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桜の記

去りし君に

作者: 楠 海

薄桜鬼とはなんら関係はないのです。

 ――ずっと眠っていた。

 理を捩曲げて、無理矢理秋に花を咲かせるようになって丁度百年。

 待ち人は来ない。

 きっともう来られないのだろう。

 そうわかっていても、待っていた。

 事実を知りたくなかった、信じたくなかった、認めたくなかった。待つのをやめたら、彼女に二度と会えないと解ってしまう。

 けれど疲れてしまったのだ。

 毎年数を減らしていった花はついに絶え、同時に思わず気が緩みまどろんでしまった。

 それからずっと、眠っていた。


 辛うじて萌え出た葉がざわついた。

 誰かが近くで暴れている。金物の気配がする。風が裂ける時の微かな振動と、呼吸に揺らされた空気の波。

 十分に休んだ自我がふと浮上し、自らの本体が伸ばす大枝の上に押し出された。

 あるはずのない目を開けると、大枝を抱くようにして俯せていることがわかった。最初に見えたのは土、それから風になびく淡い淡い桜色の髪。

 だらりと垂らした腕の質量を確かめ軽く手を握る。頬を押し付けた樹皮はざらざらとして、己の皮だというのに違和感がある。振り返ると幹があった。自分が今この姿でここにいるということは空になっている本体。

 目の前に翳した手は人の手の形をしている。きっと瞳は深紅、全身は十七、八歳の青年の姿になっているはず。確かめずともわかる、何故なら昔そう決めたからだ。

 人身になるのは眠り込んで以来、要するに意識のある間はいつも人の姿をしていたということか。

 この容姿に付きまとう記憶は優しく幸福で、けれど苦くて痛い。

 ……まあいい。これも何かの縁なのだろう。

 久方ぶりに扱う仮初の体の調子を確かめつつ、私は地上に飛び降りた。

 袴姿で刀を振るっていた人物が私の動きに反応し、振り向いた。高く括った長い黒髪が跳ねる。男のような格好をした娘だ。

 彼女とは似ても似つかない。けれど人の娘がここにいるというそれだけで、まだどこかぼんやりとした自我の最奥がひりひりと痛む。その痛みに触発されてようやく思考の輪郭がはっきりとし始めた。

 しかし今目の前にいる娘は、彼女とは違い勇ましく苛烈だった。

 人間のような姿でありながら色彩を異にする私の姿を見て目を瞠り、鋭く一声放った。

「鬼かっ!」

 そして私が反応できずにいるうちに刀を一閃させる。本体に逃げ込もうとしたが少しばかり遅かった。

木気は金気に負ける。抵抗らしい抵抗もできないまま、左腕がすっぱりと切り落とされた。

「……しまった」

 鈍い音を立てて腕が地面に転がったのが目に入り、思わず呟く。私から切り離された左腕は、寸の間大人しく横たわっていたがそのうち色を失い、掻き消えた。所詮は私が作った仮の体だ、維持するつもりがなければすぐに無に還る。

 娘に目をやると、警戒に満ちた眼差しをして刀の切っ先をこちらに向けている。私を恐れる様子もない。その点だけは彼女に似ている。

「確かに鬼と呼ばれた時期もあった。桜の鬼の、桜鬼おうきと」

「……お前が……」

「知っているのか。随分昔の話だろうに」

 少しばかり驚いて尋ねると、娘はゆるりと頷く。

「花を守る鬼が、ここでいつまでも誰かの帰りを待っていると」

「そしてその鬼の邪魔をすれば人を喰らう」

 付け加えてやるとますます怪しむように目を細めた。

 やはり人の相手は面倒だ。

「喰われたくなければここを離れることだな」

 言い置いて、本体の桜の幹に帰った。

 正直なところ、もう限界だったのだ。金属の刀、金気に干渉されると途端に調子が悪くなる。回復するまでまた軽く眠ることにした。

 起きた時、あの娘はどうしているだろうか。

出来ればいなくなっていてほしい。

 今はまだ、事実に正面から向き合う覚悟ができていないのだ。まだしばらくあの苦さには触れたくない。


 まどろんでいると干渉する者がいる。

――おや珍しい、起きてるじゃないか

 ……あ、楓の。

――てっきりただの桜に戻ったかと思ったよ

 勝手に消さないでもらえるか?

――呼びかけても返事がないのだもの、疑うのも当然というものよ

 ……私はどれほど寝ていた?

――もう五十度春が巡った

 そうか……もうそんなに経つのか。

――百五十度も秋が過ぎたというのに、いい加減忘れればどうだい

 忘れられれば苦労はしない。

――それにまた性懲りもなく人に関わっているようだから何を考えているやら

 そんな好き勝手なことを言い散らし、来た時と同じように突然に帰っていった。


 三日後に再び外に出てみると何故か娘が座り込んでいた。しかも私の本体にもたれ掛かっていた。大枝の上から腕を垂らすと、娘はぎょっとしたように一度身を引き私を見上げた。

「……そんなところで何をしている」

「それはこっちの台詞だ! いつの間にそんなところに、」

「私の本体は、これだ。今は自我だけがこうして外に出ているがな」

「自我だけが外に……?」

「人を追い返すために身につけた方法だ。……ぬしが考える必要はない、どうせ人ごときにはわからん」

 しかめつらしく眉間にしわを寄せた娘は、私の言葉を聞いてますます渋い顔をした。はなはだ女らしくない。

「侮るか、鬼風情が」

「侮っているわけではない。人は自我と体を分けることはできんだろう、ならばわかるわけがない。ところでぬしよ」

「なんだ」

「私はもう名乗ったぞ、ぬしも名乗らんか」

「鬼ごときに名乗る名はない」

 催促するとふいとそっぽを向いてしまう。……本当に面倒だ。

 枝の上と下とで話を続けるのも不自然なため、一度地面に降りた。傍らに飛び降りると娘はまた身を強張らせるが、昨日のように刀は抜かない。

「先程からぬしは私のことを鬼だと言うが、それでは人と鬼の違いは何だ?」

「違い? それはもちろん……」

 威勢良く答えかけた娘が押し黙る。真剣な表情で何事か考えていたが、私の様子を窺うようにちらりと上目遣いで見上げてくる。

「……姿形だろう」

「私は人身だが」

「しかし髪は桜色だし、瞳は紅いではないか」

『あなたの髪、桜色してるもの』

 髪色を白と言わなかったことに軽く驚いた。同時に思い出してしまった声にどこかが疼く。

「……どうした?」

 気付くと娘が覗き込んでいた。まだ私のことを信用してはいないが、訝しむような、気遣うような表情がのぞき何だか調子が狂う。

「……なんでもない。それに人にも変わった色合いをした者がいると聞く」

「それもそうか……では異能を持つか否かということか」

「ぬしは何をもって異能と言う。それも人が基準か?ならば基準となる人というものをまず決めねばならないな。そして今はその話をしているのだ」

 淡々と説明してやると娘は悔しげに唇を噛んだ。そんなにむきにならなくても良いだろうに、と思いながらも見ていると、言葉を探しているのか目が泳ぎ、ついに俯いてしまった。

「…………きよ」

「きよ?」

「私の名前だ」

 言いながら小石を拾い、地面に字を彫りつける。「潔」。なんとも似合いというか、名は体を表すとはよく言ったものだ。

「それで、本当のところはどうなんだ」

「本当のところとは?」

「人と鬼とはどう違うのか、……わからなくなってきた」

「そんなこと私が知っているとでも?」

 しれっと返すと潔は眉を吊り上げた。

「自身も知らないのに人に謎かけをしたのか?」

「謎かけではない。質問をしてみただけだ」

 私の説明にも納得のいかない様子で唸っている。からかっただけだとは最早言い出せない雰囲気だ。真面目すぎるところが扱いやすく、面倒でもある。

「ぬしよ」

 呼びかけると潔は座り込んだまま私を見上げた。

「今日は何故斬らない」

「……無害かつ無抵抗な相手は斬らない」

「だが先日は斬った」

「……あれは……話に聞いた人でないものを見て、驚いて」

 もごもごと弁解し、かと思うとすっと立ち上がり私に頭を下げて言った。

「すまなかった」

「……斬られてから謝罪されても困るのだが。それに腕は元に戻っている」

 丁度体の影になって彼女の側からは見えなかったのだろう、左腕を上げて見せると潔は目を瞠った。

「腕が……」

「この体は仮初の器にすぎない。数日あれば直せる」

「そうか」

 潔はあからさまに安堵した表情を見せた。

「一昨日も昨日も姿を見せなかったから、心配だったのだ」

「一昨日も昨日も来ていたのか?」

 また少し驚いた。楓と意志の疎通はしたものの、半分寝ていたから外界の状態には気を払わず、潔が来ていることにも気付かなかった。

「邪魔をすれば喰うぞ」

 口に出してから、かつて彼女に言った言葉と似通っていることに気付く。人の娘が目の前にいるから感化されているのか、潔に会ってから何度も同じようなことを繰り返しているように思う。

「喰うのは待ってくれ」

 鬼相手に堂々と言う言葉かそれが。

 図太いのかそれとも馬鹿か。

 そう胸中で呟いた瞬間よぎる面影を、つい引き留めようとしてしまう。

 まだぬしをただの思い出にはしたくない。

 私の様子に気がついたのか気がついていないのか、潔は私ではないどこかを真っ直ぐに見て言葉を紡ぐ。

「私は待たなければならない」

 思わず潔の横顔を見つめた。

 弱さを微塵も感じさせない、真摯で一途な瞳が誰かを見つめている。

「約束したんだ。ここでまた会おうと」

「……ならば好きなだけここで待つがいい」

「喰わないのか?」

「喰わん。痩せていて不味そうだ」

「それはそれで失礼な言い草だな」

 口では文句を言いながらも、潔は強張っていた表情を少しばかり緩めた。強気なことを言いながら緊張はしていたらしい。どうやら斬りもしないようなので私も若干安堵した。何度も斬られては敵わない。

 そうして潔はここに居座るようになった。


 今朝見ると潔は刀で素振りをしていた。しばらくは私に気がつかずに素振りを続けていたが、やがて視線に気付いて刀を下ろした。

「続けないのか」

「……見られていると気が散る」

「それでも気を散らさないように鍛錬するのではないのか」

「確かにそうかもしれないが……」

 刀を鞘に収め、躊躇うように私を見やる。

「斬った相手の前で刀を振るうのが心持ちが良くない」

「なんだそんなことか」

 呆れるというより拍子抜けしてそう漏らす。

「私にとっては取るに足らないことだ。左腕は元に戻っているし斬られても痛みはない。……金気には少々閉口したが」

「金気? ……鉄のことか? ならば私は近づかない方がいいのか」

「斬られなければ問題ない」

「そう何度も持ち出して虐めるでないよ、桜の」

 ますます渋い顔をした潔は、闖入者の声に振り向いた。

 金の紅葉を散らした緋色地の打掛を着た女が立っていた。その女は紅を刷いた唇で微笑し、私に意味ありげに目配せをする。

「先の彼女とはまた系統が違うようだね」

「何が言いたい、楓の」

「彼女?」

「ずっと昔、これがご執心だった娘のことさ」

 潔が訝しげに呟いた一言をすかさず拾い上げ、私の意向に関係なく女はあっさりと言い放った。己の眼が一瞬で冷えるのを自覚した瞬間には私は思わず低く唸っていた。

「勝手なことを吹聴するな」

「あら、少しくらい良いでしょう?」

「だが話されたくないことなのだろう?」

 とぼけた女は、割り込んだ潔をまじまじと見つめた。潔は自らよりも上背のある女をやや見上げるようにして言う。

「それなら私は訊かない。桜鬼が自ら話す言葉だけを聴く」

「そう。それなら言わずにおこう」

 意外にもあっさりと引き下がり、女は立ち去り際に私の耳元に顔を寄せて囁いていった。

「面白い子じゃないか」

 答えあぐねていると女はくつくつと笑って踵を返した。そうして楓の木に手を伸ばし、指先が幹に触れた瞬間姿を消した。それを見ていた潔は顔を引きつらせる。

「……おい、まさか今のも」

「私が桜であるように、楓だ」

「……あれもか……」

「あれは黒髪だからな、気付かなかっただろう」

「ただの人の私にわかるわけがなかろうが!」

 髪の毛を逆立てそうな勢いで過剰反応する様が猫のようだ。嬉しいとか楽しいとかいった顔は見せないというのに、からかうと途端に鮮やかな表情になる。

「怒ってばかりだな」

「お前が怒らせるようなことばかり言うからだ!」

 遂には、ふん、とそっぽを向いてしまった。そっぽを向かれたところで私はまったくかまわないのでそのまま放っておく。

 梢を見上げると随分寂しい光景になっていた。貧弱な葉は初夏の日の光を遮り切れず、地面には木漏れ日が躍るというよりも枝葉の影が映っている。それだからそれなりに大きい樹だというのに、充分に日の力を取り入れることもできずにいるのだ。

 その内枯れる運命かもしれないが、それなら諦めるしかない。

 私の根元に腰を下ろし、潔も梢を見上げて黙っていた。そうして何事か考えているのか、何かを思っているのか、その横顔から推し量ることはできなかった。

 潔も何か考えるところがあるのかもしれない。まさか私の葉の付き具合ではなかろうが。


 また潔は素振りをしている。そうして私が見ていることに気付くと刀を収めた。収めたはいいが潔の方も特に話すことはないようで、黙って私の根元に腰を下ろす。

 こんな時彼女とは何を話していただろう、と思い返し、いつの間にか過去を語る形になっていることに不愉快になり、だがやはり話しかけてみることにする。

「……里の様子はどうだ」

「戦支度の最中だ」

「戦?」

 少なからず驚き問い返すと、潔は当然といった様子で頷いた。

「隣国が攻め込もうとしている。それを迎え撃つ」

「……ここが戦場になるのか?」

「男衆が食い止められなければ、そうなるかもしれない。そんなことはないとは思うが、万が一の時には私も戦わなければ」

 だからこんななりをしているのだ、と潔は刀を軽く持ち上げてみせ笑った。その笑顔は不安を押し殺しているようには見えない。きっと既に腹をくくっているのだろう。

「武家に生まれた者は、たとえ女であろうと皆を守るために戦わなければ。……もう男衆は発っているし、軍だけでなく賊からも」

「……ならば思う存分刀を振るっていれば良いではないか。私に気兼ねすることはない」

 言ってやると、潔は一言すまないなと答え立ち上がった。

 すらりと刀を抜き、正眼の構えから突く、防ぐ、斬る。剣術に詳しいわけではないが、その動きを単純に美しいと思う。きっと実戦ではこうはいかないだろう。だが戦場での身のこなしはここから派生する。

 不思議なものだ。人同士殺し合うための動作はこんなにも野の獣に似て優美なのか。

 ひとしきり刀を素振りした潔は、手拭で汗を拭いながら私を振り返った。

「剣術の心得は……ないだろうな、お前の格好は侍のそれではないし」

「格好うんぬん以前に私は人ではないからその常識は通用しない」

「それならば、」

「しかし刀を扱ったことはない」

「なんだないのか」

「桜が何かを斬る必要があれば話は別だが、少なくとも私にはその必要がなかった」

「……それは確かにそうだろうな」

「相手ができずすまないな」

 謝ると潔は少し目を丸くし、首を横に振って微笑した。笑った顔は初めて見る。柔らかな表情もできるではないか。

「気にしないでくれ、こちらが勝手に仕掛けたことだ」

 言いながら私の根元に歩み寄り、眩しげに目を細めて梢を見上げる。蒼穹は枝葉の間から容易に見える。木陰もないここでは休むにしても暑いだろう。

「他の樹の影に入って休め、ここは影がない」

「お前は」

「暑いとは感じない」

「そうか。それにしても本当に葉が少ないな。病でも患っているのか?」

「疲れが溜まっているだけだ。百年重ね続けた無茶が祟って葉を出す気力も萎えていた。……五十年眠り続けて、今年はようやくここまで増やせた」

「五十年……」

「ぬしがここで刀を振るい始めた日に、久方ぶりに目覚めた。あまりに騒々しい気配がしてな」

「……すまない」

「謝らずとも良い。目覚めないまま立ち枯れるよりもまだ、」

 良かったかもしれない、と言いかけて言葉を押し戻した。

 目覚めていながら事実から目を背けようとするのと、夢を見ながら枯れていくのと、どちらが良いかなどわからない。どちらにせよ、諦めるという選択肢はまだ持ち合わせていない。

「桜鬼?」

 潔が呼んだ。目を向けると視線がかち合う。

「……しかし、戦か……そんなものは噂くらいにしか聞いたことがない」

「私も初めてだ。だが男衆の中には経験したことのある者も多くいる、ここまで軍勢が押し寄せるなんてことはきっとない」

 潔の口調は落ち着いているが、完全に安心している風にも聞こえない。どこか硬い響きがある。

「気が張っているようだな」

「当たり前だ、緩んでなどいられない。だが不安に思う暇もない。悩むくらいなら稽古に励む方が有益だ」

 竹筒に詰めた水をあおり再び刀の柄にかけた潔の手を思わず掴んだ。だが振り払われた。乱暴に払われた手を見下ろし、それから目を上げると潔は気まずく思っているのか僅かに赤面して肩を強張らせていた。

「……ぬしよ」

「すまないそんなことをするつもりでは」

 早口に謝りかけた潔の言葉をあえて遮り、言う。

「そう焦るな。刀を振り続けていても体には良くない」

「……焦っているように見えるか?」

「見える」

 おずおずと顔を上げて尋ねた潔は、私の答えに溜息をついた。迷うように髪をがしがしと掻き回し、乱れて垂れ下がった髪を鬱陶しげに振り払う。

「……そうだな。認めよう。断じて不安ではないし悲観もしていないのだが、焦っているのは、確かだ」

「何故焦る必要がある」

「皆もう戦場へ発ったのに、私だけ何もできずにここにいる。それが、辛い。無性に焦ってしまう。私はここにいていいんだろうかと」

「女が待たされるのは仕方がないことだろう」

「私は姫君などではないのにか!?」

 潔は再び鮮烈な怒りを目に浮かべた。

「今まで男同然に刀を握って育ってきたというのに、肝心の今待たされるなどおかしいではないか!」

「だがここに残る者も必要なのだろう?」

「ここに残るのも大切なことだとわかってはいるが、……今、友が戦場で敵軍と会いまみえているかもしれないのに、どうして肩を並べて力になってやれない」

 激しい語気が言葉を紡ぐうちに弱々しくかすれていく。

 これが、潔の本音なのだろう。

「どうして、ここで待っていると、約束することしかできないのだ……」

「約すればぬし自身が道標となる」

 ほとんど頭を抱えるように呻いた潔は、私が呟いた言葉にふと顔を上げた。鋭い怒りは既に勢いを失い、目の底にわだかまっている。

「待つと約したなら、待っているのが唯一ぬしにできることだろう。相手がたとえ帰って来なくとも」

「不吉なことを言うな、奴が帰って来ないわけがない! あれは、約束は守る男だ」

『……じゃあ、できるだけ早く、帰ってくるから』

耳の底に、涙に濡れた声が甦る。

 彼女も、そう約したのだ。そして今に至るまで百五十年、私は待ち続けている。

「彼女も約束を守る娘だった。だがまだ帰って来ない」

 ぽつりと言うと、更に言い募ろうとしていた潔は口をつぐんだ。もの問いたげな目をして、しかし何も言わずに黙っている。

「あまり執着すると、ここから未来永劫動けなくなるぞ」

「……それでも構わないと言ったら?」

「好きにするがいい。選ぶのはぬし自身だ」

 忠告はした。それが自らを棚に上げた、底意地の悪い忠告であっても忠告には変わりない。

だがさすがに潔の表情を確認する気にはなれず、まともに顔を見ないまま本来の体に帰った。ややあって潔が離れていく気配がした。


 翌日、潔は早朝から居座っていた。ひたすら一人で稽古に打ち込んでいる。

 まだ顔を合わせるのが気まずく思われ、私は体から出ずにその様子を感じていた。こんなにも後ろめたく感じるのは私も人のことを言えた立場ではないからだ。

 本体には目も耳もないが、未だに必死さや焦りは風を介して伝わってくる。

 潔には相手についていくという選択肢がある。

 相手とともに生きるという選択肢もある。

 ここから動けない私よりもずっと恵まれていて、その条件を最大限に生かそうとしている。それはきっと潔に限った話ではなく、人ならば当然考えることなのだろう。ただ彼女の場合、鬼にはわからない人の事情でがんじがらめになっていてそれが叶わない。

 私とて、同じ選択肢を持ちうるのであれば、きっと――

 彼女が人でなければ。

自分が人であれば。

共に幸せになれたのだろうか。

 ……そうしてつらつら考えているとふと割り込む者がいる。

――今日は声をかけないの?

 放っておく日があってもいいだろう、楓の。

――でも気にかけてるんでしょう?

 あんなものを近くで振り回されれば気になるのは当然だろう。だいたい人と関わることにいい顔をしていなかったのは、楓の、ぬしではないか。

――そうだったかしらねぇ

 あっさりと掌を返すとはどういう了見だ……

――だって気に入ってしまったんだもの

 ならばぬしが構いに行けば良い話ではないか

――行って構わないなら遠慮なく行くわよ?

 ……遠慮? 私にか? 必要なのかそんなもの。

 やけに絡んでくる意識にぞんざいに答えると、最後に華やかな笑い声を響かせて戻っていった。そしてその気配は外に現れ、潔と会話を始める。

 ……潔のことが気にかかるのは認める。だがそれは潔が彼女に似ているからでは……確かに多少似ているところはあるが、それだけではない。

 潔はむしろ、私に似ている。

 外に出ないと時間の感覚が鈍る。気がつくと日は既に中天を過ぎていた。何もせずにいると一日は早い。長く生きる樹は一日一日にそれほど重きを置きはしない。

――今日は朝までここに留まるそうだよ

 突然割り込んだ声に溜息をつきたくなる。出来ないが。

 ……何かの嫌がらせか。

――嫌がらせをされるようなことをしたの?

 ……別に。

 楓のは私に干渉すると同時に、人身をとって本体から出て潔に話し掛けている。潔は相手が鬼――人が鬼と呼ぶものであることを知っていながら、逃げもせず相対している。……腰が引けているようではあるが。

――一日中山にいるなんて心配されそうなものだけれど

 ならばぬしがついていれば良いだろう。

――あら、あたしの方こそ必要ないでしょう?

 おい、

 言いかけると気配が掻き消えた。同時に人身の意識も潔と別れ、姿を消す。大方体に戻ったのだろう。言いたいことがあるならはっきり言えば良いものを。私は裏を読むのは苦手なのだ。

 一人になった潔は、私に近づいてきた。

「……桜鬼?」

 躊躇いがちな言葉は、きっと桜の樹に話し掛けることに違和感を覚えているからだろう。

「いるのか?」

「いる」

 大枝の上に出て答えると潔は機敏に私を見上げた。

「またそんなところに」

「出入りするのは大抵ここだ」

「今日は具合でも悪かったのか?」

「何故そんなことを聞く」

「今日一日姿を見せなかったから心配だったのだ。……私には前科があるからな」

 生真面目に言う潔につい苦笑を漏らしてしまう。

「そんなに気に病まずとも良い」

「そうは言っても……」

「それよりも、ぬしはここで夜を明かすそうだな」

「何故それを!?」

「あれが言っていた」

 素知らぬ顔で生えている楓の樹を指し示すと潔は怪訝な顔をした。

「いつの間に……」

「ぬしと話している間に私にも勝手に伝えてきたのだ」

「お前たちはそんなこともできるのか?」

 驚くというよりももはや呆れるような声を上げた潔に問う。

「それより戦が迫っているのではないのか?」

「無論迫っている」

「いいのか、ここにいて」

「平気だ。……私は役に立たないから」

 潔は俯き加減にぼそぼそと答え、そっぽを向いた。ふて腐れたような苦々しい横顔をしている。

「何か手伝おうとしても、若様は座っていてくださいと言われる」

「………………………………若様?」

「それがどうした」

「ぬしは、男だったのか?」

「女だ」

「ならば何故若様なのだ」

 確か若様とは男を指す言葉であったはずだ。

「男として扱われているからだ」

「意味がわからない」

「わからなくて良い。色々あるのだ、人の間には」

 どうせ人ごときには、と言ったことを根に持たれているのだろうか。

「ここでは若様として扱われる。だが戦に出ようとすれば止められる。……どうすればいいのだ、私は」

 愚痴めいた呟きを零した潔は、大きく溜息をついて私の根元に腰を下ろし、放り出してあった包みを取り上げた。その中に入っていた幾つかの白い塊の一つを私に差し出す。

「食うか」

『あなたも食べる?』

 特に気負う様子もなく差し出す仕種にまた彼女の姿が重なってしまい、振り払おうと目を閉じて瞼を押さえた。

「……どうして」

「ん?」

「どうしてぬしはそう毎度毎度、わざわざあれを思い返させるようなことを」

「あれ? …………お前の待つ人のことか」

「そうだ」

「……そうか」

 不自然に硬い表情で頷いた潔は、手に取った白い塊に齧り付いた。触れずにいたことを思いがけず聞いてしまったことに動揺しているらしい。また申し訳ないなどと思っているのだろうか。

 渡された塊は、沢山の小さな白い粒が寄り集まって形作られていた。その粒の一つ一つがべたついていちいち指に貼りつく。

「なんだこれは」

「知らないのか? ただの握り飯だが」

「この粒がか?」

「違う。それは米だ」

「米?」

「いいから黙って食え。……そういえばお前、今更訊くのもなんだがものを食えるのか?」

「食える」

 潔の隣に座り、齧ると塩の味がした。よく噛むとほんのりと甘い。だが蓬餅ほどはっきりとした甘さではない。

「……以前、ぬしのように私のところへ食い物を持って来た娘がいた」

 指についた米粒を舐め取っていた潔の動きが止まった。

「ぬしよりも少し幼い町人の娘だ。春の間はいつも、蓬餅を持ってきていた。花見に来ているようなのに、枝を折ろうともしなかった」

 潔は相槌も打たず黙っている。話の続きを促しもしない。だがじっと私を見つめている。

「桜が散っても、毎日毎日ここに通って話をしていった。雪の降る冬だけは会えなかったが、一年と半分経つまでここに来ていた」

 いつの間にやら既に日は傾き始めている。だがそう焦らなくとも良いだろう、潔は朝までここにいると言っていたのだから。

「二年目の秋に、彼女に縁談が持ち込まれた。そうして遠方に嫁ぐことになった。けれど彼女は、」

『私はっ…………あんたが好きなのよっ』

 涙混じりの声は、いまだに鮮明で。

『お嫁に行かなくてもいい、ずっとここにいられればっ』

「……私のことが好きだと、ずっとここにいたいと喚いていた」

 言葉を探すうちに、長い昼が終わろうとしている。

「だが人を鬼の嫁にするわけにはいかないからな。……これが生涯の別れではない、いつでも帰って来ればよいと言って、送り出した」

 今、潔はどんな顔をして私の昔話を聞いているのだろうか。

「待っていると約束したのだ。どんなに時間がかかっても、待っていると」

「……それで、こんなにも長い間、待っていたのか?」

 囁くような潔の問いかけに無言で首肯すると、かすかに吐息だけで笑う音がした。

「童のようだな。……頑是ない童のようだ」

 続けられた声が、笑っているはずなのに泣き声にしか聞こえなかった。俯いている潔の表情は私からは見えない。

「何故そんな声を出す。ぬしが気に病む必要はない」

「……別に、気に病んでなど、いない」

 言い返した口調は頼りなく揺れている。

「そうして誤魔化そうとするところなど、ぬしは彼女に似ている」

 つい苦笑混じりに言うと、潔は反応して少し顔を上げた。だが先程まではあんなに真っ直ぐな目をしていたのにまだ私を見ようとはしない。

「私の髪の色を桜色だと称したところも、私を恐れなかったところも、図太いのか馬鹿なのか判断に迷うところも、似ている」

 それから食い物を持ってくるところもな、と付け加えると、潔はすっかり顔を上げていた。普段は凛々しく引き締まっている表情がやけに情けない。

「……桜鬼」

「何だ」

「何故、そんなに待ち人のことを私に話すのだ」

「……何故だろうな」

 何故だろうか。

 潔が彼女に似ているからか。

 彼女よりも私に似ているからか。

 それとも――

 ふと潔が手を伸ばし、私の着物の袂を掴んだ。見下ろすと、目の縁を薄っすら赤く染め、潔はじっと私を見つめていた。どちらが童なのやらこれではわからない。

 話し終えれば、そこできっと何かは終わってしまうだろう。

 だが物語はどこかで終わらせねばならない。

「……彼女の名は、」

 ――久しく彼女の名前は口にしていなかった。

 呼んだら会いたくて会いたくてどうにかなってしまいそうだったから。

 会いたい。けれどきっともう会えない。

 今となってはひたすらに恋い焦がれているのに、いつも一緒にいたあの頃は、どうしてこの想いの意味を知らなかったのだろう。

 どうしてこの想いが存在するのをわかっていながら目を背けていたのだろう。

 どうして彼女に伝えなかったのだろう。

 好きだと、愛しいと伝えてさえいれば、何か変わっていただろうか。

 彼女の名に付きまとう記憶は苦く痛くて、けれど優しく幸福だ。

「蓬といった」

 渦巻くものを押し留め苦しいほどに体を圧迫していた何かが、名前を呼んだ瞬間ふつりと切れた感覚がした。

 潔が目を瞠った。声も出ない様子で私の背後を見つめている。

 日が落ちた。瞬間、空は濃紺に侵食され、やがて漆黒に場所を明け渡していく。

 呆然と何かを見上げていた潔の目から涙が滑り落ちた。

「潔?……潔、何故ぬしが泣く」

「…………綺麗だ」

 不可解な答えをした潔は、ふと手を伸ばして私の頬に触れた。

「けれど、花弁が涙のように見える」

 ……ああ、そうか。

 きっと彼女の名を呼んだ時、咲いたのだ。

 季節とも、私の意思とも関係なく、ただ溢れた想いのままに。

 相変わらず私の頬は乾いていた。けれど潔は涙を拭うように手を添えたままでいた。潔の方がよほど拭う必要があるだろうに。

「……まだ、待つのか?」

「少なくともここを離れはしない。……離れることができないからな」

 そうか、と呟いた潔の涙を拭いてやる。

「待ちくたびれれば、ぬしは追えば良い」

「だが……」

「体面など気にしている場合か。邪魔者を振り払ってでも、相手に泣いて縋ってでも、共に生きれば良いではないか。人であるぬしにはそれができる」

 まだ情けない顔をしている潔は、俯き加減に何度も頷いた。引き寄せた肩は頼りなく震えていた。

 咲いたばかりの花はまだ花弁を手放さず、夏の気配を孕んだ微かな夜風に揺れていた。

 

 私に寄り掛かったまま寝入ってしまった潔は早朝に飛び起き、真っ赤になってしどろもどろに謝罪した後軽く体を動かし始めた。不自然な姿勢で寝たためか体が固まっているらしい。

 その様子を眺めていると、ふと視界の隅に人影が映った。その人物から隠れ、私の幹の裏側へ回り込む。

 潔もまた、振り返っていた。

「……義隆」

 潔の呟きが零れ落ちると同時に、現れた武者は兜を脱いで投げ捨てた。その顔を見た潔が弾かれたように駆け出す。そのままの勢いで体当たりされた武者は顔色を変えて呻き声を漏らした。

「……潔、……痛い」

「怪我をしているのか!?」

「あちこち怪我だらけだ、そう力いっぱい抱きしめないでくれ」

 慌てた様子ですまないと言い離れようとした潔の腕を取り、今度は義隆と呼ばれた武者の方から潔を抱き寄せた。

「……今、帰った」

「それだけ言えば済むと思うな」

 武者に囁かれた潔は、急に体を引き離しぴしゃりとはねつけた。呆気にとられる義隆の前に仁王立ちし、言い放つ。

「お前の無事をどれだけ願ったと思う。急な戦に準備も満足にできないまま駆り出されたのではないかと心配で、……今戦っているのだろうか、殺されてはいないだろうかと、気にかかって」

 毅然とした声が湿り気を帯び始めた。

「せめて無理矢理にでも引き留めておけば、あるいは強引について行けばと、何度も何度も……」

 ついに声を詰まらせた潔に苦笑し、義隆は彼女の頭に手を置いた。

「大袈裟だ」

「お前が私に何も言わずに行くからだ! 今日は、今日こそはお前を追いかけて行ってやると心に決めて、」

「やめてくれ。潔を戦場に行かせるわけにはいかないから里に残っていろと言ったのに、それでは本末転倒ではないか」

「そんな気遣いは無用だ!」

 眉を吊り上げた潔に噛みつかれ、義隆はその勢いに押されて少しばかり身を引いた。私からは肩を怒らせた後ろ姿しか見えないが、きっと今彼女はあの鮮やかな表情をしていることだろう。

「他の女と一緒にするな。私ならばお前の背中を守ってやれる。絶対お前の足手まといにはならない。……いつでも、どこに行っても共に生きることができる。侮るな、義隆の分際で」

 目を丸くして口上を聞いていた義隆は、その表情をふっと緩ませた。潔は己が口にした言葉と、彼の柔らかな微笑の意味に気が付いているのだろうか。

「……潔」

「なんだ義隆」

「いや、何でもない」

「はっきり言わんか!」

 潔に怒られ、義隆は堪え切れずに笑っている。その笑顔は限りなく優しい。きっとこの二人はもっと特別な間柄になる、そんな風に夢想させるような笑みだ。

 これ以上見ているのも野暮だろう、と体に帰ろうとすると、初めて義隆とまともに目が合ってしまった。

 明らかに人ではない容姿の私を見た義隆は顔色を変え、刀に手を伸ばす。その手を潔が止めた。そうして振り返り、私に笑いかけた。はにかんだその微笑を、純粋に美しいと思う。

 折良く風が吹いた。元々季節外れで、私の感情という不確かなものを拠り所に咲いた満開の桜の花は一斉に散った。

 未練もなく、盛大に。

 かつて彼女は――蓬は、そんな散り方こそが美しいと言った。

 この儚く華やかな花吹雪が、彼らの行く末を祝福するものとなるよう願う。

 ぬしらが共に幸せに生きられるよう、せめて今を飾ってやろう。

 涙のようだと称した花弁を浴びて、潔は目を細めていた。その隣に寄り添う義隆も、また。


 物語は終わってしまった。

 だが語られたという事実、語るべき話は確実にあったのだ。

 なかったことになど、するわけがない。

 そうして私は物語を抱き、いつまでもここに根を張っている。

 蓬よ、

 私はぬしの幸福の一つになれただろうか。


 来年の春には、きっとまた花を咲かせられるだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 桜は直ぐに散るからこそ美しいんですよね。だから来年また見たいと思う。 桜の一途な想いに感動しました。
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