永遠の冬
犬が死んだ。
老いた犬だった。何時死んでもおかしくないねと何度も家族の間で話題に出る程度には、老いた犬だった。かつては黄金色に輝いていたその毛並みがくすんでからは随分と時が経ったし、歩く速度も目に見えて遅くなっていたし――何より、かつてよりもずっと遅くに目を覚まし、ずっと早くに寝入ってしまうようになっていた。何時死んでもおかしくないねと何度も家族の間で話題に出る程度には、死にかけた犬だったのだ。カイも、その話題には――どちらかといえば、積極的に乗っていた方だったかもしれない。本当にお前、いつまで生きてるんだよ。もういい爺ちゃんじゃないか。あんまり無理すんなよ。笑い交じりにそう言って、テーブルの下に寝そべっている犬の喉を撫でてやる。すると、食卓の笑い声がより一層明るくなるような、そんな気がしたからだ。そうねえ、心配ねえ。これからはぐっと冷え込んでくるし、あったかい毛布で包んであげないとねえ。風邪をひいてしまったら大変だからな。労わってやらなくては。
昨晩も、そんな事を言いながら喉に触れてやった。犬はそれまでと同じようにごろごろと喉を鳴らし、そして丸くなった。出てきた料理の味付けもいつもと変わらなかったし、父親が役場から帰ってくる時間もいつもと変わらなかった。寝る前に窓から見上げた星空はただ澄んでいて、星が尾を引く事もない。明け方何とはなしに目をやった指も――冷えてはいたが、特にあかぎれている部分も、ましてや爪が割れているなんて事も、無かった。
だが、犬は死んだ。
火の絶えた暖炉の横、灰色の毛布にくるまって、目を閉じて、死んでいた。そこに居たのは老犬の身体ではなく、そこに在ったのは犬の死体だった。カイはただ、そこに茫然と立ちすくむことしかできなかった。犬の死体に降り注ぐ朝の光が、そして外から聞こえてくる鳥の声すらも、全くいつもと同じで――しかし、暖炉に火を点けても犬の身体がその熱を受ける事は無い。死体は熱を反射し続けるだけだ。
死体に指を這わせ続けていたカイは、ふと思い立って周囲の空間を見回した。白い壁に、数年前に父が好事家の友人から譲ってもらった風景画がかかっている。そしてその隣の壁に、窓。階段のある方にそのまま視線を向けると、ショールをかけ、不機嫌な顔で部屋に入ってきた母と目が合った。きらきらと朝日を受けて漂っているのは、ただの、塵だ。
「死んだよ」
母は僅かに目を見開いたが、すぐに「そう」と頷いた。
「もう歳だったものね。よく頑張ったと思うわ。――これからどうするのかは父さんと相談しておくから、あんたは朝ご飯食べちゃいなさい。遅刻するわよ」
母の目元は、髪に隠れていて覗く事は出来なかった。だが彼女は淡々と犬の死体に毛布をかけ――そしてその足で、そのまま台所に立った。蛇口をひねり指をすすぐ彼女の背中と、犬の死体をすっかり包みこんでしまった灰色の毛布を交互に見やる。何の言葉も見つける事は出来なくて、結局カイもその足で、食卓に座った。
振舞われたスクランブル・エッグは、卵の味しかしなかった。
「何かあったの?」
「そう見える?」
「見えるわよ。そうしか見えないぐらいにね」
神父から与えられた個人用の小さな黒板と薄い文法教本を抱え直して、ゲルダは三つ編みを払った。一本も飛び出すことなく見事に編まれたその髪の束よりも深い栗色が、カイの瞳を覗き込む。
「あんたって結構、顔に出やすいタイプじゃない。私、分かるんだから。何かあったでしょう――それも、あんたにとってすこぶる嫌な事が」
「……そっか」
「そうよ」
ねえ、それで、何があったの。
教会の鐘が正午を告げる。鐘の音に驚いて、前の広場にたむろしていた鳩が一斉に空を飛ぶ。がらんとした広場を、木枯らしが吹き抜ける。後に続くゲルダの言葉は、おそらくそれらの音に掻き消されてしまったのだろう。
ゲルダはカイの友人の中で、一番カイの家に近い場所に――もっと言ってしまえばカイの家の隣に――住んでいる娘で、一番カイと付き合いのある娘で、そして一番カイに対して、何かと話を振ってくる娘だった。あんたが考えてる事ってやっぱりわかっちゃうのよ、これだけの付き合いだものと、彼女はカイが辟易の眼差しを向ける度に、誇らしげに腰に手を当てて言うのだ。事実、時にゲルダの言葉はカイの核心をあまりにもあっさりと突いて――そしてそれを、あまりにもあっさりとしたものに変化させてしまう力を持っていた。
ねえ、それで、何があったの。
もう一度彼女がそう言ったかどうかは分からない。もしも彼女がそう言ったのならばその直後に、そうでないのならば何度目かの木枯らしが彼の耳を切った直後に、カイは足を止めた。道の脇、小さな湖。まだ凍りついていないから、その上で遊ぶ事も出来ない。かといってすっかり冷え切ってしまっているのも事実だから、その中で遊ぶ事も出来ない。釣りのボートも見る事が出来ない、つまりは何もない湖。ゲルダの視線を背中に感じながら、カイはその場にしゃがみ込み、一つ、石を拾い上げた。
「死んだ」
「――え」
「今朝、死んだんだ。うちの犬」
手の中の石は丸みを帯びていて、ずっしりと重い。それを弄びながら、カイは申し訳程度に設置されている落下防止の柵に寄りかかった。背後のゲルダは、息を呑んだ気配を発したきり、何も言わない。何かまごついた気配を感じたような気がしたから――ひょっとしたら、言葉を選んでいるのかもしれなかった。
「……病気、してたの?」
「老いてはいたけど、変な所は無かった」
「――」
「いきなり死んでた。朝起きたら」
仕方ないわよ、だってあのお年だったんだもの。パパが言ってたわ、カイの家のワンちゃんは本当に長生きしてるねって。あの犬種って、そうあんまり長生きできないらしいのよ――大きいからって、必ずしも丈夫って訳ではないみたい。だから、あんな歳まで生きてる事自体が奇跡で、だからさ、その――
ぶうん。ぼしゃり。ぱしゃん。
「――っ!」
「カイ?」
投げつけた石は勢いよく湖面にぶつかり、冷たい飛沫が水面を覗き込んでいたカイの双眸に容赦なく跳び込んだ。瞳を抑えて、呻いて、また瞳を開く。潤み、霞み、歪んではいるが――湖は湖のままだ。何も変わりはしない。
「大丈夫?」
「別に、ちょっと目に入っただけだから」
「……下手に投げるからよ。家帰ったら、洗っといた方がいいわよ。湖の水って、案外汚いらしいから」
「そうだね」
視界の歪みが治り、きんとした痛みが引く。僅かな期待を込めて湖面を覗き込んでも、見えるのはくすんだ黄色の髪と、落ちくぼんだ緑の瞳。呆然とした情けない少年の顔が、ひとつだけ、くっきりと。
波紋の残滓すら、無かった。
家に帰ったら、既に犬の死体は持ち去られてしまっていた。母曰く、父が出勤前に役場の清掃担当課に電話し、その後程なくして引き取ってもらったらしい。
「毛布は?」
「変な菌がついてたら嫌だから、一緒に持って行ってもらったよ。あの子も気に入ってたようだし、とっておく意味も無いだろう」
「そう」
頷いて、母は台所に引っ込んでしまった。鞄(と呼べるほどでもない、ただ単に本が数冊入っただけの袋なのだが)を肩から降ろし、カイは暖炉の脇に目を向けた。今朝までそこに居た――そこに在ったものの気配は、ものの見事に綺麗さっぱり無くなってしまっていた。ものの見事に、綺麗さっぱりと。
この辺りで死んでいたのははっきりと覚えているのに――多分今ゲルダがやってきたとして、「それで、どこで死んじゃってたの?」と聞かれたとして、自分はそこをはっきりと指さす事が出来るのだろうか。
壁は白く、カーペットは紅く、差し込む冬の光は相変わらず穏やかで、そしてまた、夜になった。
父は、いつもと同じ時間に帰ってきた。母の振舞う夕食も、昨日と同じ味がした。犬の喉を撫でていた手が少し宙を彷徨うかと思ったのだけれど――無意識が先にそう理解したのか、いつもよりも少し長い間、スプーンを握っていた、それだけだった。
窓から見上げた星空はただ澄んでいた。星が尾を引いて流れる事も、無かった。そしてベッドに潜り込んで瞼を閉じて、また朝日が昇って、目を開けて、階下の居間に降りる。壁は白く、カーペットは紅く、窓からは朝日が差し込んでいて、そして暖炉の脇には犬の死体すら存在しない。
ずっと前からそうだったんじゃないか。
ふとそんな妄想が、カイの脳裏をよぎって、消えた。それが自分の妄想でありますように――そう心の中で呟いて、カイはあの犬が死んでから初めて、自分が祈りの文句を思い浮かべた事に気がついた。
背筋が寒くなった。
◆ ◆ ◆
少年と出会ったのは春先のことだった。
彼の姿が目を引いたのは、彼のそのどこまでも澄んだ翠の双眸が、カイにとってとても珍しかったからかもしれないし――それともただ単純に、彼がカラスの死体を前にしても平然と視線をそれに向けていたから、それだけの理由だったかもしれない。
とにかく、その少年――レイヴンと出会ったのは春先のことだった。村の小さな公園の片隅、溶けかかった雪の下に墜ちたカラスの死体を挟んで、カイと少年は相対していた。
「これ、今死んだんだよな?」
そして少年は、相対して早々にそんな事を言った。
「……知らないけど」
「いや、こいつはたった今――じゃなければ、ほんの少し前に死んだんだろう。ほら見ろ、羽が生き生きと黒い」
「だから、知らないって。どうして僕にそんな事聞くんだ」
「通りがかりの君から、確証を得られるかなと……まあ、とらぬ狸の何とやらってやつだ。君が『今死んだよ』って言ってくれれば、面倒なプロセスをぶっ飛ばして『死にたてのカラスです』って提出できるからね」
春先になると街を出て原野に帰るという、郊外に暮らす猟師達の息子だろうか、とカイは目の前の少年について推測した。だが、猟師はあんな御立派に刺繍されたエンブレム付きのコートを着るだろうか。
「提出って、どこに」
「もちろん、先生にさ」
「先生?」
「そう、先生」
「君、ひょっとして……」
「こっから見たら南になるのかな?とにかく、あの街の生徒。学校あるの、知ってるだろ」
「……へえ」
翠の瞳の少年は、調子の外れた鼻歌を歌いながら雪の上にしゃがみ込んだ。ポケットから取り出した手袋を嵌めて、傍らの麻袋にカラスの死体を唐突に突っ込んだ。どちらかと言えば、いや、随分と繊細な顔立ちをしているなと思っていたから――少し、カイは呆気にとられてしまったのだった。
「い、良いのかい?」
「何が?」
「いや、あの……そのまま突っ込んで」
「感染防止のために手袋はしてあるよ。先生から頂いた特別仕様。まあこいつ、何か思いっきり頭やられてるって感じだけど。……ああ、袋?袋は全然問題ないさ。こいつにとっては最後のお仕事だからね。つまり袋ごと提出して、多分袋は焼却炉行き」
よっこらせ、とわざわざ口に出して少年は立ちあがる。そのまま彼は徐に歩き出してしまったので――少し焦って、カイは彼の背中に声をかけた。どうして焦ったのかは分からない。
「それ、持って帰るの?」
「もちろん」
「……先生が、使うの?」
「正確には、先生を含めた僕達の教室が使うのさ。ああ、分かるよ?生きたカラスじゃなくてどうして死体を持って帰るのかとか、そんな事を聞きたいんだろう。もちろん、死んで随分時間が立っているのはだめだ。むしろ死にたてじゃないとまずい。だから俺は今実は結構急いでいる」
村から街までは、馬車で一時間の距離だ。それなりに馬車は出ているけれど――流石に長い間死体と共に居る訳にもいかないのだろう。少年の声は切実だった。
「それ、何のために使うの?」
だが、それだけは聞いておきたかった。何故だか聞いておきたかったのだ。少年は虚を突かれたように瞬いたが――そうだな、と唇を吊り上げて、言った。
「『死体』が『死体』でしかない事を証明するために、かな」
その言葉に対して特に何を答えたわけでもなかった。特に何を考えたわけでも、特に何かの感情を抱いた訳でもなかった。だが、少年の翠の瞳が僅かに瞠目してカイを見据えた。それから、多分あれは狼狽の表情だったのだろうか――刹那、何とも表現できない曖昧な形に彼の唇が吊り上げられ、そしてそのまま、その唇の隙間から声が漏れた。
「俺はレイヴン。君は?」
「カイ」
「そっか」
握手もせず、宜しくとも言わず、ただ名乗り合っただけで少年は去って行った。だが、彼が名乗る直前に見せたあの表情は妙にカイの脳裏に焼き付いていて――ひょっとしたらまた会う事になるかもしれないと、何故かそんな、全く根拠のない妄想が引きずり出されて、そしてそのまま放置されてしまった。
「もらったの、これ」
それからもう少し日が経って、そろそろ視界から雪の白が消えてなくなる頃、ゲルダが唐突に家を訪れた。手にはバラの苗を抱えている。
「自慢?」
「自慢なら、呼んで自慢するわよ。――もらった分全部植えたんだけど、場所足りなかったから、よければって」
「……庭はスカスカだし、母さんもバラは好きだよ」
「カイはどうなの?」
「別に、僕は……いや、まあね、無いよりはいいと思うけど」
「そうでしょう?」ほっと、安堵のため息の音がする。本当に余り物だったのだろうかと、カイは唐突に疑問を抱いた。
「残念だったわね」
「――何が?」
「カイの家の、ワンちゃん。雪が溶けたら、いつも庭で日向ぼっこしてたのに」
「……ああ……」
「確か」ゆっくりと腕を上げ、ゲルダは庭の片隅を指差した。「あのあたりがお気に入りだったんじゃなかったかしら」
「多分ね」
ゲルダが次に何を言うか、カイは何となく予想出来ていた。そして彼が予想した通りの言葉を、ゲルダは紡いだ。
「居なくなっちゃったから、寂しいでしょう」
「まあ、確かに」
「これ、代わりにならないかしら――あ、ああ、もちろん余り物だし、えっとその、アレなら別に良いんだけど、でもこれ苗だからさ、鉢植えにするよりお庭に植える方がきっと伸び伸び育つし、それならえっと、せっかくって意味、なんだ、けど」
気恥かしくなったのか、それとも別に理由があるのか。時々ゲルダはこうやって、妙な所で口ごもる癖がある。いつもは堂々と――嫌になるくらい堂々と前を向いて、嫌になるくらいきらきらとした瞳で彼の瞳を見つめてくるのに。カイは自分でも驚くくらいに穏やかな声で「ありがとう」と礼を言い、微笑して苗を受け取った。伏せられたゲルダの瞳が、僅かに潤んだ。
実際、その礼はカイの心の底から発せられたものだった。単調な冬の間に、居間に敷かれていた赤いカーペットはより豪奢なオレンジのカーペットに代えられてしまい、家族の間でかの老件の話題が上る事も、ほとんどと言っていいくらいに無かったのだ。母も父も今の隅から隅までを歩きまわるようになって――そして冬が終わる頃には、カイですらあの犬が居間の何処で死んでいたのかを思い出すのに、大分時間をかけなければならなくなってしまった。それが事実だった。それが現実だった。
「結構、心配してたんだから」
苗を包んでいた袋を外し、早速庭の隅に穴を掘る。土をかけていると、背後からそう呟く声が聞こえた。
「心配?」
「明らかにおかしかったもの、カイ」
「……そうかな」
「私には分かるのよ。何年お隣さんやってると思ってるの?」
立ち上がり、振り返る。僅かにゲルダがまごついたような、そんな気配がした。君も今、明らかにおかしいよね。僕にだって分かるよ――その言葉が喉元まで出かかったが、何故か呑みこんだ方がいいように思えて、結局何も言わなかった。
「あいつの、記念に」
「記念?」
「そのために、おすそ分けしてくれたんだろう?君にバラをくれた人が誰だか、僕には見当つかないけれど――その人にも、どうか礼を言っておいてくれないか」
「ええ――そうね、記念ね。もちろん、私から言っておくわ」
こちらは微笑んだままでいたはずなのに、ゲルダは急に虚をつかれたような表情になった。もちろんそれは一瞬の事で、すぐにまた先程のような、はにかむような笑みを浮かべたのだが――カイを見つめるその瞳が、わずかに不機嫌な色を宿したような、気がした。もちろん気がしただけだったのだけれど。
「綺麗に咲くと良いわね」
最後にゲルダはそう言って立ち去った。カイはただ頷いて、彼女の背を見送った。実際の所、バラが咲くかどうかなどはささいな問題でしかなかった――彼女が苗をあの老犬のために持ってきてくれた、それが、カイにとって嬉しかった。それだけの話だった。
◆ ◆ ◆
教会の神父から、新しい文法書を買うように勧められた。この冬に使い終わった文法書よりはレベルが高く、この春から使い始めた文法書よりはレベルの低い――つまり、授業では扱う予定がないレベルの文法書を。
カイの村の教会は、他の村に立つ教会と同じように、村の子供たちに文字と文法を教えているが――おそらく、カイの村の神父は、他の村の神父よりも心やさしく、そしてお節介な性質を有する男なのだろうなと、カイは彼の諭すような言葉を聞きながらぼんやりと考えた。お節介、と思ってしまう自分に心中で自嘲するが、流石にそこまでは神父は察さなかったらしい。
君が優秀な少年である事は分かっている、だけれどどんなに優秀な人間であっても、勉強のリズムを常に一定に保つ事はほとんど困難な事だ――文法や文字と言った、単調でありながら難しい学問ならば尚更。だから私は去年の冬に君が授業から少し遅れ気味だった事に対して、特別にとやかく何かを言うつもりでは全くないのだ、誰にでもある事だからね。だが、このまま君一人のために授業のペースを落とすわけにもいかないし、ましてや君を一年下の子供たちと同じクラスで勉強させる訳にもいかない。つまり、申し訳ない事だが君には一人で勉強してもらわなくてはならないのだよ――もちろん教科書代は教会の会費から出るから、君は街に行って本を買い、その本を読むだけでいい、いいね?――はい、もちろんです。ありがとうございます、神父様。
そんな訳で、カイは滅多に利用した事の無い街行きの馬車に揺られ、一時間ほど南へと下った。何度か訪れる度に灰色の外壁が陰気な雰囲気しか醸し出していない場所だと、そんな感想を抱いているが――今回訪れた際も、その感想しか抱かなかった。以前訪れた時は秋で、今は夏も近い春だから、以前よりはわずかに空は明るいように思えたけれど、その明るさも外壁の陰気さを打ち消すほどのものではない。
すり減った石畳の上を歩きながら、カイは神父から聞いた書店を探した。何度か人の波に揉まれた後、目的の名前を唐突に目の前の看板に見出す。開け放たれたガラス戸から仲を覗いてみると、想像以上に広い空間がそこには広がっていた。置かれた棚という棚に、ぎっしりと本が詰まっている。
店の中には人が散見される程度にしか存在しないのに、何故か強烈な居心地の悪さを感じて、カイは恐る恐る足を踏み入れた。手近な壁に貼られたポスターにはどうやら店内の見取り図が記されているようで、カイは目を凝らしながらぶ、、ん、ぽ、うの文字を探し――ごがく、ぶんぽうしょ、の棚はこちら――そこへの道順を指でたどった。小説の棚を突っ切って、数学書の棚を右に曲がった先だ。
果たしてその通りに足を運んだ先には、大量の背表紙と、僅かに見覚えのある背中が存在していた。棚の上の方を向き、何かを探して彷徨っている澄んだ翠の双眸――それが『彼』だと気がつく前に、カイの記憶の中から雪の上に棄てられていたカラスの死体が引きずり出された。しばらく(といってもせいぜい数瞬程度だろうが)呆然とその横顔を見つめていると、視線を向けられているのに気がついたのか、少年の双眸が棚からカイの瞳へと移る。あれ、と目を見開いた後、レイヴンはおもむろにその左手を挙げた。
「買い出し?」
「……そんな所、かな」
「君の村、本屋無いの?」
「聖典と絵本しか売ってない。大人はみんな、この街まで本を買いに出るんだ」
「そうなんだ。でも聖典は売ってるんだね」
「教会があるからね」
「ふうん」
沈黙。ぎこちなく一息吐いて、カイは目の前にそびえる背表紙の壁の山に挑むべく、その瞳を細めた。よくわかる文法応用編ボリューム1、確かそんなタイトルだったはずだ――程なくして記憶していたそれと全く同じ文字列を見つけるが、見つけた瞬間、カイはそれまで彼が抱いていた漠然とした居心地の悪さが猛烈な具体性を持って彼の背中に襲いかかってくるのを感じた。即ち、彼の欲する本が置かれた棚の丁度前に、レイヴンが立っていたのだ。
「……あれ、どうした?」
「あ、いや……その」
「ああ、わかったよ。何なら俺が取ろうか。どれだい?」
「いや――いい、自分で取るから」
そう、と不可解そうな表情を隠さぬままレイヴンは頷いて、カイが彼の前を通過できる程度の隙間を開けるため数歩後ろに下がった。目指す背表紙はカイが腕を伸ばした先ぎりぎりに存在し――取ってもらえば良かったとその時になって後悔した。結局、居心地の悪さ以外何も感じる事は無いまま、カイは一冊の本を手中に収めたのだった。たった一冊。しかも随分と――薄い。
「文法書?」
「……え、あ、ああ、そうだよ」
「偉いなー。俺、文法の勉強が世界で一番嫌いだ」
「僕も、積極的に好きだって訳じゃないけど……でも、買って勉強しろって言われたから」
「俺だったら言われても買わないね。仮に買ったとしても絶対勉強しない。本当面倒だよ。話して書ければ、要は言いたい事が向こうに伝わればいいってだけなのにさ――完全に一語一句正しく並び替えないと点数がもらえないテストなんて、くそくらえ、だ」
苦笑しながら、カイはレイヴンの胸元に視線を向けた。流石にコートを着用してはいないが、あの時のコートと同じ色のジャケットを羽織り、あの時のコートの胸元にあったエンブレムと同じエンブレムが、ジャケットの胸元に縫い付けられている。
――だからどう、とはっきりと意識する前に、いつのまにか口が動いていた。
「死体、どうなった?」
「――え?」
「あの、カラスの死体。君が持って行った……ほら、あれ」
「……」しばしその顎に指を這わせ、レイヴンの瞳は中空を彷徨った。棚と床を何度か彼の視線が往復する。――そして、その視線がカイの瞳を真っ直ぐに向いたと同時に、彼の声が本屋の片隅に響いた。
「気になる?」
「……うん」
「そっか」彼は一度、息をのみ込んだ――そんな風に、カイには、見えた。
「じゃあ、見せてやるよ」
街の中心部には、外壁よりも灰色にくすんだ巨大な建物がそびえていた。それを目にする機会は今までもそれなりにあったが、それがレイヴン達の通う『学校』である事を知ったのは、今回が初めてだった。
「正門からだと学生証の提示を求められるんだけどね、正規の学生ですら使ってる奴らがほとんど居ない門だから、通らない事を気にする必要なんてどこにもないのさ」
「何で?」
「単純に遠いんだよ。正門のあたりに立ってる立派な建物は、あれ、おかざりだからね」
「――おかざり?」
「来賓者向けに『うちの学校はこんなに歴史があって立派ですよー』って見せつけるための建物って事。結構ボロくなっちゃってるから――そう、ボロいんだ――保全を考えてね、俺達生徒は勝手にあそこに入る事は出来ないのさ。……普段使ってる建物は、ああいう特別棟の裏にテキトーに建てられてるから、裏口使った方が早いの。それに、いつでも学生証が胸ポケットの中に入ってるかって聞かれたら……別にそうでもないしね」
明らかに裏口としか思えない、鉄骨が組まれただけの門(しかもその鉄骨は見事に錆び始めている)が音を立てて閉じられる。街の景観とは全くそぐわない無秩序な植木の中を進むと、
唐突にツタの這った後が残るドアが目の前に現れた。
「……ねえ、いいの?」
「別に問題ないよ。――や、まあ、生徒以外の人間が勝手に校舎に入るのはぶっちゃけまずいんだけど、ばれるかばれないかって問題だったら、全く大丈夫」
「理由、聞いていいかな」
「だって制服って着なくていいもんだし。俺は面倒臭いから着てるけど、実は着てる方がなんやかんや言われたりするのさ。先生?先生はこの時間は職員集会だから」
「そ、そうなんだ」
滔々と口から言葉を流すだけではない。彼は喋っている間にもさっさとそのドアを開き、さっさと廊下に敷かれた絨毯に足をうずめ、さっさと行きかう人々(生徒なのだろう、この『学校』の。――レイヴンの言った通り、カイはこの廊下を歩く間、一度もレイヴンと同じ服装をした人物とすれ違う事が無かった)の間を通り抜け、さっさと一つのドアの前に立った。流石に重そうで、立派な装飾の施されたドアだった。目の前のプレートには『オディール=ロットバルト研究室 職員会議中:不在』と刻まれている。レイヴンはおもむろにそのノブを捻り――そして、カイの瞳に光の無い黒い双眸が飛び込んだ。
◆ ◆ ◆
それが埋め込まれたガラス玉だと気がつくのに、しばらくの時を要した。そしてそのガラス玉が埋め込まれた『それ』が、あのカラスの死体のなれの果てだと気がつくのには――また更にしばらくの時と、一つの問いかけを要した。
「これ、が?」
「そ。これが。――剥製。流石に知ってるだろ?」
「うん……」
両翼を高々と掲げ、足を伸ばしたポーズで台に括りつけられているそれ。よく目を凝らして見ると、頭のあたりにほんのわずかな縫い目を見てとる事が出来たような気がしたが――ひょっとしたらそれは単なる気のせいだったのかもしれない。とにかく、『研究室』とのプレートが下げられた部屋の中心の台――本棚の辺で作られた正方形の中心の台に、カラスの剥製は堂々と、あまりにも堂々と置かれていた。ゲルダの家の壁に掛けられた鹿の首を思い出したが、どうしてだろう、急にそれがあまりにも矮小な物なように思えてしまったのだ。大きさで言えばあちらの方がずっと大きかったというのに。
「すごいね」
「そりゃ、先生が作ったからな」
「君の先生、そういう方向の先生なの?」
言ってからもっと言葉を選べば良かったかと後悔したが、レイヴンはわずかに逡巡の素振りを見せたものの不快な表情は見せることなく、「違うよ、ただの趣味」と首を振ってあっさりと答えた。
「趣味?」
「先生の専攻は哲学。だけど……まあ、趣味ってのかな、特技ってのかな、えっと、そういうの作ってた家の出身で――とにかく、作れる人なんだ」
「へえ……」
見惚れていたが、やがてとある、そしてとてつもなく大きな疑問が頭の中を支配した。実際に目にしたカラスの死体のなれの果てから受け取った印象と――かつて去り際にレイヴンがカラスの死体について投げかけた言葉から受け取った印象が、カイの中で大きな齟齬を引き起こしたのだ。
「レイヴン、だっけ」
「うん」
「……君、こいつを拾ってた時に言ってたよね。『死体は死体でしかない』――って」
「ああ、言ったよ」
「僕、それの意味が……よく分からないんだ。いや、よく分からなくなった……のかな、正しく言えば」
だってこいつ、物凄く立派になってるじゃないか。雪の上に無造作に転がってた、あんなにみすぼらしかった死体なのに。剥製って――よくは知らないけど、確かそれなりに長い間持つんだろ?こんなに堂々と、何年も持たせるような姿にする事が、どうして。
「……目、見てみろ」
「ガラス玉、だよね」
「そう、ガラス玉さ。そんで、こいつの中に入ってんのは、綿だ」
「綿」
レイヴンはおもむろにカラスの羽に手を伸ばした。指先が整えられた漆黒の羽毛の上を、滑る。その指先に、カイは何の感情も見出す事は出来なかった。きっとレイヴンは台を撫でる時も、本の背表紙を撫でる時も、同じようにその白い指先を滑らせるのだろう。そう、思ったのだ。
「目はガラス玉、中身は綿。外側のこれだけが、死体。――いや、違う。言っちまえば、『元』死体だ。だって、死体ってのは中身まで全部含めて死体だろう?生き物が死んだら、そいつの中には死んだ生き物の中身が入ってる。でもこいつには中身がない。外側だけしか、死体じゃない」
「……じゃあ、これは」
「モノだ、って、先生は言った。こいつを見せて、先生は言った。家具とか、本とか、万年筆とかと、同じモノなんだ――って。モノだから、持つ。モノだから、いつまでも堂々と存在できる。立派なカラスの姿を遺したのだと意味づけをするのは自由だけれど――だけどこいつはあくまでも『カラスの剥製』であって、じゃなかったら『カラスの外側の死体』であって、カラスそのものなんかでは決してないんだって。あのカラスは、雪の上に転がった時点で、死んでいたんだって。――結局こいつはこんな立派な姿になったけど、でも、この羽が再び勝手に動き出すなんて事は、絶対にあり得ないんだって。もしそれがあるとするならば、それはお前の頭の中だけで起こった事なんだ、って。だって綿は、自分で勝手に動くことなんか、ないだろ」
瞳を伏せたまま、レイヴンは淡々と語る。あまりにも平坦に、あまりにも淡々と。カイを覗き込むその双眸は、一対のガラス玉。カイは己の抱いていた漠然とした思いに、一音一音――本当に一音一音、文字が、名前が与えられていくような、そんな心地がした。その心地はひどく空恐ろしいもので――そして、ひどく安堵出来るような、そんな、
「昔さ」
「……え」
「俺に懐いてた猫が居たんだ。学校の裏門――ほら、さっき通っただろ。あのあたりに、猫が居てさ。俺だけにしか懐かないの。猫って、あんまりうち解けない動物だろ?だからさ、懐いてくれた時、結構俺嬉しかったんだよね」
「うん」
「でも――何かな、ある日いきなりさ、そいつ、死んじまって」
「……」
「俺、埋めたの。こっそり、学校の裏庭に。拾ってきた木を組んで、猫ここに眠る――みたいな感じで墓も作ったんだよ」
やめろ、とか。そうか、とか。別にそんな話聞いてない、とか。手段はいくらでも、あるのに。どうして口が動かない。どうして僕は、彼の話にこんなにも必死になって耳を傾けてしまっているのだろう。
「でもさ……やっぱ、裏庭だから。雑草とか結構直ぐに茂って、すぐにさ、墓標もよく見えなくなっちまって。だからなのかな、それとも別の理由があったのかもしれないんだけど――俺、ある日さ、ふと思っちまったんだ。ああ、あいつは確かに死んだんだ。死んだけどさ――ひょっとしたら、何かまだ生きてたりとかするんじゃないかって。だって、そうじゃなけりゃさ」
あんなにあっさりあいつの墓標が目立たなくなる訳、ないだろ。
「それで……?」
「それで、俺――掘り返したんだ。墓標の木はせっかく組んだのにもうばらっばらでさ、どこに埋めたのかすらさっぱり思い出せなくって、だから、掘り返したら……掘り返しても何も出てこないんじゃないかって、多分そう思ったんだ。それで、意気揚々とスコップ持ち出して、地面に刺して、上げて」
でもさ、やっぱりあいつは死んでたんだよ。
埋めた時よりもずっと地面と混ざり合ってるような様子だったけど、でも、やっぱりあいつは死んでたんだよ。
ああそうかその通りだよな死んだらそこまでだそれで終わりだ変わっていくのは周りだけで死んだそいつがそれ以上どうにかなるって事は絶対に有り得ないんだ。
そりゃそうだ。世界はそういう風に出来ている。
そういう風に出来ているのが、この世界なんだ。
空が紫に染まる頃、馬車は村へと帰還した。母に声をかけようと居間に入った時、かつて犬が死んでいた辺りに、洗濯かごが置かれていたのにカイは気がついた。
庭の隅に植えられたバラの苗の背が、少しだけ伸びたような気がした。
◆ ◆ ◆
太陽が空の一番高い場所を通過するようになった頃のある午後、カイはレイヴンと三度目の邂逅を果たした。カイとレイヴンにとってみれば互いに三度目の邂逅なのだが、彼等の間に挟まれたゲルダにとってみれば、レイヴンと会うのは初めての事で――ええと、彼がカイです今来ました彼が、とレイヴンに告げた後、彼女はこっそりとカイの脇腹をつつき、耳打ちしたのだった。
「カイ、あんた何時の間にあんな人と知り合いになってたのよ!?」
「いや……何時の間にって言われても、色々あったから」
「でもあんた最近ずっと籠りっきりだったじゃない――あ、そっか。籠る前か。てことは春あたり?やだもう、紹介してくれればよかったのに馬鹿!」
「家に、籠りきり?」
少年はその翠の双眸を細め、訝しげにこちらを覗きこんだ。その耳聡さに驚きと不快さを感じながら、しかし何と答えたらいいか迷っているうちに――すっかり興奮したままなのか、上ずった調子のまま、ゲルダが声を上げた。ともすれば叫び声ともとれそうで、ますます居たたまれなくなり、そしてますます不快な何かが腹の底から浮かび上がってくる。
「そうなんですよー、この子、最近めっきり人づきあい悪くなっちゃって。一応教会学校には来るんですけどねー、終わった後さっさと家に帰っちゃって、んでしかも何をする訳でもなくー、ずうっと部屋に居るんですよー?とにかく、レイヴンさんがいらしてくれて本当に良かったですー。こうでもしないと絶対出てこないんですから、もう」
ねえ、と勝ち誇ったようにゲルダは首を傾げた。全くどうしてレイヴンがこの村にやってきたのか、そしてどうして自分が部屋から引っ張り出されなければならなかったのか――後者の疑問については、残念ながら答えがすでに用意されてしまっている。街からやってきた見知らぬ客の訪れに、カイを部屋から引きずり出したくて仕方がないゲルダが反応してしまったのだ。あんた、せっかく来てくれたのに待たせる訳!?いいのー!あんたがそんな薄情だったなんて私知らなかったんだから!軒先で声高らかにそう叫ばれてしまっては――役場に勤めている父の面子もある以上、外に出ない訳にはいかなくなってしまう。だからカイは、もう一つの疑問に、己の不機嫌のすべてをぶつける事にした。
「……それで、レイヴンはどうしてここに来たの?」
「帰省の寄り道」
「帰省の寄り道?」
「俺の学校、先週から休みに入ったんだ」背中に負った中くらいの麻袋をひょいと揺らして、翠の瞳の少年は肩を竦めた。そういえば彼の着ている服は、今までのそれとは全く印象の違うもので――つまり御立派なエンブレムはもとより、重そうなコートもジャケットも、どこにも見当たらない。白地のシャツと、濃茶のロングパンツ。軽快としか言えない出で立ちは、本来の少年の性質がどういうものかを、彼の言動よりも雄弁に現しているようにすら思えた。
「で、いつもなら速攻で馬車乗って実家のある村まで帰るんだけど――俺も良い歳だからさ、ちょっとだけ寄り道してみようかなとか、そんな風に思ったのね」
「それで、この村に」
「知り合いの顔を思い出した事もあったし」
「本当、感謝するしかありませんわ!レイヴンさんがいらっしゃらなかったら――ああ、それにしてもレイヴンって素敵なお名前ですね!綺麗っ!――この子、外に出る機会を完全に見失ってたと思います」
「外に出る機会って、教会には行ってるじゃないか」
「どうだか。そのうち教会にすら来なくなるんじゃないかって、皆噂しているのよ」
そう言われると、言葉に窮してしまう。憮然としたゲルダと、状況が呑み込めていないのか(それとも呑み込んだ上でなのか)不安げな視線をひたすら投げてくるレイヴン。途方に暮れて振り返ると、丁度ドアが開いて――顔を出した母と目が合った。
「とにかく、お客様が……しかもカイの新しいお友達が来てくれるなんて、とても嬉しい事だわ。お茶の準備が出来たから、どうぞおあがり下さい」
満面の笑顔で告げられた母の言葉は、軒先で繰り広げられていた話題の全てを打ち切った。
「レイヴン君は、いつご実家に帰るつもりなのかしら?」
「そうですね、今日の夕方に馬車が通りかかると思いますから、それに乗って……」
「あら、でもそれじゃああちらの方につくのは早朝になってしまわない?」
「ええ、ですけどそれは仕方がありません。俺が勝手に……」
「なら、いっそ今夜は泊っていったらいかがかしら?やっぱりご飯は食べた方がいいし……明日の昼前にも、同じ方面に行く馬車が通るから」
「え、良いんですか?」
「もちろんよ、空き部屋もありますもの――良いわよね、カイ?」
「え?あ……うん」
御免なさいね、最近なんかあの子愛想悪くって。苦笑と共にその言葉を残して、母は厨房に引っ込んでしまった。既に紅茶の注がれたカップは空になっており、三人はテーブルの中央に置かれた皿からめいめい茶菓子を戴いて――そして、カイはぼんやりと、居間の窓に視線を向けていた。特に何を見る訳でもないまま。
「庭、綺麗だ」
カイの目線が向かう先と同じ方向に目を向けて、レイヴンが呟いた。
「綺麗かな」
「うちの学校の裏庭よりは、ずっと綺麗」
「カイの家の庭ってね、広いんですよー。それで、結構色々生えてるんです。カイのお父様のご趣味も良くて、本当春なんかのんびりしちゃいたいって感じのお庭なんです」
「あら、嬉しいわ」
会話を聞いていたのか、厨房から母の声が飛んだ。「よかったら、お庭に出てのんびりして行ってね。あんまり手入れしてないから、ちょっと雑草が生えてるかもしれないけど」
「じゃあ、出ましょうよ!あのね、レイヴンさんに是非お見せしたいものがあるんです。ねえ、カイも見せたいでしょ?そうでしょ?あんた、あれ大事にしてくれてるもんね!」
「……」
頷くしかない。そしてここで頷くことしかできない自分が、とてつもなく――何故だか急に、本当に急にとてつもなく情けなかった。だってさ、ゲルダ。僕達がここでお菓子を食べているとき、君一度もあいつの話題を上げてくれなかったじゃないか。僕に気を使っているのかもしれないけれど――いや、君の事だ。僕に気を使ってくれているからこそなのかもしれないし、あの苗の前であいつの話をしようと君は意気込んでいるのかもしれない――しかしカイは今、文字通り愕然としてしまったのだった。この時間、一度もあいつの話を、かの老犬の話を食卓に持ち出さなかったゲルダに。そしてあいつの話が出なかったと――終わってから気がついた、カイ自身に。
そして、二人はレイヴンを伴って夏の庭へと踏み出した。そして、ゲルダの感極まった声が、庭に響いた。
「見て、真っ赤なバラが咲いているわ!あの苗ね、私が――」
あのバラは、老犬の記念に植えたバラだった。
だけれど、華を咲かせたのは老犬ではなかった。バラはバラだから華を咲かせたのであり――ああ、そうさ。あの下には死体すら無いんだ。犬は暖炉の横で死んでしまったのだから。
◆ ◆ ◆
月の光に照らされても、バラは赤いままだった。真っ赤な華が無造作に、血を撒き散らすかのように――ように、はいらない。これから巻き散らかされて、朝にはそれと混じっているのだから結局は同じ事だ。
カイは荒いまま収まらない息をのみこんで、拳を握り、開いた。そこにあるのはただの銀色のナイフ。だけれども、銀色のナイフだ。分厚いステーキをあんなにきれいに切れるのだから、人間の薄皮一枚、どうして切る事が難しい?――こんなに簡単に、肌に埋めてしまえば、そう、ほら、見ろ。指先には紅い筋がもう何本か出来ている。だけれどもこれでは足りない。あまりにも足りない。筋をつける場所は指先では無い。ナイフを振り上げる。紺色の空を仰ぐ。ああ、空だ。空だよ。何も変わらない、いつもの空だ。ほらみろ、星の一筋も流れないし、どこかで赤々と炎が燃えている事も無い。夜啼き鳥の一羽すら、枝から飛び立つ事は無い。あの冬がそうだったように。あの冬のある日がそうだったように。この空はあの冬の日からずっと変わらず――しかし季節は夏になり、バラが咲いた。神父はカイに新しい文法書を買うように勧め、暖炉の脇には洗濯籠が置かれた。バラは根を張り、きっと苗を増やし、そして来年にはまた真っ赤な華を咲かせるのだろう――それを見て、ゲルダは言うのだ。ねえ、あれはね、一年前にね、私がカイにあげたバラなの。綺麗でしょう、綺麗でしょう?ねえ、綺麗に咲いたよね、カイ。
答えるのか。綺麗に咲いたよと。答えてしまうのか。懐かしいね、どうしてゲルダはこのバラを僕にくれたんだっけ――やだ、覚えてないの?あの時、あんたが――
犬は死んだ。犬は死んだままだ。死んで、そこでおしまい。
しかし世界は終わらない。犬が死んでも、世界は終わらない。冬が終わり、春が来て、夏になって――ああ、そうだ。あのカラスの剥製の上にも、いつか埃が積もる時が来るのだろうか。あのカラスが雪の上にみじめに転がっていた死体だった事を、僕達はその時思い出す事が出来るのだろうか。カラスはあの時点で終わったのに。カラスはあの時点で死んで――剥製は剥製で、カラスなんかじゃあ、ないのに。
そんな世界なら。
そんな世界に取り込まれてしまうのなら。
「――僕も、ここで死んでやるのさ」
「馬鹿を言うな!」
再びナイフを振り上げ、まるで自分が高貴な人間の一人であるかのように、カイは堂々と宣言した。そしてその宣言の声をかき消したのはレイヴンだった。――彼がそこに居たことには、気がついていた。気がついてはいたけれど、気がついていたからこそ、彼はとりとめもなくそんな風に語りながらバラの花弁を切り裂いていたのだけれど、そんなものはナイフの銀色とバラの紅さの前には、すこぶるどうでもよい事だった。
彼が、その言葉を口にするまでは。
「どうして、それが『馬鹿』な事なんだ、レイヴン。君だって分かっているだろう、死体は死体でしかない、そこで終わるのがこの世界なんだって!あの時に君が僕に見せようとしたのは、結局はそういう事だったんだろう!」
「ああそうさ、だから馬鹿な事なんだ!」
「どうして、どうしてそれが馬鹿なんだ!どうせ死体になった処で世界は続いて行くのなら――僕が死ぬのも、結局その程度って事じゃないか!」
「だから馬鹿だと言っている、気がつかないのか、カイ!お前が今ここで死んでも、結局はお前が死んだだけになってしまうのが、この世界だ。――死ぬのは誰だ、カラスじゃないんだ、お前が可愛がっていたとかいう、その犬でもない。そのナイフを振り降ろして死ぬのはお前なんだぞ!世界は続く、お前は死ぬ、お前はそこで終わる――それでいいのか、自分でそれを選んでいいのか!?死ぬ事にすら意味がないとそこまで分かっていて、何故今更死を選ぶ!」
「――」
何かを喚き返せばよかったのに、喚き返せる言葉なんていくらでも見つけられたはずなのに、何故かその全てが全くの見当違いにしか思えなくて、結局――結局、立ちつくした、ままで。
「カイ!?」
きっと、彼女のその声が響くまで。
「何となく嫌な予感がしたのよ。カイ、昼……やっぱりちょっと様子変だったじゃない?今までも変だったけどさ、今日はとりわけ、って感じで、私、ちょっと心配だったの。だからかな、眠れなくて、そしたら、外がちょっと煩いじゃない、だから……その、ええと、つまり」
レイヴンは憮然とした表情で――しかしその口元に微かな笑みをたたえて、一歩下がった。寝巻のまま呆然とする少女に、道を譲ろうと考えたのかもしれない。とにかくレイヴンが下がったことで出来た道を、ゲルダはふらふらと、しかし確かにカイに向かっては真っ直ぐに歩いた。そしてその瞳が覗けるくらいまでの距離を置いた所で――カイの瞳ではなく、彼女は足元に散ったバラに視線を向けた。
「……切っちゃったの」
「うん」
「――それで、そのナイフで」
「死のうと思ったよ」
「ば――」曖昧な音が彼女の喉から発せられたが、それは言葉を形作る事は無かった。彼女は頭を振り、唇を噛み、そして新たな言葉を発した。
「でも、カイが死んだら、私は悲しい。レイヴンさんだって、カイのお母さんだって、カイのお父さんだって、悲しいよ」
――だから、死んじゃ駄目よ。
世界がどうとかは、私にはよくわからないけれど、でも、悲しいのは、本当だから。とってもとっても悲しくて、私も一緒に死んじゃいたくなるくらいに悲しいのは、きっと皆同じだから。……ううん、きっとなんて言葉、使ったらいけないね。絶対、悲しい。悲しくなる。
それはあまりにも当たり前のことで。
世界がどうとか、そんな事を自分の唇がたった今まで言っていた事が、到底信じられなくなるくらいに当り前のことで。
「……僕も、悲しかったんだ。あいつが死んだ時、本当に、本当に悲しくって、でもさ、何だか、悲しいなって思ってるうちに、冬は終わっちゃって、結局勉強も進まなくって、だけど、冬は終わっちゃってて、僕は悲しくて、悲しくて、悲しくてたまらなかったのに――」
そっと、細い腕がカイを包み込んだ。ぐ、と胸元に彼女の頭が押し付けられる。ゲルダも泣いているのかもしれない。――分からないけれど。だって彼女は「ごめん」としか呟かなくて、それ以外の声は、自分の泣き声のせいで、掻き消されてしまって。
「……そいつが死んだ後に、世界が回ってしまうのはどうしようもない事実だって先生は言った。だけど、世界はそいつが死ぬ前と同じように回ってはいるけれど――でも、そいつを長い間悲しんだからって、世界は何も言わない。それもまた、どうしようもない事実なんだって、先生は言った。……そんな事を言いたかったんだと、俺は思ってる」
だから、レイヴンがいつその言葉を言ったのかも、よく覚えてない。
◆ ◆ ◆
昨日、庭に出ていて何かしていたのと起きぬけに母が問うてきたので、カイはかの老犬を皆で偲んでいたのだと答えた。母は「そう」といつもと同じように頷いてスクランブル・エッグを食卓に出したが、その朝は久しぶりに四人で――つまり、レイヴンも含めて――かつてこの家の庭先に、あるいは暖炉の横に丸まっていた大きな犬の話をした。呑気な奴だったんだなあとレイヴンはカイのわき腹をつつき、そうだろうかと曖昧に答えて、カイはテーブルの足に指を滑らせたのだった。もちろんその下に犬はもう居ないのだけれど、テーブルの下に目をやる事すら、随分と久しぶりだったのに気がついた。
「……出来れば、僕は君の先生に会いたい」
馬車に荷物を積み終わったレイヴンの背中に、カイはそう声をかけた。「言うと思ったよ」と気持ちよく笑って、少年の翠の瞳が真っ直ぐにカイに向けられる。
「だけど、会ったら絶対後悔すると思うぜ。カイがどう思ってるかは分かんないけど、俺の先生はうちの学校で一番厳しいって評判なんだ。何てったって仇名が『雪の女王』なんだからな!」
レイヴンの口から飛び出た単語に、カイは一度瞬いた。そんな彼の表情が――面白くて仕方なかったのか、明らかに忍び笑いをこらえた表情で少年は片目を瞑った。
「ほら、びびってる」
「……いや、びびってるんじゃないよ。驚いたけど」
「――驚いた?」
「いやいや、その……女の人だったんだって」
「そっちかい!」
再び、朗らかな笑い声が響いた。今度は、三人分の笑い声だった。即ち、馬車の中のレイヴンのもの、その前に立つカイのもの、そしてその傍らに居る――ゲルダのもの。
「会いたいのなら、何とかして学校に入らないとね。レイヴンさんの学校って、編入試験、やってるんですか?」
「もちろんやってるけど、大変だぞー?何てったって文法の問題が超難関だからな!俺はあの入学試験のための対策をやって――見事に文法が嫌いになったのさ」
「……ですって。カイ、大丈夫?」
「僕は大丈夫だね」椅子に座ったレイヴンに手を差し出して、そして旨を張って、カイは答えた。「だって、実は家に帰ったら僕ね、神父様に買えって言われてた文法の本を読んでいたんだよ。最初は退屈だったけど――でも読み続けてたら、結構面白くなってきたかもしれない」
「でもあれ、簡単なやつじゃなかった?」
「文法に簡単も難しいもあるかよ。退屈か、退屈じゃないかしか無いって」差し出した手に、レイヴンの手が重なる。繊細な指先だと思っていたけれど――実際触れてみると、随分骨ばっていて、随分かさついていた。そんなものか、と思った。「じゃあ、せっかくだし。――健闘を祈るよ」
「うん」
「今度また、街に来ればいい。俺の寮は学外の人間もウエルカムだから、良ければ勉強も見てやれる。それに、先生についても、もっと色々と話せる――と、思う」
「うん」
「じゃあ、またな」
「またね」
「さよなら」
ゲルダと二人で、庭のバラを見ていた。もちろん華は全部切り落としてしまったから、棘の生えたつるだけしかそこには無かったのだけれど。
「結構丈夫な品種らしいから、普通に世話していればまた華も咲くと思うわ」
「そうだね」
だけど、その華が咲いた時、カイはここには居ないだろう。そしてゲルダも、その事を分かっている。世界が変わっていくのと同じように、レイヴンも、ゲルダも、カイもきっと変わっていく。死んだモノをとり残して、世界は変わっていく。だけれど、忘れないでいるのは自由だ。
空を見上げる。どこまでも青く、澄んだ空。昼を過ぎて随分経ったこの時間になっても、太陽は中天から、少しその身を引き離したくらいだ。
冬は終わる。夏に向かって、冬は終わる。次の夏に向かって、その冬は、終わる。
そんな、当り前の事を――カイは心の中で何度も、自分に言い聞かせていたのだった。