とある令嬢と従者の非日常な日常
夕暮れの帰り道、待たせていた馬車の前でエリアノールは立ち止まった。
腰まで流れる美しい黄金の巻き毛、澄んだ緑色の瞳、白皙の肌に際立つ美貌。すべてが麗しい彼女は今、宮殿にて王妃殿下――伯母上との楽しい語らいを終えてきたばかりである。
公爵家の末のご令嬢であるエリアノールは、その身分にふさわしい気品ある仕草で絹のドレスの裾を軽く持ち上げ、もう片方の手を差し出すようにする。その先にいるのは、従者である青年だった。
まだ十五のエリアノールに比べ、彼のほうは二十歳を越えた落ち着いた風貌で、黒い髪を後ろに一つで束ねている。可憐で華やかなエリアノールのきらびやかさに、しかし青年も負けてはいない。
髪と同じ黒い切れ長の瞳で、すっとエリアノールを見つめると、ただ黙ってその手をとった。馬車に乗せるためである。が、明らかにいつもとは違う、少し他人行儀な仕草にエリアノールはすぐ気が付いた。
「アルフォンソ・リアス・デ・オルバ」
長い正式名を呼ぶ彼女の声音は、凛とした気品をまだ保っている。が、それにもいつものような微笑が返されないと、途端に美しい顔が不機嫌なものになった。
「何で突然機嫌悪くなってんの。何か気に障った?」
いきなり気安くなった口調には、理由がある。エリアノールとアルフォンソは従兄妹同士。本来ならば主従関係になりえないほど、彼も同等の血筋に育った貴公子だ。しかしながら現在、アルフォンソはエリアノールの従者としてそばにいる。なぜか? つまりはそれが、彼の不機嫌の理由でもあった。
「ちょっと、聞いてるの? もしかしてこの私を無視するつもり? アルフォンソ! アルったら!」
ついには幼少時からのあだ名を持ち出し、責め始めたエリアノールに、アルフォンソは物言いたげな目線を向ける。それでもまだ頑固に彼は、ぷい、と無言でそっぽを向いた。
まだ馬車の前で、手は繋いだままだが、ある意味、だからこそ彼女からは彼の表情がよく見えない。森の向こうに暮れ行く夕日が背になって、ちょうどアルフォンソの顔に影を作っているのだ。
「……せっかく久々に叔母様とお話してとても楽しかったのに、あんたのせいで台無しだわ。何なの? まったく子供みたいにだんまりだなんて、麗しの貴公子様もたいしたことないって、宮殿で言いふらしてやろうかしら」
むっとしたエリアノールが、手を振り放し、一人で馬車に乗り込もうとする。そんな姫君らしからぬ行動に、渋々といった調子でアルフォンソが手を貸した。
結局二人で向かい合わせに乗り込んだ馬車の中、走り出してもまだエリアノールはぼやいていた。
「手伝うんなら、最初からやればいいのよ。男のくせにむすーっとしちゃって、まったく嫌になるわ。あ、もしかしてさっきの珍しい紅茶を飲めなかったことで機嫌が悪いの?」
「違う」
インドから叔母様が取り寄せたという美味なる茶葉。珈琲や紅茶といった嗜好品に目がないアルフォンソだからもしや、と思っての問いに、彼は低く答えた。エリアノールは更に首を傾げる。
「じゃあ何? あ、クッキーが食べられなかったことが不満? もう、それならそうと言えばいいのよアルったら――」
「違う! 俺がそんなもののためにいちいち機嫌を悪くするような阿呆だと思うのか」
やっと長い返答があった。が、余計に不機嫌さは増し、せっかく綺麗な顔立ちも怖くなるばかり。
それに彼の言う通り、一応の『従者』としての立場を守ることをよしとしているのはアルフォンソ本人だ。出されたお茶も菓子も手を出さず、ついでに言えば話題にも入らず、静かに佇んでいた。そして、それも彼が従者になった一年前から、いつもの光景だった。
「うーん……じゃあ、もしかしてオペラのお誘いのこと?」
ぴくり。アルフォンソの眉間に皺が寄った。どうやら図星のようである。それでもエリアノールは首を捻った。
「でも叔母様からのお誘いなんて毎度のことじゃない? どうして今回だけ腹を立てるの?」
近隣国から伝わってきた歌劇――オペラは、今ではここエスペリア国でも一大人気の娯楽となった。貴族の中では特に、観に行かないほうが恥だとされるほどの嗜みだ。アルフォンソとて嫌いではないはず。
ずっと頭を左右に捻り、うんうん悩んでいたら、やっとアルフォンソが口を開いた。いいかげん、鈍いエリアノールに嫌気が差したかのように。
「お前、あの題名を見て気が付かないのか?」
「え? 題名? 確かえっと――」
「『とある令嬢の秘密の夜」」
すっかり忘れていた題名を、アルフォンソは非常に不機嫌な顔で口にする。いまや、眉間の皺は二重、いや、三重にもなっていた。しかしエリアノールにはまったく意味がわからない。
「それがどうしたって顔だな。本当にわからないのか? 内容の想像がつかないか?」
「えーっと……秘密だから、なにかいけないこと、よね? でもそれがどうかしたの、アル」
「『どうかしたの、アル』じゃないだろう!」
突然憤慨しはじめたアルフォンソに驚くエリアノール。その手首を、彼はぐいと掴んだ。そのまま睨みつけ、恐ろしく低い声で続ける。
「あれはお前のような公爵令嬢が、恐れ多くも王子からの求婚を退け、乳兄弟である従者と愛し合う話だ。従者は本当は身分の高いとある方の落としだねで、王子には血筋上劣らない存在でもある」
「あら、どこかで聞いたような話ね。よく似てるわ」
にっこり笑ったエリアノールに、アルフォンソの眉間の皺は倍増した。
「そうだ、どこかで聞いた話かもな。ここまでなら」
「じゃあここからは違うのかしら」
「ああ、違う。違いすぎるほどに違う! というか、同じであってたまるものか!」
詰め寄るアルフォンソ。まだ手首は握られたままで、エリアノールが「痛いわ」と言うのにも気づいていないほど怒っている。一体どうしたというのか――幾分心配になってきたエリアノールに、アルフォンソは言った。
「このオペラでは、最後に従者とかけおちして、二人は死ぬんだ」
あっけにとられるエリアノールの沈黙を、アルフォンソは何か別のものと誤解したらしい。
「ほらな、だから俺は嫌だったんだ。やはりあのオペラは断れ。いつも付き合っているんだから、たまにはいいだろう。体調不良とか、何でも言い訳のしようはある」
「はあ……まあ、そうね……」
ぼんやりと答えたら、アルフォンソは更に誤解した眼差しで、心配そうに覗き込んできた。
「言わんこっちゃない。大丈夫か? エリー」
自然にこちらも愛称に戻り、彼は呼ぶ。その親しげで優しい響きに、胸がとくんと疼いた。普段――いや、そういえばこのかりそめの『主従関係』が始まってから、この呼び名は聞いていなかった。
(もう少し、落ち込んだふりをしていようかしら)
悪戯心に従い、エリアノールはしゅんとした顔つきを作る。途端に、アルフォンソが握っていた手首を離し、そっと頬に手を添えた。慰め、励ますように。
「そう沈んだ顔をするな。まったく……あのお節介伯母上は、いらぬことばかり世話を焼いて面倒を持ち込むんだからな。今後は、もう少し距離を置いてもいい。三度に一度は仮病でも使って断れ。いいな?」
まったく見当違いのことを言いながら慰めてくれるアルフォンソに、思わず吹き出しそうになる。慌てて、泣き出したように演技をして、アルフォンソの胸で顔を隠した。
もちろん誤解で受けとめてくれたアルフォンソは、しっかりと逞しい胸に抱きしめてくれる。
「ご婦人方の退屈しのぎのオペラの話なんか、俺たちには関係ない。絶対に、お前の父上の怒りも解ける日が来るさ。そのためにも俺が、頑張って『従者』業に勤しんでるんだから……一年は過ぎた。あと一年。お前の十七の誕生日が来るまで、って約束、文書に残してあるんだから、やすやすと覆させるものか」
強い意思が、低くしっかりとした声音と共に、直接耳朶にしみこんでくる。続いた囁きは予想以上に甘く、エリアノールに演技を忘れさせてしまう。
「お前は俺のものだ。どんな男にも渡さない、絶対に――」
「アル……」
思わず胸が熱くなって、涙が零れる。強気な令嬢としてふるまってはいても、エリアノールにだって不安な瞬間は訪れるのだ。ひそかに、毎日、本当にアルフォンソと結ばれる日が来るのかと恐れている。
そんな気持ちを読み取ってくれていたかのように囁かれ、誓われてしまっては、涙が止まるはずもなかった。
「俺のエリー……愛している」
髪を撫で、額に口づけられて、もう堪えきれず、強く抱きつく。
「親同士の大昔のけんかで結婚を止められるなんて、理不尽極まりない話だ。俺たちがずっと仲が良く、いつかこうなるだろうとは予想もできたはずなのに」
「……ちょうど、とっても大変な場面を目撃されてしまったものね。よりにもよって、お父様に」
「……確かに。俺たちにとっては生涯で最高の瞬間ではあっても、叔父上にとっては許しがたい場面だっただろうからな」
初めての、口づけ。薔薇の咲き乱れる庭園で、あれはとってもロマンティックだった。
けれど当事者にとってそうでも、娘を持つ父には怒りが頂点に達する出来事だったのだ。そして縁を切ると大騒ぎする父親を説得したのは母親で、結局妙な契約が結ばれることとなった。
――曰く、エリアノールの社交界デビューの日まで、二人が『主従関係』を守ること。それは絶対の約束で、律儀なアルフォンソはあれ以来、唇にはキスをしたことがない。無論、それ以上も許されていないから堪えている、という状況だった。
「あと……一年。お前への愛ゆえに、俺は堪えてみせる」
言葉は堂々たるものだったが、エリアノールの頬をなでる手は、少し震えていた。
「あーくそうっ!」
見つめ合う空気に耐え切れなくなったのか、アルフォンソはその手を離し、強く握り拳を作る。
「ご、ごめんね……アル。お父様のために、こんなことを強いてしまって」
本当に彼には悪いと思っているのだ。身分もあるアルフォンソが強いられている『従者』業のことは、おそらく宮殿に出入りする貴族――いや、下手したら街中の噂にまで伝わっているかもしれない。それでも、こうして屈辱に耐えてまで彼が自分のそばにいるのは、言葉通りの理由以外にないのだから。
「ありがとう……大好きよ」
そっと頬に口づけを落とすと、アルフォンソはなんとか気を取り直したように微笑んだ。結局の、いつもの微笑。
「エリー」
また髪を撫でてくれたアルフォンソをなんとか喜ばせたくて、エリアノールは隠していた包みを差し出した。
「なんだ? これは」
「あのね、さっき頂いた紅茶の茶葉とクッキー。ちゃんと包んでもらったの」
立場上、そしてアルフォンソの性格上、その場で口にしないことはわかっていたから。得意げににっこり笑ったエリアノールの頭を、苦笑したアルフォンソがぽんと軽く叩く。
「さすがちゃっかりしてるな、俺のご主人様は」
「そうよ。ちゃっかりしてるぐらいじゃないと、これほどの従者を持てないもの」
ふふ、と笑い返すエリアノール。いつしか、先ほどまでの切ない空気は和んでいた。
「じゃあ、帰ったらお茶の時間にするか。いや――お茶にいたしましょうか、ご主人様」
「やあね、なんだか年をとったみたい。せめて、そう……『姫君』ならいいわ」
「御意に、エリアノール様。俺の姫君」
優しい抱擁は、今度こそ二人の日常の温度に戻った。あと一年。短いようで長いこの主従関係が終わるまで、甘いそれは、もう少しだけお預けなのだから――。
END
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