序章つづき
月のない夜。突然闇の一部が切り取られたように動いた。
黒い猫。しかし普通の猫ではない。
言い知れぬ不気味さを纏っている。
それが証拠に闇夜に光るその瞳は血の様に紅かった。
あの犬は奇跡的に一命を取り留めた。
それはまさに奇跡と呼ぶのに相応しく、獣医を驚かすほどの回復力だった。
いま犬はハチという名を与えられて里見家の新たな家族として庭に繫がれている。
まだ足に巻かれたままの包帯が痛々しいが、食欲もあるし、ちゃんとお手もする。
ちなみにハチの名付け親は母だ。おおかた忠犬ハチ公からでもとったのだろう。
詳しい事情は知らないし、今更知りたいとも思わないが、離婚の際、この家を出て行ったのは父の方だった。いまでも月々の生活費はちゃんと支払われているらしいが、私は出て行って以来父と会ったことはない。別に会いたいとも思わないが。
番犬としてハチを飼うことに母がそれほど難色を示さなかったのも女二人だけの所帯にどこか不安を感じていたからかもしれない。その割りに母には再婚の意思はないらしい。少なくとも私にはそういう素振りを見せたこともない。
「ハっチぃ。」
さとみがリードを片手に呼ぶと、ハチの顔に一瞬緊張が走ったように見えた。
何しろ獣医からようやく許可が出て、今日がはじめての散歩の日なのだ。
「ハチ君、キミの緊張は分るがその一歩を踏み出さなければ世界は変わらんのだよ。」
何かの映画で聞いたような台詞を言いながら首輪にリードを取り付ける。
ハチは尻尾を振ってそれに応えた。
「よう、なかなか似合ってるぜ。」
長身の男が笑いをかみ殺すように肩を揺らす。
「これが俺の役目だ。そんなことよりお前の方はどうなんだ?」
ハチは面白くもなさそうに極めて事務的な口調で返した。
「役目ねぇ。相変らず真面目だなアンタは。俺の方はアレだ。ぼちぼちってトコだな。」
「お前は相変らずいい加減なようだな。」
「まあそういうなって。これでも結構忙しいんだぜ。護衛しながら調査するってのも。」
長身の男が愚痴るようにいうと、すかさずハチが提案した。
「それなら俺と代わるか?」
「いや、それは遠慮しとくよ。俺ダメなんだよなあの首輪って奴が。」
男はそのままそそくさと逃げるように去っていった。