プロローグですらないメランコリー1
江戸川・フールフール・莉鈴。
この名前を、僕は決して忘れはしない。
高校生活最初の夏休み。
村上水色と駆け抜けた、あの悠久とも刹那ともいえるモラトリアム。
その虚う時計仕掛けの中で、僕は色々な人間と出会い成長した。
僕の恋人だった村上水色、然り。
僕のドッペルゲンガーだった東野露樹、然り。
僕の幼なじみである夢枕ありす、然り。
ヴァンパイアを自称する、太宰ルカ。
その従者の芥川ベリ子。
名探偵、京極京子。
天災、いや、天才科学者、森玉藻。
そして、僕の抑圧された精神を具現した魔術師、恩田黒瓜……然り。
そんな数ある出会いの中でも、彼女だけは、江戸川・フールフール・莉鈴だけは、一際異彩を放っていた人間だったと、思う。
椿鬼姫。
宇宙規格。
オールインワン。
人類のハイエンドモデル。
四凶。
四騎士。
外典。
ナンバー13。
レッドコメット。
ナイトメアー。
エトセトラ、エトセトラ……。
彼女の個性を現す通り名は引く手あまただけれど(露樹いわく、千の通り名を持っているらしい。、まったくラヴクラフトが妄想した神性でもあるまいし。信じがたい眉唾話しではあるけれど、まあ、莉鈴がトリックスターであるというスタンスはあながち的外れではないと思う)そんな作られた人格だけが彼女の全てを表現するものじゃないってことは僕にはわかっている。もちろん、江戸川・フールフール・莉鈴の本質が、そんな下らない文字列だけでは定義できないってことも……。
「ねぇ、すけあくろー。村上水色が、本当に君のことを好きだと思う?」
「ねぇ、すけあくろー。村上水色は、本当は君に逃げて欲しいとは思っていないんだよ?」
「ねぇ、すけあくろー。すけあくろーが、このまま変わらないとしたら、村上水色は本当に君のことを殺そうとするよ?」
そう、異彩を放っていたのは、彼女のその姿形よりも、彼女が放つその声その台詞。
真っ直ぐで実直で、
真っ直ぐすぎる故に実直すぎる故に、
彼女のあの声は、
莉鈴の紡いだあの台詞は、
僕の心を深く抉ってしまった。
だけど、僕はその頃まだ子供のままで、外敵である莉鈴を認めたくなくて、恋人である村上水色を信じていたくて、大人になりたくない僕は、ずっと子供のままでいたかった僕は、心の抉れてしまったその部位に深く深く抉れてしまったその部分に、彼女の言葉を仕舞うことしかできなかった。
それは、まるで蜂蜜みたいなだだ甘さ。
それは、まるで蜂蜜みたいな蕩ける粘性。
でも、僕は江戸川・フールフール・莉鈴のそんな言葉に溺れたくはなかった。
でも、僕は村上水色の心地よさに漂いたかった。
現実に浮かぶよりも、理想に沈んでいたかったんだ。
だから、僕は彼女を傷つけてしまった。
ジーンズのポケットに隠した熱帯魚で、
如才なくフィジカルに彼女を切り刻み、
如才なくメンタルに彼女を切り刻んだ。
それでも彼女は、
それでも江戸川・フールフール・莉鈴は、
血に濡れた白い顔をほころばせて、
だけど少しだけ憤慨を伴った笑顔を僕に見せて、
彼女はこう言ったのだ。
「いい加減、目を覚ましなよ」
そして、彼女も僕を傷つけた。
彼女が持っている毒々しい深海魚に甘い言葉を乗せて。
その時は生き残ることに無我夢中で、彼女の言動はわけがわからなかったけれど、今なら、夏休みを終えた今なら、村上水色との逃避行を終了した今なら痛いほどわかる。
いや、本当はわかっていたんだ。
だからこそ僕はこうしてこの場所にいるから。
君のおかげで僕はこうしてこの場所にいられるから。
「はっはっー。だったらあたしをリスペクトしな! 蛞蝓みたいに地べたに這いつくばって神様みたいに感謝しろよな」
ああ、本当に感謝しているよ。
いや、でも、その言い草はあまりにも酷くね?
「酷くなんてないねー! それを言うなら、可憐な乙女を血まみれにした挙句、路上に放置プレイするすけあくろーの方が酷いと思うなー。ロリ大国日本では考えられない所業ぜよ」
いや、ロリ大国ってお前。
いやいや、それよりもどうして僕のモノローグにお前はツッコミを入れているの?
いやいやいや、それ以前に路上なんかに放置してないから。
いやいやいやいや、そんなことよりもどうしてお前はここにいるの? これは夢なの?
「あー色々と煩い! すけあくろー、いい加減目を覚ましなよ」
ああ、久しぶりに聞いたなその台詞。
だったら、いい加減目を覚ますよ。
お前の言うことだったらなんだって聞いてやるさ……。
そして、僕はおもむろに目蓋を開く。
どうやら僕は眠っていたらしい。
夏休みが空けて七日目。
モラトリアムを引きずるにはうってつけの期間。
皮膚の上にひりつくのは夏の日のプロミネンス。
目蓋の裏にひりつくのは夏の日のセンチメンタル。
「うわ! センチメンタルだって、だっさ! センセー! あの席の男子が痛くて仕方ありません」
「痛い言うなよ」
そして僕は彼女と再会する。
今度は外敵ではなく、
今度は非日常でなく、
今度は普通の女の子として、
今度は平凡な日常として、
恩田崇は江戸川・フールフール・莉鈴と再会した。