プロローグですらないメランコリー11
「――どう思う?」
「――いや良くわからない」
課外活動申請書と銘うたれたB5サイズの用紙を凝視したまま、僕は桜庭の質疑に応答する。もっともそれまでの間に、僕は思い出へと旅して一時的な停止状態へと陥っていたわけで、桜庭の言葉(例えそれが文字列にしろ周波数にしろ)に反応するにはそれなりの時間を消耗したはずだと思う。まあそのおかげで僕の精神はトリップすることはなく、桜庭の提示した言葉を理解し尚且つその意図を汲むことができ、結果僕と莉鈴が置かれているこの不可解な状況を冷静に分析できたというわけだ。しかし分析はできても、やはりわからないものはわからないのである。桜庭が何をやりたいのかはわかるけれど、それについての感想を求められても、もう僕にはわからないとしか言いようがなかった。
そう。
秘密結社への入会――それが、僕と莉鈴が実習棟へ呼び出された理由だった。
そういうわけで実習棟である。
僕と莉鈴は、桜庭の半ば脅迫じみた提案に従うようにして実習棟のとある一室に腰を据えていた。一時期コンピュータ研究会として名を馳せていたこの部室も、今ではタワー型のパソコンが一台とそこに傾いているキーボードを残すばかりでもはや見る影もない。かつての喧騒、いや打鍵はどこへやらだ。いやなんでも――N島という二年生が悪魔を召還するプログラムを開発したおりに部室が半壊しその責任を問われて研究会は解散した、と生徒の間では真しやかな噂が流れているが――どうだろう。真偽のほどは定かではない。
「まったく、根も葉もない噂。コンピュータ研究会は部へと昇格して、ただ単にお引越ししただけ。ゲームのキャラクターを使って勝手な妄想はしない」
「妄想なんてとんでもない。これはオマージュですよ、桜庭さん」
などと意味のないやり取りをしつつ、僕は壁に掛けられている時計仕掛けを盗み見る。
分針は見事に前進していた。
なるほど僕が放心していたのは十分弱か。
B5サイズの用紙に記されている文字列を改めて確認し、僕は軽く咳払いをする。
「つまり桜庭的には――声を掛けられないならつくってしまえ、という発想なんだよな?」
「ご名答」
「で、課外活動として申請する腹積もりなんだぞっと、桜庭はそう考えているわけだ」
「的確すぎて賞賛する言葉も出ない。でもね、同時につまらなく思ったり」
いや、あんなものを思い出したらな――ていうか。奇を衒った答えを導き出すほうがよっぽど難しいわ!
一体、僕に何を求めているんだお前は――
「秘密結社とは何だ?」半ば不意を撃つ形で、莉鈴は僕の肩に顎を載せてきた。
「え――それはまあ、フリーメイソンとかシオン修道院とかの団体、だよな?」
「概ね合っている。でも有名どころでつまらない受け答えね――嫌いになりそう」
「どんだけ僕に高度な受け答えを期待しているんだよ」
「せめてフリーメイソンをフリーメイソンリーと呼ぶくらいには」
ああ。
つまり、個人と団体とを混同するなってこと?
細かいなあ。
ちなみにフリーメイソンは個人を指す呼称で、団体を指す呼称がフリーメイソンリーらしい。
「しかし――」桜庭に向けられた視線を切り、僕は莉鈴を一瞥する。眉根を寄せる。そんなストレートなリアクションを莉鈴は維持していた。「有名無名いずれにしろ、名前を挙げただけじゃあお前はわからないよな?」
「ああ、わからん。さっぱりぱりぱりだな」
ですよね。
一般的な用語じゃないもん。
それに加えて、興味本位で調べた程度の知識しかない僕には、名前を挙げるくらいが関の山だ。漠然とそれが何なのかは概ね理解しているけれど、莉鈴にわかるように説明するのは、とてもじゃないが僕にはできそうもなかった。だから莉鈴があんな顔をするのは、まあ無理もない。
再び桜庭へと振り返った僕は、お前が説明しろよな、とそんな意味合いを含めた露骨な視線を彼女に送る。
「面倒」
露骨に厭な顔しやがったよこいつ。
「せめてどんなものくらいかは説明してやれよ。僕の知っている桜場ならそんなの簡単だろ。僕じゃあ無理だ知識が浅いからな」
とりあえず桜庭さんを持ち上げてみる。
しかしそれで上手くいくかどうかは桜庭次第だ。
こいつ変なところで気まぐれおこすからな。
僕は黙って桜庭の様子を窺う。レンズの奥からは芳しい色は見られない。
やれやれ、もう少しだけ桜庭を持ち上げてみますか。
かつて魔法使いだった僕の高度な呪文を諳んじてあげよう。盛り上がること請け合いだ。
これで反応が無かったら仕方がない。
「桜庭さん?」
――囁き……。
「よいしょっ!」
――詠唱……。
「頼むぜオカルトクイーン!」
――祈り……。
「――来たか? 来たか? 来たんだろ来たんだよなあ!?」
――念じろ!
「やらいでかっー!」
――ハイになった。
もちろん僕ではなく桜庭が。
瞬間、桜庭の眼鏡に照明が反射した。
――おおっ!?
その光景にただらならぬ雰囲気を察知した僕と莉鈴は、思わず歓声を上げその声をハーモニクスさせる。
「仕方がない」腕を組んだ桜庭は不敵に笑う。黒いセルフレームに添えられた人差し指が妙に心強い。「では、フリーメイソンリーを例に挙げて、江戸川さんの疑問を詳らかにしようと思う」
「頼むぞ桜庭」
スイッチが入った桜庭を見て、僕は安堵の拍手を打つ。正直、片足を突っ込んでしまっている僕としては、この手の話しはまんざらやぶさかではないと思っている。というより寧ろ期待さえしている。桜庭の薀蓄はそれはもう大したものだからな。暗黒情報には事欠かない――それが桜庭灰霧という存在である。まあ秘密結社なるものがそこにカテゴライズされているのは、いささか偏見気味ではあると思うのだが。しかし物事を広義でしか認識できないのは往々にしてあるものだ。まあこれは桜庭の受け売りではあるのだけれど……。
おもむろに椅子から腰を浮かせた桜場は、クリアボードに向け歩を進める。それから振り返ってひとくさり僕たちを見回したあと、首肯してからマジックを握る。白いアクリル板に黒い線が描写され、やがて二次元のピラミッドが構成される。
「ああ、あのシンボルーマークか」
ピラミッドの中心にある異物を視認し、僕はぼんやりと呟いた。
「江戸川さん見える?」
「莉鈴のことは莉鈴と呼んで良い――えっと」
「桜庭灰霧。灰色の霧で灰霧。私のことも灰霧で良い」
「そっか。じゃあ灰霧よろしくな」
「よしなに――」
「ところですけあくろー、見えないんだが」
とそこで莉鈴さん、灰霧ではなく僕に声を掛けてくる。さっきの莉鈴と桜庭のやりとりで得心した僕は、おずおずと慎重に顔を莉鈴に向ける。向けるが、如何せん距離が近すぎて莉鈴の体温が僕の鼻先を翳める。というかこいつまだ僕の肩に顎を載せていたのか。あまりに自然すぎて気づかなかったよ。まだ耳がこそばゆい。
「莉鈴、離れれ」莉鈴から顔を遠ざけて、僕は言った。
「わかった。じゃあ今度はすえあくろーが、莉鈴の肩に顎を載せれ」
「どうしてそうなる?」
「借りたものは返さねばな」
「――バカップル」そんな呟きに僕は慌てて振り返る。桜庭さん、どうしてか目が据わっていらっしゃる。「ちょっとした知り合い、ね。その言葉の認識を私は改めるべきなのかもしれない」
「ち、違うんだ桜庭」
「否定してもらっては困る。証拠は挙がってるのよ、恩田くん」
「え――証拠ってお前まさか……」
「良い写真が撮れたわ」ふふん、と桜庭はせせら笑い。手にした携帯電話を撫で擦る。「恩田くんと莉鈴さんがぺろちゅーしてるとこ」
「いや、桜庭さん。事実を捏造しないで下さい。鼻先がちょっとだけ触れ合っただけだろ?」
「いや、私からは見えないし」それに――と桜庭は言葉を結ぶ。「歴史は勝者が刻むものだから」
「どんだけ暴君なんだよお前は。とりあえずそれは消去してくれ。万が一ありすにでも見られることがあったら命が幾らあっても足りないからな。そいつだけは本気でヤバイ」
「私もそう思う」桜庭は慇懃そうに首肯する。「取引材料にしてはいささかスパイスが効きすぎている」
黙々と携帯電話を操作している桜庭を見守る。
「さて仕切りなおし」携帯電話を制服のポケットに仕舞う桜庭。「どこまで話してたっけ? フリーメイソンリーが大工の集団を起源とした秘密結社である、という件辺り?」
「はしょってるんだかいないんだか微妙だなそれ――まあ桜庭はとりあえず何も喋ってねえよ」
「もうぶっちゃけ面倒」
「何故にいきなり機嫌を損ねる?」
「わからない。でも、興ざめであることは明らか」そう言って、桜庭はセルフレームに人差し指を添えて小首を傾げる。本当にわからない、そんな不思議そうな表情だった。「まあ気が向いたらいずれ話してあげるわ。ごめんね莉鈴さん?」
「うむ、灰霧がそう言うなら仕方がない」そう莉鈴は頷いて、それから僕が持っているB5用紙を取り上げた。「とりあえず莉鈴は、これに莉鈴の名前を綴れば良いのだな?」
まあそれが目的だからな、と僕は心の中で相槌的な言葉をつくる。
「しかしこんな怪文書じみたもの実際通るのかね」
「びっくり――」そんな言葉に僕はB5用紙から視線を外して、桜庭を見た。首を掴まれた猫みたいに瞳を大きく見開いている。「恩田くん、それは乗り気な発言だと私は受け取るけど?」
「賢しいなお前。だけどもちろん乗り気じゃないよ、こんな出鱈目な申請じゃな。でも、まあ僕の選択は多分間違っていないと思う。僕をだしにして呼び出した過程はもちろん気に入らないけれど」そこで僕は一呼吸置いた。ふと思考にざらざらとしたノイズが混じる。教室の隅で黙々と頁を繰る桜庭の姿。ああ、そうだったけ――声を掛けたのは僕が最初だったな。「しかし――アグレッシブな桜庭に従うのは悪くはないさ。どうせ帰宅部で暇なわけだし。で、僕たちは一体何をやるんだ?」