序章
「春眠暁をおぼえず。」
かつて中国の詩人がそういう詩を作ったらしい。
負けず劣らずわが国にもすばらしい名言がある。
「寝る子は育つ。」
しかるに私はなぜ怒られているのか。
どうにも腑に落ちない。
ちょっと寝坊しただけなのに・・・。
「おい、ちゃんと聞いてるのか?さとみさとみ。」
先生、その名を呼ばないで。
哀しくなってしまうから。
小学校の6年の夏まで私は結城さとみだった。
ところが突然の両親の離婚。
私は母に引き取られ、母方の姓を名乗ることとなった。
「里見」という名を。
「おい、聞いてるのか?里見さとみ!」
絶対わざと言ってるな。コイツ。
ここは高校の生徒指導室。
小6から里見さとみとして生きてきた少女もいまや可憐な女子高生。
教育的指導という名の拷問と目下格闘中。
「ちゃんと反省しとるのか?里見さとみ。」
これはもう他人の名前をつかって遊んでいるとしか思えない。
そう思って見れば目の奥が少し笑っているようにも見えてくる。うらめしや。
こうして生徒指導室での軟禁状態に見事耐え抜いた私は晴れて再びシャバの空気を吸うことが出来た。
「はい、おつとめご苦労さん。」
自分で自分を労った後、めいっぱい伸びをして新鮮な空気を肺の中に導きいれた。
「?」
ふと誰かに呼ばれた気がして振り返る。誰もいない。
「空耳?ま、いいか。帰ろ帰ろ。」
鞄を持ち直して、帰路につこうと歩を進めた先、校門の真ん中ら辺に何か落ちているのに気づいて、何となく足を止めた。
黒い物体。大きさはそれほど大きくない。
よくよく見てみると、それが背を向けて蹲っている黒い猫だと気づいた。
「何だ猫か・・・。」
言葉とは裏腹に何か不気味なものを感じる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってね。」
不安を払うように殊更明るく言うと、再び歩き出した。
さとみが脇を通り過ぎようとするとき、黒猫が一瞬顔を上げたように見えた。
「見いつけた。」
猫がしゃべった?
いやいや、そんな訳はない。空耳だ。
ほら、だって猫は知らん顔して蹲ったままだ。そうか私疲れてるんだ。早く帰ってご飯食べて寝よう。
そして足早に歩き出した背後から鋭い声が飛んだ。
「危ない!!」
声と同時に耳を劈くクラクション。
次の瞬間、背中に軽い衝撃を受けてさとみは道路脇に転がっていた。
車は減速することなく、そのまま走り去っていく。
「いったぁ。もう、何なのよ!」
腰の辺りをさすりながら立ち上がったさとみは、視界の端に転がるものに気づいた。
傷だらけで息も絶え絶えに震えている犬。
「もしかしてあなたが助けてくれたの?」
さっき背中に受けた衝撃を思い返し、制服が汚れるのも構わず、その犬を抱えあげた。
「早く病院に連れて行かなくちゃ。」
何故かは分らない。分らないが、この犬を死なせてはいけない。何となくそんな気がした。
校門の黒猫はいつの間にかいなくなっていた。
お読みいただいた方々に心より感謝申し上げます。