カフェオレ
カフェオレを溢したと思った。
脳が沢山の指令を出している気がする。それでも私は動き出すことができなかった。
枕元に置いたままのカフェオレは倒れ、真っ白のカーペットに染み込みはじめている。
それを見ることで私は脳からの指令を理解し飛び起きた。
携帯を開くと液晶の中でペンギンが「5時だよ」と声をあげた。
朝方の部屋でティッシュを片手にカーペットを叩いている。
私は何をしているのだろう?
ぼんやりしつつも手は止めない。茶色く水分を含んだティッシュを投げ捨て、新しくティッシュを追加した。
被害にあったのがカーペットだけで良かった。
枕元には残念なほどに物が散らばっている。読みかけの小説、借りているDVD、携帯、頭痛薬、リモコン、食べかけのポテチ、そしてカフェオレ、カフェオレは見事にDVDのケースと頭痛薬の間にオアシスを作ってくれた。
小説やDVDに溢れたりしたら、私は朝方の部屋で海老反って喚くだろう。あまりの悲しさと辛さに濡れた本のページを閉じゴミ箱に投げ入れ
「どう?私の気持ちがわかった?」などと意味深な台詞を吐いてのどや顔。
DVDは普通に返却するだろう。
寝起きはテンションがおかしい。
私は笑みを堪えるので必至だった。
カーペットは予想以上に変色していた。
ふわふわの毛並みも、そこだけガサガサしていて触り心地も変わっていた。ドライヤーで乾かしながらブラッシングもしたのだが効果はなかったようだ。
鼻を近付けるとカフェオレの甘い香りがした。
これ以上はどうしようもなかった。
なんとも言えない気持ちのまま私は二度寝を開始した。
携帯のアラームが鳴る。
のそのそと起き上がり洗面所に向かう。
歯ブラシを加え戻ってくるとカーペットにカフェオレは染み込んだままだった。
歯みがき粉を垂らしてやろうかと思ったがやめた。
今日はトーストと紅茶にした。
会社に着く頃にはカーペットのことなんて忘れていた。
「おはよう」
「おはよう、今日も暑いねー」
そう言って彼女は手をぱたつかせた。
「中涼しいと良いね」
「どうだろう」
自動ドアが開く、生ぬるい風に私達はうわっと声を合わせた。
会社の中は今冷房つけましたという感じで、ゴウンゴウンと大袈裟に動く音が聞こえはするが冷えておらず、冷えるのにはまだまだ時間が必要そうだ。
「うー、なんか飲み物買って行こうよ」
「そうだね」
自動販売機を前にカフェオレのボタンを押してからハッとなる。
紙コップに注がれるカフェオレを見つめながら、なんだかなぁーとため息が漏れた。
一口含み「またお昼にね」と彼女と別れた。
紙コップに蓋をしてデスクに向かう。
「おはようございます」
「おはよう、今日も宜しくね」
「はい」
いつもの課長とのやり取り、他の子からの挨拶も返す。
荷物を下ろし今日も1日が始まる。
パソコンを起動させ、カフェオレを口に運んだ。
椅子の背もたれにドンッと何か当たって私は体勢を崩した。
「キャ」
「あっ、すいません。大丈夫ですか?」
「はい。…大丈夫です」
段ボールを両手で抱えた見知らぬ男性が立っていた。
「うわ、スカートが!!」
見るとスカートにカフェオレが少しかかっていた。
「大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
今朝のカフェオレ事件を経験している私にはスカートに少しかかったカフェオレなど大したことなかった。
鞄の中からティッシュを出すよりも早く、男性は「使って下さい」とハンカチを渡してくれた。
「ありがとうございます」
ハンカチを受け取りスカートにあてる。
今朝のようにトントンと軽く叩いて水気を取る。
白いスカートに茶色の水玉がついた。
「すいません。スカート汚してしまいましたね。弁償させて下さい」
「とんでもないです。これぐらいなら家に帰って洗えば落ちますよ」
「そうですか?」
膝をついてしゅんとする姿が大型犬を彷彿とさせた。
「でも、このままじゃ気持ちが収まりません。何かお詫びをさせて下さい」
「お詫びと言われましても…」
大型犬は少し考えて「時間を下さい」と言い頭を下げ、デスクから去った。その後、昼が過ぎても帰宅時になっても大型犬は現れなかった。
トントントン…、ティッシュを片手に私は泣きそうな気持ちだった。
カーペットには赤い染み。カフェオレよりは酷くないけど赤い染み。
私は何をしているのだろう?
カフェオレを溢したと思った。
そんな訳ない!!と飛び起きるとカーペットに溢れていたのはワインだった。
昨日帰る途中でDVDを借りてしまったのが駄目だった。
恋愛映画で人気無さそうな作品を選んだのだが、予想以上に名作で、特にヒロインが妖艶で素敵だったから、だから、だからなんです。
私は涙を拭った。
生足でワインを飲んでも私は妖艶になれないのね。
携帯を開くとペンギンが「5時だよ」と私を馬鹿にした。
起きるとカーペットは可愛い色に染まっていた。
チークをのせたぐらいにほんのりと色づいていて、これならワインをわざと溢して染め上げてしまいたいほどだ。
だからといってもカフェオレ染めは無くならないのです。
これ以上カーペットを汚さないように、私は部屋の隅で朝食の杏仁豆腐を貪った。
家を出ると今日も暑い。
直射日光が私の肌をジリジリと焦がしている音が聞こえる。
こんがり焼かれてしまう前に私は会社に足を進めた。
「おはようございます」
声の主に覚えがなく振り返ると大型犬がそこにいた。
「おはようございます」
足を止めることなく軽く頭を下げた。
「昨日はすいませんでした」
「いえ」
「お詫びを考えてきたのですが、発表させてもらっても良いですか?」
発表って…、フリスビーを投げて口でキャッチする姿が容易に想像できた。
「今日しょくじゅに行きませんか?」
「…?植樹ですか?」
「すいません。咬みました。しょくじゅに、すいません。食事に行きませんか?」
植樹かぁ。
植樹ねぇ。
うーん、どうしようかな?面倒だな。
隣で返事を待つ大型犬が心配そうに見つめているのがわかる。まあ、一度だけだし、大型犬は悪い感じしない。
「行きます」
その瞬間、大型犬が大きく吠えた。
「本当ですか!!!!!」
声のバズーカ砲で私は吹き飛ばされた。
「きゃああぁぁぁあぁあぁぁぁー」
ただ宙を舞っていることは分かった。
そして激しい痛みを背中に感じた。
「げふぅ」
どうやら入口まで吹き飛ばされたらしい。
自動ドアを割り大袈裟に入口に倒れている。直射日光が私に降り注いだ。
顔を上げることも出来ない。
妖艶の欠片もない足が見える。血だらけでスカートもビリビリに破れてパンツが見えてしまいそうだ。
「大丈夫ですか?」
ハッと我にかえる。
私は何事もなかったように振る舞った。
実際は飛ばされていることもなかったし、パンツが見えてしまいそうなこともなかった。
大型犬は仕事終わりに迎えに来ることを告げ、足早にその場から去った。
大型犬の耳は赤く染まっていた。
自分の耳たぶを触り、私も近い温度があることに血圧が上がるのを感じた。