いなく」

「君たちに構うのが僕の仕事だ」

 と、彼女はそう言い放って、立ち尽くす僕の横を通り過ぎようとする。そして、僕の肩と彼女の肩が交差する瞬間――彼女の視界と僕の視界が死角に入ったその刹那、彼女が立ち止まる気配を僕の皮膚は貪欲に感じとった。それから彼女は一言、「ふむ」と、たったそれだけ。たったそれだけを残して、彼女の気配は僕から遠ざかる。

 ――まあ心当たりが無いわけでもない。

 僕に近づく全ての対象(にんげん)が該当するとは限らないけれど、それを目の当たりにしたら、やはり大よそ気分の良い代物では無いのは明らかだった。思わずメランコリックに陥りかねない。そんな危険な要素を孕んでいるのが僕の性質(アイデンティティー)である。しかし、悪いことばかりじゃないってのが、せめてもの僥倖(ぎょうこう)だと思ってもみたり。

「どうした少年? 浮かない顔をしているな」

「いや、冴えないだけですよ。気分はもううきうきです。本当、月まで飛んで行きたいくらい」

「そんなに緑茶が好みなのか?」

「もう超好きっ」

 ふむ、ありすが口にする分には問題ないけれど、いざ自分が口にすると気恥ずかしいものがあるなこれ――あれ? 宇宙船射出装置は一体どこだったっけ? 月まで加速してみたいんだけど……。

「濃いのと薄いのと、どちらが好みだ?」

「濃いプロセスを希望します」

「変わった物言いだな? 今の若者たちの間で流行っているのか?」

「そりゃもう――指恋と同じくらいメジャーですよ」

 嘘である。

 恩田くん絶好調だ。脳を駆け巡る電気信号の流れは、シリアスからおバカへと順調にシフトしていた。

 ソファに腰を沈める。

 テーブルに載せられた資料を裏返しにして、机に置かれた電機コンロを眺めている女性を観察するセオリー。おっと、いけない――なんちゃら語を頭から排出しなければ。

 彼女からもっとも目立つ部位を挙げるならば、僕は迷わずその首を指し示すことだろうと思う。ボリュームのある栗色の髪は三つ編みで太く束ねられていて、恐竜の尻尾みたいに腰までぶら下がっている。ちょうどアルファベットのUを連想させる形だ。つまり、腰まであるのが終着点ではないってこと。そう。Uの字の軌跡は彼女の首をもって初めてその終着点を迎えるのだ。

 ぐるぐると――まるで、本当にそれが恐竜の尻尾ではないかと勘違いしてしまうくらいに。

 ぎりぎりと。

 ぎしぎしと。

 みしみしと。

 満ち満ちと。

 狂狂くるくると。

 ――彼女の三つ編みは自身の首を絞め上げていた。

 彼女の端正な容姿が霞んで見えるくらいに、それは圧倒的な存在感を誇示していた。電気コンロを眺めている彼女から覚えた一瞬の既視感はどこへやらだ。ふむ、宇宙船射出装置はどうやら僕の脳みそ(プリン)に埋め込まれていたらしい。きっと月までぶっ飛んだに違いない。

 ということで彼女の観察はすぐに終わった。

 しかし、目を逸らすのが何となく憚れた僕は、やかんが悲鳴を上げるまで彼女と一緒に電気コンロをぼんやりと眺める。その折に、ネームプレートに見覚えのある文字列を視認したけれど、見ていない見ていない。心のモザイクをそのネームプレートに投射する。

 変人はあれ一人で充分だ。いや、寧ろあれは存外にして変態の部類に当てはまるけれど。が、いずれにしろ僕は――やはり触れてはいけないものに触れてしまったようだった。

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