雑感
うーむ、どうも私は鬱気味でなかろーか。しかし、鬱ではないようで、言動とかから察するには、まあ、少々頭がおかしい人という処であろう。ちなみに小学生のころから頭がおかしいとは言われてきたから、そんなもんである。
近頃何だか執筆が苦行、とまでは行かないまでも辛いとは思うのである。別に義務でもないし、特に何だか焦燥感を覚えるとかそういったものではない。では何か。
解らん。つか解っとるならば悩んだりせんのである。当たり前である。
さて、執筆活動と蒸気機関車は極めてにていると感じる。それは蒸気機関車の特性がまさに相当する。つまりは『自らでその出力の源を作ると同時にそれを消費する』ことである。蒸気機関車の場合は助士がその全身をもって蒸気の発生、圧力の維持に努め、機関士がそれを同時に消費する。そして執筆活動とは、己の内部にて『執筆意欲』を生成しつつ同時に消費することで文章を仕上げるものである。
蒸気機関車において石炭も水も有限であると同様に、執筆意欲の元は有限である。肉体的条件が蒸気機関車における水であろうか。蒸気機関車においてなくなりがちなのは水であった。それと同様に肉体的条件が整わねば他の条件が整っていようともどうにもできぬからである。ならば、石炭は精神的用件とも言えよう。そしてそれが上質ならば如何様なる文章も書き得るし、表現可能なる世界観は拡大する。
私は常磐の石炭を焚いて走る罐のような感じであろう。常磐の辺りを貶める気はないが、あの辺の産出する石炭はあまりに質が悪かったのは有名な話である。曰く、煤や灰ばかり出て圧力が上がらないと。まさにいまの私がそんな感じである。如何に空気の通り道をよく考えて投炭したところで、灰や不可燃分子がその通風を塞ぎ、何度もカマ換えで灰を捨てても直ぐにまた灰に塞がれる。しかもカロリーも常磐の石炭は低いので、じりじり圧力が落ちてきている、まさにそのような状況である。
何がならばカロリーが高く、機関助士の垂涎の的となった夕張や満州の石炭となろうか。感想か、レビューか?否、それは精神的自由、或いは高い自己評価であろう。それを得る手段として感想やレビューがつく。評価点?そんなものは幻じゃ。つまりは自己の書く話、或いは自己の置かれた条件を楽しむことであろう。
私は私の書く文ほどの悪文なしという前提で近頃は書いている。それが己の執筆意欲を削いでいるのはまた間違いなかろう。しかし優れた文章とも思えぬのだ。そこに悩む日々である。